3-1
胸いっぱいに吸い込んだ空気が気温に反して少しだけ冷たく感じるのは、一晩中ひと肌に触れることなく過ごしたであろう早朝の空気だからか。それとも、いつも隣にいる人物がいないからだろうか。
まとわりつくようなじめじめとした空気を振り払うように、あるいはなぜだかいつもと違って見える通学路を早く通過したくて、春陽は家の前から駆け出した。
今ごろ奈巳夏は起きて、意気揚々と兄の部屋に侵入するも、目的の人物がいないことに気がついて慌てていることだろう。
その焦り具合を想像していたら、騒がしさを廃したこの世界にも温もりを感じられた。
静かなのは当然だ。
太陽が人々の輪郭をしっかりと掴み始めてそこそこの時間。それはこの並木道で絶望顔の通勤者と希望顔の通学者の対比が映えるには少し早く、人通りは極めて少ない。
おかげでスイスイと風景は流れ、普段ならのんびり30分かけて歩く道を半分以下で走破した。
校門の前でハァハァと息を整える。動悸が激しいのを運動のせいにして、校舎に入った。
奈巳夏のおかげもあり、人生初の異性からの告白を受けに行くにしては平常心を保てている気がする。
――しかし、そんなものは待ち合わせ場所である春陽の教室の戸を開けた瞬間に壊されることになる。
だが、無理もない。だってそうだろう。
自分の教室に猫耳メイドがいて、それもその子が自分に笑いかけてくれていたら、誰だって冷静さを欠いてしまうというもの。
その視線にきゅっと心臓を掴まれたような気がして、息苦しくなる呼吸を整えたくて、思わず開いたドアを閉めた。
視界が見慣れた教室のドアになることで、少しは落ち着ける――なんてことは、全くなかった。
春陽の脳裏には、あの白のニーハイとミニスカが織りなす絶対領域とひらひらとしたメイド服、桃色の髪から映えて生える桃色のネコミミ、そして「おかえりなさいませ、ご主人さま、にゃん♡」(幻聴)がしっかりと焼き付いていた。
ぜぇはぁと空気を鳴らしていると、控えめにドアが開かれ、そこから不安げに揺れる瞳が春陽を見た。
「春陽くん……」
その声、その容姿、もう認めざるを得ないだろう。彼女は異世界からやってきた猫系獣人、などではなく――
「さくら……」
コスプレ衣装に身を包んだ桜紙叶羽であり、昨日春陽に手紙を出した張本人だった。
ドアから半分だけ身体を出しているさくらは、手を伸ばして春陽の袖口をちょいちょいと引く。もしも春陽が無機物であったなら、ぴくりとも動かないような力だ。だが彼女の惹く力に引かれ、あるいは質量をもつほどの魅力に轢かれぺらぺらになった有機物は、いともたやすく教室の中に誘われた。
「春陽くん……」
噛みしめるように再びその名前を口にした。
「来てくれて、ありがとう」
「……そりゃ、まあ、呼ばれたから」
「それって、別に呼ばれたのが私じゃなくても来たってこと?」
まるで園児が拗ねたように頬を膨らますさくらに何と返答すれば良いのかわからず、春陽は首の後ろを掻いた。
「なんて、ごめんね。私から呼び出しておいてこんなことに聞くの卑怯だよね」
彼女らしからぬいじわるは、緊張の裏返しなのだろう。両手でスカートを掴み、落ち着きがなさそうにひらひらと揺れていることからもわかる。
「ね、ねぇ……春陽くん」
俯く彼女につられ、春陽も視線を下げれば、さくらの足元は上履きではなく黒のストラップパンプスだった。まさにメイドのフル装備という具合だ。
「どう、かな?」
「えっ? どうって……あいむ ふぁいん さんきゅー あんど ゆー?」
「Ah, not bad……no no no!」
春陽によるコテコテの日本人英語に対して流暢な発音での返答がきた。
「*you>☆a+%ps$#@_tha|”mon<――――」
それからまくしたてるように何かを言っていたが、悪しき受験英語しか学んでこなかった春陽には一割も聞き取ることができなかった。
「はぁ……はぁ……」
しかし言いたいこと言い終え、肩で息をしている様子から察するに、怒りに近いなにかを宣っていたことだろう。
「なんか、ごめん」
理由がわからず謝るのは悪手と知りつつも、しかし謝る以外の言葉を持ち合わせていなかったので、そう言わざるを得なかった。
複雑な表情で溜息を吐くさくら。心なしか可愛らしい猫耳も垂れ下がって見えて――。
……可愛らしい。あぁ、そうか。そういえば奈巳夏にも女子の服装を褒めろだのなんだの言われていた。
たとえ思っていても口に出さなければ伝わらない。恥ずかしい気持ちは大いにある。けれど、きっと彼女は春陽の照れなど比にならない程に照れくさい秘めた想いを言葉にしようとしているはずだ。
もし、ほんの少しの勇気でさくらがほんの少しでも楽になるというなら、喜んで言葉にしよう。
「その、似合ってるな」
瞬間、雲の切れ間から現れた満月のように、さくらがぱっと笑った。しかし、すぐにまた雲隠れしてしまう。
「……今さら言うってことは、お世辞ってことでしょ。それでも――」
嬉しいって思っちゃう自分がいる、とさくらはそっぽを向いてつぶやいた。
「違う」
春陽の返答にさくらは身体をピクりと震わせて恐る恐る顔を正面に戻した。
「人は、本心ほど隠したがるんだよ」
だから言えなかっただけ。
その言葉を聞いたさくらの顔に決意が滲む。
「そっか。たしかに、そうだね」
そうしてすーっ、はーっと深呼吸をする。
「あのね!」
これまでの空気を仕切り直すようにさくらはハッキリとした言葉を発して春陽を真っ直ぐ見据える。
「桜って春の陽気に誘われて花を咲かせるじゃない? だから〝春陽〟くんは私を、〝桜〟紙叶羽を輝かせてくれるし私なら春陽くんの見ている世界を彩ることができるってそう思うんだ!」
ひと息に言ったことではぁはぁと肩で息をするさくら。しかしすぐにポカンとしている春陽に気が付き、やっちゃた、やっちゃたぁとあわあわと小声でつぶやくと、ふるふると首を左右に振って、こほんと一つ咳払いをした。
「い、今のナシ!」
「お、おう、まあ、なんだ、その、さくらはポエマーだったりするのか?」
「ち、違うの!」
さくらは春陽の頭にポンと触ると記憶よ記憶よ飛んでけ~と呪文をかける。そして満足気にコクンと頷いた。
「よし、これで今の記憶は綺麗さっぱりなくなった。まだイチからやり直せるよね」
確かに呪文を唱える一連の動作の可愛らしさに脳が支配され、記憶領域のバグによりその前のできごとが消えてしまいそうになった。深呼吸をして脳に酸素を送り込み、なんとか復旧を計ろうとしていると、今度はさくらに両手で身体を押され教室から締め出されてしまった。
予測不能な行動の連続に、ぽかんと立ち尽くしていると、再び控えめにドアが開き、そこから不安げに揺れる瞳が春陽を見た。
そうして伸ばされた腕が春陽の袖口を引き、教室の中へと誘われる。
