〈日常編〉第1話 新生活の始まり①
「季見歌ぁ~~~‼︎ 白奈はどこだ~~~⁉︎」
岸からクレマンスの叫び声が聞こえた。切羽詰まった響きだった。
「居ない……居ないのよ! パラシュートに巻き込まれたかも!」
私が水中に居た時間はとても長かった。体感では二分近く潜っていた気がする。とても訓練無しで息をしていられる時間ではない。
もし白奈があのパラシュートの中心にいるとしたら――最悪の事態だって考えられる。
「いま助けに行くわ!」
「待て季見歌っ! 潜るなっ! 先に息を整えないと季見歌まで溺れるぞっ‼︎」
クレマンスの制止にも構わず、私は肺いっぱいに大きく息を吸いこんだ。
岸のクレマンスが何かを叫びながら、泳ぐためにシャツを脱ぎだしたのを尻目に、私は再び沼に頭を突っ込んだ。底を目指して潜水する。
夜の沼は暗すぎる。視界が悪すぎて、一寸先も見えない。
両手で必死に水を掻いて、水底を目指すと…………
――ゴンッ
私の頭に何か固いものが当たって、額に痛みが走った。そして、誰かの手が私の頭を押して、私の身体を水面に押し戻した。
――白奈! ぶつかったのは白奈の頭だったんだ!
「――――――っぷはあぁぁ!! はあ……はぁぁぁぁぁぁ……。死ぬかど思っっっ……だぁ……!」
白奈の声は嗄れていた。
身体は震え、顔色は真っ青。唇が紫色になっている――酸素欠乏の典型的な症状であるチアノーゼだ。あとわずかでも顔を出すのが遅ければ、水中で意識を失って、息絶えていたに違いない。
「……もうっっ! 死んじゃったかと思ったよ!」
このとき安堵で溢れた涙は、髪の毛から滴る沼の水と一緒に流れたから、白奈は気付いていなかった。
「ごめんね……。探し物してたの」
「探し物?」
「これ……。せっかく季見歌に貰ったのに、落としちゃったからさ」
白奈が両手で大事そうに抱えていたのは、私が手渡した〈エルソーク〉のハンドクリームだった。
―――――――――――――――――――――――――
岸までたどり着くと、私のメイド服が脱げていることに気付いた。
ドレスを着たまま水中に入れば、水の抵抗でまず溺れる。私が溺れずになんとか岸へ辿りつけたのは、服が軽くなっていたおかげだろう。
でも、どうしてドレスが脱げたのだろう。
ふと疑問に思って飛び込む直前の記憶を辿ってみると、思い当たる節があった。――パラシュートで降下しながら沼の水面に衝突するとき、白奈がお腹の辺りを強い力で引っ張った。あのとき白奈が引っ張っていたのは、メイド服のリボンだったのかもしれない。
白奈は着衣泳の危なさを知っていて、私が溺れないように脱がせてくれたのだろう。おっとりしている子だと思っていたけれど、いざというときにはすごく機転が利くタイプみたい。私にまだ息があるのは、白奈の機転のおかげだ。――死にかけたのも彼女のせいだけど。
せっかく宮原さんに仕立ててもらったメイド服は、今ごろ沼の底だろう。
身軽になった私は、脇からワンピースのように太ももまで伸びる白いスリップ型のインナーだけになっていた。……沼に浸かったからもはや白くはないんだけど。
スリップ型というのはそこまで露出が多くないけれど、脚がほとんど出ているので、このまま出歩くのは抵抗がある。どこかに着替えはあるだろうか。
「どうしよう。びしょ濡れだわ」
私と白奈はタオルで服や髪を拭いたが、完全に乾くはずもない。
「バイクの向い風ドライヤーでいいんじゃない?」
「ダメ」
クレマンスが言った。
「なんで?」
「水は気化するときに周りの熱を下げるんだ。だから、夏でも濡れた身体は温風で乾かさないと風邪引くの」
「めんどくさいな~」
「ドライヤー持ってきたから金沢を出たら使おう」
クレマンスはリュックからオレンジ色のドライヤーを取り出して見せた。
「ねえ、どうしてドライヤーなんて持ってきたの?」
「使うかなーって思って」
「まるで最初から沼に落ちるとでも想定してたみたいだねー」
「し……してたわけないでしょっ」
「本当はわざとだったんじゃない?」
「たしかに。大きいパラシュートもドレスも沼の底に沈めれば証拠隠滅できる。それに、沼なら着陸の跡も残らないし、木にも引っかからない。好都合よね」
「怪しい〜」
「えーっと……ただの計算ミスだよ!」
私たち二人に質問攻めされるクレマンスは、壁際に追い詰められたネズミみたいに目が泳いでいた。
沼に落ちたのが計画通りだったとしても、私と白奈が死にかけたから言い出せないのだろう。
