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5-4

 その後の授業は妙に集中することができた。真面目に授業を聞いていれば、余計なことを考えなくて済むからかもしれないけれど、どちらにしても成績を上げたいと思っている春陽にとっては有意義なことである。

 つつがなく6時間目まで終了し、ホームルームが始まる。明日は1組と3組の女子が合同でプールだから、春陽たちの2組女子は水着ではなく体操着を持ってくるようにとさくらの目をよく見て先生が伝達したことでひと笑いを作ると、さようならの号令をして解散となった。

 各人が放課後を満喫しようと動き出すなか、特に予定が決まっていない春陽は、それを埋めようと隣の席を見る。

 手の甲にペンで『体操着』と書いて、満足そうに頷いている。

「手を洗ったときに記憶と一緒に流れていきそうだな」

「なっ……!」

 気が付かなかった、というようにさくらは春陽に言われて慌てて筆箱の中身をごちゃごちゃと漁る。

「ほら」

 春陽はさくらに油性ペンを渡すと、もう一度『体操着』と手の甲に記した。

「ありがと。これで明日は絶対に忘れ物しないよ」

「逆に体操着以外のものが心配だけど……」

「私の手が黒に染まっちゃうよ」

 持ち物すべてを手の甲に書いたら、そうなるだろうな。

「今日、このあと合唱部か?」

「いつもならあるんだけど、今日は顧問の先生がいなくてお休み」

「そっか。なら、このあとご飯でも行かないか?」

「えっ! 春陽くんから誘ってくれるなんて珍しい。明日は雪かな」

 言われてみれば、春陽が誰かをどこかに誘うなんて奈巳夏以外に最後にしたのはいつだったか思い出せないくらいには滅多にないことだ。

「いや、まあ……ほら、土曜日のご飯、断っちゃったから」

「えぇ、そんなの気にしなくていいのに! でも……嬉しい。うん、行こうっ」

 さくらは鼻歌混じりに荷物をまとめ始める。

「あれ、でも奈巳夏ちゃんは良いの? そういえば、今日は一回も見てないような。やっぱり明日は雪だね」

 確かに春陽も朝の廊下以外で奈巳夏の姿を見ていない。奈巳夏が入学して以降こんなことは一度もなかった。

「ま、たまにはそういう日もあるってことだろ。何かあったら連絡よこしてくるだろうし問題ないよ」

「そっか。そういうことなら」

 通学カバンを投げ飛ばさん勢いで持ち上げ、立ち上がると、廊下へと走っていく。

「ほらほら。早く早くー!」

「って、さくら! そんなにお腹空いてたのか」

「もうっ、そういうんじゃないよー!」

 春陽が追い付くと、ゆっくりと並んで歩きだす。

 まだ夕飯には早いということで、春陽たちがやってきたのは駅前に新しくできたカフェだ。白い壁と優しい色味の木製インテリアが落ち着いた雰囲気を演出し、自然光も差して温かみを感じる場所だ。

