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〈誘拐編〉第4話 またねっっ♪

(※季見歌の一人称)

 ダンスホールに響いていた軽快なダンスミュージックはいつの間にか、声楽のバラードに変わっていた。ちなみにバラードを歌っているのは私の声楽の先生である。せつないバラードは、長い宴の終わりが近いことを告げる。パーティーの参加者たちは、今日知りあった相手に別れの挨拶をしていた。

 私が立っている上階の貴賓席からは、ホールで楽しそうに踊るゲスト達が見える。私は彼らに混じってお話しすることを許されていない。貴賓席は、このホールで唯一つまらない場所だ。

 私がいつも上階に居るのは、下階に降りることが許されていないから。もし、ダンスホールの絨毯(じゅうたん)を一歩でも踏めば、教育係の津毛直子さんが厳しい罰を与える。津毛さんは教育係として、未婚の私が若い異性や同級生と話すことで()()()()()()()に染まることを激しく嫌っている。

 会話することが許されている相手は数人に限られている。両親と津毛さんを始めとした女性のお手伝いさん、および貴賓席(きひんせき)に招かれた賓客(ゲスト)だけ。

 その中で、私にとって「新しい出会い」と呼べるのは賓客に限られる。

 賓客の中からお友達を見つけられればいいのだけれど、貴賓席に呼ばれる可能性があるのは政治家や経営者など、社会で際立って高い地位に立つ者だけ。それも、日本有数の金沢財閥を束ねるお父様に利するほどができるほどでなければならない。自然、そのほとんどが白髪が生えた男性となる。もちろん、白奈やクレマンスみたいな同級生の女の子がこの席に来たことなど一度たりともない。


 お父様は、主賓の大村益美知事とお辞儀し合いながら何度も何度も握手を交わしていた。あれって意味があるのかしら。

 お母様は友人である夏目さんとハグして、お互いの頬にお別れのキスをしていた。

 いつもだったら、私もあの中に混じって、軽くお辞儀してからニッコリ笑い、頬にキスを受ける。津毛さんから教わったとおりに。

 でも、今の私は忙しくて挨拶どころではない。白奈やクレマンスともういちど会うために、次のダンスパーティーの招待状を手に入れなければいけないのだから。


 そう。今の私は招待状泥棒なのである。


 抜き足、さし足、忍び足――。

 

 誰にも話しかけられないように存在感を消して、両親と賓客が居る上階ホールの壁沿いを通り抜けようとした。

 バレてない。バレてない。気分はさながらスパイである。やってることはスパイというより窃盗犯だけど……。

 存在感を消したまま、お父様と知事が立っている席の後ろを通り過ぎようとすると……


「――季見歌、どこにいたのだね?」


 ギクッ――


 声を掛けてきたのは、お父様だった。

 お父様――金沢滋生かなさわしげおは総社員九〇万人を数える金沢グループという企業連合の会長を務めている、北陸で一番の権力者。とってもすごい人らしいけれど、他に比較する相手が居ないので本当なのかはわからない。

 ともかく、私は何かうまい言い訳を探さなくてはならない。正直に「新しく出来た友達とお話していた」と答えれば、私は自室に閉じ込められるだろうから。今まで、規則違反するたびに足首を鎖で繋がれて自室に閉じ込められてきた。ダンスホールに閉じ込められるだけで辛いのに、狭い部屋から何日も出られない苦痛は本当に死にたくなるほどだ。

 もっとも、お父様は私を罰するほど私に関心がないから、罰を与えるのはお父様ではなく津毛さんだけれど。この人にとっての私は、ただの政治道具だ。


「お手洗いに行っておりました、お父様。お腹の調子が悪くて」

「今日は益美おじさんともっと喋りたいと言っていただろう?」


 もちろん、そんなことを言った記憶はない。

 益美おじさんとは、お父様の隣でにっこり笑っている石川県知事のことである。私が物心ついた頃から知事で、なにが目的なのかよくわからないけれど、このダンスホールを度々訪れている。

 私はこの人が苦手だ。

 いつも女性の容姿の話をしているし、私やお母様と話すときには非常に距離が近い。事あるごとに髪や肩を触ってくるのも虫唾が走る。

 私は会いたくないとお父様にお願いしたこともある。もちろんその願いはすげなく断られ、ひどく叱られた。「これはお友達付き合いなどではなく政治だ。金沢グループの一員としての自覚が足りていない」と。

 知事ともっと喋りたい、だなんて私が言うわけがないのだけれど、お父さんは知事の機嫌を取りたいからそんな嘘八百を言うのだ。私にも口裏を合わせて欲しいのだろう。いつもそうするように。

 知事は私に懐かれていると知ってご気分がよろしくなった様子で、その白い歯を出して私に微笑みかけた。


(もう。時間が無いのにこんな茶番に付き合わなきゃいけないなんて……!)


