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5-2

 通り過ぎる生徒からチラチラと視線を受けながら、春陽は校門の前に立っていた。じっとしていても少しずつ汗ばんでくるくらいには気温が高めだった。スカートであることがまさか功を奏すとは思わなかった。

 意気揚々と学校に来た春陽だが、石行さんと待ち合わせをしているわけではない。連絡を取る方法がないのだから当たり前だ。

 だから、こうしてここで待っている。こうすることにより発生するリスクである奈巳夏は、事前に母親に土下座して足止めをしてもらっている。最近、奈巳夏に内緒でいろいろしすぎているので、そろそろ爆発してしまうかもしれない。それに春陽が着ている制服は奈巳夏の予備のものだし、これも火種になりうる。

 そんなことをつらつらと考えていたら、別のリスクが堆積していることに気が付かなかった。

 チラチラとした視線は、いつの間にやら多くの生徒からの注目の視線になっていた。

「ねぇ、あんな子うちの学校にいたっけ?」

「わかんない。でも、めっちゃ可愛いね」

「俺の見立てでは、あれは眼鏡を取ることで可愛いくなるタイプの図書委員だな」

 そこかしこでコソコソと話をしているのが聞こえる。

『ふふっ、謎の転校生あらわるって話題で持ち切りになるかもね』

 そう冗談めかして言ったさくらの発言が、まさか現実になるとは思っていなかった。石行さんへアプローチするというのに、こんなにも目立ってしまっては決まりが悪い。

 どうしたものかと悩んでいると、さらによくない話が聞こえた。

「おい、話かけてこいよ」

「えぇ~、お前がいけよ」

「しゃーねぇ、やったるか」

 男子の一人がこちらに向かって歩いてくる。流石に野郎の相手をしている場合ではない。それに声をだして春陽だとバレてしまえば、女装して登校してきたことを先生に咎められてしまう。

「あの、そこの可愛いキミ――」

 春陽はその声に応えることなく駆けだす。

「あっ、ちょっと、待ってよ。連絡先教えてよ~」

 仕方がないがいったん引くしかない。だが、不幸にも簡単には引けなかった。

 なにせ、一人が声をかけたことを皮切りに、勢いづいた男子どもがどんどんと春陽に向かってくるからだ。

 走りにくいスカートで逃げ切るのは至難の技だ。このままではまずい。

 かと言って校舎に逃げ込んでしまった春陽にはこの一本道の廊下を走り続ける他にない。

 しかし腹を括って見据えた道の先には、ここにいるはずのない人物が仁王立ちで構えており、さーっと自分の顔が青ざめていくのを感じる。

 いや、でも、春陽であると気が付かれていない可能性がある。そうであれば、ここは簡単にスルーできるはず――。

『おにぃちゃん』

 しかし、そんな希望的観測はいとも容易く打ち砕かれることになった。まだ距離があるので音としては耳には届いていないが、その口の動きだけで、何と言ったのかはわかる。わかってしまう。

 そしてこんな姿をしていようと、奈巳夏がひと目で春陽だとわかってしまうこともまた、本当はわかっていた。

 奈巳夏は不敵な笑みを浮かべる。どうやら母親では奈巳夏を止めるには力不足だったらしい。

 万事休すか。こうなればもういっそ素直に立ち止まろう。無駄に体力を消費したくはない。きっとまた石行さんにアプローチするチャンスは訪れるはずだ。

 そんな諦めの言葉が次々と湧き上がり、もう一度奈巳夏の顔を見据え、やがて――それらすべてを焼き尽くすほどの闘志が燃え上がった。

 妹が立ち塞がって諦める兄がどこにいるというのだ。むしろこれで絶対に諦められなくなった。

 もはや奈巳夏は春陽を窮地に追いやる存在ではなくなり、立ち向かう旗印となった。

 春陽の鋭くなった表情を見た奈巳夏の表情もまた変化を見せる。不敵な笑みから慈しみの笑みに。その意味を推し量ることができなかったが、それでも、その変化は春陽にとって悪いことではなかったとすぐにわかることになる。