向かい合う男女。完全に先程と同じシチュエーション。イチからやり直すってそういう意味だったのか。
「あの、春陽くん!」
この数分で何度も呼ばれた自分の名前だけれど、どの点呼よりも深く心に響いたような気がした。
どこかコメディめいた空気はさくらの深呼吸に全て吸い込まれ、覚悟や緊張をたっぷりと含んだ空気が吐き出される。
「あなたのことが、好きです。付き合ってください!」
直球ど真ん中ストレート。曲がらない変化球で暴投となった先程とは大違いの言葉の送球。バッターボックスに立つ春陽の反応も大きく変わり、心臓が大きくトクンと脈打つ。
この鼓動こそが答えだった。そもそも……勝敗はここに立った時点で、いや下駄箱に入っていた手紙をトイレで確認したときから、すでに決していた。
「さくら、」
名前を呼ばれたさくらがピクリと肩を震わせる。
裁判長からの裁定を言い渡される被告人のような反応に、これからする自分の発言に対する責任の大きさを感じる。
カタカタと身体が震えることで、彼女の輪郭が曖昧になっている。
でも、そんなのはもったいない。さくらの可憐さをそうやってぼかしてしまうのは、世界の損失だ。
だから春陽がこれから告げる言葉はある意味、世界を救う、そんな言葉になるはずだ。
『こちらこそ、お願いします』
だけど、その言葉が紡がれることはなかった。
最高潮に達した緊張を紛らわそうと、右手で自らのズボンをぎゅっと握ったその時、チリンっと張り詰めた空気を緩ませる鈴音が鳴った。
その音に紐づけられた記憶が、すなわち、この鈴音のように芯の強い女の子、石行華の顔がよぎった。春陽は昨日拾ったキーホルダーを返し忘れていたのだ。
あぁ、そうだ。認めざるをえない。春陽は石行さんのことが好きになってしまっていたのだ。
でも、認めたからなんだというのだ。石行さんは気高く美しくて、春陽とは到底釣りあわない高嶺の花。それに、話をしたことすらないという無縁ぶり。
そんなものに手を伸ばすくらいなら目の前にいる自分のことを好いてくれる女の子の気持ちに応える方が良いに決まっている。それにどういうわけかその女の子は、学年一の美少女ときたものだ。石行さんだって釣りあわないけど、同じくらいさくらだって春陽と釣りあわない。
こんな千載一遇のチャンスを逃すなんて、あり得ない話だ。だから、春陽の答えは変わらない。
「こちらこそ、お願……」
――ナミカね。難しいことにチャレンジするおにいちゃんの姿が好き。そういうときのおにいちゃんって凄く格好いい。
そうだ、春陽があるのは奈巳夏のおかげだ。春陽を春陽たらしめてるのは、他でもない奈巳夏なんだ。
だから、奈巳夏から見た春陽の理想から外れた行為をするのは自分を見失うことと同義。であるならば、届かないからと手を伸ばさずに諦めてしまうなんて、絶対に駄目だ。
驚きと喜びに染まったさくらの表情が、しかし春陽の言葉が途切れ、言い切らないことで、だんだんと感情が暖かな朝の日差しに溶け、失われていく。
その変化に心が痛みながらも、この言葉はハッキリと言わねばならないだろう。
「さくら、ごめん」
目の前の顔が今にも泣き出しそうなくらいに歪む。
「それって……」
春陽の謝罪がどういう意味なのか、皆まで言わずとも理解できるはずなのに、それでもなお、彼女は縋るように春陽を見つめる。
その視線から逃げ出したくなる気持ちが生まれつつも、後悔に足首を捕まれたかのように動けなくなる。
今ならまだ撤回できる、そう悪魔が囁いたような気がした。
険悪な雰囲気のなか迷わず仲裁に入ってくれたさくら、人の良いところを楽しそうに語るさくら、そんな勇敢で優しい彼女と付き合きあったその先には、きっと物凄い幸せが待っているに違いない。
それでも石行さんへの未練を拭えぬまま、さくらと付き合ってしまう方が、いつかきっと目の前の少女をもっと傷つけることになってしまうから――。
「俺は、さくらの気持ちに応えることはできない」
耐えるようにきゅっとさくらの瞼が閉じられる。吐き出したい大きな感情を抑えて、水道の蛇口をほんの少しだけ開けるように、さくらはつぶやく。
「そっ……か」
自分に言い聞かせるようにこくり、こくりとさくらは頷く。
「これが初恋の呪いってやつ……なのかな」
「初恋の、呪い?」
春陽の問いに返事をするようにすん、と鼻を一度鳴らした。
「……うん。ほら、初恋は叶わないってよく言うでしょ」
そういえばこの前捨てたチラシにも、そんなようなことが書いてあった気がする。
「それなのに、告白してくれたのか?」
「たった今振った女の子にそれ聞く?」
「あ、いや、その……ごめん」
春陽の中で告白とは勝算があるときにのみするもの。つまりまずは友達として仲が良くなければスタートラインにすら立てない、そう思い込んでいた。
さくらと春陽は今年同じクラスになって席も隣同士だったけれど、だからと言って親密な関係だったかと言われればそんなことはない。
誰に対しても人当たり良い彼女だから昨日のように雑談くらいはすることはあっても、本当にただのクラスメイトといった距離感。
だからさくらに勝算なんてほとんどなかったはず。それなのに告白してきた。そのことが凝り固まっていた春陽の価値観を広げてくれたような気がした。
春陽が挑もうとしている恋はさくらよりも遥かに勝算がないものだから。
「ひとつは、今日が私のてんびん座の運勢が1位だったから」
デリカシーを欠いた質問に対する、もはや返ってこないと思っていた答えが明かされる。
「あぁ、そんなことでって顔してる」
「いや、その……すまん。俺はあんまり占いとか信じるタイプじゃないから」
「ふふっ、そんな気がする。でも私は……ほら、見て」
「……へっ?」
さくらは突然クルっと180度回って少しだけお尻を突き出したことで、面食らって間抜けな声が漏れてしまった。
それからまた回って正面を向いたさくらは、
「ねっ?」
と、春陽に問いかける。
「えっと、その、なんだ……良い形、だと思う」
スカートの上からでもわかるくらい、キュッとしまったキレイな丸い尻だった。
「良い形……? って!」
さくらの顔は急激に真っ赤になる。
「も、もうっ。お、お尻を見て欲しかったわけじゃないよっ」
「えっ……す、すすす、すまん! セクハラで訴えるのだけは勘弁っ」
はぁー、とさくらはひとつ溜息を吐いてから口を開く。
「訴えないよ。それに……一応、褒めてくれて嬉しいし」
最後の方はぽしょぽしょと言葉が尻すぼみになっていった。尻だけに。……。
さくらは仕切り直すようにこほんと咳払いをして自分の猫耳を指差す。
「ほら、私ってば猫耳つけてるくせに足りないものがあるって思わない?」
ぴょこぴょこと耳が可愛らしく動く様子を幻視しながらも、さっき背中側を見せてきたことを考えれば、自ずと答えは見えてくる。
「……尻尾ってことか?」
「そうそう、そうなの」