 私の経験上、政治家の九割は話を始めるといつまで経っても終わらない。ここで知事と円満に会話が始まれば、長話が始まるのは火を見るより明らかだ。お手洗いで待たせている白奈やクレマンスを危険にさらしたまま十五分も話させる展開は、何としても避けなければならない。


 だから、私はあえて知事に嫌われる作戦に打って出ることにした。


「いいえ。そのようなことは言っておりません」


 その言葉を口にすると、知事の表情がニッコリとしたまま氷河期の地球みたいに凍った。お父様の眉間には深い皺が寄って明らかに動揺し、恨み言を言いたそうにしているが、知事の眼前でそうすることもできない。

 私は場の主導権を握るため、そのまま間を置く。沈黙はおそらく二秒にも満たなかったに違いないが、緊迫した二秒だったため、まるで永遠のように感じられた。二人は私の次の発言を見守っている。私は自分の言葉にかつてないほどの注意が向けられていると感じながら、再び口を開いた。


「――いえ……その。益美おじさまはお忙しいでしょうから、私なんかとのお話に貴重な時間を取らせてしまうのは恐れ多いので……甘えさせていただくことなどできません」


 緊迫の数秒のあと、私に嫌われていないと知った知事は、すっかり満面の笑みを浮かべた。


「あっはっはっは。そんなことは気にしないでおくれよ。季見歌くんみたいに素敵な女性とお話する時間はいつだって楽しいものだ」


 と、表面的には紳士的なことを言いながらも、表情は若干引き攣っていた。私が最初に冷たく放った言葉がボディブローのように効いているのだろう。これで長話を避けてくれればいいのだけど……。


「すっかりお母様に似て美しく成長して。男達で取り合いになったら戦争でも起こりそうだよ。楽しみだねぇ。将来どんなお婿さんを捕まえるのか。はっはっはっは――」


 気の利いたことを言えたとでも思ったのか、知事は唾を飛ばして笑いながら私の頭を撫でた。不愉快で、粟肌が立つ。「触らないで!」と叫んで振り払いたいくらい。

 もちろん、時間は限られているから、その選択肢はない。旋風(つむじ)の上を乾いた掌がたっぷり二往復するまで、じっと耐えた。


「美しいだなんて身に余るお言葉です。――益美おじさま。私はここで失礼させていただきます。どうぞ、素敵な夜をお過ごしください」


 私はそう言って、ドレスの裾を持ち上げ、軽く会釈した。



     ――――――――――――――――――――――――――



 貴賓席をなんとか通り抜けて、奥の衣装室ドレッシングルームに入った。ここで着替えをするのは、私とお母様だけ。だから、この部屋にはお母様の財布や靴のコレクションなど、大事な物が置かれている。


 クレマンスの推理通りなら、この部屋のどこかに招待状があるはず……!


 大急ぎで引き出しという引き出しを開け、中に入っている紙や化粧道具をひっくり返すけれど、それらしきものは見つからない。


(どこ? お母様だったら、私に見られたくないものをどこに置く?)


 今まで、招待状がまとめて置かれているところを見たことがない。

 私が見たことないということは、この部屋で私の目につかない場所にあるということだ。


 ――この部屋でお母様だけが使うところ……。それは……。


「ウォークインクローゼットの中ね……‼」


 ウォークインクローゼットとは、その名の通り一つの小部屋のようになっているクローゼットである。

 香水の匂いがするウォークインクローゼットに踏み入り、豪華絢爛(けんらん)なドレスが吊るされたドレスをのけながら、荷物を漁った。


「見つけたっ――‼」


 床に置かれた箱の中で山盛りになっていたのは、眩いばかりの金色で縁取られた便箋だった。趣味が悪いと思った。

 山盛りになった便箋から無造作に二枚を抜き出した。

 しばしの達成感に浸る。


 ――さて……どうやって持ち帰ろう。


 招待状は金ピカに光っていて、手に持っていると目立ちすぎる。このまま再び上階ホールを通り抜けるわけにはいかない。間違いなくお母様かお父様に見つかって、大目玉を食らうだろう。

