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〈誘拐編〉最終話 人生初の自由落下体験☆

 鎖で自室に繋がれるようになってからの日々は地獄だった。

 部屋を出ることが許されるのは食事、入浴、お手洗いのときだけ。鎖が付けられていないときは、もれなく教育係の津毛さんによる監視がついていた。

 晩餐のためにお母様やお父様とテーブルを囲ったあと、食事を済ませたらすぐに部屋へ戻されて、後手に手錠をかけられる。


 普通の親だったら、教育係が子どもを監禁していれば激怒して、解雇するだろう。でも、私のお母様は違う。お母様は私のことを愛しているけれど、愛しているがゆえに、世間から離そうとする。お母様の願いと津毛さんの教育方針は気味が悪いほどマッチしているから、お母様に「外に出してほしい」と懇願すると、泣きながら「季見歌のためにやっているの。外は危険なのよ」と叫んで、まったく応じてくれない。

 一方、お父様は私に全く興味がないため、何も口を出さない。

 天空のダンスホールには、津毛さんから私を助けてくれる人が誰もいないのだ。


 こんな生活が一生続くなら、死んでしまった方がマシと思えるような毎日。なんとか耐えることができているのも、あと数日でここを脱出すると決めていたから。


 拘禁が始まって六日目。

 白奈とクレマンスが助けに来てくれる予定になっているダンスパーティーは明日に迫っていた。

 晩餐の席に着き、お母様とお父様を待っていると、それまで決して私から目を離さなかった津毛さんが初めて部屋を去った。この建物〈トゥール・ドゥ・シエル〉の敷地内で事件が起きたらしい。なんでも、庭園に無人の自動運転車が侵入したのだとか。私の教育係でありながら、かつこの建物の警備を統括する警備総長でもある津毛さんは、場を収めるためにそちらへ駆けつけたわけだ。


 この部屋にいるのは私は一人。

 壊れてしまった車の持ち主様には申し訳ないけれど、津毛さんの不在は願ってもないチャンスである。あまりにタイミングがいいので、不謹慎ながら“誰かが私のために事故を起こしてくれたのかもしれない”とすら思った。

 私はお手洗いに行くフリをして席を立ち、大急ぎで自室に戻った。

 ノートブックの一ページを破り取り、カランダッシュの万年筆を手にとって、フランス語の手紙をしたためた。フランス語にしたのは、宮原さん以外の誰かに読まれても意図を汲まれないようにするためだ。


『宮原さん。過ぎたお願い事なのは分かっています。今晩、全員が寝静まったあと私の部屋に来てくださいませんか? 誰にも見られてはなりません。』


 宮原さんとは私に親切にしてくれるお手伝いさんであり、普段は主に厨房で料理長シェフとして働いている。パリのとある五つ星ホテルで修行をしていた経歴からフランス語が堪能であるため、学校に通えない私のためにフランス語の家庭教師も務めてくれている。

 彼女はこの空間で私に唯一よくしてくれる存在である。幼いころから、宮原さんだけは私のわがままを聞いてくれた。時々、こっそりと“下の世界”のお菓子や、流行りの小説をプレゼントしてくれることもあった。


 協力を頼むなら、宮原さんしかいない。

 問題は、どうやってこの手紙を渡すかである。


 宮原さんは厨房で働いている。けど、私が厨房に向かえば怪しまれるだろう。私と宮原さんの仲がいいのは周知の事実だから。もし直接会話したところを誰かに見られれば、宮原さんは津毛さんの監視下に置かれる。

 だから、接触しないで手紙を届けなければならないわけだけれど、名案はなにも思い浮かばない。とりあえず、フランス語の手紙をドレスの袖に隠して、晩餐に戻った。

 ホワイトアスパラガスの前菜のあとに、カリフラワーのスープが供された。フレンチのお皿は、料理に対して皿がかなり大きい。

 私はスープが入った大皿を見て、これを便箋代わりにしようと思った。


 手紙を持った左手をテーブルクロスの下に隠したまま、誰も私に注目しなくなる瞬間を待っていると、その時は訪れた。お父様が会社について話し始めて、全員の注目がそちらに向いたのだ。

 私はスープのお皿を持ち上げて、手紙を皿と受け皿のあいだに滑り込ませた。誰にも見られなかったはず!