でも、それが占いを信じる話とどういう関係があるのだろうか。
「本当は尻尾もってくるつもりなのに、直前になって忘れたの気付いて……。この忘れ物の多さって、なんか悪いモノでも付いてるからなんじゃないかって昔から思ってて」
なるほど。それが星座占いやら、初恋の呪いのおまじないやらを信じることに繋がっているのか。
「でも告白したのは、星占いよりもっと大きな理由があって……それは、我慢できなくなっちゃったから」
たしかに、星占いであればこれまでだってきっと1位だった日はあったはずだ。
「入学式の日、私は春陽くんに、その、一目惚れして。それから毎日春陽くんのことを目で追うようになって。一年のうちはクラスも違って私も声をかける勇気なんてなかったけど、目が合うだけでその一日は春がきたみたいに色あざやいかに輝いて。それで今年、運よく同じクラスになって、それも席が隣になって、ますます想いは膨らむばっかりで、遂に耐え切れなくなっちゃったみたいで」
さくらは顔を真っ赤にしながらも思いの丈をぶつける。それは本人も相当に恥ずかしいだろうが、聞いている春陽も顔が熱くて熱くて仕様がない。
「初恋が実らないのって、やっぱり経験値の問題なんだろうね。何事も初めてで上手くいくことなんて稀だし、それが恋だけ例外だなんてあるはずもないもん。自分で自分が制御できなくて、それで今回こうやって無謀にも春陽くんにアタックしちゃったんだと思う。本当はもっと、じっくり仲を深めながら好機を待つことだってできたのに。春陽くんのことを考えただけで、全く冷静な思考ができなくなっちゃって」
さくらはだんだんと恥じらいがなくなってきたのか、随分と饒舌になる。もしかしたら照れの裏返しなのかもしれないけれど。
「過去に他の恋をしていれば、今回もっと上手く立ち回れたのかなぁ」
それにしても他の恋、か。さくらに告白する人が多いのは聞いたことがある。だというのにどうして春陽なんかを想い続けてくれているのだろうか……?
「て、ごめんね。こんなこと言われても困るよね。私そろそろいくね」
たははー、と照れたように笑ってさくらは歩き出す。
「さくら」
教室のドアに手をかけたままさくらはピタリとその動きを止める。
「その、ありがとう」
驚いたようにさくらは振り返る。
「どういうこと?」
「えっと、それは、なんというか」
さくらの告白で春陽も自分の諦めようとしていた恋に向き合う勇気を貰えたから。ただそれを馬鹿正直にさくらに伝えるのはあまりにも無神経すぎる。
「俺……誰かに告白されたのなんて初めてでさ。さくらの気持ちに応えることはできないけど、それでもやっぱり誰かに好意を向けられるのって嬉しくて幸せなことなんだって思えたから」
これも正直な気持ちだった。さくらは目を丸くして、やがてクスクスと笑いだした。
「私、告白されたときに嬉しいなんて思ったことなかったけど、春陽くんは良く思ってくれてるってことは、」
さくらは身体もこちらに向けて、そうしてとびきりの、それこそ、一瞬で恋に落ちてしまいそうなくらいに魅力的な笑顔を浮かべる。
「私にもまだ脈はあるってことかな」
しかしその美しい笑みは春陽の間抜けな顔を見てすぐに、イタズラが成功した子供のような無邪気な笑い方に変わった。
「なーんて、ね。それじゃ」
さくらはドアを開くと、ドミノの最後のひとつを置くときみたいに慎重にドアを閉じた。それはまるで少しでも勢いをつけてしまえば、何かが壊れてしまうかのように。
春陽はゆらゆらと自分の席に着き、右隣に目を向ける。たった今でていった人が主であるその席は、やけに空虚に映った。
しかし、そんなもの寂しさも長くは続かなかった。
たったったったか、と忙しない足音が聞こえてきてバン、と勢いよくドアが開く。
「おにぃちゃん!」
「あぁ、奈巳夏か」
「あぁ、じゃないよ! まったくナミカを置いていくなんて、すっとこどっこいだよっ」
突然のやかましさに頭が痛くなりながらも、どこか安心してしまっている自分がいる。
「それで、なんで先に行ったの?」
ずんずんと近づいてきた奈巳夏に至近距離から問い詰められる。
さくらが早朝を指定してきたのは、奈巳夏を振り切るためだろう。授業中以外は基本的に春陽と奈巳夏は一緒にいるから、2人きりになるのはかなり難しいのだ。
「まあ、あれだ。兄は常に妹の先を行かなくてはならないからな」
「むっ、たしかに。むしろこれは先に行くおにぃちゃんの背中を見失ってしまったナミカの落ち度。ぐぬぬぅ、プロ妹道はやっぱり険しい」
プロを目指すならもっと良い道を歩んで欲しいものだが、誤魔化されてくれたのでよしとしておこう。
「ときに奈巳夏」
我がもの顔で春陽の隣の席に座る奈巳夏に声をかける。
「ん、どしたの?」
春陽にはやらねばならぬことができた。石行さんへの告白だ。
ところがそう決めたのは良いものの、正直どうしたらいいのかわからない。ここは素直にアドバイスを貰うべきだろう。
「これは友達の友達の話なんだが」
「むっ、おにぃちゃんに友達……?」
「そこに疑問をもつんじゃない。俺にだって友達くらい……友達、くらい……こほん。
これはクラスメイトの友達の話なんだが」
「おにぃちゃんの闇を垣間見ちゃった気がするよ……」
春陽はコミュ障というわけではないけれど、如何せん奈巳夏がべったりなおかげで、他の人たちとの関係は必然的に希薄になってしまうのだ。正直、友達と呼べるほどの関係を築けている人はいない。
「とにかくそいつに好きな人がいて、なんでも告白しようとしてるらしんだ」
「ほへぇ~、というかおにぃちゃんが恋バナなんて珍しいね」
「俺ももう高校二年生だからな。そういう浮いた話が増えてくるのものだろ」
「ふむ。たしかに。でもさ、ナミカの恋愛経験なんておにーちゃんしかないから参考にならないと思うよ?」
「……だとしても、奈巳夏なら告白された経験がいっぱいあるんじゃないか?」
急にでへへぇ~と得意げな顔する奈巳夏。ウザったいが、図星ということだろう。
「おにーちゃんはナミカがたっくさん告白された経験があると予想するくらいに可愛いと思ってるんだ」
前言撤回。図星というわけではなかった。
「……一般的に告白は女性の方がされる割合が高いからそう思っただけだ」
「ふーん、そっかそっか。おにぃちゃんはナミカを女として見てるっと」
何を言っても好意的に解釈する無敵モードに突入したので春陽は口をつぐんだ。
「えっと、それでナミカが告白された経験についてだけどね」
相変わらずニヤニヤとしているが、答える気はあったらしい。
「おにぃちゃんのお役に立てないのは誠に遺憾なんだけど、ナミカは誰にも告白されたことないよ」
「え? そうなのか。でも俺は奈巳夏のこと好きって言ってるやつ、少なからず知ってるぞ」
「ん? いまなんて?」
奈巳夏がスマホを手にしながら聞き返した。
