〈誘拐編〉第2話 天空のダンスホール②
「うわぁ〜……。すっっっっご」
――天空のダンスホール。
人々はこの巨大空間をそう呼ぶ。
千人は入りそうなほど広い空間の床全面には赤いカーペットが敷かれ、隅には鉢に植わった巨大な竜舌蘭が置いてある。
会場の脇に置かれたテーブルにはキャビアやサワークリームが載ったカナッペと、シャンパンやウイスキーのグラスが並んでいる。
ここまで豪華だと、食欲も湧かない。完成したドミノを倒したくないのと同じ気持ちである。
目に映るもの全てが、庶民である私にとっては映画の中でしか見ないような光景だった。
壁全面がガラス張りになっている窓からは、五〇〇メートル下に広がる金沢百万石の夜景を一望できる。城下町に広がる武家屋敷や兼六園が、まるで指先でつまんでしまえそうなほど小さい。
五〇〇メートルというのは、実際に来てみると想像以上に高い。本物の街がミニチュア模型に見えるのだ。
街灯の下を歩く人間は、アメーバかミドリムシみたいに見える。
これだけの絶景を観光客に開放せず、招待客だけに独占させている超高層ビルのオーナーは、絶対に性格が悪いと思う。
「ほんと……」
隣にいるクレマンスも、その衝撃を表現する言葉を見つけられずにいるみたい。
バイオリンを持ったタキシードの四人組と、グランドピアノの前に座る女性ピアニストが、指揮者の演奏に合わせてワルツを演奏している。
その旋律に合わせて赤い絨毯の上で肩や腰を寄せ合いながら踊るのは、みな一様に生まれながらのレディース&ジェントルメン。
生まれながらにして社交ダンスを知っていたんじゃないかと思うくらい見事な踊りっぷりだ。
きっと、誕生直後には産声を上げながら「ワンツーさんしっ」ってやっていたんだと思う。仏陀もびっくりの赤ん坊ね。
私たちのように周りをキョロキョロ見て圧倒されている田舎者なんぞ、会場のどこにもいない。
紳士達は自信に満ちたリードでパートナーに行く道を示す。腰に手を添えられた淑女は、枝から落ちた花びらのようにくるくると舞う。
ここは別世界。本物の別世界。
ここにいる人たち全員、私と同じ人間なのか疑わしくなるほど華やかだ。
彼らは砂場で泥だんごとか作ったことないのだろう。指先に水を付けて磨くとツヤツヤになることとか知らないんだろうなぁ……なんて考えている自分がこの空間に居ていいのか不安になってきた。
まあせっかくだから楽しませていただきますけど。
ちなみに、私とクレマンスは一度もダンスに誘われていない。
もちろん私たちは泥だんごの作り方も知らない高貴なピーポーにこちらから話しかける勇気などないので、ダンスパーティーの夜は隅っこで当たり障りのない話をするだけで終わるだろう。
ダンスに誘われないまま私の夢第一章・―完―。である。
そんなダンスホールには、上階と下階がある。
私たちがいるのは下階。
下階で感動している私たちにとって、上階は夢のまた夢だ。
下階には三百人ほどの人が踊っているのに対して、上階にいるのはたったの五人。下階に来ることすら難しいのに、上階にはたったの五人だ。
どれだけ途方もない倍率から選ばれた五人なのだろう。あそこから私たちを見下ろす権利を得るというのは、生まれながらにして宝くじに当たるようなものであるに違いない。
下階の人々が賑やかにダンスを踊っているのに比べて、上階にいる五人は優雅だ。
金飾に縁取られた椅子に座って、下で踊る人々のダンスを眺めながら談笑している。
彼らが纏うきらびやかな装束は、下階で踊る人々のそれより数段豪華。その優雅な佇まいはまるで、現代日本に存在しないはずの貴族のようにも見えた。
「ねぇ。あれ、なにかな?」
「人を指して「あれ」とか言わない」
クレマンスが怒った。
礼儀正しく言い直すことにする。
「ねぇ、クレマンス様。あちらの、めちゃくちゃ目立っている方々は何者でございますか?」
「あの人たちは有名人でしょ」
「有名人?」
「そそ。このダンスパーティーの主催と賓客たちだよ。知らないの?」
「賓客……ねぇ……」
目をこらしてよく見てみると、たしかに上階にいる貴族(?)のうちの三人は芸能ニュースに疎い私でも知っているほどの超有名人だった。
まず、向かって左側の豪奢な椅子に座っているのは、石川県知事の大村益実だ。ちなみにこのおじさんは、この先とくに関わることはないので覚えなくて平気です。
大村知事は私が物心ついたときから石川県知事をやっていたと思う。よく時代にそぐわない爆弾発言がニュースになる知事で、この間も女性を見下したような発言で顰蹙を買っていたから良い印象は無い。もうかなりの齢で、頭には雪を戴いていた。
知事と談笑しているのは、日本を代表する企業連合である金沢グループの代表・金沢滋生。
たびたびニュース番組に登場するから、経済にまったく興味のない私ですら顔を知っているような大物経営者である。彼こそが、このビル〈トゥール・ド・シエル〉の所有者だ。
そして、その隣には……おそらくこのダンスホールで一番の有名人が居た。
「あ! Malcaがいる!」
「シィーッ! 大きい声出すな!」
真ん中の椅子に座っている美しい女性を見間違えることはない。元シンガーソングライターのMalcaだ!