 ポケットに隠せればいいのだけれど、機能性を捨てて審美性に重きを置いた赤いドレスにそんな贅沢品は付いていない。丸めて手袋の中に入れようとしたけれど、便箋の形が嵩張(かさば)って目立ってしまう。

 結局、ドレスのスカート裏の生地を破いて即席のポケットを作り、その中に隠した。お気に入りのドレスだったけれど、他に方法が無いのだから仕方がない。

 招待状を隠すと、駆け足で衣裳室(ドレシングルーム)を出る。

 白奈とクレマンスが潜伏して待っているから、なるべく急いでお手洗いに戻らなければならない。


 しかし、一つ障害があった。貴賓席にはまだお父様と知事が残っていたのだ。早くどこかへ行って欲しいのに!


 私は急がないといけない。

 下階にいるべき一般客ゲストである白奈たちが上階に居るところを見られたら、どんなにひどい罰を受けるか分からないからだ。

 どうやってここから両親のいる貴賓席の向こうにある化粧室に戻ろうか。白奈達が待っている化粧室に辿り着くためには、お父様や知事の横をもう一度通り過ぎなければいけない。ふたたびお父様に話しかけられれば大きなタイムロスになる。

 知事が過去の功績を話し始めたら、十五分は止まらないだろう。自慢話に足を取られているうちに、化粧室に隠れている白奈たちが見つかってしまうかもしれない。


 そこで私は大きな賭けに出ることにした。一度、階段から下階のダンスホールに降り、ダンスホールを突っ切って反対側の階段から化粧室に向かう。そうすれば、最短時間で辿り着けるだろう。

 しかし、この作戦には一つ大きな問題がある。先ほど言及したとおり、私は下階に降りることを許されていないのだ。教育係の津毛さんは、同年代の子や若い男性も居るダンスホールに降りることを厳格に禁じている。


 下階に降りたことが見つかれば、教育係による苛烈な罰が待っている。

 以前に一度だけ、ダンスホールの下階に降りたことがある。そのときは、五日間も鎖に繋がれて自室に閉じ込められた。その上、津毛さんが一日に何度も様子を見に来ては胸ぐらを掴まれ、激しく詰られた。津毛さんが怒ることは頻繁にあるけど、あれ以上激しく怒っている津毛さんを見たことはない。

 もし再び見つかれば、こんどはもっと酷い罰が待っているだろう。

 津毛さんの金切り声を思い出すと、自然と足が震えた。まるで、見えない津毛さんが真後ろに立っていて、私の一挙手一投足を観察しているような錯覚に陥る。

 それでも、急がないと。白奈とクレマンスが危険を承知で待っているんだから!


「(五日監禁されても、来週のダンスパーティーには間に合う。もう一回、二人に会える……! 行けるよ。行こう!)」


 私は独り言で自分を鼓舞すると、螺旋階段を駆け下りて、下階のダンスホールに出た。

 走りやすいようにドレスの裾を掴み、たくさんの紳士淑女たちが別れの挨拶を交わす大広間を駆け抜ける。

 私は今、明確に規則違反を犯している。わざとルールを破るのは、記憶にある限り人生で初めてかもしれない。――不思議なことに、ほんの少しだけ気持ちが高揚していた。

 反対側の壁を目指すときの私は、ほとんど全力疾走だった。

 たくさんの人影を避けながらホールの反対側の階段までたどり着き、螺旋階段を駆け上がった。上階に辿り着くと息が切れ、視界がクラクラした。ハイヒールのままで走ったせいで、まるで足の小指がヤスリで削られたように痛んだ。

 それでも、二人が待っていると思うと、足が止まらなかった。


 ――待ってて。白奈。クレマンス。もうすぐだよ!


 階段から上階の廊下へ続く扉を開く。二人が隠れて待っている化粧室は、もう目前だ。

 その扉の前に、誰かが立っていた。暗くてよく見えないが、女性のお手伝いさんが着るメイド服を着ている。


 ――宮原さんであって!