「俺は奈巳夏のこと好きって言ってるやつ、少なからず知ってるぞ」
「ん? ごめんごめん。言ってるやつの前だけ聞こえなかった、そこだけもう一回」
「俺は奈巳夏のこと好き……ってなに言わせてんだよっ」
パシリと奈巳夏の頭をはたくも、満面の笑みを浮かべている。
スマホの画面にはボイスレコーダーのアプリが表示さえていた。
まったく、奈巳夏と会話するとなかなか話が進行しなくて困ったものだ。
「あぁ、でも告白されたことはないけど、告白未遂なら何度かあったかな」
「なんだそれ」
未遂とは基本的に良くないものに対して使われる。奈巳夏にとって告白とは悪なのだろうか。
思い返してみれば、さくらは告白されて嬉しいと思ったことはないと言っていた。実は迷惑な行為だったりするだろうか。だとすれば石行さんへの告白しようとしている春陽も、もしかすれば……。
いやいや。もしも告白が人を傷つける刃であるならば、こんな学生の一大イベントに代表されるようなものになるはずがない。少なくとも自分は大丈夫なはずだ。
「ほら。やっぱり乙女からすればさ。なるべく多くの初めての思い出は好きな人とのものにしたいじゃない? もちろん告白されるっていう初めても好きな人からされるのが良いわけだよ」
春陽が迷っている間にも、奈巳夏は持論を展開する。
「うーん。言いたいことはわかるけど、告白されるのは受動的な行為だし、初めてをコントロールするのは難しくないか?」
「ところがどっこいぎっちょんちょん。そうでもないんだよ」
揚々と話を続ける。
「簡単な話だよ。ラブレターはとりあえず破り捨てるし、男子と2人きりにならないようにする。もしそれでも告白されそうになったときには相手が告白を言い終える前に黙らすか、全速力で逃走する」
黙らすて。奈巳夏のことを好きになってしまった全国の男子諸君が気の毒にも思えるが、こんなやべぇやつに未練を残すだけ無駄なのでむしろ救われているのかもしれない。
「むぅ。なんか今すごく失礼なこと考えてない?」
「もともと俺たちに失する礼なんてないだろ」
「それもそっか。親しき中にも礼儀ありなんて言葉、ナミカからすればただ親しみが足りてないだけって思っちゃうもんね」
それはそれととしても、奈巳夏は礼を学んだ方がいいと思うことがしばしばある。なぜならば時折、誰彼構わず噛みついてヒヤリとする場面があるからだ。例えばそう、こんな風に――。
「あっ……妹ちゃん?」
まるで春陽と奈巳夏だけを包んでいた大きなしょぼん玉が弾けたみたいに、春陽のものでもなければ奈巳夏のものでもない声で発せられたその言葉を皮切りに急激に喧噪が耳に届く。
どうやら奈巳夏と話をしている間に、多くの生徒が登校していたらしい。朝礼が始まるまで、もうそう時間もない。
となれば当然、奈巳夏が今座っている場所、春陽の隣の席の主も戻ってくるわけだ。
それまで目の前の少女が発していた雰囲気が嘘みたいに急激に温度を失っていく。そしてそれは、登校したてで持て余した元気による熱で暖まり始めていた教室にも伝播していく。
ただならぬ空気の発信源――奈巳夏にクラスの視線が集まっていく。しかし有象無象との視線と奈巳夏のそれが交わることはなかった。
なぜならば奈巳夏はしゃぼん玉を破った人、つまりは奈巳夏に声をかけてきた人物、さくらを睨みつけていたのだから。
「義妹ちゃん……?!」
怒気を孕んだ声で、奈巳夏はさくらの言葉を繰り返す。いや、これは本当に繰り返せているのだろうか。
「えっと、え……春陽くんの妹ちゃんだよね?」
〝成功〟を〝性交〟と誤変換するような、致命的な伝達エラーが起きているような気がしてならない。
突然、奈巳夏はハッとして春陽の袖口を掴み、自らの鼻に当て、すぅーっと匂いを嗅いだ。そしてさくらと春陽の袖口を交互に見ると、手を口に当て、ぶつぶつと呟く。
「昨夕の下駄箱……今朝の密会……」
加速する思考。導かれる真相。
「ナミカを義妹と呼べる日なんて来るわけないでしょ!」
春陽がラブレターを貰ったことも、今日の朝の出来事も、きっと全てを理解したのだろう。においで春陽がさくらと会っていたことがわかるって冷静にどうなってるんだと言いたくなる気持ちはあるけれど。
大きな声で怒鳴る奈巳夏。茫然とするさくら。そして……クラスメイトからの視線は、とても冷ややかだった。
当然だ。クラスの、いや学校のアイドルとも言えるさくらを、あろうことか後輩が牙を向けているのだから。
兄バカな妹と嘲笑っているのだろうか? でも大切にしていた人が、突然他の人間に取られる……つまり、春陽が誰かと付き合ったとき、仲の良い妹としては面白くなくて当たり前だ。
奈巳夏を責めたてる空気に春陽の気が立っていく。
春陽が一歩踏み出そうとした瞬間、ギロリと睨む鶴見の視線に気が付き、立ち止まる。
びびったのではない。省みたのだ。
この間も同じような雰囲気になって考えなしに飛び出した結果、事態は収拾するどころか加熱していった。
それに今回に関しては普通に奈巳夏が悪いだろう。
冷静になるために、ひとつ深呼吸をした。
「だいたいあんたみたいなぽっと出の女がおにぃちゃんに……むぐぐ、もがもが……」
春陽は、尚もさくらに突っかかる奈巳夏の口を塞ぐ。
まるで映画で誘拐犯にハンカチを口にあてがわれた被害者のようにぐったりと奈巳夏は気を失う。
おにいちゃんに……背後、から……抱きつかれた……――といううわごとが聞こえたような気がするが無視する。
「悪い、さくら」
「私の方こそ、なにか悪いこと言っちゃったのかな?」
「えーっと、それはだな……」
春陽は考える時間を稼ぐため、ひとまず奈巳夏を自分の席に座らせる。
過去を変えることはできないけれど、過去の解釈は変えることができる。奈巳夏のしでかしたことは取り消せずとも、それに意味を与えることができれば印象は変わるだろう。
ゆっくりとさくらの方に向き直る。先ほど告白されたばかりの女の子と改めて向き合うことの、むずがゆさが急にやってくる。それはさくらも同じだったようで、顔を赤らめていた。
「きっと奈巳夏は俺の〝道鋏春陽の妹〟って見られることが嫌なんだと思う」
春陽の説明にさくらは首を傾げる。
「だから妹ちゃんって呼ばれたのが癇に障ったってこと?」
「そういうことかな」
しかしさくらの首の角度はさらに傾く。
「それって同類にされたくないとかそういう話? でも仲が悪い兄妹ならわかるけど、2人は違うでしょ」
「こんなこと人様に堂々と宣言するのは気恥ずかしさがあるけど、そうだな、俺と奈巳夏の仲は良いといえるだろう」
「なら、どういうこと?」
背もたれに身体をあずけ、ぼへぇーっとしている奈巳夏を横目にさくらは問うた。
「妹って呼び方は俺ありきの呼び方だろ。そうすると奈巳夏のことを個として見てくれたないって感じがしないか?」