人呼んで『七色の歌手・Malca』のことは、ひとつ世代が違う私でもよーく知っている。
彼女はかつて日本どころか世界を席巻した歌手で、変幻自在かつ迦陵頻伽のように力強い歌声は、老若男女からの支持を集めた。〈七色の歌声を持つ〉と言われる彼女は楽曲カバーも異常に上手く、女性の歌も男性の歌も、まるで本物のように歌い上げるという特技でも知られていた。
彼女はその歌唱力とメッセージ性の籠もった作風で次々とアルバムをリリースしては売上記録を塗り替えていったが、ある日、その人気の絶頂で突然引退してしまった。まだ私が生まれる前のことだ。
引退の理由は忘れたけど、動画サイトで見た引退会見によると、マスコミに追われる毎日に嫌気がさしたとか話していたと思う。
引退してからは、左隣にいる金沢滋生と結婚して、隠居したと聞いている。隠居先は天空のダンスホールだったのか。人生の勝ち組すぎる……。
彼女の歌は彼女が歌うのをやめてからも長いあいだ愛され続け、いまでも喫茶店などで耳にする。
ちなみに、何を隠そう私は彼女の大ファンで、スマホの中には往年の曲が二〇曲以上入っている。
引退して雲隠れしてから十年以上も経ってお目にかかれるとは、ディベート大会で優勝した甲斐がある……とすら思った。
そんな伝説の歌手・Malcaから向かって右隣に座って親しげに談笑しているのは、なんと、私たちをこのパーティーに招待した夏目夏子さんだった。
誰もがMalcaの隣に座りたがっているだろうに、その座を射止めたのは私も素性を知らない夏目さんだ。
クレマンスは彼女が脚本家と言っていたけど、そんなに有名な人なんだろうか?
しかし、私が何より目を奪われたのは、Malcaでも知事でも夏目さんでもない。
隣に座る四人の存在がどうでもよくなるくらい目を惹いたのは、向かって一番右側の椅子に座る赤いドレスの少女だった。
私の目には、まるで彼女の周囲にだけ少女漫画で見かける銀色の光が浮いていると錯覚するほど輝いて見えた。
歳は、私と同じくらいに見える。
滑らかな黒髪を両側に垂らした顔は色素が薄く、ガーネットのように赤い瞳がシャンデリアの光を反射して輝いていた。
すらりと通った鼻筋と、控え目な線を引く眉毛。まるで肖像画に描かれたかのように現実離れした美しさがあった。
背骨からつむじまでを一本の糸が貫いているかのように背筋をまっすぐと伸ばした姿勢からは、広い会場の視線を一身に集めても萎縮しない圧倒的な自信が感じられる。
桜色の唇を引き結び、凛とした表情を浮かべて人々を見下ろす様子は、本物の王女様のように見えた。
沈魚落雁の美人とはこのことだ。彼女が出歩いたら生き物が絶滅する。石川県の生態系が危ない。
そんな彼女が纏うのは、もちろん超一級品のドレスだった。
陶器のような肩の下から足元までを、まるで薔薇の花弁のように赤い布が包んでいる。
艶やかな生地は、目が醒めるように鮮やかな紅色――まるで本物の王族が着るようなプリンセスラインのドレスだ。
赤いドレスがあまりにも赤いせいで、髪色まで赤いように錯覚した。
私は彼女をひと目見て、まるで心臓を射抜かれたような衝撃が走った。その真っ赤な瞳を見ていると、まるで時間が止まったかのように感じる。完全に一目惚れだった。
彼女の隣には誰も居ない。ただ、黙ってダンスパーティーの様子を見下ろしているだけ。冷たくて、どこか寂しそうな表情がとっても綺麗……。
彼女はどこのどなたなのだろう?
Malcaには一人娘がいると聞いた。もしかすると、Malcaの娘さんかもしれない。そう思って二人をよく見比べてみると、パッチリとした目元が少し似ている気がした。
目が醒めるような衝撃とはこのことだ。赤いドレスの女の子……カフェインの百倍効くね!