「わぁ~! 美味しそう」

 春陽の前には三角プリンとカフェオレが、さくらの前にはスクエア型のチーズケーキとソイほうじ茶ラテが置かれる。

 さくらはスマホを取り出し、パシャパシャと写真を撮りだした。

「ねぇ、春陽くんも一緒に撮らない?」

「えっ、俺は……」

 じーっとねだるように見つめてくる視線に、春陽は断ることはできずにパシャリと一枚撮った。すぐに春陽のスマホが震え、写真が共有される。

「春陽くんとの2ショット初めてだね」

「……集合写真を切り抜けば2ショットになるぞ」

 照れ隠しで言ったつもりが、なぜかさくらが固まってしまう。今の発言は気持ち悪かっただろうか。それとも……いや、まさかさくらがそんなことしているわけがない。

「そ、それじゃあ、食べよっか! ほら、かんぱーい!」

 カフェで乾杯など聞いたことがないが、さくらがカップを突き出してくるものだから、春陽も軽く自分のカップを当てた。

 ほろ苦いカフェオレを飲むと、口が甘いものを欲し、すかさず三角プリンを口にする。

「うまいな」

 卵の優しい風味とプリンの上品な甘さが、口に残るカフェオレと溶け合い調和していく。

 春陽のつぶやきに反応して、またしてもさくらはじーっと春陽の方を見つめていた。

「食べるか?」

「うん! ……えっ?」

「……あっ」

 春陽は奈巳夏といるときの癖で、プリンを掬ったスプーンをさくらの口元に向けて差し出してしまっていたことに気が付いた。

「わ、悪い……こっちのお皿ごと――」

「あむっ」

 春陽がプリンの皿に目を向けたときには、スプーンからプリンが消えていた。さくらを見ればぺろりと唇を舐めている。

「……うんっ、おいひぃ」

 CMのオファーがきそうなくらいに、本当に美味しそうにそう言うものだから、まあ良いかという気分になる。

「はいっ、お返し」

 やわらくて滑らかなチーズを舌に感じたかと思えば、レモンの酸味が追いかけるように口の中でふわりと弾ける。反応する間もなく口に突っ込まれたフォークが引き抜かれ、キャラメルのような香ばしい余韻を残していった。

「……うまいな」

「でしょでしょ」

 嬉しそうに笑うさくらを見ると、たちまち口の中のものが砂糖の塊になったように甘ったるくなり、慌ててカフェオレを口に含んだ。

「なんか、すごく楽しい」

「……別に小粋なトークもなにもしてないぞ」

「話の内容はこの際なんだっていいんだよ」

「じゃあなにが」

 大事なのか、と聞くのは野暮なことか。

 旅行に行くのにどこに行くかよりも誰と行くかの方が大事と奈巳夏が言っていたけれど、それと同じことなのだろう。

「なんだか恋愛してるって感じがしてさ」

「それは……」

 確かにその通りだ。教室からここまでを監視してる人間がいるとすれば、2人の行動は恋人同士と結論づけるだろう。

「私たちは付き合ってるわけじゃないけど、それでも私は春陽くんのことが好きで、今はその過程を楽しめてるっていうか。ふふっ、ここでも春陽くんの名言が活きてるね」

 結果よりも過程が大事、なんていうのは別に春陽でなくても数多の先人が口にしている言葉だ。それでも、その言葉をさくらに届けるべきときに届けられた、という事実は重要な意味を持っているのかもしれない。

「なんて、こんなこと言われても春陽くんは困っちゃうよね。ごめんごめん」

「いや……まあ、俺も楽しいし」

「……そっか、良かった」

 さくらといるときに時々感じる気まずさみたいなものがどんどんと薄れていっている気がする。

 それによって、その後の2人の会話はいつも以上に弾んだし、いつも以上に笑顔がこぼれていた。

 だから、さくらのお腹が可愛らしく鳴って始めて、外が黒のベールを纏う準備をし始めていることに気がついた。

 コップに入っている水もとうに溶けてぬるま湯になり、ティーカップの水分は干からび、薄茶色の痕跡を残している。店内を見渡せば、お客さんもほとんどいなくなっていた。

 春陽たちは会計を済ませて、カランコロンと外に出る。

「今日はありがとね」

「いや誘ったのは俺の方だし、お礼を言うのはこっちだろ」

「それでも、ありがと」

「じゃあ、どういたしまして」

 小気味よい会話を交わして、また明日ね、と手を振って帰っていくさくらを見送った。そうして思い出したようにスマホを確認するが、通知は一件もきていなかった。やはり、今日の奈巳夏は少し、いやだいぶヘンなのかもしれない。流石に真っ直ぐ帰ろうと踵を返すと、電柱に抱きついてる変人を発見する。