春陽の説明に、事の成り行きを遠巻きに見ていた野次馬たちも少しだけざわついた。それは自分に当てはめても思い当たる節のある人が多いのだろう。
私を見て欲しいのに誰かの付属品として見られてしまう、もしくは集団としてしか見られていない、そんな経験が。
実際、いま怒った直接的な原因は違うだろう。しかし、奈巳夏もそう感じたことはきっとあるはずだ。
「春陽くんは優しんだね」
「どうしてそうなる」
惚れた弱み、なんて自分で言うのは面映ゆいけれど、春陽のことを必要以上に美化してしまっているのではなかろうか。
「だって奈巳夏ちゃんのことをよく理解して、守ってあげてるんでしょ。これが優しさじゃなかったら、この世は悪の純度100%だよ」
「……兄として当然のことをしてるだけだ」
「ふふっ、当然のことを当然のようにできる人ってどれくらいいるんだろうね」
狭い人間関係のなかで生きてきた春陽と違って、多種多様な人と繋がってきたであろうさくらの発言には重みがあった。
彼女は悲しそうに息を吐く。
「春陽くんのこと嫌いになろうと思ってたんだけどな……」
「えっ? いや当たり前、だよな」
これで、それは悲しいことだと思ってしまうのはあまりにも身勝手だろう。近づこうとしてきた相手を突き放したのは春陽の方なのだから。
叶わなかった恋を求め続けるのは辛いこと。さくらからしてみれば、いっそのこと嫌いになってしまった方が、その苦しみから逃れることができる。
「あっ、ちがうの。これは、その、春陽くんのこと嫌いになりたいんだけど、本当はなりたくないっていうか……。ごめんね、何言ってるのかわからないよね」
あたふたとする彼女の様子は、焦りを簡単に読みとることができる。しかし発せられた言葉の意味はなんだか哲学的な話にも思えて難解だった。
「その、ほら。初恋の呪いの話をしたでしょ」
どうしてその話を蒸し返してきたのかはわからないけれど、春陽は頷き、続く言葉を待つ。
「一回嫌いになって、それからもう一度春陽くんのこと好きになれば、その呪いも解けるかなって」
ドクン、と春陽の心臓が大きく高鳴る。それは彼女の魅力に触れたしまった興奮か、振ってしまった後悔か。
「でも、私の初恋はまだ終わらないみたいだ」
楽しそうに、あるいは苦しそうに。本来、交わることのない感情が溶け合う。
春陽は自分の心臓に手を当てる。鼓動が速くなるのに反して、時が進むスピードはゆっくりであるように感じられた。時間はあげるから外れたルートを正しいルートに戻せと言われているかのうに。
それでも体感時間に関係なく、世界の時間は平等に残酷に、淡々と時を刻んでいく。
――キーン、コーン、カーン、コーン……
学生なら誰しもが、その鐘音に反応せざるをえない。実体のないはずの自分の精神を掴まれたような不思議な感覚とともに、急激に現実に戻されていく。
そしてそれは春陽だけではない。
「ラブコメの匂い、いや、臭いがする!!!」
春陽の椅子をがらがらどっしゃーん、と突き飛ばしながら、奈巳夏は勢いよく立ち上がる。寝ている間に燃料をくべられていたのか、起き上がると同時に暴走列車が発車する。
止めようと春陽の身体が動き出すよりも早く、奈巳夏との間に滑り込んだ人がいた。
「ごめんなさい! 奈巳夏ちゃん! 私、なにも知らないで」
さくらに頭を下げられ、たたらを踏む奈巳夏。
おにぃちゃん、なにを言ったの? と視線で訴えてくるのを素知らぬ顔でそっぽを向くことで回避する。
「ふんっ、なにも知らない人が、ナミカとおにぃちゃんの時間を邪魔しないでよね」
「それは……できないよ、だって――」
奈巳夏に近づいたさくらは耳元でぽしょぽしょと囁いた。
「……なっ!」
奈巳夏の驚きの声とともに、さくらが奈巳夏から一歩引く。奈巳夏は口をぱくぱくとさせたのち「や、やっぱり……!」とつぶやいた。
奈巳夏がさくらに詰め寄ろうとしたところで、教室のドアが開かれる。
「おーい、お前ら、席に着け。……って、おいおい道鋏奈巳夏。とっとと自分の教室に戻れ」
朱宮先生の言葉に、奈巳夏は、ぐぬぬ……と歯ぎしりをして反抗の姿勢を見せるも流石にそれ以上突っかかることなく、さくらの横を通り過ぎた。
「またあとでね、おにぃちゃん」
と言って教室を早足で出て行った奈巳夏に、春陽は上手く返事をできなかった。茫然としてしまっていたからだ。
――私は春陽くんが好きだから。振られちゃったけど、諦めるつもりはないよ。
さくらが奈巳夏にそう囁いたのが春陽にも聞こえてしまった。次から次へと放たれるさくらからの好意の弓矢に、春陽の身体は串刺しにされる。もはやいつ急所を射抜かれてもおかしくはない。
「春陽くーん、先生が睨んでるよーっ」
小声でさくらに呼びかけられた春陽は慌てて席に着く。盗み見するように右に目を向けると、バッチリとさくらもこっちを見ていて、春陽は慌てて目を逸らした。
「今日はこのあと1組と合同で体育だ。男子はバスケ、女子はプールだからな。桜紙と他にも忘れ物があるヤツは朝礼後すぐに言いに来るよーに」
「ちょっとセンセー! なんで私だけ決めつけてるんですか!?」
さくらのツッコミにクラスメイトたちはどっと笑う。
「なんだ、ちゃんと持ってきてるのか?」
「今日のプールが楽しみで、昨日は一日中プールのこと考えてましたから。流石に忘れないですよっ」
さくらは机の脇にかけたビニールの巾着袋を掲げて中を確認する。
「えーっと、水着、タオル、帽子でしょ。それからゴーグ…………ゴーグルくんが、ない!?」
しゃー! とどこかで男子の雄叫びがあがる。声の主はスキップでさくらに近寄り、ゴーグルを手渡した。方々で悔しそうな顔が浮かび上がる。
これは『今日の忘れ物なんだろな』というさくらが在籍するクラスでは定番のゲーム。毎日忘れ物をするさくらが何を忘れるのかを予想し、それを余分に持ってくることでさくらに物を貸すことができるのだ。
男子からも女子からも絶大な人気を誇るさくらから感謝されるという栄誉のために、みな今日も自分のカバンを重くする。
いつも通りのクラスの光景に春陽の心も段々といつも通りを取り戻してきた。
いくつか朱宮先生からの連絡事項があり朝礼が終わると、クラスメイトはぱらぱらと移動を始める。春陽も体操着をもって男子更衣室へと向かう。
しかしこのタイミングで1組と合同で体育とは。1組は石行さんが在籍するクラスだ。もちろん、女子とは別なのでお目にかかることはないのだけれど。石行さんの水着姿が見たいなんていう男子高校生らしい願望はひとまず置いておいて、もしかしたら石行さんのクラスメイトから何かしらの情報を聞き出せるのではないだろうか。
問題があるとすれば1組に友達がいないことか。下手に石行さんのことを聞き回って、それが本人に伝わってしまうのは避けたいところだが、そのために誰に聞くべきかというのはまるで見当がつかない。いや、そもそもこんな詮索するみたいな真似はよくないか?