 母の執事である白髪に赤いメガネを掛けた宮原さんは、私に唯一優しくしてくれるお手伝いさん。彼女なら、下階に降りてはいけないという規則を破ってもきっと見逃してくれる。


 そんな私の淡い期待は、振り向きざまに見えた相貌に打ち砕かれた。


 墨汁に漬けたように黒い髪を後ろに束ねた、トカゲのように鋭い眼光の中年女性――津毛直子さんだった。この超高層ビルと天空のダンスホールの警備総長であり、私の教育係である。

 私の教育係に就く前はニューヨーク州で警官をやっていたという津毛さんの二の腕は、野生動物のように筋骨隆々としていて、二の腕の袖は窮屈そうに張っている。彼女は実際に、多くの凶悪犯をその両腕で組み伏せてきたそうだ。私の腕の骨程度なら、軽く握るだけでポッキリ折れてしまうだろう。

 その上、彼女は非常に気性が荒い。彼女は失敗した部下を怒鳴りつけて、厳しい罰を与えるため、何人もの部下を退職に追い込んできた。その中には“自ら命を絶った”者もいるという。

 彼女を本気で怒らせることは、このダンスホールで一番やってはいけないことである。


 怖かった。背中は汗で湿り、心臓は口から飛び出そうなほど激しく鼓動していた。


「ごきげんよう、お嬢様。下階で何をなさっていたのです?」


 (しゃが)れた低い声で言った。丁寧だが、咎めるような口調だ。


「すみません……。お手洗いに行くために、回り道をしました」

「なぜです?」

「……すでに知事に別れの挨拶を済ませたので、もう一度会うのは気まずいと思ったのです」

「……お嬢様。こちらへおいでなさい」


 津毛さんはそう言って、私の腕を掴むと、ブルドーザーのような腕力で化粧室の中へ引きずり込んだ。――何度も起こってきたことが繰り返される……。怖い……。両脚はブルブルと震えて、立っているのがやっとなほどだった。


「何度も申し付けたはずです。下階に行ってはいけないと」


 しんとした黒大理石の化粧室の中で、津毛さんは静かに言った。


(おっしゃ)るとおりでございます。大変申し訳ございません……」


 私は壁際まで後ずさった。津毛さんはそれに合わせて、一歩を踏み出してくる。

 壁際まで追い詰められた私は、もう引き下がることが出来ない。津毛さんは、鼻がぶつかりそうなほど近くまで顔を寄せてきた。鷹のような鋭い眼で私を覗き込んでくる。


「お嬢様」

「……はい」

「もし知事と会うのが気まずかったのなら、去るまで待つべきでしたよね?」

「そのとおりでございます。津毛さん」

「散々申し上げてきたはずですよね。下階に下りてはならないと」

「……そのとおりです」


「な ら ど う し て 下 り た――‼」


 心臓を握り潰すような金切り声が、化粧室内に響いた。津毛さんは私の顎を掴み、壁に押し付ける。後頭部を勢いよく壁にぶつけた衝撃で、視界がチカチカと光った。その痛みで、目頭にじんわりと熱いものが伝うのを感じる。


「下 に は 子 供 や 男 が い る ん だ よ⁉ 自 分 が や っ た こ と を 分 か っ て るの⁉」


 津毛さんの顔が般若のように歪んでいる。その唇は怒りのあまりぷるぷると震えていた。

 私の顎を掴む右腕に力を入れ、壁に押し付けられたせいで、後頭部が壁にぶつかる。

 掴まれた顎の骨が痛かった。壁に打った後頭部がジンジンと疼く。


 ――どうしてそんなことするの? 下階に降りただけじゃない。


 やがて、ものすごい量の涙が溢れてきて、視界が歪んだ。


「……申し訳……ありません」

「謝っても済まないだろ‼ もし男が近寄ったらどうするの⁉︎ もしあんたぐらいの子供が寄ってきてくだらないことを教えたらどうする⁉︎ 取り返しがつかないよ⁉︎ あなたは金沢家唯一の跡継ぎなんだよ。立場を弁えてるの⁉」