 ドキドキしながらカリフラワーのスープを飲み干すと、手紙が挟まれているお皿はお手伝いさんによって片付けられた。あわよくば、厨房にいる宮原さんがこの手紙に気付いてくれればいいのだけど……。

 続いてエビのグラタン、最後にステーキが供されて、晩餐を終える。


 デザートはフランボワーズのマカロンケーキだった。宮原さんは私のお気に入りを選んでくれたのかもしれない。

 その上に載せられた砂糖のプレートには、金色の菓子ペンでフランス語のメッセージが記されていた。


『お嬢様のお望みとあらば、喜んで』


 ――と。

 思わず、小さいガッツポーズをしてしまった。砂糖菓子の手紙を噛み砕いて、証拠を隠滅する。もう手紙の内容を知る者は誰もいない。



     ―――――――――――――――――――――――――



「ああお嬢様……なんて不憫なのかしら」


 津毛さんも眠り込んだであろう真夜中。深夜三時くらいだろうか。

 拘禁されている自室の扉が開く音で目が醒めると、目の前に老齢の女性が立っていた。鎖に繋がれた私を見て、悲愴な表情を浮かべている。


「宮原さん……。約束通り来てくれたのね……!」

「かわいそうなお嬢様……。いくら規則を破ったとはいえ、鎖で繋ぐようなことがあってはなりません……。ひどすぎます」

「来てくれてありがとう。私に会いに来るのは貴方にとっても危険でしょうに」

「滅相もございません。お嬢様のためとあらばどこへでも駆けつけます。このような事態となれば尚更です。――私に何かお助けできることはございますか?」

「宮原さん。冷静に聞いてほしいのだけど」

「なんでしょう」

「私、このダンスホールから逃げることにしたの」

「逃げる――⁉︎」

「しーーっ! お父様やお母様には黙っていてくれる?」

「それはもちろんでございますが……。そうですよね。足枷を嵌められたりしたら、家出したくなる気持ちもわかります……」

「家出というより、脱獄みたいな絵面よね」


 地上五〇〇メートルの監獄から脱出するのも、未成年がすると家出というかわいい言葉にまとめられるのね。


「どうやって逃げるおつもりですか?」

「わからない。とにかく、明日のダンスパーティーで“友だち”が助けに来るのよ」


 なるべく真剣に言ったけれど、私が“友だち”と言うときに誇らしい響きを抑えることができなかった。

 宮原さんはにっこりと笑った。


「もしかして……お友達というのは、水色のドレスと、紫のドレスのお二人ですか?」

「そうよ。――って、どうして知っているの⁉︎ たしかにそうだけど……」


 予想外の返答に、思考がフリーズした。

 私の顔には四〇個くらいの疑問符が書かれているであろう。宮原さんは続けた。


「何を申しましょう。お二方を上階のお手洗いに案内したのは私でございますから」

「……そうなの⁉」

「お一人でお手洗いに籠もってしまった季見歌様の寂しさを紛らわせる助けになれば……と思った次第なのでございますが、よいお友達になっていただけたようで何よりです」

「白奈とクレマンスを案内したのは宮原さんだったのね……」

「ええ。まさか、一晩で脱出計画をお企てになるほど仲良くなられるとは思いませんでしたけれどね♪」

「ありがとう。あの二人と話したのはほんの束の間だったけど、今まで生きてきていちばん幸せだったの」


 それは本音だった。

 権謀術数渦巻く貴賓席では誰もが権益を得ることに必死だから、心の底からの繋がりなんて望むべくもない。何の政治的役割も無い私は動くお人形のようなもので、父親にとっての私はゲストに提供する話題の一つであり、ゲストにとっては父親に取り入るための便利な道具だった。

 ここに住んでいれば、高価な宝飾品を買ってもらったり、褒め言葉を掛けてもらうことは幾らでもある。でも、そんなものは満杯のグラスに水を注ぐようなものだ。これ以上欲しいとは思わない。

 私はご馳走よりも、ジュエリーよりも、心の繋がりをずっと求めていた。だから、冗談で笑ったり、「命がけで助ける」と言ってもらったことは、誇張抜きで人生最高の思い出だったのだ。


「よかった。季見歌様の幸せは私の幸せです。もし、お二人と一緒にお逃げになるなら手錠と足枷の鍵をお持ちします」

「そんなことできるの?」

「できなくても“する”のです。私はいつでも季見歌様の味方ですから」

「ありがとう。でも、頼んでおいてなんだけれど、いいのかしら……。もし露見したら、宮原さんにも大変な迷惑をかけることになるわ」

「私はうまくやります。それに、もし私が季見歌様の家出に協力して解雇されたとして、どこへでも転職できますから心配はいりません。私には()()()がありますので。」宮原さんはボディービルダーがやるように、わざとらしく二の腕をさすってみせたから、笑ってしまった。確かに、宮原さんの料理スキルは疑いようもない。けど、その言葉は私を安心させるためのハッタリだろう。もし問題を起こして解雇されたと知れたら、よそで雇ってくれる場所は多くないはずだ。「――私はただ、季見歌様が不幸そうにしているのを見ていられないのです。季見歌様が笑顔になれるために出来ることがあれば、喜んでお手伝いさせていただきます」

