4-1
異国情緒がほのかに薫る教室。ワールドワイドな空気感に、思考も大海を漂うように迷いが深まる。
教卓の前には英国人の女教師が生徒のレベルに合わせて少しだけゆっくりと、母国語で授業を行っている。
流暢な英語は脳が言葉として処理しないので、ノイズにならず考え事にはもってこいかもしれない、なんて考えていると、直接的な刺激で春陽の思考は途切れた。
シャープペンシルの頭でちょんちょんと腕を突かれた方に目を向ければ、頬杖をついて片頬を膨らませているさくらと目が合う。
「いくら美人だからって、キャシーちゃんのこと見すぎ……かも」
「い、いや、これは先生の方を見ておくことで話しを聞いていなくても聞いている感をだす作戦で……」
「ぷっ、あはは……! 冗談だよ。顔真っ赤で可愛い」
可愛いなんて言われたことがなくて、なにか言い返そうにもどう反応すれば良いかわからず固まるしかなかった。
「授業はちゃんと聞かないとだよ、春陽くん」
「そっちこそ集中してたら俺がサボってることに気が付かないはずだけど?」
「私はいーの。英語だけは余裕だしね」
その言葉を裏付けるように、突然先生に当てられたさくらは立ち上がり、春陽との会話に意識を割いていたはずなのにしっかりと返答して、ついでにブラボーと褒められていた。席に着くと春陽に向けて小さくピースをした。
「前から思ってたけど、なんでそんなできるんだ。発音もレベチだし」
「これでも帰国子女だからね」
「えっ? そうだったのか」
「最初の自己紹介で言ったんだけどなぁ?」
春陽は自分の番で、自分の紹介をしていたはずなのにいつの間にか奈巳夏の紹介になっていた記憶しかない。要するに消し去りたい黒歴史的な記憶だ。
「言葉じゃなくて、自分の目で見たものしか信じないタイプなんだ」
「その言い訳は無理があるよ……」
ばつが悪くなった春陽は、ひとまずそろそろ消されそうな板書をノートに書き写す。なんだかいつもと少しだけ書き心地が違うなとシャーペンを見ると、それは奈巳夏のものだった。また春陽が気付かないうちに勝手に交換していたらしい。
「向こうの学校、楽しかったなぁ。もちろん日本も大好きなんだけどね」
さくらはまっさらなノートに長方形を引き、その中にユニオンジャックや南十字星を描く。
「オーストラリアに留学したのか?」
「正解。いろんな人がいて面白かったなぁ」
さくらの懐の深さは、留学先で多様な価値観に触れたことによるものなのかもしれない。
「って、私のことはどうでもよくて。春陽くんはなんでぼーっとしてたのかな? 悩み事??」
「それは……」
まさか好きな人にどうやってアプローチすればいいか考えていた、なんて言える訳がない。第一さくらは春陽にそんな人がいることを知らない……いや、待てよ。そうだ、そもそも知らないことはまずいのだ。昨日、奈巳夏に言われたことが頭をよぎる。
「あっ、言いにくいことだったら無理して言わなくていいよ。ごめんね」
「いや……なあ、さくら。今さらこんなこと言うのも遅いとは思うんだけど……」
無暗にこの話題を蒸し返す方が、傷つけることになるかもしれない。それでも、さくらは春陽を〝過去の人〟にできていないのは明白で、であるならば言わなければならないと思った。
「俺、好きな人がいるんだ」
パキっとさくらのノートの上で滑っていたシャーペンの芯が弾ける。クルクルと二回ほどシャーペンを回したあと、カチカチとノックして、折れる前と同じだけ芯を出した。
「そっか。ふむふむ、なるほど」
うん、とひとつ大きく頷くと、さくらはこちらを向いた。
「言ってくれてありがとう」
やはりその心の内はうかがい知れない。春陽は今ここで打ち明けるという選択が間違っていなかったと祈るばかりである。
「その、俺が言うのもあれだけど、さくらだったら俺なんかよりもっと良い人が……」
「いないよ。春陽くんより良い人なんて」
「どうして、そんなに俺のこと」
わからなかった。さくらは春陽のどこにそんな魅力を感じてくれているのだろうか。
「入学式のとき、一目見たときからびびってきたんだ。この人が運命の人だって確信した。……なんだそれ、そんなことで、って思ったでしょ?」
「いや……」