「急いで金沢を離れよう。今に街中が大騒ぎになるぞ」
「明日には日本中が大騒ぎになるかもねー」余裕で笑う白奈。「――どっかの公衆トイレで着替えよっか。そこで季見歌を変装させなきゃ」
私と白奈はクレマンスが持っていた上着を羽織った。全身が濡れているから、濡れている同士ということで白奈のバイクの後部座席に乗った。
「どう、季見歌? やりたいことリストに〈バイクで風になりたい〉ってあったよね?」
「…………公園にはいつ着くのかしら」
初めてのバイクは寒すぎて、風になるどころではなかった。
―――――――――――――――――――――――――
「季見歌さ〜ん、痛いところはありませんか〜」
「頭皮がすごくヒリヒリするわ。頭が燃えているみたい」
バイクで一時間半ほど走っただろうか。クレマンスが下宿している家へ連れて行かれた。いま私が居るのは富山県の西部らしい。この十年間、私は石川県どころか金沢市から出たこともないので、富山県に居るという事実にちょっとした感動を覚える。
天空のダンスホールからのスカイダイビングが成功して、晴れて追われる身となった私は、地上でも金沢季見歌として暮らしていくわけにはいかない。変装が必要である。
天空のダンスホールにいた頃と同じ髪型のままでは簡単に見つかってしまうから、髪型を変えないといけない。
白奈は大きなハサミを持ってきて私の髪を切りはじめた。巨大な刃物が耳元でジョキジョキと大きな音を立てながら動くのはすごく恐かったけれど、冷や汗をかきながらじっと耐えた。
白奈のハサミ捌きはなかなかに器用で、私の頭のシルエットは見る見るうちに変わっていった。肩甲骨のあたりまで伸びていた髪は肩口でバッサリと切り落とされて、うなじに涼しい風が当たった。鏡を見ると、髪の下のほうが洋ナシのように膨らんでいる。このような髪型のことをミディアムボブというらしい。
髪の毛はすっかり短くなったけれど、髪色も元と同じ茶色のままでは誰かに見つかってしまうかもしれない。そこで、白奈は私の髪を金髪に染めようと言い出した。
初めての染髪である。一体どうなってしまうのだろう。
正直、少しだけウキウキした。
白奈は筆を使って、私の髪にクリームを塗ってくれているのだけど……
「痛い。痛いわ。……ものすごく痛い。これって平気なのかしら?」
「大丈夫です。脱色剤の激痛は誰もが通る道ですよー」
「髪の毛がぜんぶ抜けたりしない?」
「心配要りませんよ〜♪ この脱色剤は当サロン独自のもので、すべて環境と髪に優しいオーガニック由来のものをマツモトキヨシで選んでぇ――」
「美容師さん。独自の意味を履き違えていらっしゃいますよ?」
壁に寄りかかってスマートフォンをいじっていたクレマンスが口を挟んだ。
白いクリーム――脱色剤というらしい――を毛先から根元まで満遍なく塗り終えると、頭にラップを巻いて二〇分ほど放置した。その間、頭全体をバーナーで炙られているみたいな感覚に襲われて、涙が出るくらい痛かった。
「はーい、そろそろお薬を流しますね〜。目ぇつむって〜」
「やっと落とせるのね……」
「しっかり閉じなよ。脱色剤が少しでも目に入ると黒目が無くなるから」
「ひぃっ」
「こらっ。クレマンス! 脅かさないの!」
洗面台で髪の毛をばしゃばしゃと洗い流すと、頭皮の激痛はおさまった。髪の毛は少し抜けたけれど、大半は無事だった。タオルでがしがし水分を拭き取られてからヘアドライヤーで乾かすと……
「似合うじゃーん!」
「ええと、そうかしら。 髪を染めたのなんて初めてだから」
「なんかね、誰?って感じ! 姿を隠すには丁度いいね♪ ほら、鏡で見てみなよ」
「え……。……誰?」
鏡に映っていたのは、見知らぬ女性だった。肩まで垂らした派手な金髪が目を惹く、底無しに明るそうな女の子。この人はきっと場の雰囲気を盛り上げるのが得意に違いない。眉毛はへの字に垂れ下がって困り眉になっているけれど、それ以外はとてもフレンドリーそうなルックスだった。
試しに、頭を左右に振ってみる。すると、鏡の中の見知らぬ女性も髪を靡かせた。この女性は私本人だという当たり前のことを再認識する。
困り眉と、気を張ったように引き結ばれた口元以外は、私と似ても似つかない。人の印象って、髪を染めただけでこうも変わるんだ。
「これが……私……?」
まるで、違う誰かになったみたい。
心無しか声が高く、そして大きくなった。