「すみません。……二度と繰り返しません」

「二度と? 二度とですって⁉︎ 前と同じことを言えば誤魔化せるとでも――」


 ――パキッ


 津毛さんが再び捲し立てようとすると同時に、奥の個室の中から物音が響いた。何かが固いものが折れるような音だ。

 白奈とクレマンスが隠れている個室からだ‼

 津毛さんは、チラリとそちらを見遣った。


 ――だめだよ出てこないで……二人がここにいるのがバレたらもっと大変なことになる‼ 怒鳴られるだけじゃ済まない、もっと恐ろしいことに……


 この化粧室に不法侵入していることが露見すれば、二人はおそらく〈鋼鉄の部屋〉という名の拷問室に連れて行かれる。この高層ビルの四〇〇メートル部分にある、関係者以外には極秘の部屋だ。

 鋼鉄の部屋に収監された者は、日本の法律では許されていない方法で取り調べを受けることになるという。死者が出たことすらあるけれど、私のお父様にはそれを揉み消すだけの力がある。 

 津毛さんは物音がした個室の方をじっと睨んでいたが、何も変わったことが無いと分かると、私に向き直った。

 二人が見つからずに済んで安心した。九死に一生という感だ。

 私のピンチは終わっていないのに、胸を撫で下ろした。


「前回、散々「二度としない」と聞きました。それでこの結果でしょう? あんたみたいな大嘘つきの言葉、誰が信じると――」


 ――バチャーーンッッッ


 こんどは、個室から水が派手に弾ける音が聞こえた。ふたたび津毛さんの注意が個室に向く。


 ――白奈! クレマンス! 出てきちゃダメだって! 隠れていて!


 音が聞こえた個室の床から、たくさんの水が流れてきた。水漏れだろうか。


 誰かが個室に居ることが分かって、さすがの津毛さんも発狂に近かった怒鳴り声を抑えた。取り乱している姿を、ゲストに聞かれてはまずいと思っているのだろう。


「んっ……ゴホン。どなたかイらっしゃるの?」


 津毛さんの声は掠れていた。大声を出したせいで声帯を傷付けたのだろう。私は声楽を習っているけど、喉を温める前に大声を出すと声帯が傷つくから、叫び声を上げるのは厳しく禁じられている。津毛さんの声がいつもやや嗄れているのは、こうやって長年怒鳴りつづけたからだと思う。

 津毛さんは個室から返事がないことを訝しく思ったのか、ゆっくりと近づいた。

 奥から二番目だけに鍵が掛かっている。津毛さんが足音を殺して、ゆっくりと近づく。


 ――二人が津毛さんに見つかっちゃう……。


 白奈とクレマンスの二人が見つかるのを、ただ涙が溢れながら黙って見ることしかできなかった。

 津毛さんは奥から二番目の個室の前に立って、ノックした。


「失礼致します。中にいるのはどなた様です? 特にお変わりはございませんか?」


 津毛さんが掠れた声で呼びかけるが、応答は無い。確認するようにもう一度ノックしたが、結果は同じだった。

 流石に中を覗いたりはしないでしょう……。

 そうタカをくくっていると、津毛さんは思わぬ行動に出た。なんと、床に屈み込んで、扉の下から中を覗き込んだのだ。どこからどうみても覗き魔である。


 ――脚が見えちゃう‼ 隠れて‼


 そんなテレパシーが伝わるはずもなく、二人の脚が見つかってしまう。と、思っていると――


「……誰もいない。おかしいですね。とっても」


 ほっ……。うまく隠れてくれたようだ。

 極限の緊張が解け、安心のため息をついた。


「水が漏れてくるなんて、便器が壊れているのかしら。――季見歌様は自室に戻っていなさい。私は水道の技師を呼んだあと、早急に向かいます」


 津毛さんはそう言うと、早足でトイレから出ていった。



     ――――――――――――――――――――


「し……白奈〜? クレマンス〜? いるのー?」


 津毛さんが水道技師を呼ぶために去ってから、個室の中に呼びかけた。


「もちろん!」


 一番奥の個室から、白奈とクレマンスの声がした。

 二人とも同じ個室に隠れていたみたいだ。


「ねえ、どうやって隠れていたの?」

「二人で便座の上に立ってたんだ〜。お行儀が悪くてごめんね?」

「本当にお行儀が悪いわね……」


 鍵が掛かっていない一番奥の個室の扉が開いた。

 個室から出てきた白奈の目には、大粒の涙が溜まっていた。


「白奈……。どうして泣いているの?」

「ごめん。私、涙もろくって……」

「そういうことじゃなくてっ」

「ほんと、なんで怒られた季見歌じゃなくて白奈が泣いてるんだよ」


 クレマンスも呆れ顔をしている。


「季見歌は悪くないよ……。あんな扱いをされていたら逃げ出したくもなるよね。ごめんね……」白奈はそう言って私を抱きしめた。「季見歌……。身体……すごい震えてるよ……」