「ありがとう。私のことを気遣ってくれるのは宮原さんだけよ」

「それは違います」

「え?」

「あとお二人いらっしゃるでしょう?」


     ――――――――――――――――――――


 ついにダンスパーティーの夜がやってきた。白奈とクレマンスの二人が私の脱走を手伝ってくれる〈Xデー〉だ。


 いつもどおりならダンスパーティーは七時に始まったはず。時計を見ることもできないから、今が何時なのかも分からないけれど、お腹の空き具合的にはもうとっくに始まっていると思う。

 宮原さんは助けに来てくれるだろうか。白奈とクレマンスは本当に来てくれるのだろうか。時間が経ち、約束の時間が近づくにつれて、不安ばかりがつのった。

 そのとき、ガチャッという乱暴な音を立てて部屋が開く音がした。


 ――まさか……津毛さん⁉


 勢いよく開く扉に目を遣ると、メイド服の女性が入ってきた。艶のある白髪が上品なお婆さん。


「宮原さん!」

「季見歌様っ! お心の準備はよろしいですか?」

「鍵を見つけてくれたの?」


 宮原さんはメイド服のポケットから鍵束を出して、シャラシャラと音を鳴らしたみせた。赤い眼鏡の奥の目が、悪戯っぽく笑った。――こんなに生き生きしている宮原さんを見たのは初めてだ。もしかすると、昔はいたずらっ子さんだったのかもしれない。

 宮原さんは素早く私の手錠を外す。四肢の拘束が解かれて自由になると、全身の関節がまるで錆び付いたジョイントのように(なま)っていた。

 一度大きく伸びをして身体をほぐすと、関節という関節からパキッ、ポキッと気泡の割れる音がした。


「ありがとう」

「とにかく時間がありません。私に付いてきてください」

「いま何時?」

「九時二〇分でございます」


 約束の時間、ちょうどだ。


「――急がないと!」


 私は早歩きの宮原さんに手を引かれて、メイドさん用の更衣室へと案内された。


 ――どうして更衣室?


 そんな疑問はすぐに解消されることになる。


「季見歌様のために準備させていただいたものがございます」


 宮原さんが手に持ったのは、黒と白を基調としたエプロンドレス。ひらひらとしたフリルが可愛らしいそれは、宮原さんが着ているものと全く同じだ。


「メイド服……?」

「変装に役立つと思いまして」

「そうね。これがあれば、少し時間が稼げるわ。でも、サイズとか合うかしら?」

「ご安心ください。わたくしはお嬢様の服のサイズくらい覚えています」

「そんな……。私を逃がすためだけに仕立ててくれたの……?」


 帯をキュッと締めてみると、寸分違わず腰にフィットした。

 きっと、夜通しで私のために大急ぎで寸法を合わせてくれたのだろう。宮原さんが見せてくれた心遣いに鳥肌が立った。


「窮屈なところはございませんか?」

「完璧よ。ありがとう」


 彼女は小さなリュックサックも持たせてくれた。


「そして、こちらは生活用品です。歯ブラシ、着替えなど、最低限必要そうなものをいくつか詰めさせていただきました」

「宮原さん……。ほんとうにいろいろなことまでありがとう……」


 宮原さんは私の髪を慣れた手つきで纏め上げて、頭にメイド用の白いリボンを結ぶ。鏡に映った私の姿は、まるで別人。どこからどう見てもメイドさんだった。

 これなら……会場に紛れ込める!


「完璧ね!」

「完璧でございますね」


 ふと、鏡の端に気になるものが目に入った。

 石鹸やフレグランスの詰め替えが纏められた箱の中。

 その中に、見覚えのある容器を見つけた。――白奈が欲しがっていた、〈エルソーク〉のハンドクリームだ。初めて会ったときの化粧室で、「ワンプッシュ何千円だ!」と言って喜んでいたのを思い出す。


