とある剣鬼の生涯
始まりは桜の枝を刀に見立てたチャンバラごっこだった。
当時、村の子供の中で一番の年少で力が弱く、けれど最も俊敏だった私は当ててはかわし、引いては当てるこの遊びに熱中した。
童の遊びも毎日夢中に励めば習熟し、理が見えるようになってくる。
個々人に多少の違いはあれども人間の肉体には共通した最適な動作があり、意識して変えない限りは自然とその流れに沿うように足を動かし腕を振る。
その動作の「起こり」を見極めて先手をとれば、7つ年上の相手にも勝てるようになる。
8つの時、私が3人の子供を同時に相手にして勝ったのを偶然見かけた天堂先生が両親に是非にと頼みこみ私を養子にした。
これには両親も私もたいそう驚いた。
子供のいない商家や道場主が出来の良い若者を養子にし後継者に据えるというのは珍しくなかったが
それは番頭や師範代に対して行うことで10にも満たない女の子を剣術道場の主が引き取るというのは前代未聞の行いだ。
しかし天堂先生は真剣だった。
「この子には天秤があります。私は腕は二流だが見る目は一流を自負している。是非とも天下一の剣客に育てたい」と頭を下げた。
母は渋ったが父は快諾した。父は取り柄のない男だったがゆえに才人に強い憧れを持ち、娘の才能が天下に届く夢に魅了された。
先生よろしくお願いしますと深々と頭を下げ、私に先生の言うことをよく聞いて一流の剣士になりなさいと言い聞かせた。
村人たちはそんな父の決断を笑った。無理もないことだが私は激怒した。
誰よりも強くなってやる。そして村中のやつらを叩きのめしてやるとぎゅうっと拳を握りしめたことを覚えている。
天堂先生の養子となった私は、そこで初めて遊びでない本格的な剣術の修行を始めた。
最初に閉口したのは獲物の違いだ。枝から持ち替えた木刀はとても重く、これまでのように自由自在に振り回すことは叶わなかった。
子供に修行させる際はまず短く軽いもので慣れさせるのが一般的で、既に一部の道場では竹刀も導入されていたが
先生は弟子全員に真剣と変わらぬ長さの木刀を使わせることにこだわった。
「教養として剣術を学ぶなら竹刀も悪くない。怪我を減らし安全に技を学べる。
しかし実戦を意識するならば出来るだけ真剣に近い環境で修行するべきだ。
痛みは恐れを生むが同時に慎重を身に着けさせる。逆に安全は慢心に繋がる。
恐怖は場数を踏むことで克服出来るが慢心を捨て去ることは容易ではない」
理屈は分かったが重いものは重い。さらに道場に通う人達は村の子供と違い「起こり」を隠す術を持っていた。
あえて一拍動きを遅らせたり、逆の足から踏み込むことで変化をつけてくるのだ。
これをやられると次の動きを予想するのが格段に難しくなる。
入門一年目の私は試合で圧倒的に負け越した。
9つの子供が自分の人生より長く剣術を学んできた大人に負けるのは当たり前といえば当たり前の話だが
天下一の剣客になると覚悟を決めて天堂先生の下に来た私は自身が井の中の蛙に過ぎなかったことに打ちのめされ毎晩のように泣いた。
しかし泣いたところで村に戻ることは出来ない。第一、私にはこれしか取り柄がない。剣に生きるしか道はない。
2年目の私は今すぐに勝つという目標を諦めた。
まずは枝を振るうように木刀を振れるようにならねば相手に勝つどころではない。
それにはよく食べて身体を成長させることが不可欠だ。
天堂先生はこの点についてもこだわりがあり、弟子たちに魚や獣肉を食べることを推奨した。
「実力が互角ならば体格に優れる方が八割方勝つ。強くなりたいならばまず食べろ」
私は獣肉の旨さに魅了された。こんなに美味しいものが忌避されていることが理解出来なかった。
猟師をしている兄弟子に教わって自分でも狩りをした。野山を駆ければ足腰も鍛えられる。一石二鳥だ。
12歳になる頃には私は同年代の男子よりも長身の身体に育った。
それでも木刀を枝のように操ることは出来なかった。やはり重すぎる。
雑念を振り払うように稽古をしても、夜になると弱気の虫が出てくる。
どこまで鍛えても女が男のように刀を振るうことは出来ないのかもしれないと。
岩真和尚はそんな私の盲を開いてくれた。
和尚は天堂先生の友人で週に2回ほど弟子たちに読み書きを教えに来ていた。
「何事も独学よりもまず先人の教えを学ぶ方が効率が良い。それには本を読めるようにならねばならない」という天堂先生の考えによるものだ。
余談だがこの文武両道のやり方はとても評判が良く、先生の道場は田舎のそれとしては破格の賑わいで裕福だった。
岩真和尚は私に言った。
「お嬢ちゃん、あんたは木刀の重さに囚われている。木刀の重さを生かせるようになりなさい」
木刀の重さを生かす。この発想はこれまでの私の中にない考えだった。
木刀は私にとって常に枝より重い足枷だった。けれど、もしそれを利用出来るとしたら?
