わたしの大好きなひと
私には大好きな人がいる。
幼い頃、隣に住んでいたユウちゃんだ。
ユウちゃんは可愛らしい子だった。
男の子なのに大きな二重の目はパッチリとして、睫毛なんか私なんかよりずっと長くてバサバサで、右目の斜め下のほくろが魅力的。
色白にふっくらとした赤い唇が印象的で。
髪はいつもサラサラで。手足が長くて。優しくて物腰の柔らかい。
笑うとまるで天使のような子だった。
天使なんて、見たことないけど。
私は気づいたときにはユウちゃんが大好きで、一緒に幼稚園に行くようになってからは、毎日ユウちゃんと一緒にいた。
本当は男の子同士で遊びたかったのかもしれないけど、私がまとわりついてもユウちゃんは邪険にすることはなかった。
だから、ずっと一緒にいた。
毎日、楽しかった。
朝起きて、ご飯を食べて、幼稚園に行く支度を終えて、ドアを開ければユウちゃんが待っていてくれた。
そして天使のように微笑みながら、手を差し出しながら私に言うのだ。
「おはよう」
と。
私は毎朝ドキドキしながら、その手をとって
「おはよう」
と、返した。ユウちゃんの元気な声よりも、幾分小さな声で。
大好きなユウちゃん。
ずっと一緒にいたかった。のに。
小学校入学を間近に控えたある日、私は届いたばかりのピンク色のランドセルを背負って、ユウちゃんの家を訪れた。
お互いのランドセルを見せあう約束だった。
私のランドセル姿を見て、ユウちゃんのおばさんも、ユウちゃんも、たくさん
「かわいい」
と、褒めてくれた。
私のランドセルは特注品だった。その中でも素材だけでなく、細かいデザインまで指定した一級品だった。
予算を大幅にオーバーしたので、両親の他に父方母方両方の祖父母からも資金提供して貰ったけれど、それさえも誇らしく感じていた。
私は上機嫌で
「ユウちゃんも見せて」
と、頼んだ。
「ユウのはね、形がランドセルじゃないのよ」
おばさんが見せてくれたのは、ランドセルのように背負うための肩ベルトがついている、茶色い鞄のようなものだった。
「これは指定鞄なんだよ」
背負ったユウちゃんの姿に、子供ながら違和感を感じた。
指定鞄って何?
そう尋ねる前に、私の黄色い通学帽とは全く違う、白い帽子をかぶって私に告げた小学校の名は、全く知らない私立の小学校だった。
私は幼い子供らしく、自分と他人の世界は全く同じだと思いこんでいた。
私が公立の小学校に通うのと同じように、ユウちゃんも公立の小学校に通うことを疑いもしなかった。
だけど優等生のユウちゃんは、私の知らないうちに、私とは全く別の道を選んでいた。
私の知らないところで、小学校受験のためにコツコツ勉強をして、そして見事に合格を勝ち取っていた。
思い返せば、小学校入学を楽しみにしている私とユウちゃんの会話の中で、同じように見えて、いくつも噛み合わない部分があった。
そこに疑問を持たなかったのは、やはり、自分と他人の世界が同じだと言う思い込みの補正があったのだろう。
私はこれをきっかけに、他人も自分と同じようにそれぞれの世界の主役だということと、他人の世界では自分は脇役に過ぎないことを知ったのだった。
小学校入学の日。
本当はドッキリで、ユウちゃんは私と同じ小学校の入学式に出席するのではないか。
そんな期待を胸に家のドアを開けたけど、そこにユウちゃんの姿は当然なかった。
母の話では、ユウちゃんの学校まで電車通学で数十分かかるため、私の登校時間よりもずっと早く家を出たらしい。
分かっていたのに、私の落胆は大きかった。
入学式が始まって、一人一人名前が呼ばれ返事をする。
どのクラスにもユウちゃんの名前がない。
やがて全新入生の名前が呼ばれ終わったが、やはりユウちゃんが呼ばれることはなかった。
その日を境に、私とユウちゃんの距離は離れていくことになる。
小学校三年までは、少なくなったとはいえ、帰宅してからお互いの家に遊びに行くことはあった。
私の知らない学校での話を聞くのは寂しかったけど、ユウちゃんのキラキラの笑顔を見ていると、新しい環境で勉強も友人関係も順調なのが解って、私も嬉しくなるのだった。
私も、それなりに充実した生活をして……いや、違う。
私の方は、まるで幼稚園の延長のような生活。
学校までは歩いて10分。見慣れた生活の一部でしかない場所だった。