私は白昼夢を見ているような気持ちになって、下階を見下ろす赤いドレスの少女にぼうっと見惚れていた。
無意識のうちに、ずいぶん長いあいだ――もしかすると数分にも渡って――眺めていたかもしれない。
ずっと、つまらなそうに下階のダンスを眺めていた赤いドレスの少女が、会場の隅っこに居る私のことを見た――気がした。
数百人はいる中で、私と目が合ったなんて思うのは自意識過剰かもしれない。だけど、なんとなくそんな風に見えたのだ。
さすがに私が凝視しすぎて、こちらの視線に気づいたのかな。ずっと見ているなんて気持ち悪いよなぁ……。
頬がカァ~っと熱くなって、慌てて目を逸らした。
冷や汗かいた。何分も見つめるなんて失礼だよね。うん。めちゃくちゃ失礼だよ……。
これだから若い招待客は、なんて思われていたらどうしよう。あの子も若いけどさ。
「Shall we dance?(僕と躍りませんか?)」
そのとき、後ろから声を掛けられた。渋い男性の声だ。
Hの発音が抜けているから、フランス語訛りだろうか。
振り向くと、薄い髭を生やした若い紳士がこちらに白い手を差し伸べていた。
(ラッキー! とっても素敵な笑顔!)
差し出された大きな左手に、迷いなく右手を添える。
「Sure!(もちろん)」
私は思わぬロマンス展開に浮かれながらも、紳士の前をささっと失礼して、親友であるクレマンスに“ご挨拶”することを忘れなかった。
「ごきげんようクレマンス♪ “お先に”失礼するワネ~♪」
「あとで覚えとけよ!」
私の軽口に反応して、クレマンスが額に青筋を立てる。
こわいこわい。
「Sorry for making you wait. Let’s go♪(待たせてごめんなさい? いきましょう♪)」
フランス語訛りのスーツ紳士が私の手を引く。
「踊れるかい?」と聞かれ、「ほんのちょっとだけ」と答えると、「心配しないで、僕がエスコートするから」と言って笑った。
白い歯を見せて、頬に深い皺を刻む。
笑い皺が素敵じゃない。
ドラマの始まりかしら?
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「うゔゔゔぅ……疲れだぁ。」
結局、三人から連続で誘われ、軽く一時間以上は踊ってきた。モテモテなのも大変である。
「お疲れ。下手っぴだったね。ダンス」
「うるさい」
窓際に座っていたクレマンスは、私へ向けて手をヒラヒラさせた。
先程の仕返しとばかりに、軽口を叩くのも忘れない。
でもまあ、さっきと同じ場所で休んでいたクレマンスさんだって、誰にも誘われていないのでしょうけど。
私が誘われまくって忙しく踊っていたあいだ、寂しくその姿を眺めていたのだろう。かわいそうに。
「だって、最初の人は「エスコートするよ」とか言うくせに、振り回すだけだったんだもん。遊園地のコーヒーカップに乗ってるみたいで大変だったよ。こちとら、ヒールが高くて立ってるだけでしんどいっていうのにさ!」
ぐちぐち言ったけれど、私のダンスが下手なだけ説もある☆
というかそれが有力。
「ほんと、ヒール高すぎて疲れたし。男の人はヒール履かないからわかんないよねぇ」
ちなみに私たちが履いているヒールは、ダンスパーティー用だからそれほど高くない。
私たちがこれだけ疲れているのは、ヒール慣れしていないのも理由の一つだ。ふくらはぎを鍛えないとね。
「しかも踊り終わったらさぁ、宗教に勧誘されたの! 『純粋協会に入らない? 僕と一緒だよ』とかいって」
「うぅ……最悪。誘い文句まで下手だし。」
「しかも三回ともだよ? 三人とも宗教勧誘! 呆れたよ~」
念のため断っておくと、私は宗教に対して否定的な感情を抱いているわけではない。
ここで私が残念に感じたのは、あくまでダンスに誘った目的それ自体が宗教勧誘だったことだ。宗教それ自体ではなく、純粋な乙女の気持ちを玩ぶような真似をしたことに腹を立てている。私が純粋な乙女かどうかは別として。
「流行ってるんだね。それで? ご一緒に入信したの?」
「するわけないでしょ! 断ったら、みんなすぐどっか行ったよ。ついにモテ期が来たかと思ったのにぃ」
期待したのに、乙女心を利用しようとしただけかいって感じだ。
ほんと、白馬に乗った王子様が現れてなんて言わないからさ。誰か素敵な人いないかなぁ。女子校で出会いも少ないから、まったく恋人ができる気配がない。私だって恋人が欲しいのに。
たとえば目の前にいるクレマンスくらい素敵な人がいれば、すぐにでもとっ捕まえるんだけど。