そんなことを考えながら、半袖の体操着に袖を通すと、背中に誰かの肩が当たった。振り返り、その人物を見る。
とにかく顔がいい。同性でもそう思ってしまう。日本人とは思えない洋風の彫りが深い顔に金色の髪があまりにも似合っている。それに顔だけではない。男子高校生の平均を10センチ以上超える身長も、力強さと伸縮性を兼ね備えた筋肉、すべてが高スペック。そんな男子の理想の権化。
果たしてそれは渡りに船なのか、わからないけれどとにかく1組の生徒だった。
「あぁ、すまない。考え事をしていてぶつかってしまった。キミは……」
ソイツは春陽の顔を見ると少しだけ驚いたような顔を見せた。
「道鋏君、か」
「よく俺の名前を知ってたな」
「ん? それはそうだろ」
「えぇ、喋ったこともないやつの名前を覚えてるのって当然なのか」
春陽の言葉にまたも狼狽している。
「あれ、もしかして俺と友碇って話したことあったけか?」
友碇 涼友。それが彼の名前だ。
「いや、まあ、あるというかなんというか……いや、そうか」
完璧超人のイメージが強い友碇が口ごもるというのは、中々レアなシーンなのではないだろうか。
「というか道鋏君だって、僕の名前知っているじゃないか」
「そりゃあ友碇は有名人だからな」
その微笑みは黄色い歓声を喚起し、その頭脳に教官は感心し、その身体能力はどんなスポーツでも一貫して完璧にこなす。
ひとつでも持っていれば学生時代を無双できると言っても過言ではない才覚を3つも兼ね備えた人間。学校の生徒に疎い春陽でも知っている。
「有名人、ね。それでいうとキミも相当なものだよ。主に妹さんの影響で」
高校生にしてべったりな兄妹がいれば自ずと目立つというもの。それも妹の方は美少女ときたものだ。
「まったく困ったものだ。俺は普通の学校生活を送りたいのに」
「ははっ、賑やかそうでいいじゃないか。……あ、そうだ」
そういえば考え事をしていてぶつかった、と友碇は言っていた。
「急で悪いんだが、少し相談に乗ってくれないか」
それの解決方法が、この相談なのだとしたら……なぜだろう、彼とは関わりたくないと本能が叫んでいる。
「俺が友碇の相談に乗れることなんてないと思うが?」
これは彼を避けたいから言っているのではなく、本当のことだ。春陽が彼に勝っているところなどないし、親身になれるほど親しい間柄でもない。
「いいから頼んだよ。人がいるところだと話しづらいし、そうだな、放課後に屋上で」
春陽の肩をぽんぽんと叩くと、1組の友達のところに合流し更衣室をでて行ってしまった。断る隙もなく、いや、実際にはあったのかもしれないけれど、断れなった。これがスクールカーストの頂点に立つものの特殊スキルなのかもしれない。
結局、友碇は渡りに船などではなく、むしろ春陽が船になってしまったのかもしれない。友碇なんていうデカすぎる存在を乗っけてしまえば、ズブズブと沈んでいってしまう気がしてならない。
どこかに春陽を乗せてくれる船はないのだろうか。着替えが終わった春陽は救いを求めるように、むさくるしい男子更衣室をあとにする。
狭い部屋からでた解放感により、思考も視界も広がりを見せた。換気のために開いていた廊下の窓からそよそよと風が吹き、頬を撫でる。
なかなかの心地よさではあるものの、遠くの空は灰色で雨が振ってもおかしくないような天気だったので窓を閉めようと近づき、手にかける。
すると窓際からしか見えない景色、つまるところ校舎の壁際が視界に入る。
美化委員会がお世話をしている花壇にアバカンサスが咲き誇っている。どんよりとした空気になりがちなこの季節に、さわやかな清涼感を与えてくれる青の花びらたち。しかし春陽の目はそんな花々よりも華々しい存在を捉えた。
「石行さん……!」
なんだか様子がおかしい。いや、様子だけではない。今この時間に石行さんが中庭を歩いているという事実がもうおかしい。
春陽は更衣室からでた男子たちが向かう方向とは真逆に走り出す。大いなる流れに逆らうことに罪悪感はある。しかし同様に石行さんも女子が行くべき屋内プールとは真逆の方に歩いていっている。
この学校は進学校だ。授業を平気でサボるような生徒がいれば、すぐに噂になる。つまり、そんな話を聞かない石行さんは普段を授業にちゃんと出席している生徒ということ。
石行さんは制服を気崩し、髪も金に染めて、口調も鋭くて、不良っぽい印象を抱きがちだけれど、根は真面目であるはずだ。
なぜならば春陽はいつもその名前を見上げているからだ。テストの度に順位が張り出される掲示板、その頂点に君臨している石行華という三文字を。
この学校で一番の成績というのは並大抵の努力では成し得ない。そんな彼女が授業をサボる。今、春陽を苛んでいる罪悪感を打ち破るほどの何かが彼女をそうさせているということだ。
下心がないと言ったら嘘になる。それでも、見てしまったからには放っておけない。
中庭からアバカンサスを横目にさっき石行さんが行った方に向かう。校舎を囲む木々と校舎の壁に囲まれ、周囲よりも薄暗くなっている場所までやってきた。
「石行さん!」
荒野に咲く一輪の花。影が落ちるこの場所で石行さんを形容する言葉としてそれは相応しい。けれど今は文字通りの黄色の花がポツンと咲いていて、それを石行さんが近くでしゃがんで見ていたのだ。
驚いた顔で振り向いた石行さんは、しかし春陽の顔を見た瞬間に目を細める。
「えっと……あんただれ?」
で、ですよねー……。やはり石行さんは春陽のことを認知していなかった。だというのに、こうしてヒーロー気取りでやってきてしまうイタさが今さらながらやってきた。
だが、ここまで来たらもう引き返せない。
「2組の道鋏春陽だ。ほら、この前下駄箱で……」
じーっと、ともすればガンを飛ばしているようにも見える顔つきで春陽の顔を見ていた石行さんは、あぁ、と思い出したように顔を緩めた。
「シスコ――」
「断じてシスコンではない」
言葉を遮られ、むっとする石行さん。
「その、あのときはありがとう」
「は? なにが」