幼稚園からの友人が学年にたくさんいたから、友人関係で困ることもない。
それはそれで安定した、恵まれた環境なのだろうけど。
入学に胸おどらせたその感動が冷めるのも早かった。
私の話はユウちゃんのような目新しさも特別なものも何もない、ごくありふれた日常。
ユウちゃんとの時間は楽しかったけど、そんなつまらない話を楽しそうに聞いてくれるユウちゃんの姿に、二人の日常が遠く離れていくこと感じて切なくもあった。
中学にあがると、ユウちゃんはバスケ部に、私は書道部に入った。その上、成績がちょうど中間辺りをフラフラしていた私は、高校受験に備えて塾に行かされる羽目になった。
そんなこともあって、それまでのようにマンションの廊下でばったり出会って立ち話することもなくなり、ユウちゃんは遠い存在になってしまった。
せっかく隣に住んでいるのだから、時にはベランダ越しに話すことができればよかったけれど、ベランダに出てくるのはタバコを吸いにくるおじさんだけだった。
スマホがあれば。
もっと頻繁にコミュニケーションがとれるのに、我が家の方針は「高校入学まではスマホは不用」で、買って貰えなかった。
正直、これは普段の友人との付き合いでもかなりの痛手だったけど、
「ゲームでさえダラダラやって勉強しないのに、スマホなんて買ったらどうなることか」
と、スポンサーに言われてしまえば、どうしようもない。
私の信用度が倒産寸前の会社の株程度の底辺であると悟り、ゲームを封印して勉強に力を入れてみたが、1ヶ月も持たなかった。
でも私が悪いんじゃない。
限定コラボイベントなんてあるからだ。
ちょっとのつもりがあとの祭りとはよく言ったもので。
無課金勢としての最大の報酬をゲームで得た代わりに、私の信用度は『倒産寸前』から『倒産』にまで綺麗に落ちたのだった。
一度は神も仏も呪った私ではあったけど。
捨てる神あれば拾う神ありともよく言ったもので。
私はひょんなことから、スマホをゲットすることに成功した。
あれは、中学一年の秋のこと。
書道部の校外活動として、都心の書道展を見に行った時だった。
高層ビルが立ち並ぶ姿の美しさに圧倒され、ぼんやりと眺めている間にはぐれてしまった。
土曜日ということで人も多く、私は先生と他の部員が道をまっすぐ行ったのか、途中で曲がったのかも解らなかった。
完全に迷子―――中学生にもなって、なんて恥ずかしい……。
なんとか連絡をとろうとしたが、私はスマホを持っていない。あたりには公衆電話なんてない。
誰を頼ればよいのか。頭をフル稼働して考える。
交番?どこにあるかも知らない。
目の前に、お茶屋さんがあった。
私はそこに助けを求めた。
お茶屋さんのご主人は優しい人だった。
私が迷子で、連絡手段を持たないばかりか、探している相手の電話番号も解らないことを伝えると、ネットで中学校の電話番号を探してくれて、学校から顧問に私の居場所を連絡してもらうよう手配してくれた。
迎えを待っている間、温かなお茶と金平糖でもてなしてくれて、私はすっかり落ち着いてお茶をいただいていた。
今となってはいい思い出だけど、もちろん「合流できてよかったね」で終わるはずもなく。
帰宅して、両親からは私の粗忽さをしこたま怒られた。
ただ、私が皆と同じようにスマホを持っていれば、あちこちさ迷うことなく合流できたのも事実で。
この一件で、我が家の常識は「連絡ツールがないと周囲に迷惑をかける可能性がある」に変わり、翌日にめでたくスマホを与えられることになったのだった。
スマホをゲットして、一番にしたのはユウちゃんとの電話番号の交換だった。
SNSにも登録した。
ネット上に存在しているユウちゃんの全てと繋がった。
毎日メッセージを交換して、投稿をチェックして『いいね』を押しまくって、お陰で自分の学校のことよりユウちゃんの学校の行事の方が詳しくなった。
母は私がスマホに夢中になっていることを冷めた目で見ていたけど、特に注意されることはなかった。
成績が中の中から、中の中の上くらいに上がったからだと思う。
自由に連絡ができるようになって、またユウちゃんとの距離が縮まった。
休みの日には一緒に出かけるようになった。
買い物に行ったり、映画やカラオケに行ったり。