私は嬉しいのかもしれない。自分はもはや名家に生まれたいい子の季見歌ちゃんではないような気がして、ごそごそと自信無さそうに喋らなくていいような気がして――こっちの私のほうが好きかもしれない。
知らない誰かになった自分の顔を、時間を忘れてぼうっと鏡を眺めていると、白奈の声で現実に引き戻された。
「髪を乾かしたらバイクに乗ってね。お母さんには友達が泊まるって言ってあるから♪」
「白奈の家に泊まるの?」
「そうだよ!」
泥だらけになったやりたいことリストを見る。
一番上に書いてあった『友達と一緒にお泊りする』という項目が、さっそく叶いそうだ。
★✴︎✳︎*✳︎✴︎☆✴︎✳︎*✳︎✴︎★✴︎✳︎*✳︎✴︎☆✴︎✳︎*✳︎✴︎★
「それじゃ、私はこれくらいで~」
バイクに跨った私たちに、クレマンスが手を振った。
「ありがとね! 作戦が成功したのはクレマンスのおかげだよ」
「くれぐれも気をつけてね。追手に」
「気をつけるよっ。ばいばーい!」
私は白奈の背中に張り付いて、しばらくバイクに揺られた。大きな通りを三十分くらい走って左折すると、電灯の少ない住宅街に入った。どれも似たような形の家が立ち並んでいる。
バイクは二階建ての一軒家の門前で停まった。芝が生い茂る小さな庭には、モミジの青々とした葉っぱが揺れていた。
「ここが白奈のご実家なの?」
「そうだよ」
「大きなお家ね」
「それ冗談? うちの家、三人用だからかなり狭いよ。季見歌の家はこの千倍は大きいじゃん」
「天空のダンスホールのこと? あれは全部が私の家ってわけじゃないから……」
「それでも百倍は大きいでしょ。じゃ。入ろっか」
「うん!」
白奈はがちゃっと音を立てて玄関のドアを開けると、大声で――
「おかあさ〜〜ん! ただいまぁぁぁぁーー!」
と叫んだ。すると、二階のほうでドタンドタンという足音が聞こえる。
白奈のお母様が来るまでのあいだ、私は家の中を観察した。
玄関の床や階段は木製で、優しいチョコレート色だった。床のほとんどが絨毯か大理石だった私にとって、木目の床はすごく新鮮だ。
白奈の家のインテリアからは温かみを感じる。無機質な私の家とは大違い。玄関から吹いた風が運んでくる木の香りが気持ちよかった。きっとこの家には私が体験したことのないものがいっぱいあるのだろう。家の中にお邪魔するのが待ち遠しい。
階段をバタバタと音を立てて下りてきたのは、中年の女性。太い眉毛と茶髪のベリーショートが印象的な彼女は、白奈の母親で間違えないだろう。髪型こそ全然違うけれど、ぱっちりとした二重や綺麗な顎の形が彼女そっくりだった。
そんなお母様は、顔を真っ青にして息を切らしている。何があったのだろうか。白奈を見るなり、心配そうに言った。
「白奈っ。どこに行っていたの? 心配したじゃない!」
「どうしたの、お母さん? そんなに慌てて」
「白奈が心配だったのよ!」
「なんで?」
「大きなニュースになってたでしょう? 聞いてないの⁉︎」
「ニュースは見てないけど」
「今さっき、金沢で女の子が誘拐される事件があったんですって‼︎」
背筋が凍った。
金沢で誘拐された女の子って……私のことじゃない?
白奈がちらりとこちらに目配せした。その凍りついた顔が何を訴えたいのかは言わずともわかった。
「帰りが遅いから心配したのよ! 白奈も巻き込まれてたらどうしようって……」
――お母様……ごめんなさい。その犯人、娘さんです。
「へ……へえぇ~。物騒だね~。……明日からは早く帰るよ!」
「そうしてちょうだい!」
「いや~、怖いな〜」
石膏マスクのように硬直した笑顔が白奈の顔に貼り付いていた。たぶん、私の顔も似たようなことになっている。
「あら、そちらのかわいらしい金髪の子は?」
金髪の子というのが私を指していると気付くまで、一瞬のタイムラグがあった。私が金髪になったのはほんの三〇分前のことだから、自分が金髪ということを忘れていた。
「友達だよ! 今夜泊まらせるって言った子♪」
「ええ、存じているわ。初めまして、白奈の母よ」
「はじめまして。白奈のお母様!」
「とっても美人さんじゃない! お名前は何ていうの?」
「お……お名前ですか? ええーっと〜……」
まずい……。地上で使う名前を考えていなかった。
もちろん、正直に「金沢季見歌」と答えるわけにはいかない。ここで本名を答えれば、自慢の娘さんが誘拐事件の犯人だってバレてしまう。
スカイダイビングで派手に家出をした私が地上で本名を名乗れないことなんて、少し考えればわかることである。私は準備不足を後悔した。
なにか偽名を考えないと!