「宮原さん。このボトル、一本頂いてもいいかしら?」

「ハンドクリームですか? 荷物になりますよ?」

「大事なものなのよ」

「もちろんです。お嬢様がそうおっしゃるなら」


 私はその容器をメイド服のポケットの中に仕舞った。


「――宮原さん。いままでずっとお世話になったわ」


 宮原さんの肩に抱き付いた。


「季見歌様。残念ですが、私がお手伝いできるのはここまでです。地上に降りてもどうか息災で」

「宮原さんこそ。このお礼はいつか必ず……!」


 抱擁を解いてからも名残惜しく立っていると、宮原さんにポンと背中を押された。


「ほら、季見歌様。時間がありませんよ」


 時計を見ると、九時三〇分。約束の時間を一〇分オーバーしていた。



     ★✴︎✳︎*✳︎✴︎☆✴︎✳︎*✳︎✴︎★✴︎✳︎*✳︎✴︎☆✴︎✳︎*✳︎✴︎★



「季見歌! 助けに来たよ!」


 お手伝いさん用の控え室から、上階の化粧室に飛び込む。

 そこには白奈が待っていた。黒いズボンに、白いシャツ。その上に、黒いジャケットを合わせている。タキシードみたいだった。


「来てくれたのね、白奈!」

「あたりまえでしょー」

「その格好どうしたの? 」


 白奈が着ている黒いタキシードはピンストライプの渋い仕立てで、四〇代くらいが着てそうな感じだった。白奈の顔はやや童顔気味だから、ひどく不釣り合いで、そこがかわいかった。


「動くからだよ。ヒラヒラした格好だとマズいの。季見歌こそ、どうしてメイド服なんか着てるの?」

「話すと長いわ」

「じゃああとで話そう! 今は時間がないっ」

「ねえ、クレマンスはどこ?」

「ここにはいない。下で待ってるの。――地上に降りたら、季見歌はクレマンスのバイクに乗るよ!」

「了解! あと……、これ。白奈が欲しがってたハンドクリーム。地上に降りたら使って」

 ポケットの中に入れていた容器を白奈に手渡した。

「あ! 〈エルソーク〉じゃん! 私が死ぬまでに一回買ってみたかったやつだ……ありがとう♪」白奈が満面の笑みを浮かべるのを見て、私まで嬉しくなる。「まさか、“死ぬかもしれない日に”手に入るなんて思わなかった」

「喜んでくれてよかっ……待って、いま何て?」

「なんでもないよ?」


 慌てて誤魔化される。聞き捨てならない……というか、生物として聞き捨ててはいけないことを言ったような。


「いま、死ぬかもしれないって言ったわよね。……命の危険があるの?」

「もちろん。普通に生きていたって、明日心臓発作で死ぬかもしれないんだから。人生ってそういうものでしょ?」

「そうかしら」

「大丈夫だよ季見歌。安心して私について来て?」

「不安になってきたのだけど……」

「平気平気! 休憩室にある非常口から逃げるよっ」

「非常口? そんなのどこにあるの?」

「知らないの? ダンスホールに付属している〈休憩室〉にあるんだよ」

「休憩室に非常口があるなんて聞いたことないわ。どうして貴方がそんなこと知っているのよ」

「東京まで行って、国会図書館で建築時の図面を見たんだ」

「わざわざ東京まで行ったの⁉︎」


 金沢から東京までは新幹線で片道三時間。富山から東京まで往復すると八時間かかる。

 ものすごい手間を掛けて準備してくれているのが伝わってきた。


 ――人は考える時間があれば冷静になるんだから大丈夫よ。しっかり準備してくれたんだから、滅茶苦茶な計画なんかじゃない……はず!


「行くよ。時間がないっ」


 白奈は私の手を引いて、化粧室を飛び出した。


「ああ、そのバッグもここに置いていって」

「え? でも、歯ブラシとか着替えとか、必需品が入っているのよ」

「地上で何でも調達できるから、全部置いていって。なるべく軽くしなきゃ危ないの!」

「危ない?」

「“やればわかる“!」

「“やる”……⁉︎」


 不吉な動詞ね。

 何を“やる”のかしら……。

 せっかく宮原さんに用意してもらった地上での生活キットだけれど、白奈の言いつけに従って控室に置いていった。

 正直、不安だらけだったけど、ここまで準備してもらっておいて後戻りはできない。

 タキシード姿の白奈に手を引かれながら螺旋階段を下って、下階に降りた。


     ―――――――――――――――――――――――――


 ダンスホールに出ると、優雅なワルツの演奏が聞こえてきた。

 私たちは手を繋いで、紳士淑女たちがステップを踏むダンスホールを堂々と横切る。階段から大広間を隔てて対角線上にある休憩室扉を開けると、暗い部屋にたどり着いた。


「間違いない。この部屋が〈休憩室〉だよ」

「……初めて来たわ」


 休憩室は、微かにタバコの臭いがした。

 たぶん休憩室というのは隠語で、本来は喫煙室のことなのだろう。今はダンスパーティーが一番盛り上がっている時間だからか、人影はない。


「非常口ってどこ?」


 私は非常口とやらを探した。きっと、非常口というのは災害でエレベータが止まったときに地上に降りるため、螺旋階段か何かに繋がっているのだろう。螺旋階段で五〇〇メートルも下るのは大変そうだなぁ……。