すごいと思った。芽生えた感情に確かな理由なんてなくても、自分の気持ちに正直に突き進むことのできることが。
「こほん……とにかく春陽くんに振られた理由が私にとっての最悪ではないことがわかったことだし、これからもっともっと頑張れるってことだから覚悟しておいてね」
もしかしたらさくらにとっての最悪の方が、彼女のためになったのかもしれない。もっとも、その最悪がなんなのかはわからないし、そんなこと春陽が思う立場にもないのだけれど。
「差し当たっては春陽くんのポイント稼ぎのために、恋の相談にのってあげよう」
「えっ、でも……いいのか?」
「うん! 言ったでしょ。ポイント稼ぎだって」
さくらのことを知れば知るほど、その魅力に気が付かされていく。
ここはその好意に甘えることにした。ここで拒絶する方が彼女を傷つけることにもなるだろうし、そもそも他の人の意見を聞きたいと思っていた。
「うーん、春陽くんの好きな人って、もしかして華ちゃん?」
「えっ!? ……あっ、sorry……」
思わず大きな声をあげてしまったことで先生に睨まれ、即座に謝罪する。
「ふふっ、その反応は、当たりってことかな」
「そ、そうだけど……なんでわかったんだ」
「春陽くんが思っている以上に私は春陽のことをちゃんと見てるってこと」
視線、表情、語調……、直接言葉にせずとも端々から読み取れる何かがあったのかもしれない。昨日、石行さんの話をしたというのも大きいだろう。
「それにしても華ちゃんかー、う~ん。アプローチするにもすごく難しいよね」
「そうなんだよな」
そもそも性別的に恋愛対象に入っていないことからこそ、その道は困難を極める。友碇はいったいどうするつもりなのか。
「やっぱり好かれるためには相手の好みを考えることが大事なんじゃないかな」
相手の好み、ね。
「ん、もしかしてさくらが猫耳つけてたのって……」
ぼんっ、と突沸のようにさくらの顔が赤くなる。
さくらが告白してくれたとき、びっくりすることに猫耳メイドの姿だった。それは春陽は猫が好きだという情報を知っていたからだということか。
「ま、まあ、でも振られちゃった私がやってたことは当てにならないかー……たはは~……」
「……いや、確かに俺はあのときドキドキしたというか」
「えっ、ほんと?」
自分で言ってて恥ずかしくなって、さくらも当然恥ずかしがっていて、なんだかむずがゆいような気まずい雰囲気が流れる。
春陽たちに構わず、授業が淡々と進んでいることが唯一の救いだった。
「とっ、とにかく、華ちゃんが好きなものが何なのかわかれば最高だよね」
「石行さんが好きなもの……」
春陽は数少ない石行さんとの交流を振り返る。そこで、ひとつの候補が浮かび上がった。
「……はな」
「え?」
「はなだよっ」
「んんん? まさか自分が好きってこと!?」
「そうじゃない。石行さんは花――フラワーが好きなんじゃないかって」
校舎裏で会ったとき、石行さんは花を愛おしそうに眺めていた。少なくともあの表情は嫌いなものに向ける類のものではない。
「あぁ、そっちね。そうだったんだ」
「いや、わかんないけど」
「ええっ!」
さくらは机から転がり落ちた消しゴムを拾う。
「でも根拠…と言えるほど強いものじゃないけど。自分の名前に関するものってやっぱり親近感が沸くというか好きになりやすいと思うんだ。俺だって春が好きだし」
「ふむ、たしかに。私も桜好きだし。ほら、ここにも!」
ベージュ色の革のシンプルなデザインのペンケース、そのファスナーの取っ手は革が桜を模っており、さくらはそれをぐにぐにと弄んでいる。
「あぁ、あと、石行さんのヘアゴムって花がついてるだろ」
「たしかに~! あれ可愛いって思ってたんだ。そう考えるとお花作戦、悪くないかも!」
となるとさくらが猫耳をつけていたみたいに身体のどこかしらに身に付けるのが良いのだろうか。春陽がさくらに惹きつけられたみたいに、石行さんに興味をもってもらえるかもしれないし、アプローチのきっかけにもなるかもしれない。プレゼント、というのも良いが、それはもう少し関係が進んでから考えるべきだろう。
「あっ、そうだ。もし春陽くんが良ければなんだけど――――」
さくらからされたその提案に、春陽は乗ることにした。