 そう言って、さらに激しくしゃくり上げた。もしかすると、優しい白奈は怒られている私に同情して悲しくなったのかもしれない。

 なぜか私が白奈の背中をさすってあやしてあげた。クレマンスは、私たちの寸劇を三流映画を見るような目で見ていた。


「二人が見つからなくてよかったわ。――そういえば、さっきの音は? 隣の便器が壊れたの?」

「ああ、これだよ」


 白奈が持っていたのは、金色の立派なトロフィーだった。弁論大会とやらで優勝したときのものだろう。――よく見ると、上部が欠けている。


「それって……」

「そうだよっ! このトロフィーを壊して、破片を隣の個室のトイレにぶん投げたの!」

「ぶん投げたの――じゃないわよ! 何してるのよ‼」

「あの津毛?とやらの注意を引いて、理不尽な説教を中断させかったの。思ったより上手くいったねー」

「ね~」


 クレマンスも同調する。


「そんな……だからって、なにも壊さなくったって……」

「本当はこのまま投げ込もうと思ったんだけどさぁ、トロフィーの底に『弁論大会』ってデカデカと書いてあったから、壊さないわけにはいかなかったんだ。私たちがやったってバレちゃうから」

「そういうことじゃないわよ‼ トロフィーは大切なものなのよ? 一生ケースに飾っておくの。トイレに投げ込んだりしちゃダメじゃない!」

「いいよ。季見歌のほうが大事だし、優勝した事実は変わらないもん♪」

「もうっ……。バカなの?」

「天才でしょ?」


 私のために大きな犠牲を払ってくれたことが嬉しくて、欠けたトロフィーを持った白奈にハグをした。


「ああそうだ。招待状は?」

「見つけたわよ!」

「泥棒っ!」

「頼んだのは貴方たちでしょ!」


 私はスカートの裏に差し込んでおいた金色の便箋を取り出して、二人に渡した。


「スカートの中に隠してたのー? お行儀悪~い」

「便器の上に立つよりはお行儀悪くないわよ」


 私が突っ込みを入れると、二人が笑った。

 不思議なことに、後頭部を壁にぶつけたときの痛みがいつの間にか和らいでいることに気がついた。胸倉を掴んで怒鳴られた直後なのに、足の震えも止まっている。こんなの初めてのことだ。白奈にハグしてもらったおかげなのかな。


「じゃあ、私たちは行かなくちゃ。また絶対会いに来るね!」

「うん。招待状はあるし、また来週このトイレで会おうね♪」

「じゃあね、季見歌!」


 二人は足早に化粧室を去ろうとした。まだ、誰にも見つからないように螺旋階段から下階に下りるという重要なタスクがある。

 でも、私はお別れを言えなかった。


「……待って。私も一緒に行きたい」

「ん? どうしたの?」

「……私も二人が住む富山に行きたいの」

「もちろんだよ。いつか一緒に行こうね♪」

「いつかじゃない」

「……え?」

「いつかじゃない……。今日行きたい……。二人に付いて富山に行きたいの。無理を言っているのは分かっているけれど……付いていきたいわ……」


 これから、私は自室で鎖に繋がれる地獄のような日々が待っている。二人は私があてにできる唯一の人だったから、藁にも縋る思いで言ってしまったけれど……。


「季見歌。残念だけど、それは難しいよ。人がたくさんいるし、季見歌は地上どころか、このフロアから降りることすらできないんだし……。また会いに来るからさ」


 クレマンスが申し訳なさそうな顔で言った。言っていることはもっともだ。それはわかっている。でも……


「でも……私……もう一分一秒だってこんなところに居たくない。あなた達と毎日会いたいのに……‼」


 私はそう言って、白奈の目を見た。白奈ならもしかして……「連れて行ってあげる」と言ってくれるかもしれない。

 そんな期待を抱いていたけど……その表情は暗い。


「うん。季見歌の言い分はわかるよ。けど……警備が厳しすぎる。このまま五〇〇メートル下の地上まで季見歌を連れて行くのはムリだよ。だって、私たちはただの高校生だもん」