それから私は木刀と自身の理を見出すことに没頭した。
相手の動きばかりを見ていた私にとって、自分の動きを把握し洗練させる作業は革命的だった。
革命は私を長足で進歩させた。
14歳で兄弟子たちに並び15歳の夏、遂に私は天堂先生から一本を取った。
先生は加減を知らない馬鹿な娘に肩を折られたにも関わらず、満面の笑みで成長を祝福してくれた。
夏が終わり秋となった頃、私は天堂道場の師範代となった。
15歳の女師範代の誕生は良くも悪くも耳目を集めた。
道場への入門者は増えたが噂の女武芸者を嬲ってやろうと挑戦に来る輩も増えた。
私はそうした挑戦に全て応えた。天堂先生は18歳になったら私を武者修行の旅に送り出す計画を立てていた。
「だがそれにはもっと強くなる必要がある。今程度の腕ではとても安心して送り出せない」
男であれば賊に襲われても路銀を差し出す程度で済むが、女は代わる代わる犯されたあげく女郎屋に売り飛ばされることも珍しくない。
女一人で旅をするなら、かつて村の子供を相手にやった3人抜きを屈強な山賊相手にもこなす技量がいる。
田舎道場の1対1で負けているようでは話にならないのだ。
幸いというべきか私に勝てる挑戦者は滅多にいなかった。
身体が育ったことにより筋力によっても木刀を制御可能になった事で、その分だけ相手を見る余裕が生まれた。
腕自慢の半分は力自慢だ。なまじ腕力や反射神経が良かったせいで「起こり」を隠すという発想がない。
容易く動きを見切って打ち据えることが出来た。
真っ当な道場破りはこれほど簡単にはいかない。道場で体系的な訓練を受けた彼らはこちらと同等以上の技術と知識を持っている。
特に小技の引き出しに関しては太刀打ちできない差がある。
木刀では危険な技も怪我の危険を下げて安全に習得出来るのが流行りの竹刀剣術の強みだ。
しかし木刀剣術は実戦向きだ。呼吸を合わせながら殺気を飛ばし切っ先を細かく動かす。
隙あらば打つ。切っ先を通じて相手にそう伝えながら僅かに足を動かし間合いを変える。
木刀同士での試合に慣れていない竹刀出身者は実力者でもこの緊張感になかなか耐えられない。
張り詰めた空気から逃れようと勝負を急ぎ、間合いの変化に気がつけずに返しの一撃を撃たれてしまう。
もっとも全戦全勝という訳にはいかなかった。
私が天狗になりかけると先生は知り合いの道場から手練の剣士を呼んで立ち合わせた。
大抵は私が負けた。試合の後、彼らは私の技量の高さを褒めたが私はぎゅうっと拳を握りしめて礼をした後、部屋に戻って泣いた。
負けた相手の中には同年代の者もいた。こんな子供に負けるやつが天下一の剣客になれるか!!と子供だった私は悔しさで枕を濡らした。
どうすればもっと強くなれる。私は岩真和尚に教えを乞うた。
「師範代としての仕事をこなしなさい」と和尚様は言った。
これまであなたは教えられることで強さを磨いてきた。しかし世の中には教えることで得られる強さもあるのだよ。
特に子供がいい。子供は何も知らない。何も知らない者に教えるにはどうすればいいか考えなさい。
これは過去に行ってきた修行の中でも一番難しい取り組みだった。
隆盛を極める天堂道場には私が入門したのと同じ年頃の10歳前後の子供も数人通っていた。
しかし彼らは私が自然体で理解していたことが分からない。ゆっくりと動きを見せても駄目だ。
試合ばかりしていい気になっていた私は師範代として全くの無能であることを認めざるを得なかった。
困った時は原点に戻る。昔も今も自分の武器は観察し思考することだ。
私は天堂先生や他の師範代たちが弟子にどうやって教えているのかを観察することにした。
その結果、自分に足りないものを2つ見つけた。
1つは言語化。目で見て覚えることだけが全てではない。言葉にされて初めて気がつく事もある。
自分とて岩真和尚の言葉によって初めて木刀の重さを生かすという視点を得たではないか。
もう1つは相手の立場になって考えること。
天堂先生の甥っ子で師範代の一人を務める佐助は剣術の腕は大したことないが、この技術にはとても秀でていた。
教える相手の性格や実力に合わせて教え方も変える。