 奈巳夏は春陽に向かって走り出す。それによって急激に春陽と奈巳夏の距離は縮まり、そして――2人はすれ違った。

 すれ違い様に、奈巳夏は言葉を発するどころか、さっきみたいに口も全く動いてはいなかったけれど、春陽の頭の中では過去の奈巳夏の発言が再生された。

『兄は妹の手を引くのが役目なら、妹は後ろから兄の背中を押してあげるのが役目なのです』

 そうだ、きっと奈巳夏は春陽がこれから何をするのかはわかっていない。けれど、何かを為そうとしていることだけは理解して、何も聞かずに背中を押してくれたのだ。

 春陽は走り続け、奈巳夏はそこで立ち止まり手を大きく広げたかと思うと、深く息を吸い込んだ。

「あの子が好きなのは女の子だよー!!!」

 そう大声で叫ぶと、獣じみた動きを見せていた男どもの勢いが急激に低下し、人間の姿を取り戻していく。

「なんだよ。そっち系か」

「解散、解散。いこうぜー」

 興味をなくした群衆が散り散りになっていく。

 男って単純だなと、男ながらに春陽は思ってしまった。それにしても、あれを止める言葉をその場で思いつけるのは中々に機転が利いている。しかも嘘は何も言っていない。

 あとでジュースの一本でも買ってやろうと決めて、春陽は安全に廊下を走り抜け、風が穏やかに流れる渡り廊下に出たところで、ひと息ついた。

 手鏡を取り出し、髪型などをチェックする。思ったよりも乱れておらず、簡単に整え直すだけで済んだ。

 安心して石行さんを探そうと一歩踏み出そうとすると、背後から春陽の名前を呼ぶ声がした。この声は――。

「さくらか、ありがとう。おかげで女装が上手くでき――」

 むぎゅう~。

「……へ?」

「似合いすぎだよっ、春陽ちゃん。めっちゃ可愛い~!」

 突然のことで脳の処理が追い付いていないが、身体を柔らかいものが包み込むその感覚にようやく春陽はさくらにハグをされたのだと理解する。

「って、ごめんね! あまりにも女の子だったから、つい女子のノリで抱きついちゃった」

 さくらは勢いよく春陽から離れ、頭をかく。確かに女子同士のハグはよく見る光景ではある。ただ……春陽は、さくらがそうしているところを一度も見たことがなかった。

 少しだけ取り繕っているようにも感じる。

 ただ、その違和感の正体に春陽が辿り着くよりも先に、何かがバタッと音を立てて落ちる音が背後からした。そして、それに続いて発せられた声に春陽は息を呑んだ。

「さ、桜紙さん……?」

 そんなに多く聞いたわけではないけれど、忘れるはずもないその声を聞いただけで、パブロフの犬のように春陽の心臓が大きく波打つ。

 振り返ると落とした通学カバンを拾って、一目散に走り去っていく石行さんの姿があった。

 探し求めていた人物をようやく見つけることができたという喜びを噛みしめる暇すらなかった。それどころか、一瞬だけ見えた石行さんの表情は悲し気で、春陽の心も暗澹とする。

 この気持ちを振り払う方法は、ひとつしかない。

 春陽は石行さんの背中を追いかけようと走り出す。

「春陽くん!」

 必死な言葉を無視することは流石にできずに立ち止まる。

「どうした、さくら?」

 春陽と石行さんだけでなく、さくらまでも暗い表情をしている。でも、どうしてさくらが苦しそうな顔をしているのだろうか。

 それでいうと、どうして石行さんが逃げるように行ってしまったのかもわからない。

 本当にわからないことだらけだ。どれもこれも大事なことなのに、公式の存在しないその問題を解くことは、途方もなく難しく感じてしまう。

 それでも頑張ってわかろうとすることはできるはずだ。それも、想像では駄目だ。しっかり話を聞くんだ。だが、さくらと石行さんという2つの問題が同時に発生している春陽は身動きが取れなくなってしまう。

「春陽くん……その……ううん、やっぱりなんでもない。早く石行さんを追いかけてあげて」

 そう笑顔で言うさくら。春陽が好きなのは石行さんだけれど、だからと言って2人の間に優先順位を付けるなんて、とてもできない。

 それでも迷っている時間なんてない春陽にとって、さくらのその言葉は決断をさせてくれた。取り繕って言ったこと、というのはもちろんわかっているけれど、そうまでして口にしてくれた強さを無下にしたくもなかった。

 春陽はさくらに頷くと、再び石行さんの行った方へ走り出した。

 数歩進んだところで何か小さな音が聞こえたけれど、それが葉擦れの音なのかさくらのつぶやきなのか、判断することができなかった。

 いずれにせよ「ごめんなさい」と聞こえたのはきっと気のせいだろうと、春陽は結論づけて渡り廊下を外れ、校舎を周った。

 石行さんは完全に見失ってしまい、どこに行ったのか確証はないけれど、足は止まらなかった。彼女について知っていることは少ないけれど、それでも春陽が二度石行さんと話をしたあの場所、あの校舎裏のことを、石行さんは気に入っているのではないかと思う。