突然礼を言われ、石行さんは警戒するように立ちあがりこちらに身体を向けた。
「ほら、俺たちが喧嘩してるところに割って入ってくれただろ」
「あんたらのためってか、フツーに邪魔だったから」
「それはとんだご迷惑を……ありがとうより、ごめんなさいが適切だったか」
「べつに。それに詳しい事情は知らんけど、悪いのは鶴見とかいう女の方でしょ」
春陽が冷静だったならば少なくとも騒ぎにはならなかったから一概にはそうとも言えないところはある。
「つか、それよりさ」
石行さんが言葉を区切り、人差し指を立てたのと同時に始業のチャイムが響く。その音に驚いた雀が慌てて飛び去っていく。
「授業でなくていいワケ?」
「それは石行さんもそうでしょ」
「なに、不良な生徒をとっちめにきたってこと? 随分な正義感だね。ウケる」
「いーや」
春陽は校舎の壁まで歩き、それを背にして座った。石行さんは訝し気な表情で立ちすくんでいる。
「いや、なにしてんの?」
「見ればわかるだろ。授業でるのが面倒くさくて、ここでこうしてサボってる」
春陽の気の抜けた態度を肯定してくれるみたいに、そこらへんにある信号機からピヨ ピヨピヨと平和なひよこの声が聞こえる。
「それなら、ここでサボる必要ないでしょ」
「赤信号 みんなで渡れば 怖くない」
「はぁ?」
「ひとりでサボる勇気はないんだよ」
「なにそれ、だっさ」
思った以上に好きな人からのダサいという言葉は心にダメージがあって、顔が引きつりそうになるのを必死にこらえていると、石行さんも校舎の壁まで移動して腰をかけた。当然、春陽の隣ではなく5人は間に座れそうなくらいの距離感。
距離を詰めようにも2人の間は静寂で埋まっていて、春陽にはそれを打ち破る言葉も行動力も持ち合わせていなかった。
でも、こうして横に並べているだけで大きな進捗かもしれない。それに石行さんがどう思っているかはわからないけれど、そんなにこの沈黙も悪くはないと思えた。
みんながあくせくと授業を受けているなかで、こうして何をするでもなく外で過ごしていることのトクベツ感がそう思わせてくれているのかもしれない。
この非日常感はゲレンデマジックに似た奇跡を起こしてくれるのではないだろうか。そんな期待に応えるかのように、石行さんが口を開いた。
「やっぱ、あんた邪魔なんだけど。ひとりにしてくれない?」
ここまでの春陽が積み上げた思考の壁をワンパンで瓦解させる強烈なひとこと。いや、それはそうか。よくわからん男が傍にいては、休まる心も休まらない。
ここで居座ってしまえば、エゴを加速させるだけだ。結局、春陽は何をしにきたのかわからないけれど、意味不明な人間の登場で、ひとときでも石行さんを悩ましているものの正体を忘れ去ることができていたことを願うばかりだ。
すっくと立ち上がり、尻に付いた砂をパンパンと払う。
「あ」
チリン。
春陽のポケットから落ちたそれが鈴音を響かせる。
聞き覚えがありすぎるであろうその音に、石行さんも反応し春陽の足元を見る。そして瞬時にばっと立ち上がる。
返そう返そうと思っていて返し忘れ続けたツケが今やってくる。
「はぁ!? なんであんたがそれ持ってるわけ」
石行さんが駆け寄り、春陽が落とした鈴付きの熊のキーホルダーを拾い上げる。
「これ、あたしんだよね? いや、絶対そうだわ」
「え、えっと……うん、ごめん」
「ごめんって……あぁ、そういうこと」
石行さんが失望したような顔で、熊を撫でる。
「え?」
「あんたもどーせ、あたしが気色悪いから、イタズラしたんでしょ」
気色悪い。それは石行さんが公言した、女の子が好きということについてだろう。
「ち、ちが――」
「べつにあたしのことはいくら馬鹿にしてくれても構わないけどさ、これは大切なものだから、こういうことしないでくれる?」
怒りではない、悲しそうに石行さんはそう言うと踵を返して歩き出す。
咄嗟に春陽が伸ばした手は、石行さんを捉えることなく空を切る。
追いかけようにも、とっとと返していれば怒らせることなかったという後悔が枷のように足を固める。
それでも、届けられるものはある。
「……気色悪くなんて、ない!」
ガサッ、と靴底が地面を撫でた。石行さんの歩みが止まる。
「俺だって石行さんと似たようなものだ」
「あんたはあたしとは違う」
立ち止まれど振り返らない背中に春陽は言葉を投げかける。
「石行さんだって知ってるだろ。俺はシスコンなんだ」
もちろん恋愛対象ではないけれど、春陽とて奈巳夏との距離感がそこらの兄妹よりも近いことを理解している。
「さっき違うって聞いたけど」
「それは……」
春陽はぐっと拳を握る。
「俺は石行さんみたいに強くないから。堂々と公言できないんだ」
「あたしが強い、ね」
石行さんは熊のキーホルダーをポケットに仕舞い、溜息を吐いた。
「もし本当に強いなら、こうして逃げてないでしょ」
「逃げる……」
一体なにから。どうして石行さんは授業から抜け出した。
普通に考えれば、シンプルで残酷な答えに辿り着く――いじめだ。
でも、ある意味で石行さんは普通ではない。たとえいじめられたとしても、きっと負けないだろう。いや、実際は春陽が思っているほど、石行さんは強くなくて、その結果が今であるという可能性がないわけではない。いじめに屈するわけがないという春陽の勝手な石行さんの理想像を押し付けているだけなのかもしれない。
だというのにそう思うのは、そう思ってしまうのは、石行さんの背中が、いつかの自分に重なって見えたからなのかもしれない。
「本当に石行さんは逃げたのかな」
「なに、知ったような口利いてんの」
石行さんが振り返ってこちらを見る。好きな人が春陽の言葉に笑顔で振り返る、なんていう理想のシチュエーションには当然ならない。顔についているのは笑窪ではなく眉間の皺だった。
「いや……俺は何も知らないよ」
超能力者でもなければ、言葉がなくても何でも察せられるような物語の主人公でもないい。
「でも、いや、だから、俺はもっと石行さんのことが知りたい」
そうすればきっと知ったような口ではなくて、本当に知った口を利けるようになると思うから。