 そんな心配をしていた。

 だから、白奈が指し示した場所を見て度肝を抜かれた。


「ええーっと、この窓だ!」

「窓……? どうして窓に非常口があるのよ……。ここは地上五〇〇メートルよ?」


 白奈は窓の取手に手を掛けた。その窓には「非常用レバー」という表示のほか、『子どもの転落・死亡事故に注意』等の警告が書かれている。


「白奈。ここ、〈開けるなキケン〉って書いてあるわよ?」

「ねえ、季見歌。季見歌って高所恐怖症じゃないよね?」

「まぁ、高いところに住んでいるから大丈夫だけれど……。質問の意図を聞かせてもらってもいいかしら?」


 地上五〇〇メートルにもなると、あまりに風が強いので基本的には窓を開けるだけで大変危険。というかほとんど自殺行為である。窓を開けた瞬間、ものすごい風圧で外に吹き飛ばされるのだ。だから、バルコニーなど存在しない。

 白奈はおもむろに窓の非常用レバーを回す。

 窓は、まるで溶接されているかのように重たそうだった。

 しかしいったん開くと、勢いよく全開になった。

 室内から外へ向かって、まるで嵐のような強風が吹き荒れた。


「完璧。じゃあいくよっ。覚悟はできた?」

「待って待って待って待って! 本当に何をするつもりなの⁉」


 白奈はタキシードのジャケットとワイシャツを脱いだ。ワイシャツの下には、ベルトで括り付けられたバッグが隠れていた。

 私の後ろへ回り込み、腰のベルトを延伸して、私の腰にも括りつける。


「――なに? 本当に何をするつもり?」

「わかるでしょ?」

「わかっちゃいけない気がするのよ」

「季見歌。なんにも心配いらないからね」

「全く信用できないのだけど⁉︎」

「大丈夫。どっちに転んでも苦しまないから!」

「苦しめないんじゃなくて⁉︎ デッド・オア・アライブってこと⁉︎」

「だって、ここに閉じ込められるくらいなら“死んだほうがマシ”なんでしょ? 季見歌がそう言ってたから、助けに来たんだよ。チャレンジしてみようよ♪ 勇気を出して、全部変えよう?」


 ええ、ここから落ちたら全部変わってしまうでしょうね。たとえば、私という存在が肉片に変わってしまったり……。いや、五百メートルから落ちると、肉片も残らないのかしら……。


「命を無駄にしたくて言ったわけじゃないわ!」

「落下位置まで、全部計算したから平気だよ♪ 覚悟はできた?」

「出来てない! 一ミリも……一オングストロームもできてない!」


 必死に止めようとするが、窓から吹き入る強風が、私の返事を掻き消してしまった。


「テン・カウント始めるよ! ――スリー、ツー……」

「テンカウントじゃないのっ⁉︎」


 そのとき、喫煙室の扉が勢いよく開く音が聞こえた。私は嫌な予感とともに振り返る。


「お嬢様――‼︎ 何をしていらっしゃるんです⁉︎」


 鋭い叫び声がした。そちらには、鬼の形相をしたメイド服の中年女性が立っていた。


「津毛……さん!」


     ―――――――――――――――――――――――――


「何をしている‼︎ お嬢様を離しなさい――――!」


 津毛さんは顔中の皺を寄せた般若のような形相で、私たちに怒鳴り声を浴びせた。パーティー会場まで聞こえるような叫び声。もはや、世間体なんてあったもんじゃない。


「嫌だ」


 白奈は、キッパリと言った。


「お前の目的は何だ? お嬢様を殺しにきたのか⁉︎」

「そんなわけないでしょ! 助けにきたの‼︎」

「馬鹿者っ! 窓から突き落とそうとしておいて妄言もいい加減にしろ‼︎」

「馬鹿はどっちよ! 季見歌を散々傷付けておいて!」


 白奈が本気で怒鳴っている。

 温厚だと思っていたけれど、本気で怒鳴るとかなりの迫力があった。


「お嬢様‼︎ こいつはお嬢様を殺すつもりです‼︎ お戻りになってください‼︎」

「傷付ける? 傷付けてるのはあんたでしょ? 津毛!」

「な……私の名をどこで……」

「季見歌に聞いたよ。今までやってきたこと、全部。――あんたに季見歌を守る資格なんか無い。季見歌は私が貰っていくから! ――季見歌、飛び込むよっ。息止めて!」

「させるかぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ――――――――‼︎」


 津毛さんが猛烈な勢いで走ってきて、その野生動物のように(たくま)しい腕を伸ばした。私は先ほどまでの恐怖なんか忘れて、飛び込む直前の水泳選手のように膝をしなやかに曲げた。