相手が分からなくても決して怒らず自分の伝え方が未熟だったと反省し、より良い方法を模索する。
私はこの程度の腕では師範代に相応しくないと5つ年上の青年を侮っていたことを大いに恥じた。
師範代の仕事が道場主に代わって弟子たちを教え導くことだとするならば、佐助は私などより遥かに格上の存在だ。
18歳になり旅立ちの日がやってきた。
私は正直不安だった。自分は道場の外に出てやっていけるほど強くなったのだろうか。
周囲の人間は上達著しいと褒めてくれたが、木刀の重さを生かす答えに辿りついた時のような殻を破る手応えは3年間で一度も得られなかった。
そんな私の不安に気づいたのか、天堂先生は旅の供として佐助をつけてくれた。
旅は信頼出来る連れが一人いるだけでも安全性が格段に増す。
師範代になったばかりの私なら、先生の気配りをありがたく思いつつも一人で旅に出ようとしたかもしれない。
しかし私はこの数年で自分がいかに未熟な人間であるか嫌になるほど思い知っていたし
佐助と一緒に全国を旅をするというのはとても素晴らしいことのように思えた。
武者修行の旅は想像していたより何倍も過酷だった。
各地の道場を巡り立ち合いを重ねるのが修行の基本だが、これが何とも難しい。
道場側にとって他流派との立ち合いは未知の相手と戦う経験を積み、新たな技術を学ぶ好機だが
同時に敗北によって道場の評判を落としてしまう危険性を孕んでいる。
その相手が女武芸者となれば物笑いの種になるのは避けられない。
門前払いを受けたことは一度や二度ではなく、私は強くなるよりも先に相手の面子を潰さずに「一手指南していただく」方法を学ばなければならなかった。
いざ立ち合いが叶っても、思い描いていたような連戦連勝は得られなかった。
まず身体が思うように動かない。
他流派との戦いは師範代として何度もこなしてきたが、挑戦される側とする側では全く条件が違った。
大勢の人間が自分の一挙一動に注目し、しかもその全員が私の敗北を願っているという構図は想像を超える重圧を生む。
また竹刀同士での立ち合いを要求されることも多かった。
木刀と竹刀の試合は似ているようで全く違う。感覚の違いから明らかな格下に遅れを取ることも珍しくなかった。
だが昔のように泣く訳にはいかない。今の私は天堂道場の看板を背負っているのだ。
育ての親でもある先生の名を汚すような真似は許されない。
悔しさを押し殺し平静を保つ「耐え忍ぶ力」こそ武者修行で得た最大の成果だったかもしれない。
旅の同行者である佐助は世間知らずの私に代わって道場との折衝を精力的にこなしてくれたが
自分自身が立ち合いに挑むことは滅多になかった。
勝負を受けるのは大抵は私が酷い侮辱を受けた時で、あっさりと返り討ちにあう彼を介抱しながら私は何故だか頬が熱くなった。
1年の旅を終え、私たちは天堂道場へ戻った。
先生に修行の成果を聞かれた私は正直に「わかりません」と答えた。
先生はそれを聞いて満足そうに頷いた。
強くなった自覚はなかったが、帰郷後の私の戦績は著しいものとなった。
旅に出る前は一本も取れなかった相手を容易く倒し、近隣の道場で私に勝てるものはいなくなった。
そうした活躍が耳に入ったのか私は将軍が主催する御前試合に招集された。
快挙に湧く周囲とは裏腹に私はさほどの高揚感を覚えなかった。
修行を重ねるほどに目先の勝ちや負けにこだわる気持ちが薄れていく。
天下一の剣客というものがいるとすれば、その人物は自分が何番目に強いかなど気にもしないのではないか。
そんなことを考えてしまう。
御前試合の相手は名門深影流の御曹司だった。
大上段に構え額から汗を流す姿からは、絶対に女になど負けられないという焦りがありありと見えた。
私は中段に構えて先手を譲った。疾風のような三連撃が来た。
真剣でなくとも容易く人を殺しうる修練を積んだ者のみが為せる技だ。
惜しいなと他人事のように受ける。気持ちが先走りすぎている。だから技が完璧でも心の起こりが見えてしまう。
呼吸の繋ぎ目に合わせて前に出て、打つ。それで試合は終わった。
大歓声が上がる。狂乱する御曹司。まだ勝負は終わっていない!!この俺が女になど負ける訳がない!!