 白奈の返事も芳しく無かった。

 しょうがない。そうわかっているのに、涙が溢れてきた。視界がぐにゃりとゆがんだ。せっかくできた友だちに、またみっともないところを見せてしまう。


「そうだよね……。今日知り合ったばかりなのに……そんなことできないよね……」


 私は声に詰まりながら、絞り出すように言った。

 そんな私を見ていた白奈が一転して、ニコッと笑った。太陽みたいな笑顔だった。


「――だからさ、今日じゃなくて、来週、ここから逃げよ?」

「へ?」

「待って、白奈。季見歌。正気⁉︎」

「いつもよりずっと正気だよ。だって、季見歌が辛い思いしてるのに、助けようとしないほうが正気じゃないもん! ――決定ね! 次のダンスパーティーで季見歌を連れて富山に逃げよう! いい作戦を考えておくからさっ。――いいよね、クレマンス?」

「そんな作戦考えつくのか?」

「クレマンスも考えるんだよっ」

「えっ? 私もかよ!」

「あったりまえでしょ! あんたの頭が一番よく回るんだから。――じゃあ季見歌、覚悟はいい?」

「もちろん。……ここから逃げられるなら、命だって投げ出せるわ」

「よく言った♪ じゃあ私たちも“命を賭けて”季見歌を逃がすよ! いいよねー? クレマンス?」

「逃げてやるよ」


 クレマンスは「もうどうにでもなれ」、とでも言いたげだった。


「さすが我が親友♪」


 白奈の言葉に、クレマンスはそっぽを向く。


「そういえば季見歌って、どれくらい外に出ていないの?」

「そうね。私が五歳のときだから、十一年くらい出ていないわ」

「十一年……。想像もつかないほど長かったよね。でも、もう出してあげるから」

「ありがとう……。本当に……」

「十一年ぶりの地上だとさ、やりたいこといっぱいあるんじゃない?」

「やりたいこと?」

「そう。動物園に行きたいとか、ショッピングモールで買い物したいとか、いろいろあるでしょ?」

「ええ。たくさんあるわ。十一年間ずっと、外の世界で遊ぶ想像ばかりしていたから」

「えへへ。ちょうどよかった。じゃあ、〈やりたいことリスト〉作っておいてよ! リストに書いてあること、私が全部叶えてあげる♪」

「やりたいことリスト……?」

「いくつ書いてもいいからね? 全部叶えようっ! あっ……ちなみに高校生の私にも可能なのにしてね。宇宙旅行とかユーラシア大陸横断とかはさすがに無理だから!」

「今すぐ、たくさん思いつくわ。――学校に通いたい。学校の帰り道にマクドに寄りたい。水泳が好きだけど室内プールでしか泳いだことないから、本物の海で泳いでみたい。バイクを運転して風になってみたい。あと、川辺でバーベキューしてみたい……」