 津毛さんの指先が私に追いつく直前、私と白奈は示し合わせたように同時に床を蹴ると、身体が空中に投げ出さた。全てがスローモーションで進み、ふわりとした浮遊感が襲う。

 逃げ切れる! ――そう思ったが、そうは問屋が卸さなかった。

 突如、私の右腕に、ムチで思い切り叩かれたような衝撃が走ったのだ。


「――させるものかぁぁぁぁぁぁぁぁっっっ‼︎」


 上を見ると、恐るべき勢いで肉薄した津毛さんの左腕が、私の二の腕を掴んでいた。

 そのまま、二人分の体重を片手で支え、あまつさえ引っ張り上げようとする。私は引き剥がそうとして藻搔いたが、その指はてこでも動かせないくらい重い。このまま、私の手首が折れてしまいそうだった。元ニューヨーク警察の怪力は半端じゃない。


「季見歌を放せ‼」 


 白奈が叫ぶと、津毛さんは


「拘束具を外せ‼ 誘拐犯‼」


 と言い返した。

 窓からぶらぶらと揺られる私と白奈を、猛風が襲い、身体が一気に冷える。


「絶対……絶対許さない! 季見歌を閉じ込めるあんたを教育係なんて呼ばせないから! 代わりに私が季見歌を(さら)って宝物みたいな思い出を作ってあげるの!」

「お前のせいで季見歌様が積み上げてきたものを壊させるわけにはいかない! ――お嬢様‼︎ 私がこの者からお嬢様を守って見せます!」

「違う。全部あんたのせいだよ! あんたが季見歌に「いっそ死にたい」なんて言わせておいて、「守る」なんてどの口が言えるの?」

「死にたい、ですって……⁉︎」


 津毛さんの目には驚愕の色が浮かんでいた。真偽を確認するかような視線を私に送ってくる。


「嘘をつくな! 私はお嬢様を大切に育ててきた。お嬢様がそんなこと仰るはずがないっ!」

「言ったわ」


 津毛さんは、目を大きく見開いていた。


「ここに居るのなら死んだ方がマシ。そう言ったの。もう貴方に閉じ籠められるのは沢山だわ。私はこの子と一緒に逃げるの!」


 その瞳が揺れ、明らかに動揺していた。


「季見歌っ! 津毛を振り払って!」


 津毛さんの隙は、今しか無いと思った。

 私はビーフステーキを齧るときのように口を大きく開くと、手首を掴んでいる津毛さんの手に顔を近づけ――――左手の指に思い切り噛み付いた!

 口の中に鉄臭い血の味が広がるとともに、津毛さんが鋭い悲鳴を上げる。二の腕を掴んでいた津毛さんの手が離れ、自由落下が始まった。


「――あはははははは。――やるじゃん季見歌‼︎」

「――笑いごとじゃないよぉぉぉぉぉ‼︎」


 下から上へと高速で移り変わっていく景色。

 ブォォォォォォォという轟音が鼓膜を揺らす。


 落下による強烈な風圧が、メイド服のスカートをバタバタとたなびかせ、巨大なドライヤーで吹かれたように髪をばさばさと暴れさせた。下から上へ吹く風が身体を打つたび、容赦なく体温を奪う。今は真夏だというのに寒さで凍えそうだった。

 風圧が強すぎて、まともに眼を開くこともできない。


「「――キャァァァァァァァァ‼︎」」


 二人の叫び声が縒り縄のように交差して響き渡る。私の絶叫はまるで断末魔のようだが、白奈の声色はどこか楽しげですらあった。

 落下速度はどんどん加速していったのにも関わらず、落下中の時間は実際の何倍にも引き延ばされて感じる。人間、生命の危機を感じると時間の流れが遅くなるのだと身をもって知った瞬間だった。

 原始的な恐怖と目の乾燥で、涙がちょちょぎれる。――もう、まともに前が見えない!


