廃都
――――優しい手が、自分に触れる。
いつからこの手を感じていたのだろうか。それを自覚できない自分が恨めしい。初めて触れられた時からずっと、最期の時までのその温かさを覚えていたかった。
頭を、頬を、手を、愛おしげに撫でてくれるその柔らかな手が好きだった。
…………自分には、今まで与えられなかったものだから。
その温かさを願うことすら知らなかったくらいに、全ては欺瞞に満ちていて。
何かを願うだけでその対価を支払わされるような世界に、ずっと生きて来たから。
だから、知らなかった。
誰かに与えられる、温かさを。
何の見返りも求めず、ただ自分を愛してくれたのだ。
そう、それはまさに無償の愛だった。
優しい手は、その言葉を現実にするかのように癒してくれた。
ただ、自分のために。自分のためを思って、その時まで撫で続けてくれたのだ。
動けず見えず聞こえもしない壊れた木偶人形の自分を、愛してくれた。
――――だから、会いたかった。
全てを取り戻した自分の姿で、会って気持ちを伝えたい。どんな姿でも良い。どれほど変わり果てていようとも構わない。だから、優しい手を持つ「そのひと」に、伝えたかったのだ。
あなたを、ずっと探していた……と。
そして請いたかった。
この命を全て捧げてもいいと誓い、跪いて共に在ることの許しを。
業火に焼かれた罪人のような赤い髪色になり、悪魔に魅入られたかのような紫の色に瞳が染まっても。それでも、出来る事ならずっと。ずっとその手を、放したくなかった。
…………だが、これは夢だ。
もう、その人は存在しない。
世界が変わる前に、この世界から消えてしまった。
触れる前に……その優しい手は、永遠に届かない場所に行ってしまったのだ。
なのに、こんな夢を見て何になるのだろう。
あの優しい手を思い出して、なんの得になると言うのだろうか。
こんな夢は、起きてしまえばみじめになるだけなのに。いつまでも消せない妄執に心を焦がしている己の姿など、滑稽なだけなのに。どうして。
どうして――――暗闇の中でしか出会えなかった手を、思い出してしまったのか。
「…………」
ぼんやりとした視界が、すぐにピントを合わせる。
だがそこには薄汚いヒビが入った天井しかなく、夢の中の温かい空間はどこにもない。「優しい手」以外は何も感じ取れず、都合のいい空間を作り上げていただけだというのに、何故目が覚めてこれほどイラつくのだろうか。
自分自身の稚拙な願望を見せつけるような夢は、例え居心地が良かろうと悪夢には変わりなかった。目が覚めた時に全てが消え去り、その恥ずべき夢の記憶だけが残るのなら、なおさら。
(チッ……なんだって今更、あんな夢……)
起き上がり、服や髪の汚れを雑に払って窓の外を見る。
瓦礫と亀裂で飾り立てられた殺風景なビルの一室。そこから見える風景は更に壮絶だ。
――――かつて唯一の皇帝が坐していた、自然信仰と高度文明が融合する世界有数の大都市……だった場所。
遠くから見やるその山脈のように廃墟が連なる光景は、ただただ怖気を誘う。
巨大な廃墟は朝もやに煙り、早朝の陽光に照らされる様はどこか神々しい感じさえした。だが、あの場所はまさに「死んだ場所」だ。全ての機能は停止し、住む人もいるのか定かではない。なにより……陽光の靄の中を飛ぶ、明らかに大きすぎる「なにか」が占拠しているのだから、文明としてのあの場所は死んでしまったという他ないだろう。
(世界一の都市とまで言われた場所が、こうもあっけなく廃都になっちゃったなんてね。……あの災害がどれだけの威力だったのかなんて、もう誰にも分からないだろうけど……遠くから見るだけで、なんとも恐ろしい魔王の棲家に思えて笑えない)
神聖な場所を壊した後には、悪しきものが住みつく。
だが、モンスターどもは自分達が悪とも思っていないだろう。あの存在は、ただひたすらに「生きる」ために喰らい、人間を積極的に狙うだけだ。それ以上でもそれ以下でもない。だからこそ、人間の天敵とも言える多種多様なモンスターが占拠した「廃都」は、いっそう荒廃しているように思えた。
もう、ブレックが知っていた頃の大都市は存在しない。
今はただ、一部の気狂いが挑む大規模なダンジョンとなってしまっていた。