 だから、とりあえずそこに向かう。いなければいないで、また探せばいいだけだ。

 ある程度の長期戦を覚悟していたけれど、そよ風に運ばれるように辿り着いた場所に、悲し気に立ち尽くす背中を発見した。

 パキン、と春陽が落ちていた枝を踏んだ音に、石行さんは誰かが来たことに気が付いた。

「あなたは……さっきの……」

 やはり石行さんは春陽を春陽だと認識していないようだ。さくらは春陽の名前を口にしていたけれど、石行さんとは距離があったため、聞こえていないだろう。

 春陽は別に石行さんにサプライズをしたいわけでもなんでもない。ややこしいことになる前に、さっさと正体を明かしておこう。

 そう思った矢先に石行さんから、春陽が聞くべきではなかった言葉が発せられてしまった。

「あなたと桜紙さんは……その、どういう関係なの?」

 ドキン、と心臓が跳ねた。それは顔を赤らめた石行さんの可愛らしさで高鳴った、というわけではない。

「……って、ごめんね。急にヘンなこと聞いて。普通に友達とかそういう感じだよね」

 さっきの質問、もしも石行さんのことを全く知らない人であれば、よくある友達同士の嫉妬のようなもので済ませられる。大切な友達が自分の知らない友達と仲良くしているところを見たら、モヤモヤしてしまうというのはおかしなことではないからだ。

 石行さんにとって今の春陽は初めて見た人で、だからこそ、妙な勘繰りをされないと思って、できた質問だったはず。

 だって、石行さんのことを知っている人間からすれば、これは、自分の好きな人をバラしていることと同義だから……。

 聞いてしまったことは、もう取り消すことはできない。これ以上一緒にいれば、さらによくないことを聞いてしまうかもしれない。残念ながら今度こそ作戦を中止せざるを得ない。

 そう思った春陽は急いで踵を返そうと足を引く。

「あれ、道鋏君じゃないかい。こんなところでどうしたんだい?」

 ガツンと頭をぶん殴られた感覚がした。穴という穴から嫌な汗が吹き出し、今のは幻聴であると現実逃避するようにキーンと耳鳴りが鳴る。

 だが、目の前で春陽の顔を見て困惑している石行さんの顔が、春陽の終了した現実を突き付けてくる。

「道鋏……って、道鋏、春陽……?」

 初めて石行さんに名前を読んでもらえたのがこんな最悪な状況下になるなんて思いもしなかった。

「そうだよ、華ちゃん。この人は2組の道鋏春陽君だ。どうしてこんな格好をしているのかは、僕にもわからないけど」

 春陽の後ろから石行さんの言葉に答えたのは、間違いなく友碇だ。まだ春陽は振り返っていないけど、いや、もはや振り返る力さえもないけど、それはわかる。

「うそ……そんなことって……本当、なの?」

 その問いは春陽に向けられていた。ここで黙れば、もしかしたら嘘を吐き通せるかもしれない。

 だが、これ以上罪に罪を重ねることなんてできなかった。なにより、そんな駆け引きをする余裕もない。

「そうだ……俺は、道鋏だ」

 本当にそこから声がでているのかと疑いたくなるような男性の声が目の前の女の子だと思っていた人物から発せられて、石行さんの困惑はさらに増大する。春陽の気のせいではなければ、そこに悲しみも混ざっていた。

「そう……。少しは良い人かもって思ってたのに、この学校で初めて信用できる人かもって思ったのに……。やっぱりあたしのことこうやって騙して、揶揄ってただけなんだ。女の子の格好をすれば、誰にでも尻尾を振るとでも思ったの?」

「ち、ちが……俺はそんなつもりじゃ――」

「最低」

 トドメを刺すようにそういって、石行さんが去っていく。少しだけふらついたようにも見えたけれど、次の瞬間にはしっかりと地面を蹴り、走っていった。

 遠くなるその背中に春陽は足を動かすどころか、手を伸ばすことも、声をかけることもできなかった。

 春陽が掴めたものといえば、地面の土だけだった。

 告白が人を傷つけることもある。それは考えたことがあったはずなのに。自分は大丈夫となぜだか慢心していた。

 春陽は告白するまでも至らなかったけれど、同じことだ。要は一方的な好意こそが悪になりうる。結局、今回の女装作戦だって春陽の独りよがりの暴走に過ぎなかったんだ。もっとマシなアプローチがいくらでもあったはずなのに。

 もっと考えて、もっと慎重に行動していれば、こんなことにはならなかったのだ。

 そんな後悔をしたところで、やっぱりもう遅いのだけれど。もはや春陽に彼女に近づく権利はない。

 うずくまる春陽の視界を埋めつくす地面はどんどんと明度を下げ、やがて何も見えなくなった。


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