「白奈! パラシュートを開いて!」

「まだ早い!」

「まだ……? ――……まだ⁉︎」

「もう少しっ!」


 地表が近づくにつれて、ミニチュアのようだった金沢の街がどんどん大きくなっていく。


「もうだめっ! 地面にぶつかるよぉぉぉぉぉ‼︎」

「――いまだっっっっっっっっ‼︎」


 ――バサーーッ


 という音と同時に、胴に巻いたベルトがお腹を激しく締め付ける――同時に、吹きつける暴風が一気に止んだ。

 パラシュートが開いて落下が遅くなったことで風圧が止んで、ようやくまともに目を開くことができた。――そのとき、私は目の前に広がっていた光景を信じることができなかった。視界一面を埋め尽くす、宝石箱を覗いたような光の粒。


「綺麗……」


 命の危機だというのに、思わず嘆息が漏れる。


「これ、綺麗なの?」


 五百メートルも遠く離れた場所からしか見たことがなかった金沢の街が、すぐ目の前にある。それはまるで、別の世界のようだった。


 地上の世界が私の目にはどう見えているのかを話すと、普通に地上に暮らしている人にとって奇妙に聞こえるかもしれない。

 十年ぶりに見る木は、人間の何倍も大きい。公園はダンスホール何個分ほども広くて、端から端まで歩くのに何分も掛かりそうだ。五〇〇メートル上からはLEDのライトより小さく見えていた建物の光は、その一つ一つを近くから見ると人が暮らしている部屋から発されていたものだと感じることができる。

 地上の世界のあまりのスケールの大きさに、身のすくむ思いがする。

 木が……池が……アスファルトが……全部が新鮮だった。


「金沢って、近くから見るとこんなに綺麗なのね」

「普通の人はダンスホールからの景色のほうが綺麗って思うんだよ」

「そうなの?」

「人間って不思議だねー。慣れてないものに魅力を感じるみたい。――あっ! クレマンスを見つけたよ!」

「どこ?」

「ほら、あそこ! 長陸公園の端っこでライトを振ってる人! きっと私たちのパラシュートもクレマンスから見えてるよ。このまま行けばあのあたりに着くねっ。クレマンスの計算通り!」


 クレマンスは二日かけてパラシュートの進路を計算してたんだー、と自慢げに言う白奈は、まるで自分が計算したみたいに誇らしそう。思わず笑ってしまう。


「その計算ってほんとに信用できるの?」

「クレマンスは物理と数学のテストで一点も取りこぼしたことないんだよ。今まで唯一バッテンがついた答案は、先生の出題ミスだったの」

「それ……カンニングしてないかしら?」


 ちなみに、落下地点や瞬間風速の計算にはカオス理論が関わってくるから、現代のスーパーコンピュータでも正確な計算は不可能だ。クレマンスの頭がいくらいいとはいえ、最新のコンピューターを超える計算ができるはずはない。


 ――なんてことを、友達思いの白奈に言うのは失礼だから、黙っているけどね。


「だから安心して! クレマンスの計算に狂いなんか起こるわけがな……―――キャアアアアアアアアアア」


 世界が横に揺れた。突風が襲ったのだ。パラシュートの軌道が変わり、大きく右に逸れる。


「――白奈! この突風も計算の内だったの⁉︎」

「さ……さあ……」


 目の前には、長陸公園の巨大な沼が見える。

 視界に映る沼はどんどん大きくなっていく。やがて目の前で、視界いっぱいを埋め尽くすほどに――


「白奈! このままいくと沼に落ちるわよ⁉︎」

「まだわからないよ」

「ほら、やっぱり落ちる!」

「クレマンスの計算は絶対に……」

「絶対に落ちるって‼︎」

「――やばい‼︎ 息止めてーーーーーっっっっ‼︎」


 白奈はそう叫びながら、私のお腹のあたりを強く引っ張った。


「 「―――キャアアアアアアッッッッッッ……」」


 私たち二人は勢いよく沼に突っ込み、バシャーーンという派手な爆発音をたてて水面を叩いた。私たち二人は落下するパラシュートの重みにつられて、沼の中に引きずり込まれる。

 水中で大きな泡がブクブクと弾ける音がする。息ができなくなった。

 必死に脚をバタバタさせて足場を探すが、どこにも当たらない。ここは人の背丈より深い沼のようだ。

 背中の白奈が重くて、バランスも取れない。腰に巻いた金具の重みで、私たちはどんどん下に沈んでいった。


 ――まずい……このまま金具が外れないと溺死するわ!