響きが良くて、何回呼ばれても嫌じゃない名前……なんて、慣れないことを考えていると、頭の中が真っ白になった。
「ええっと……。き……きみ……」
「きみ…?」
私が言い淀んでいると、白奈の横槍が入った。
「キミッカだよ!」
――誰よ!
「キミッカちゃん?」
「そ、そう! キミッカ・ディアスちゃん! ブラジルの高校から転校してきたんだ~! 明日から一緒に学校に行くの!」
――そんなかっこいい名前だったこと無いわよ!
「キミッカちゃん? どこかで聞いたことある気がするわねえ……」
――お母様。それ、たぶん夕方のニュース番組だと思います……。
「き……気のせいじゃないかな?」
「そうよね。転校生の子だものね。――でも、まだ学校も始まってないのに、どこで転校生の子と知り合ったの?」
「え……えーっとね〜、キミッカとはこないだのディベート大会で会ったんだ!」
「すごいわねぇ! 日本に来たばっかりなのに日本語のディベートが理解できるなんて! 難しかったでしょう?」
明るくお世辞をいうお母様は、知ってか知らずか、私たちの設定の矛盾をグサグサ突いてくる。
たしかに、海外から転校してきたばかりの転校生がディベート大会を理解できるわけがないよね。どう言い訳しようか。
「よく理解できないところもたくさんあったんですけど……最後に白奈ちゃんが見せたスピーチがカッコ良かったなって!」
「あら。うちの白奈、そんなに喋ってましたっけ?」
「いつも通りたくさん喋っていましたよ……ね?」
「白奈は他のメンバーに任せっきりで、二回くらいしか口を開いていなかったわよ」
「そ……そうでしたっけ?」
「キミッカちゃん、本当に会場にいたの〜? 怪しいな〜」
お母様が私に疑いの目を向けてくる。図星だったから、私は蛇に睨まれたように何も言えなくなった。
まずい……。私が金沢季見歌だってバレたかしら……?
「もう、お母さんってばー。私をからかうのはやめてよー!」
張りつめた空気を破ったのは、わざとらしくおどけた白奈の言葉だった。
白奈の自虐じみた笑顔を見て、お母様は朗らかに笑った。どうやらお母様流のジョークだったらしい。
わかりにくい。わかりにくすぎて私と白奈は凍りついている。正体がバレたのかと思ったから。
「うふふ。だって白奈ってばクレマンスちゃんと橙子ちゃんに頼りきりだったじゃない」
「事実だけどさ。キミッカはお母さんと違って優しいから私をフォローしてくれたんだよ」
「いい子ねぇ。――さ、入って入って。お夕飯できてるわよ。キミッカちゃんも一緒に食べましょ?」
白奈と目を見合わせて、ほっと安堵の息を吐く。
一時はどうなることかと思ったけれど、修羅場はなんとか切り抜けたみたい……。でも、まだまだ気は抜けないわ。
白奈のお母様。鋭いのか天然なのかわからないところがある。――まあ、白奈にも全く同じことが言えるのだけど。
「ご飯作ってくれてありがと♪ でも、先にお風呂入るね。服が泥で……いや、汗で濡れちゃったからさ!」
お腹も空いたけれど、なにより先にシャワーを浴びたい。
決死のスカイダイビングの着地地点は沼だったから、靴下の中にまで泥が入り込んだのだ。靴の中に気持ち悪い砂の感覚が残っている。
「泥っ? ザリガニ釣りでもしたの?」
「ザリガニ釣りよりはちょっとだけハードだったかなぁ。ねー。キミッカ?」
「そ、そうねー」
……ちょっと?
危うく溺死しかけたような気がするけれど。
「全く。ザリガニ釣りなんて、高校生になったのにいつまでも幼いわねぇ。お風呂沸かすから、白奈はキミッカちゃんをもてなしてなさい」
「任せて。賓客のようにもてなすよ」
「賓客? そんな難しい言葉どこで覚えたのよ」
「さっき読んだ小説に出てきてさ〜」
「ふーん。あなた小説なんか読まないでしょ」
天空のダンスホールで覚えたんだと思います……お母様。