「そ……ヘンなやつ」
どさりと石行さんは木の幹を背に腰かけ、ごそごそとポケットをまさぐる。どうやら、少しは春陽に対する不快指数を下げてくれたみたいだ。
「このキーホルダーは、2人目のおかあさんがくれたんだ」
木漏れ日に当たるように熊のキーホルダーをかかげる。張り詰めた空気はチリンという鈴音で少しだけ和らいだような気がする。
2人目のおかあさん。その言葉から察するに――
「石行さんのお父さんは……その、再婚したってこと?」
「……あんた、デリカシーがないってよく言われない?」
「本当に申し訳ありませんでした!」
春陽の日常会話のほとんどがデリカシーという概念が存在しない妹との会話だから、ついついそのノリで言葉がこぼれてしまうことが度々ある。
「ま、別にいいんだけど。それにあんたが今言ったことは見当違いだし」
「え?」
石行さんはキーホルダーをポケットにしまい膝の上で頬杖をつく。
「あたしにパパはいない」
悲しそうでも、嬉しそうでもなく、事実を淡々と述べた。
2人目の母親がいるのに、父親はいない。であるならば、両親どちらにも引き取られなかった石行さんが親戚の女性に引き取られた、ということか。
一輪の花が揺れ、甘い香りが春陽の鼻孔をくすぐる。わずかに夏の気配を帯びた風はよどみなく進み、石行さんを包んだ。
ふわりとゆるふわのツインテールを持ち上げる。春陽の角度からでは見えなかった石行さんのキレイな横顔が見えた――横顔。そういえば昨夜、それによく似た顔を見た。
瞬間、点から伸びたふにゃふにゃの曲線がもう一つの点をとらえ、ぴんとした直線になった。
違う。石行さんは親戚の女性に引き取られたのではない。
「もしかして石行さんが女の子を好きなのって、お母さんの影響なんじゃ」
勢いよく石行さんが立ち上がり、つり目が真ん丸になる。どうしてわかったんだと、訴えているのが言葉にせずともわかった。
「昨日の夜、石行さんを見かけたんだ」
「……あぁ、なるほどね」
あのカップルのような女性2人は石行さんに似ていた。おそらく片方が実の母親で、もう片方が新しい母親。同性で籍をいれることはできずとも式を挙げることはできるはずだ。
「あたしが生まれる前に両親は離婚したんだよね。ママはパパに暴力振るわれてたみたい。それで男嫌いになったママは同性愛に目覚めた。2人目のママ、亜梨紗は、あたしが物心つく前から一緒に暮らしてるの」
であるならば昨夜男性とすれ違う度に僅かに震えていた女性が実の母親、ということだろうか。男性への恐怖から、恋愛対象が女性に変わったというのはあり得る話だ。
そして石行さんが幼少の頃から同性愛者の環境で育てられたというのなら、それが常識となるだろう。
春陽がそんな風にいろんなことに気が付いていると、石行さんもなにかに気が付いたような顔をしていた。
「そういえば昨日の夜はあたしをこっそり見てて、今日はここまでやってきたってことは……あんたもしかして」
「っ!」
まずい。まさか春陽の好意に気が付いて――
「あたしのストーカー?」
「断じて違う!」
いや、言われてみればたしかに言い逃れできないくらいストーカーそのももの行為をしているのだけれど。
「あたしってば、けっこー頭いいからね。一回で学習するんだ」
「……なんのことでしょう」
「あんたの食い気味の否定は肯定ってこと」
「…………」
たしかに、さっきシスコンと言われたときに咄嗟に否定したけれど、その後に手のひらを返している。
春陽の頬に冷や汗が伝う。石行さんからの印象をあげたいのに、これでは逆方向に突き進んでしまう。
「ま、じょーだんだけど」
「え?」
「あたしが男にキョーミないの知ってるあんたが、そんなことしないでしょ」
それは、ある意味では春陽を振る言葉でもあって、わかっていたはずなのにダメージを受けてしまう。でも、これくらいで諦めてしまうなら、さくらを振ったりなんてしない。「それに、あんたはそんな悪いやつじゃないみたいだし。キーホルダーだって本当はいたずらじゃなくて拾ってくれたんだでしょ」
「それはそうだけど……忘れててすぐに返せなかったのは俺の落ち度だ」
「それでも失くしたと思ってたから、結果的に見つかって嬉しいよ。サンキュー」
これが惚れた弱みというやつだろうか。形式的なものだとわかっていても、その感謝の言葉で舞い上がってしまっている自分が気恥ずかしい。
それにしても石行さんにとっても、2人目の母親が、亜梨紗さんと言ったか、よほど大切な人みたいだ。もらったというキーホルダーを大切にしているのもそうだし、恐らく石行さんはその人の化粧や髪型とかを真似しているから。
傍から見れば反発してもおかしくないような家庭環境でも、石行さんにとっては良いものであるのだろう。昨夜もとても和やかに笑っていた。
春陽が見たことがないその家族の形はとても眩しいものに思えた。
「そんじゃ、あたしはそろそろ保健室いくわ」
「えっ、体調悪かったの?」
「いーや、でも理由もなしにサボったらあたでメンドーなことになんじゃん」
「なら、どうして始めから行かなかったの?」
「さっきひとりにしてくれない、って頼んだはずだけど?」
「……そっか、そうだった。ごめん」
一人になりたくてここに来たのに、けっきょく春陽は邪魔をしてしまった。
「べつに。案外息抜きになったし。それじゃ」
「あ、待ってよ。それなら俺も保健室に……」
「いいけど、一緒に行ったら怪しまれるし、5秒だけここで留まってから来てくれる」
「5秒? うん、わかったよ」
春陽が返事をするや否や、石行さんは走り出した。ギャルに似つかわしくないキレイなフォームの走りであっという間に角を曲がり見えなくなる。
それにしてもなんでそんな数秒で……?
すると春陽の疑問に応えるように、春陽の背後から足音が聞こえ、恐る恐る振り返る。
「おい、こんな時間にこんなところで何してるんだ」
「あ、あーっと……先生、奇遇ですね」
こうして石行さんのおとりとなった春陽は朱宮先生に連れて行かれ、お説教をくらうことになったのだった。