「それで隠れてるつもりか?」

「……な、なんのことでしょう。ナ……ワタシは電柱」

 電柱に顔をつけているので、くぐもった声で、自称電柱からそう返答がきた。

「ほら、それ汚いから離れろ。犬がしょんべんかけるとこだぞ」

「ぎゃっ、きちゃない……あっ」

 電柱から飛び退いたことで、毎日合わせている顔がお目見えする。

「ご、ごきげんあそばせ……おにぃさま」

「なんだそのヘンテコな日本語は。……ったく、帰るぞ」

「ま、待ってよ~!」

 先に歩きだした春陽の腕に捕まり半歩後ろを奈巳夏が付いてくる。

「んで、今日はどうしたんだよ」

「ど、どうしたって?」

「言わないとわからないか」

「言わないとわかりませんね」

 横断歩道の信号が点滅したので走ろうとして、やっぱりやめる。

 奈巳夏に限ってわからないなんてことはないだろうが、ここは付き合ってやる。

「俺の教室に一回も来ない日なんて今までなかっただろ」

「それは……」

 さーっと、車が目の前を通り過ぎていく音が2人の沈黙を埋める。

 信号が青になっても、奈巳夏は口を閉ざしたままだった。

「ごめんな」

 春陽は歩き出しながら、沈黙を破った。

「えっ……なんで、謝るの?」

「俺の方から奈巳夏の教室に行くことだってできたのに、そうしなかった」

 実のところ春陽は奈巳夏と会うことに少しだけ気まずさを感じていたのだ。

 それは、いつもは奈巳夏から来てくれるから、自分から行くのが気恥ずかしいとか、そういう話ではない。

 あのとき、今朝奈巳夏が春陽のために男どもの集団を止めてくれたとき、少しだけ2人の歯車が狂ってしまったような気がするのだ。

 でも具体的にどこがどう狂ってしまったのかは、わからないでいた。

「そんなの……当然でしょ」

「えっ?」

「ナミカが一緒にいると、迷惑なんでしょ」

「ちょ、ちょっと待て。どうしてそうなる」

 奈巳夏がいて迷惑を被ったことなんて……こと、なんて……ううん、まぁたしかに数えきれないくらいにはある。

 だが、その迷惑が不愉快だと思ったことはない。

「だって、最近のおにぃちゃん。ナミカにこそこそ隠れて何かしてること多いから、離れた方が良いのかもって思って……」

 あぁ、そうか。今の奈巳夏の言葉で、欠けた歯車の歯を拾い上げることができた。

 欠けた歯とは即ち、奈巳夏が隣にいないことだった。

『兄は妹の手を引くのが役目なら、妹は後ろから兄の背中を押してあげるのが役目なのです』

 この奈巳夏の言葉はすごくいいものに思える。普通ならそうだ。でも、春陽と奈巳夏はいつだって2人並んできた。手を引くでも、背中を押すでもないんだ。隣で手を取り合う事こそが、2人の形だった。

 だが、春陽が石行さんのことを奈巳夏に秘密にしているせいで、並んで歩くことはできなくなっていたんだ。今朝みたいにアシストすることはできても、事情を知らないから2人で本当の意味で協力して事に当たることはできない。

 それでも、もう大丈夫だ。春陽と石行さんの関係は終わりを迎えた。だからまた、春陽と奈巳夏は並んで歩くことができる。

「離れるなんて、そんなの無理だろ」

「えっ……無理って?」

「俺たちは兄妹だ。いくら離れても切れない糸で繋がってるから、いずれまた引き合うようにできてんだよ」

 小学生の時までひとつ屋根の下にいながら大きな隔たりがあったけれど、今はこうして仲が良すぎる兄妹になったように。

「だから奈巳夏はごちゃふごちゃ考えずに、一緒にいたいときはいつもみたいに強引に一緒にいればいい。今回みたいに俺が拒むことはあるかもしれないけど、それでも拒み続けることはないし、そうしたいとも思わない。なにせ――」

