1-1
昨晩まで積もっていた雪からの解放を喜ぶように、乾風と一緒に枯れ葉がカラカラと軽快な音を立てながら土手を走り回っている。
横を流れる川はその寒さにぶるぶると水面を揺らしながらゆったりと流れている。だというのにランドセルを背負って歩くその少年は手袋もマフラーもしていない。それは、あるいは枯れ葉と同じく風の子である証拠にも見える。
だが、その瞳は伏せられていた。その足は引きずられていた。その手は何もつかめずにいた。
風の子でもなければ、元気な子でもない。凍てつく寒さに備えるべきものを備えていないのは、彼の怠慢、いや自罰なのかもしれない。
なけなしの力を振り絞って進むその歩みは、しかし後ろから聞こえてきた複数の足跡にピクリと反応し、止まってしまった。
「おーちた おーちた ハルヒがおちた 」
少年――道鋏 春陽を同級生たちがけらけらと笑いながら歌いつつ囲んでいく。
不快な音楽に耳を塞ぐこともせず、ただただ俯く春陽。反応を示さないことが面白くないのか、笑声は徐々に理不尽な怒声へと変わっていく。
それでもだんまりを決める春陽に、ついに男子のひとり、金色の髪をした新條が胸ぐらを掴んだ。
振り上げられる拳。
目を瞑る春陽。
ようやく反応を示したことに喜色に染まっていく集団。
その色は、みんなが楽しんでるからもっとやっていいんだという免罪符になった。
振り上げられた拳は勢いよく春陽の顔面に向かう。
「おにぃちゃんをバカにするな!!」
輪を突き破り、拳を固めた男子を突き飛ばし、春陽を守るように両手を広げたのは春陽の妹――道鋏 奈巳夏だ。
奈巳夏からすれば全員が年上。足はがたがたと震え、瞳はなみなみと揺れていた。ピンチに駆け付けた少女は頼りなさげに見えるけれど、春陽にとって間違いなくヒーローだった。
ツーサイドアップになっている白銀の髪は陽光にきらめき、神々しさすら感じられた。
春陽はそんな奈巳夏に感謝の気持ちを込めて頭を撫でようと手を伸ばす――
「ふみゃ」
ん? ふみゃ?? おおよそ頭を撫でたときの反応とは思えない奈巳夏の声。そしてなぜだかぷにぷにした手触り。
気が付けば春陽は自室のベッドに横たわっており、目の前には5年ばかり成長した奈巳夏がくぅくぅと静かに寝息をたてて眠っている。だらしなく開いたボタンからは確かな質量をもった胸が生み出す谷間がちらつき、自慢の白銀の髪は寝癖まみれになっている。
そして春陽が伸ばした手は、彼女の頬っぺたを掴んでいた。
「なんだ今までのは昔の夢か……って、なにしてんじゃーーーー!!!」
「ふぎゃっ」
大声に飛び起きた奈巳夏は、ころころすてんとベッドから転がり落ちた。
「むにゃむにゃ、どったのおにぃちゃん? ふぁ~あっ」
袖や裾がふりふりとした桃色のパジャマに身を包む奈巳夏は目を擦りながら伸びをする。
「どうしたもこうしたもあるか! なんで俺のベッドにいるんだ」
「んーっ、自然の摂理に理由を求められても……。もしかしておにぃちゃん寝ぼけてる?」
「どっちがだ!」
どこの世界に兄のベッドに妹が潜りこむ摂理があるというのだ。
しかしながら、どうしたというのだろうか。
普段から奈巳夏は高校生同士の兄妹とは思えないほどに春陽とのスキンシップが過剰である。とはいえ流石に春陽が寝ている間にベッドに潜り込むなどと言うことはなかった。
それになんだろうこの違和感は……。
「んみゃんみゃ」
「ってなにしてんねん!」
「ぷぎゃっ」
考えごとをしているのを良いことに、再びベッドに潜りこもうとしてくる奈巳夏をころころすてんと追い出す。
おにぃちゃんひど~い、と開ききっていない瞳で訴えかけてくる。
春陽はベッドの横のカーテンをパシャっと開け放つ。
「うぎゃぁ」
奈巳夏は陽光を嫌う吸血鬼のように、ベッドの陰に隠れる。どうやらよっぽど眠いらしい。そのときなってようやく違和感の正体に気が付く。
そう。奈巳夏が寝ぼけているのだ。
このふにゃふにゃと情けない姿を晒している妹であるが朝は強い。春陽よりも起きるのが遅いのなんていつぶりだろうか。
なにかあったのだろうか。昨晩、あまりの眠さに抗えず机の上に出しっぱなしのままにしていた教科書と問題集を片づけつつ考える。
いや、とりあえず顔でも洗ってこよう。春陽は朝にそこまで強くはない。まだ冴え切っていない頭であれこれと考えいたら、二度寝してしまいそうだ。
ベッドから降りて部屋を出ようとドアを開ける。
「奈巳夏?」
「置いてかないでよぉ」
振り返れば奈巳夏が女の子座りで手を伸ばし、右手でちょこんと春陽のパジャマの裾を掴んでいる。
上目遣いと甘ったるい声のダブルパンチでおねだりされてしまうと無下にするのは流石に心が痛む……こともなく、そのまま部屋を後にする。
閉じたドアから奈巳夏のうめき声が聞こえるが構わず洗面所に向かう。これが恋人であれば一考の余地もあっただろうが、なにせ奈巳夏が生まれてから今日までの16年ひとつ屋根の下で暮らしているんだ。気遣いも何もあったもんじゃない。
とはいえ……。いつもよりいくらか甘えん坊になっているのは気がかりだった。
バシャバシャと顔を洗うといくらかシャキッとした瞳の自分が鏡に映る。
いや、単に眠いから甘えん坊に見えただけか。寝ぼけてるのは、なんか面白い動画でも見つけて寝不足になったとかそんなところだろう。
タオルで拭いた顔をあげると、
「うおっ! びっくりした」
鏡には、ずーんと沈んだ顔の少女が映っていた。
「うぅ……おにぃちゃんごめんなさい」
気まずげに両手の指を弄ぶ奈巳夏。なんだ、ちゃんと反省してるじゃないか。やっぱり今日はちょっと調子が悪かっただけか。
「いいよ。次からは寝ぼけて人のベッドに入るんじゃないぞ」
「え?」
「お?」
なぜ「何言ってんだコイツ」って目で見られているのか。
「イヤイヤ、それに関しては自然の摂理だから反省してないよ」
自信満々で謎理論を振りかざさないでくれ。
「ほら、おにぃちゃんの朝ご飯の用意できてないから……」
そういうことか。春陽がリビングに行く頃には、いつも奈巳夏はバッチリと着替え終わっており、朝にしては少し豪勢なお手製の朝ご飯を並べている。
「たまにはそういうこともあるだろ」
ポンポンと頭を撫でると少しだけ表情が和らいだ。
「でもぉ~……と、とりあえずすぐに作ってくるから待ってて!」
返事をする間もなく、ばびゅーんと洗面所をでていった。本当に気にしていないのだが、奈巳夏的にはそうもいかないらしい。そもそも毎日欠かさずに美味しい朝ご飯を作ってくれていることは、春陽にとって支えになっており、返しきれないほどの感謝が積みあがっていく。
だからこれからはもう作ってあげない、なんて言われても、むしろそっちの方が釣りあい取れるというかなんというか。
春陽から奈巳夏に返してあげられるものなんて微々たるものなのだから。