(ああ、くだらない三文小説みたいだ。かつての都市が、今となってはスリルある金鉱扱いされるなんて。……まあ、僕も廃都をダンジョン呼ばわりしている気狂いに変わりは無いんだけど)
廃都の周辺に散らばる【探索者】は、だいたいがそういう人間だ。
既に人類の過去の遺産への敬意は消え去り、それらを資源としてしか見ていない。だがそれは、過去の人類すべてに当てはまることだ。歴史は連続しなければ人々から忘れ去られてしまい、過去の遺物は資源として消費されていってしまう。
例え話をするなら、ピラミッドもそうだ。
エジプトに存在した王家の墓のいくつかも、歴史の重要性を忘れてしまった世代の者達に資源として扱われ、形を失ってしまったものがあった。
信仰や知識が失われれば、どんな神聖なものだろうが最早「もの」でしかなかった。
ともかく、荒廃していない世界でもそのような事が起こったのだから、この世界でならさもありなんと言ったところだろう。
(何より……生きるためには、そうするしかないもんな。この状況を打破する天才が現れない限りは、限られた資源は失われ続けて行く。いつだって、そういうものだ)
いつかはまた、文明が生まれるのだろう。
だが、それは恐らく今ではない。
ブレックが旅を続けている内は、この世界は荒廃したままだろう。
最愛と呼べる存在を失ったこの心のように、ただ朽ちて行くだけだ。
(…………ヤケに感傷的だな。詩人でも目指すってのか僕は。……はぁ。あんな悪夢を見たせいで、頭までお花畑になったみたいだ……感傷に浸るなんてらしくない。さっさと用事を済ませて戻ろう)
支度を終えて、粗末な宿を貸してくれた廃墟泥棒の主人に代金を渡す。
廃都の近くに存在するこの【バスターズ・キャンプ】は、大都市に隣接していただけあって廃墟を利用した建物だけで形作られている。古めかしい建物がみっしりと並ぶその光景は、ブレックがかつて訪れたことのある、乱雑で混沌としたアジアの都市の風景を想起させた。
だが、この街には活気が無い。
無事だった防水の布やトタンなどで穴を隠した小汚い街の通りは、戦後の日本よりも酷い。秩序のない「取り繕っただけ」の風景は、散らかったゴミ箱のようにしか思えなかった。
そんな通りを、ブレックは歩く。
行き交う人々はみな【探索者】だ。廃都の近所に住む人間は例外なく【願望能力】を持っていて、自分の身は自分で守る事が出来る。逆に言えば、そういう人間でなければモンスターの棲家の近所に住めないのだ。それゆえに、各地の廃都はノコサレ達に魔境として恐れられていた。
(そう。廃都とその周辺は、すべからくモンスターとの激戦区だ。かつて都市鉱脈と言われた場所ほどモンスターの“警備”が手厚くて、だからノコサレの世界は酷く停滞している。……過去の記憶が薄れているせいもあるかもしれないけど)
記憶の混濁に加えて、文明が集積された地の封鎖。
どこか仕組まれたかのような都合の良さだが、暗黒時代のヨーロッパも出来過ぎた展開で転落して行ったので、世界と言うのはそういった「都合のいい偶然」で出来ているのかも知れない。
そんな事を思いつつ、ブレックはチカチカと明滅する光の看板を掲げたビルに入った。
相変わらずの廃墟だが、ここは少しだけ掃除がされていて歩きやすい。地下への大階段を下ると、そこには外の人の少なさが嘘のように【探索者】がひしめき合っていた。
――――ここは、廃都の【闇市】と呼ばれる市場だ。
誰に摘発されるわけでもないのだが、何かの理由で地下街に店を構えているのが増えて、こうした不可解な場所になってしまったようだ。
とはいえ、ここでは各大都市コロニーでは御法度な物や、時には御禁制の品が出て来る事も有る。奴隷として売買するための“過去人”が売られている奴隷屋なんてものもあった。
地下街であるため、逃げ出すのに手間がかかると言う利点もあるらしい。
まあ、周囲に【探索者】しかいないので逃げ出す事は不可能だろうが。
(……ヘタしたら、ツカサ君も闇市で売られかねないんだよな)
考えてみれば、あの少年は実に特異で……こんな事を言うと怒られそうだが、売りに出せばかなり高い値段がつきそうな少年だった。
なにせ、荒廃した世にあって珍しく肉付きが良く肌も柔らかい。
過去人は総じて旧日本人の特徴を色濃く受け継いでいるが、やはり純日本人であるツカサの肌の感触はそういう人々とは何か違うものが有った。