 溺死は数ある死に方の中で、最も悲惨なうちの一つだと聞いたことがある。肺の中に水が入るのは、胸の奥がバーナーで炙られるような痛みだという。だから、絶対に水を吸い込んではいけない。肺がバーナーで炙られないよう、必死に息を止める。

 白奈が私の腰に手を回し、がちゃがちゃといじっている。二人揃って溺れ死ぬだろう。


 ――白奈! 急いで!


 

 水中ではやってはいけないことがある。まず、ジタバタと身体を動かしてはいけない。運動中の酸素使用量は安静時の四倍にもなるから、苦しんでジタバタすれば血中(けっちゅう)酸素濃度が急速に下がって意識が混濁する。

 それをわかっていても、やはり苦しくて無意識に首の周りの水を藻掻(もが)いてしまう。突然空気を奪われて冷静になんかなれない。

 口から漏れた大量の泡が水面に向かっていくのとは対照的に、私たちは下へ下へと沈んでいった。


 腰のあたりから「ガチャンッ」という爽快な音が聞こえ、白奈の身体が背中から離れた。


 ――拘束が解けた! これで動ける!


 身体を捻って、即座に水面を目指した。しかし、水面に顔を出そうとしても、何か膜のようなものに妨げられて息が出来ない。手探りで感触を確かめると、それはパラシュートだった! パラシュートが水面を覆って、息継ぎすることができない。


 両手で引っ掻いて退けようとするけど、全然動かなかった。端っこが水草に絡まって、つっかえているみたい……。

 私はパラシュートの一端を掴んで、体重を掛けてスルスルと水中に引き込む。時間がかかる方法だけど、これしかない。苦しくて、すぐにでも意識が途切れそうなほど身体は酸素を欲していた。

 そのまま永遠に近い時間、パラシュートを引っ張っていたような気がする。実際には三十秒でもなかったのだろうけど、身体が酸欠状態になっているせいで、時間がひどく引き延ばされて感じた。何回引いたか。ようやくパラシュートの端っこを掴むと、ついに水面が姿を現した。頭上に公園のライトが光る。


「――――――ぷはぁぁぁぁっっっっ‼︎ はぁ〜〜……はぁ……。」


 大きく肺に空気を取り込んで、吐き出す。そのまま二回深呼吸した。

 危険域に達していた脳に酸素が周り、混濁しかけていた意識がハッキリと戻ってくる。


 ――はぁ……。なんとか生き残ったわね……。


 身体を動かして岸まで泳ごうと試みたけれど、大量の水を吸った服が重すぎてまともに進まなかった。


 服を着た状態で泳ぐことを着衣泳(ちゃくいえい)という。護身術としてのスイミングを習う場合、必ず習う項目だ。

 水着で泳ぐ場合と、普段着を着たまま水中に放り出される場合とでは、勝手が全く異なるから、いくつか特別なセオリーがある。

 まず、冷静になる必要がある。無闇に動けば動くだけ体力を消耗して、溺れるリスクが上がる。また、水中では服がへばり付くから、服を脱ぐのは悪手だ。体温を保つためにも、服は着たままの方がいい。

 そしてなによりも、着衣泳では水の抵抗が大きすぎて身体が動かせない。だから、泳ぐことより浮くことを優先したほうがいい。たとえ一流の水泳選手でも、服を着たまま無理に泳ごうとすれば溺れる。

 私はパラシュートの端に空気を溜めて浮き代わりにして、水面に顔を出し続けた。

 乱れた呼吸を整えるうちに、身体から失われていた感覚が戻ってきた。

 首を振ってあたりを見回す。


 弱々しい街灯が照らす公園は、不気味なほど静かだ。


 ここが夢にまで見た地上……。木の葉が擦れる音が、猛烈に懐かしかった。十年ぶりに聴こえる音……。


「しっ……白奈……! やったよ……! 地上に下りられたよ!」


 私はこの感動を白奈と共有しようと、周囲を探したが……どこにもその姿が見えない。


(……あれ?)


「……しろな?」


 広い沼で、水面に顔を出しているのは私だけ。白奈の姿はどこにもなかった。


 顔からサッと血の気が引いた。体感では二分くらい水中に居たはずだ。二分というのは、息継ぎ無しでは絶望的に長い時間である。


 ――もしかして…………


 ガラガラになった喉で、必死に叫び声を上げる。


「―――っし……白奈? 白奈⁉︎ エホッ、エホッ……。ねえ、どこにいるの……白奈……。しろなーーーーーーー‼」


 まさか……溺れたの⁉︎

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