デート……だったらよかったけど、そこまでの進展はない。あくまでも幼馴染み同士の付き合い。
この頃のユウちゃんは、可愛らしさにバスケ少年らしい格好よさも加わって、一段と目を引く美少年になっていた。
背もずっと高くなっていた。
それなのに恋人も好きな子さえいないと言い、私といることが楽しいと笑顔で抱きついては、私の心をえぐったり高ぶらせたりする無自覚な人たらしだった。
ユウちゃんの家は共働きで、おばさんも忙しい人だった。
夜まで大人がいないから気が楽ということで、ユウちゃんの部屋にもしょっちゅう遊びに行った。
意外にも、部活で一年生ながらもレギュラー争いをするような熱血ぶりを発揮する一方で、ユウちゃんは可愛らしいものが好きで、料理や家事をこなすという家庭的な一面があった。
勉強机の隣にはユウちゃん専用のミシンがあって、身の回りの小物を作るのはお手のものだった。
私が気に入ったものは、何でも譲ってくれた。
学校が違うから知られていないけど、私とユウちゃんが使っている通学用のサブバッグは、ピンクと水色の色ちがいで、お揃いだ。
あまりにも素敵なバッグなので、中1の夏休みの家庭科の自由作品に提出したら、家庭科の先生に絶賛され、しばらく展示されてしまった。
つまり、それだけユウちゃんの縫製の技術が素晴らしいってこと。
中学生の私はまだまだ子供だったけど、ユウちゃんは大抵のことを一人でできるようになっていた。
ユウちゃんの家に行けば、いつも手作りのおやつで歓待してくれたし、時にはユウちゃんの手作りの夕食をごちそうになることもあった。
家事ができて、顔も性格もいいなんて……これで誰も言い寄って来ないのが不思議。
私立の中学生は勉強に忙しいから、色恋沙汰には無関心なのか。お陰で私は、誰よりもユウちゃんのそばにいられるのだけど。
なーんて自分の幸運にぬくぬく浸っていたんだけど、やっぱり神様は意地悪なのだった。
転勤――サラリーマンの宿命。
私の平穏は、父の転勤によって無惨にも打ち砕かれた。
「いやだぁ~。いぎだぐないぃ~。ごごにのごるぅ~」
「何馬鹿なことを。9月からは向こうの中学に行くんだからね」
「おねがいじまずぅ~。ごごでひどりぐらじざぜでぇ~」
「子供が何を言ってんの!何の生活力もない中学生に、一人暮らしなんかさせるわけないでしょ!!」
私の渾身の土下座も、母には全く効果がない。無念。
涙と鼻水を垂らしながら見上げた母の表情は、いかにも「そんなくだらないことを言っている暇があれば英単語の1つでも覚えろ」と言っているような、般若の顔だった。
私の父は東京に本社を置く会社の商社マンだ。
日本国内だけでなく、海外にもあちこち飛び回っている。
何の因果か知らないが、国内の新規生産者を開拓するとかで、わざわざ九州に新たな拠点を作り、その先鋒部隊に選ばれたとかで。栄転という話らしい。
なーにが、栄転だ。
東京の本社にいた人間が九州に行って、一から会社を作るって、本当は厄介払いなんじゃないの?
父は見た目に人の良さが溢れだしてしまっているような、のほほんとした人だから。社内の権力闘争に巻き込まれ、貧乏くじを引かされたんじゃないかしら。
とにかく、引っ越しは断固反対。
帰宅した父に、なんとか単身赴任で手を打ってもらえないか、直談判するつもりだった。
けど、転勤が決まってからの父は、毎日忙しそうだった。
帰宅できない日もあったし、帰宅しても夜遅かったり、顔を合わせても疲れきった様子で、とてもじゃないけど「単身赴任、おけ?」なんて聞ける雰囲気じゃなかった。
結局、私の天国ライフは中2の夏で終止符を打ったのだった。
私にとって唯一の救いだったのは。
幼なじみという関係が、スマホという手に収まる程度の存在によって、細く長く繋がっていたこと。
関東と九州。物理的に遠距離になってしまっても、私たちの友情は続いていた。
離れてみて、つくづくユウちゃんの国宝級の魅力を実感した私は、少しでもふさわしい女性となるべく、料理や手芸にも挑戦することにした。
結果、連戦連敗を続けたわけだけど、そんな私の報告にも、ユウちゃんの温かな励ましの言葉が届くのが何よりも嬉しかった。
そうして中学時代は過ぎ、高校入学。
ユウちゃんは付属の高校に進学し、私はユウちゃんの高校に一番近い高校を受験したい、とまたも土下座したが、結局地元のそこそこの公立高校に進学した。