取り押さえられる男を横目に私は自分の快進撃の理由を悟った。
達人に通じるだけの実力を得たのは間違いない。しかしそれ以上に大きな理由があった。
女だ。剣に生涯を捧げ必死に修行を重ねた者ほど女に負けるということが耐えられない。
その気負いが焦りを生み、力みを生む。
対する私は旅を経て自らの未熟さと剣の理の遠大さを受け入れてしまった。
実力者同士の戦いにおいてこの心の差はあまりにも大きい。
御前試合での勝利によって私は子供の頃の夢だった天下一の女剣客として世間に知られるようになった。
だが私の心には晴らすことの出来ない雲がかかっていた。
自分の強さは結局のところ女であることに依存している。
もしも私が男であれば御前試合に勝つことは難しかっただろう。
あの御曹司は名門の代表として余裕をもって田舎道場の剣士を迎え撃ったに違いない。
迷い惑う私を見て天堂先生は故郷の村へ顔を出し両親に活躍を報告して来なさいと言った。
そんな気分転換で抱えた悩みが解消されるとは思わなかったが、先生の配慮に感謝し家族に顔を見せることにした。
村でも私の活躍は伝わっており、驚くほどの歓待を受けた。
父のあんなに嬉しそうな顔は村を出るまでは一度も見たことがなかった。
初めて御前試合に勝てて良かったと心の底から思えた。
母は村に戻ってくる気はないのかとしきりに尋ねてきた。
勝利や立身出世に対する執着は薄れていたが、それでも剣を捨てようという気にはなれなかった。
何よりも自分はまだ己の才能を見抜き育ててくれた天堂先生に何の恩返しも出来ていない。
名声を得た今こそ師範代として道場に尽くし先生のお役に立たなければ。
そんな当たり前のことに気がつけたのは母との問答のおかげだった。
当初の予定では一週間ほどで滞在を切り上げるつもりでいたが、父母に懇願され1ヶ月近く村に留まった。
それがどれほどの悲劇を生むかも知らずに。
凶報を知ったのは旅の最中だった。
深影流の剣客たちによって天堂道場が襲撃された。
天堂先生は外出中で難を逃れたが門人7名が惨殺された。
私は人目も憚らず獣のように吠えた。死んだ門人の中には佐助もいた。
それからのことは断片的にしか憶えていない。
御前試合で将軍から拝領した刀を手に取り夜討ちをかけた。
卑怯だとは欠片も考えなかった。昼間では逃げられるかもしれない。
助けを呼ばれるかもしれない。それでは全員殺せない。
それが思考の全てでそれ以上のことは考えなかった。考える必要もなかった。
将軍の刀はよく斬れた。首元に当てて引くだけで血飛沫が上がり命は終わる。
手下を引き連れて復讐するほど悔しがったくせに御曹司は私の姿を見ると一目散に逃げ出そうとした。
何だそれは。ふざけるな。その程度の覚悟しかないのならどうして皆を襲った。どうして佐助を殺した!!