 いろいろ言ったけど、結局この最後の一文に尽きる。

「俺だって、奈巳夏と一緒にいたいんだから」

 奈巳夏は春陽の腕に顔を埋め、それから手を握った。

 夜は少しずつ深まり、2人の影は境界線を失っていく。

 街灯の下を通るたびに現れては、またすぐに消えていく忙しなさは、穏やかな気持ちになりつつある春陽たちとは対照的だった。

「……なら、偶にはおにぃちゃんから会いにきてよ」

「俺が行く前に奈巳夏が来るんだろ」

「じゃあ、待ってたら来てくれるの?」

「かもしれないな」

「むぅ、でも1秒でも早くおにぃちゃんに会うためには、ナミカが動いた方がいい……ぐぬぬ……なんていうジレンマ」

 毎日多くの時間を一緒に過ごしているというのに、それでもなおたったの1秒を大切にする姿勢は見習うべきものなのかもしれない。

「これはあれだよ! ナミカとおにぃちゃんの教室の中間地点で毎回待ち合わせするしかないんじゃないかな!?」

 この立ち直りの早さも見習うべきなのかもしれない。

「休み時間は教室でのんびりしたい派なんでな」

「初耳なんだけど!? ……あっ! もしかして」

 奈巳夏は頭を抱え、悔しそうに身体をくねらせる。繋いだ春陽の手を握る力に強弱の波ができて、2人の距離は寄せては返していく。

「あの女……あの女のこと、好きになっちゃったから教室にいたいってこと!?」

「バ、バカか……そんなわけあるか」

 なにせ春陽が好きなのは――。そこまで考えて、顧みる。あの一件で春陽は石行さんに嫌われてしまったのは間違いがないけれど、だからと言って春陽が彼女のことを嫌いになったということはない。

 ただ、もう石行さんと付き合いたいなんていう烏滸がましい気持ちはない。

 であるならば春陽が取るべき選択は、どんどんと自分の中で気持ちが大きくなっているのを感じている女の子、さくらの気持ちに応えることなのではないか。

「おにぃちゃん? 黙り込んでどうしたの」

「いや、なんでもない。と、とにかくさくらは関係ない」

「ふーん、でもナミカにはわかるよ。おにぃちゃんのあの女への好感度が上がってるってこと。今日のおにぃちゃん達をストーカー……もとい、あの女がおにぃちゃんを襲わないか見守ってたからね」

 奈巳夏のやつ、学校からずっとストーカーしてたのかよ。

「でもなんだろ、なんだか今のおにぃちゃんって――」

 風が凪ぎ、チカチカと消えかかっていた街灯の息の根が完全に止まる。月は雲に隠れ、人通りもない。光も音も急速に存在感を消していくなかで、隣にいる妹の存在感が際立っていく。

「少し前のおにぃちゃんに戻ったみたい」

 至近距離から目一杯に引き絞った矢で心臓を射貫かれたよう心地がした。

(あぁ……そうだ。あのときと同じだ……)

 失敗して情けない自分を助けたくれた人にみっともなく縋って、その人に好意を寄せてしまう。

 受験に落ちて、いじめられていた春陽の前に立ちはだかってくれた奈巳夏に、春陽はまがい物の恋心を抱いた。

 そのまがい物の正体はただの依存だ。春陽はさくらに対しても、依存してしまっていたんだ。

 そんなへなちょこな自分で誰かを幸せにできるはずなんてない。寄りかかるな。立ち上がって、支えるんだ。

 春陽は最後に見た石行さんの顔を思い出す。

『――少しは良い人かもって思ってたのに、この学校で初めて信用できる人かもって思ったのに――――』

 悲しそうにそう言った石行さんの顔を。石行さんは他の人よりも強い人なのかもしれないけれど、きっと多くの人とは違うことで周りから遠ざけられ、寂しさだってあるはず。

 春陽は、それはもうわずかでしかないけれど、石行さんの支えになれそうだったんだ。なのに、傷つけてそのままで良いはずがない。

 もう一度石行さんと話をして、そして、できるなら支えになりたい。

「なんだかおにぃちゃんが燃えてる……」

 これから春陽が歩む道では、また奈巳夏とは隣で歩けないかもしれない。

「奈巳夏」

 それでも、今の春陽は恐れない。奈巳夏とは必ずまた道が交わる。

「ん? なーに、おにぃちゃん」

 地面を蹴り、走り出す。

「家まで競争だ」

「あっ、待ってよ~! フライングだよー!」

 今の春陽は奈巳夏に負けるわけにいかない。

 少しだけ欠けた月と奈巳夏に追われながら、春陽は次々と脚を繰り出していった。


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