3-4
記憶という異物が空中に溶けて辺りは薄暗くなっている。友碇の口から好きな人の名前が発せられてからの記憶がない。だが少なくともあれから時間が経っていることは明白で、きっとなにかしらアドバイスをしたのだと思う。それが建設的であったかどうかはともかくとして。
春陽の横で夕飯の話をしている奈巳夏の顔を見て、ようやく現実に戻ってきたような感じがする。
「ナポレオンってなんだかおいしそうな名前してるよね」
訂正。別に夕飯の話ではなかった。正確には夕飯の話は終わり脱線を始めたところだ。
「それはナポリタンだろ」
すると奈巳夏は立ち止まりニコリと笑った。
「おにーちゃんやっと言葉を返してくれた」
「え? さっきから返事してなかったか?」
「返事はしてたけど、ああ、とか、うう、とか。なんだか退化してアマテラスオオカミになったみたいな」
「退化どころか進化、いや神化してるわ。それはアウストラロピテクスな」
「そうとも言うね」
「そうとしか言わん」
アハハ、と奈巳夏は笑い、そうして止まっていた時間を取り戻すように少しだけ早足でまた歩き出す。いつもなら並んで歩く奈巳夏が、先へと進んでいく。春陽もすぐに追いついた。
「なあ、奈巳夏」
「どったの? おにーちゃん」
奈巳夏は真っ直ぐに前を向いたまま返事をする。
「そういえばなんでジャージ着ているんだ?」
ズコッと奈巳夏はバラエティー番組のようにこける。
「今さら!? おにーちゃん。女の子の格好には開口一番に触れなくちゃいけないんだよって前にも」
「それは……うん、以後気をつけるとして」
「まあ、良いけど。相手をよく見ないっていうのは、それだけ相手に対して気を許しているってことだろうし」
なんだか奈巳夏の超好意的な解釈によって許されたようだ。
奈巳夏は放課後にすぐ春陽の元へ行こうとしたらしいが、教室でふざけていた同級生とぶつかり黒板けしクリーナーの粉をぶっかけられたためにジャージに着替え、そのあと先生と話たりなんだりしていたらしい。
おかげで奈巳夏は春陽が屋上に行っていたことすら知らない。
「つか、そのジャージ俺のじゃないか?」
「そんなことよりも、おにぃちゃんは何かナミカに聞きたいことがあったんじゃないの?」
華麗なるスルーからの質問返し。ニコニコとした笑顔の一切の揺るがなさは見上げたものがある。まあ、聞きたいことがあったのは本当だし良いか。
「どうしても欲しいものがあったけれど、それを狙っているのが自分だけではなくて、それも自分をレベルが十とするならば、そいつは百くらいで。そんなとき、奈巳夏だったらどうする?」
まるで春陽が何を聞くのかわかっていたかのように、奈巳夏は考える素振りを一切見せずに口を開く。
「この世には魔法の四字熟語があるんだよ」
「魔法?」
「そう、魔法」
奈巳夏の銀色の髪の毛が夕陽に照らされて幻想的に輝き、その光景はさながら魔法少女が魔法を使っているようであった。
「それは先手必勝だよ。どんなに強大な敵だったって先手さえ取ってしまえば必ず勝てるんだよ。そうじゃなきゃ、ダメなんだよ」
最初の方は明らかに春陽に向けての言葉だったが、最後の方は自分自身にも言い聞かせるようだった。
「そうか、先手必勝か」
春陽は心に刻みつけるように、奈巳夏がくれた言葉を反芻する。
すると、次の瞬間。外灯が一斉に点灯し、刻一刻と薄暗くなっていく通りが明るく照らされた。
「ありがとうな」
奈巳夏は外灯の輝きに負けないくらいの笑顔を見せる。
「兄は妹の手を引くのが役目なら、妹は後ろから兄の背中を押してあげるのが役目なのです」
パン、と叩かれた背中からはじんわりと奈巳夏から注入された勇気を感じた。
なんだか気分がよくなって、ずんずんと歩いていると突然後ろから首根っこを捕まれる。
「な、なんだよ奈巳夏」
「そういえばナミカってば大事なこと聞いてなかったなって」
大事なことね。奈巳夏のことだからどうせ大したことはなさそうだが、今春陽の話を聞いてもらった手前、断るのも忍びない。
「他でもない! おにぃちゃんが告白された件について!!」
「……あぁ、それな」
さくらが自分で奈巳夏にバラしていたから、そのうち聞かれるだろうとは思っていたが……。
「つっても、別に取り立てて話すことなんてないぞ。普通……だったかは微妙だが、普通に告白されて、そんで振って、それでおしまい」
「ふぅ~ん。でもまさかあっさり振るなんて。ナミカの算段では、初めてのナミカ以外からの告白にコロっていっちゃうって思ってたけど」
その算段も間違いではないけれど……。奈巳夏の瞳がキラリと鋭く光る。
「なんか、おにぃちゃん側に振った理由があるってことだよね。あの女には……認めたくないけど欠点らしい欠点はなさそうだったし、ナミカの次くらいにはまあ可愛いかったし」
随分と仲は悪そうだったものの、一応さくらのことを認めてはいるようだ。
振った理由はもちろん石行さんだが、バカ正直に話すわけにはいかない。
「ほら、勉学に集中したいから、さ」
「ふ〜ん。あの女にはそう言ったの?」
「いや、さくらには特に何も」
「えっ? 理由も伝えずに振ったの!?」
胸ぐらを掴まれてぐわんぐわんと揺らされる。視界を電灯の丸い光があちらこちらに走り回っている。
「そうだけど……もしかしてまずかった?」
「当たり前だよ! 考えてもみて。一世一代の大勝負に敗北して、どれだけの傷を負うのか。自分を納得させられる理由でもないと辛すぎるよ……」
言われてみればそうなのかもしれない。それでも、さくらは普通に春陽と接していたし、大丈夫だろう。
橋に差し掛かり、欄干から河川敷がのぞく。部活動の中高生や身軽な格好をした大人の女性など、活き活きとした表情でランニングを頑張っている人たちの姿が目立った。
……本当に、さくらは大丈夫なのか? いくら外面で問題なさそうに見えたところで、内面もそうであるなんて限らない。さっきそのあたりの難しさは、友碇も言及していたはずだ。
「ま、ナミカはあの女が傷つくのは清々するけどね! だからおにぃちゃんの行動は間違ってないっ」
「いきなり全肯定になるじゃん……」
「世界中の人がおにぃちゃんの敵になっても、ナミカだけは味方だからね」
歩けば景色は流れ、心臓の鼓動は時を進める。空を見上げると、薄っすらとしたお月様が追いかけてくる。
変わりゆく世界のなかで、奈巳夏のその言葉は変わらずにいると信じられる、そう思った。