最初に足を落とした。次に腕。聞くに堪えない罵声は我慢した。喉を裂けば簡単に死んでしまう。
そうちゃんと我慢したのに五分としない内に男は泡を吹いて呆気なくこの世から逃げ出した。
仕方がないので他の連中で八つ当たりすることにした。
あぁしかし何というザマだろう。お前たちは名門深影流の高弟ではないのか。
私の心はこんなにも乱れているというのに誰一人として私に傷一つ負わせられないなんて。
目が合うだけで誰も彼もガタガタと震えて死んでいく。夜が明ける頃には屋敷に生きているものはいなくなった。
こうして私は伝説となった。深影百人斬り。仇討ちの修羅姫。剣鬼。
事の発端が御前試合だった事もあり私が罪に問われることはなかった。
将軍が裁定した試合の結果に不満を抱いての凶行などもっての他という訳だ。
しかし裁きはあった。取り調べから釈放された後、道場へ戻った私は天堂先生から破門を受けた。
多くの道場と同様に天堂流でも弟子の勝手な私闘は禁じられていた。
人は簡単に人を殺せる。寝込みを襲えば百人すら殺せる。だからこそ人を殺す術を学ぶ者は戦う場を限らなければならない。
その掟を破ったのだ。破門は当然といえた。
殺された仲間のためにした事だと擁護してくれる先輩も多かったが私は躊躇いなく破門を受け入れた。
佐助は先生の甥だったのだ。それが私のせいで死んだ。本来ならば殺されても文句は言えない。
先生は最後まで私に優しかった。
道場を追放された私は気の向くままに旅をして気の向くままに人を斬った。
悪人殺しの剣聖と称える者もいたが自分が正義を為しているとは欠片も思わなかった。
世に悪というものがあるならば、人を殺す以上の悪などそうはあるまい。
岩真和尚と再会したのは殺した数が千に届いた頃だった。
和尚は昔と変わらぬ笑顔でこう言った。
「お嬢ちゃん、あんたは命の重さに囚われている。命の重さを生かせるようになりなさい」
途方にくれた。一体どうすればそんなことが出来る。
滝に打たれ、座禅を組み、書を読み漁っても答えは出ない。
けれど諦めたくなかった。ここで諦めてしまえばきっと私は永遠に戻れない。
二度目の御前試合に呼ばれたのはそんな時だった。
対戦相手は夜討ちをかけた日に深影家に逗留していたという剣客の息子。
代替わりした将軍の寵愛を受け、悪名高き千人斬りに復讐を果たす機会をねだったのだという。
背の高い精悍な顔つきの若者だった。対する私は白髪の混じる年齢。時の流れは驚くほどに速い。
勝負は木刀ではなく真剣で行われることになった。久しぶりに手にした真剣はとても重かった。
試合開始の合図と同時に稲妻のような一撃が放たれ刀を飛ばされる。
起こりが見えても身体が思考についていかない。これが老いるということか。
眼前に迫る死。あの日から幾度となく想像してきた最期がやってきた。
一瞬の間に無数の記憶が駆け巡る。両親。天堂先生。岩真和尚。――佐助。
真正面から受けるつもりだった一刀を反射的にかわしてしまう。
佐助はいつだって相手の立場になって考え人を導いた。
ここで斬られて死ねば私の旅路は因果応報を受け終わる。楽になれる。
けれど目の前の子供はどうなる。命の重さに囚われて一生苦しみ続ける人間をもう一人増やすのか。
地に落ちた桜の枝を拾い構える。周囲のどよめきも既に遠く蚊帳の外。
呼吸を整え相手を見据える。年老いた身体では技の起こりを捉えても間に合わない。
心の起こりを見ろ。怒り、困惑、逡巡、覚悟。
目まぐるしく波打つ感情の声を聞き互いの最善を模索しろ。
心臓を穿つ疾風の如き突きが飛ぶ。
私はそれを皮一枚で受けてから渾身の力で打ち落とし、それから深々と頭を下げ降参を宣言した。
あれから20年。歩くのに杖が必要になった今も私は生き続けている。
これが正しい選択なのかは分からない。
千人殺した女が安穏と老後を送るなど許されることではないと己を罰する衝動は常に心の裡にある。
そのたびに私はあの日の御前試合を思い出す。
あの時に握った桜の枝はとても軽く、どれほど完璧に合わせても練達の剣士の突きを打ち落とすことなど出来なかったはずだ。
しかし実際に刀は落ちた。あれは命の重さが起こした奇跡だったのではないか。
殺したくないという気持ち。殺されたくないという気持ち。どちらが欠けても起きることはない奇跡。
だから私は今も生きている。遠からず私の魂は彼岸を渡り地獄の裁きを受けるだろう。
泣き虫な私はきっと何度も何度も泣いてしまうに違いない。
それでも拳をぎゅうっと握りしめ耐え抜いて見せる。いつの日か罪を償い、輪廻の先でまた二人旅をするために。
その日を夢見て最後まで精一杯生きるのだ。