高校にも、新たな出会いなんてものはなかった。
仕方がない。私には、絶対的王子様のユウちゃんがいるんだもの。ちょっと優しいだけ、ちょっと顔がいいだけの同級生なんて、比べるまでもなかった。
一方、ユウちゃんにはちょっとした変化があった。
中学で熱中し、活躍もしたバスケ部に入らなかったのだ。
家庭科部に入部し、いずれは自分で洋服や浴衣を縫えるようになるのが目標なのだとか。
送られた写真には、ユウちゃんのまわりに群がる女子たちの姿が。
私は絶叫した。
ユウちゃんが、自らハイエナどもの群れの中に飛び込んでしまったのだ。この世の終わりだ。
それから毎日、毎日。
ユウちゃんから届く楽しそうな部活の写真に私は悶絶し、呪いの念を飛ばしまくった。
が、部が廃部になることも、ユウちゃんのまわりから女子の姿がなくなることもなかった。
私の高校時代は、ユウちゃんとSNSで連絡を取り合う一方で、ユウちゃんのそばで楽しそうに笑っている女子生徒全てを呪って終わった。
そして、大学進学の春。
そう、私は両親を説得して、単身東京の大学に進学することができたのだ。
入学したのは、もちろん、ユウちゃんと同じ大学だ。
私の平凡な学力では、到底現役での合格は不可能―――誰もがそう決めてかかっていたのに、私はその不可能をやってのけたのだ。
わははは。恋心に勝るものは無し。
母は「学費が」「仕送りが」と泣いていたけど、父は自分の転勤で娘の平穏な生活を奪ってしまったことに負い目があったのか、何も言わずに自由にしてくれた。
私は母と入学式に出席し、校門の前で記念写真を撮って父にSNSで送った。
そして、そして、そして!!
式後には、ユウちゃんと待ち合わせ。
二人で入学祝いをする予定なのだ。
同行したげな母を先に私のアパートに帰らせ、私は約束のレストランに急いだ。
今の私はみっともなくはないだろうか。
この日のために、スーツも小物も厳選したものばかりだ。
美容も勉強した。化粧もヘアセットも、猛勉強した。
けど、どうにも元の素材が平凡なのだ。渾身のおしゃれが浮いていないか。
私はレストランの前に立ち、不安を全部胸の奥底に押し込んで、ドアを開けた。
指定された窓際の3番の席。
そこには。恋い焦がれた王子様が――。
いなかった。
いや、正確には、いた。
絵本から飛び出したかのような美しい笑みを浮かべた、お姫様のようなふわふわのワンピースを着たユウちゃんが。
いつものようにデニムパンツにシャツといったラフな装いではなく、だいぶ着飾っていたけど、間違いなくユウちゃんだった。
ユウちゃんは私に気づくなり、優雅な歩みでやってきて、私の手を両手でそっと握った。
「久しぶり。大学入学おめでとう」
この仕草――――まさに、お姫様だった。
私の王子様は、お姫様だった。
いつからか?
言い出せない疑問全てに、ユウちゃんは先回りして教えてくれた。
幼い頃から、男の子であることに違和感があったこと。
男の子であろうとしたけど、駄目だったこと。
私がいつも全てを受け入れてくれることが嬉しかったこと。
高校時代から女の子として生きること考え、大学進学と同時に女性になったこと。
「幼稚園でいつもおままごとをしていたでしょ?それが嬉しくて」
なんと! それはつまり、きっかけは私?
私はユウちゃんが好きすぎで、ユウちゃんのことは全部受け止めてきた。それが後押しになったということ?
あぁ、やっぱり神様は意地悪だ。
この日のために血反吐を吐く思いで頑張った私から、唯一の宝物を奪った。
恋人になりたい……なんて身の程知らずの願いをしたこともない。ただそばにいたかっただけなのに。
私はユウちゃんに夢を見ることもできなくなった。
異性の幼なじみとしての、友達でも恋人でもない距離感。それが私には心地よかったのに。
完全無欠のお姫様は、この先の未来でどれだけの王子様を魅了するのだろう。
決意を新たに、私はこう言うのだ。
「私はユウちゃんがどう変わっても、世界で一番大好きだよ。何があってもそばにいるよ」
だって、本心だから。
この先の未来で、王子様の皮を被った狼どもからお姫様を守るために。
私は誰よりもそばにいるよ。
いつまでも。
私はかたく誓ったのだった。
まぁ、こんな幸せもあります。