(完全な男になる前の少年の体って、触るとあんなに気持ち良いんだな……)
別に少年趣味があるわけではないが、心地いいのなら触りたくなるのが人情だ。
それに、ツカサは恐らくそういう少年の中でも珍しい部類だろう。
太っている印象も無いが、どこもかしこも筋肉ではなく柔らかい肉の感触で覆われているし、男にしては太腿も尻もむっちりとしていた。性徴期が来る前の柔らかさのまま育ったかのような、なんとも言い難い絶妙な体つきだ。そのせいか、触れるとどうにも……下半身が昂ぶってしまう。
豊満な女性を抱こうとすると昔以上のカネが必要になる世界なのに、その幸せな感触とは別の幸せな感触が目の前にあったのだ。触れてしまえば、何でもアリのこの世界では興奮しても仕方なかった。
(体と心は止まってても、年齢的にはとっくに成人なんだし……一発お願いすれば良かったかなぁ。……まあ、あの初心そうなツカサ君が頷くとは思えないけど)
みすぼらしく痩せた“過去人”の奴隷たちを横目に見ながら、ブレックは目的地へ向かう。
これから旧東北地方へと向かうため、念には念を入れてバイクのチューンナップを頼んでいるのだ。そう言った店は、一般的には【改造屋】と呼ばれている。廃都から命がけで拾ってきたバイクや車の部品を使い、過去の知識で整備してくれる【探索者】がいるのだ。
別の廃都の【バスターズ・キャンプ】には電化製品専門の【改造屋】も居るらしいが、この巨大な廃都では機械全般を請け負ってくれる店が多い。たぶん、元々の廃都の人口が関係しているのだろう。
過去に電気街と呼ばれる街があった場所だからこそ、こういう輩が大勢残っていたのかもしれない。
(まあ今回はそれだけじゃないけど)
【改造屋】には、ロクナナ村の女医に頼まれた遠心分離機の修理も頼んでいる。
薬草とは別にずっと前から頼まれていた品物で、それがやっと今回見つかったのだ。
こういった高度な器具は大都市コロニーが接収してしまうので、村コロニーには滅多に配給されない。そのため、あの女医はブレックに極秘の依頼としてこのような品を頼んでいたのである。
店で改造が終わったバイクの説明と、遠心分離器の取り扱いについての話を聞きながら、ブレックはぼんやりと頭の隅でロクナナ村の事を思う。
(協会を通してない極秘の依頼なんて、バレれば除籍まっしぐらなんだけどなぁ……。なんで僕はこんな危ない橋を渡ってるんだろうか)
説明が終わり、明日の納品を待つために宿に帰りながら一人ごちる。
闇市のビルを出て空を見上げると、混沌とした都市とは思えぬ青空が広がっていた。
その空に、何故か女医とツカサの姿が思い浮かぶ。
(…………医者と、お人好しか……)
どちらも、過去のブレックにとっては馴染み深い存在だ。
女医とツカサに直接関係は無いが、それでもあの夢の「優しい手」のように、何故か彼らの事が思い浮かんだ。
(女医は解かるけど……そういや、なんで今日はずっとツカサ君の事ばかり考えてるんだろう)
数日同行しただけの少年。
料理が上手で、特異な知識を持っていて、それでいて……付き合いやすかった。
こんな世界でも普通にお人好しで無力で、どこまでも「普通」でしかない少年で。だけどブレックの姿を見ても動じず、気楽に付き合ってくれた。片手で縊り殺せそうな細い首と未成熟な体のくせに、いざと言う時にはブレックを助けようと必死で動いてくれた。
だからだろうか。
この世界で初めて――――平穏を、感じたような気がした。
(…………だからって、なんなんだよ。僕はなんでこんな事を考えてるんだ?)
自分でも、ワケが分からない。
理解が出来なくてイライラしてくる。胸がムカついて、髪の毛を掻き回したくてたまらなくなった。何故こんな事を考えているのか考えようとしても、ブレックの理性を拒否するかのように思考を堂々巡りさせてしまう。解らない。何もかも、理解が出来なかった。
ただ、ツカサの事を考えたかっただけなのに。
(……僕は…………)
頭の中で呟いて、立ち止まる。
何がしたいのか自分でも判別できずに、息を吐いた。
その、刹那。
「――――――……っ」
ガン、と、何かが背中を強く打つような衝撃が脳にまで届いた。
→
自分、日曜日は一週間の終わりと言う認識です…(´・ω・`)