「意外と俗っぽいね」

「……変かしら」

「全然平気だよ。全部叶えよっ!」


 どれも、このまま天空のダンスホールに閉じ込められていたら死ぬまで出来ないかもしれないけど……。


「こんなに夢を見ていいのかしら……」

「夢っていうか権利だよ。私だって全部やったことあるんだもん。――来週から忙しくなるね♪」

「私たちは急いでここを出ないと。来週逃げるためにも、今日は警備から目をつけられるわけにはいかないからね」

「うん」

「じゃあ来週のパーティーでは、夜の九時二十分にここのトイレ集合ね。入場口で人の出入りが一番少ない時間帯だから。そのときに脱出計画の詳細を教える」


 乗り気じゃないように見えたクレマンスが、早口でまくし立てた。


「わかった。――ありがとう。クレマンス」

「クレマンスの言うことは信じて平気だよ。この子、意外とすごいから♪」

「意外とって何だよ」

「信じてるわよ。白奈のこともね」

「うん、信じて♪ 私、もう季見歌を一人にしないって誓うから。地上に下りてから季見歌のことたくさん笑わせてあげるからね」

「うん」

「それで、いつか季見歌を苦しめた人たちを苦しめ返してみせるから」そう言って笑った。「――期待しててね♪」


 思わずクスッと笑ってしまった。津毛さんにこんなところを見られたら、肋骨を十本くらい折られちゃうわね。


「白奈って意外に性格悪いのね」

「超悪いよ♪ 季見歌の敵は全員嫌いだもん!」

「うふふ。嬉しい」


 このとき初めて、一緒に笑ってくれるのと同じくらい、一緒に怒ってくれることが嬉しいんだって知った。

 私も白奈とクレマンスのためにたくさん怒ってあげようと決意する――もちろん、その必要があったらだけれどね。

 最後に白奈とクレマンス、それぞれと力いっぱい抱き合って、一週間ぶんのエネルギーを充填する。

 二人とまた会えるのならば、死にたくなるくらい辛い監禁生活だって乗り越えられる。今ならそう思える。


「じゃあね! 白奈、クレマンス!」

「“またね”、でしょっ!」

「うん、そうだね。またねっっ♪」


 走って逃げていく二人を見送って、半身を失ったような喪失感を覚えながら、私は自分の部屋に戻った。これから罰を受けるというのに、口元がほころぶのが抑えられなかった。

 こんな幸せなことはない。

 もし七日後に彼女たち二人が戻ってくることがなかったとしたら、私は絶望して窓から飛び降りていただろう。――“どのみち飛び降りることになる”なんて想像もしていなかったけれど……。



     ―――――――――――――――――――――――――



 目を覚ますと、私は自室の壁にもたれ掛かっていた。

 立ち上がろうとすると、足に思わぬ抵抗を受けた。両足がまるで自分のものではないかのように動かない。足首に、冷たくて重い感覚が走る。

 足元を見ると、まるでアメリカ史の本で読んだ奴隷みたいな状況になっていた。両足首を鎖で繋がれていたのだ。


 現実感のある鎖の重みと共に、記憶が蘇ってきた。


 私は白奈たちと別れたあと、自室に戻った。しばらくすると、津毛さんがやってきた。

 また胸倉を掴まれて激しく怒鳴られ、何度も頬を叩かれ、抵抗できなくなるくらい泣いたあと、足首に枷を嵌められた。そして、下階に降りた罰として、私は数日間この自室に閉じ込められるということを申し渡された。


「お嬢様」


 私の自室に、津毛さんがノックもせず入ってきた。


「心苦しいですが、お嬢様を守るためにはこうせざるをえません」


 嘘つけ。

 心苦しいなんて思っていないくせに。


「分かっているとは思いますが、お食事、入浴、お手洗い以外の移動は禁止されています」


 禁止されていますって、禁止したのは貴方だけどね。


「くれぐれも動こうなどと試みないように」

「もちろんです。津毛さん」


 でも、平気。来週になれば、白奈とクレマンスがここから助け出してくれるんだから、今はどんな苦痛にだって耐えられる。耐えてみせる。来週のダンスパーティーにさえ出ることができれば、この苦しい日々は全部終わる……!


「津毛さん」

「なんでしょう」

「大変申し上げにくいのですが……」

「続けなさい」

「鎖が解かれるまでの期間をお尋ねしてもよろしいですか?」

「もちろん、反省なさるまで、です」

「では……反省するまでに必要な日数は、おおよそどれくらいだとお考えでしょう」

「前回は初めてだったこともあって、五日ほどに設定したと記憶しておりますが……今回は二度目なのでそう甘やかすことはできません」

「……と、おっしゃいますと?」

「十日ほどを予定しております」


 ――え……?


「十日……ですか?」

「二度目ということを考えれば、適切な期間設定だと思いますが」

「謹慎しているあいだ、来週のダンスパーティーはどうなりますか?」


 白奈とクレマンスが助けに来るのは七日後。十日も監禁されていたら、二人が来るまでに間に合わない……‼︎


「もちろん、規則違反があったばかりなのでお控え頂きます」

「……そんな」

「何かご不満な点でも?」

「い、いえ。滅相もございません……」

「では、私が三十分ごとに伺いますので、お手洗いが必要なときにはお申し付けください」

「……わかりました」


 そんな……。一週間後のダンスパーティーに間に合わない……。この部屋に監禁されたまま、助けに来てくれる二人に会うこともできないなんて……!

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