あっ、ちなみに私は男女どちらでもいける性質だから、クレマンスは余裕で圏内だったりする。もちろん本人は気持ち悪がるだろうし、関係を壊したくないからとても言えないけどね。
「そっか。おつかれさま」
ただの労いの言葉であっても、クレマンスが言うと嫌味に聞こえるから不思議だ。日頃の行いって大切。
「あ〜あ。男どもには懲りたよ。いっそ、上階に座ってるあの女の子と結婚したいなぁ」
もちろん無理だけれどね。上階に座っている人たちは別世界の住人。関わる機会すらないんだから。
「どれ?」
「どれって、あんなにかわいいのにまだ見てないの? 上階の一番右に座ってる〜……。あれ?」
上階を見遣る。彼女がいたはずの椅子には、もう誰も座っていなかった。
「居ないじゃん」
「帰っちゃったのかなぁ……。ほんとに綺麗だったんだけど」
「はいはい」
「にしても、もうダンスはお腹いっぱいかなぁ~。はよぅサンダル履きたいわー」
疲れからか、いよいよ口調も崩れてきた。
上品な場だから、言葉遣いには気を付けようと思っていたんだけど、気を抜くとすぐに素が出てしまう。まぁ、もう帰るからいいよね〜。
なんか地の文も崩れてきたし。
「それね。あとトイレ行きたい」
クレマンスが託つ。
「あらヤダっ、はしたない。お化粧室ってお呼び?」
「黙せっ」
クレマンスとワイワイ騒ぎながら、ふと、もういちど上階を見る。
やはり、薔薇の花弁のようなドレスを着た少女など、どこにも居なかった。
彼女は非日常が作り出した幻覚だったのかもしれないとすら思えた。
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トイレには、長い行列が出来ていた。しばらく待っているけど、いつまで経っても遅々として進まない。
「おっそいなぁ……。中で何してるんだろ。格子暗号問題でも解いてるの?」
クレマンスが小声で愚痴る。それ、量子コンピュータでも数万年かかるっていうやつでしょ。よくわからないけど。
「もっともっと難しいことだよ。みんなお化粧直ししてるの」
「あー。確かに難しいね……」
そういえばクレマンスでも、朝は化粧のやり方に悩むのかな。彼女はあまり着飾ることに興味がないように見えるから、もしそうだとしたらかわいらしいギャップだと思う。
「脚が疲れた〜。ディベート大会が終わってからすぐ帰ればよかったね。調子に乗ってダンスパーティーなんか参加しないで」
「私はそんなに疲れてないけど」
「ああそっか。誘われてないもんねー」
「私が誘われないわけないでしょっ。ぜんぶ断ったの」
私が軽くからかうと、ムキになって反論してきた。
クレマンスは時々嘘をつく子なので、これも見栄だろう。親友の私はお見通しである。
「ほんとに〜?」
「ほんとだよ。知らない人と手を繋ぎたくないもん」
そういうことにしといてあげよう。
私たちがディベート大会で優勝したのはつい数時間前の出来事だ。
けれど、それは不思議と遠い昔の出来事のように思える。天空のダンスホールなどという現実感のかけらも無い場所に連れてこられて、私たち庶民とは全く違う世界を目にした。海外旅行に来たとき、自分が日本に居たことが信じられなくなるのと似たような現象だと思う。日常と〈天空のダンスホール〉のあいだに横たわるあまりに大きな解離に、脳が混乱しているのだ。だから、時間感覚が狂っていて、今朝のことすら古びた思い出に感じる。
深淵な考え事に耽っていると、不意に後ろから声を掛けられた。
低く、とても丁寧な女性の声だ。
「そこのお嬢様方、お手洗いですか?」
振り返ると、白髪のお婆さんだった。優雅なエプロンドレス(十九世紀イギリスの給士さんの間で用いられた白黒の服、平たくいえばメイド服)を纏っている。
よく似合うスタイリッシュな赤いメガネの下に、微笑みを湛えている。
その笑顔からは、冬の朝の毛布みたいな優しさを感じた。
あの、どうしても抜け出せないやつ!
「そうですよ」
「でしたらどうぞ、こちらへいらっしゃってください」
メイドさんは柔和に微笑んで、私たちに追従するよう指示した。メイドさんはトイレがある道のさらに奥へと私たちを案内する。
「脚がお疲れでしょう。お嬢様方はお化粧道具もお持ちでいらっしゃらない様子なので、特別に他のお化粧室へご案内させていただきます」
「い……いいんですか?」
「ありがとうございます」
行列を待つのにはうんざりしていたから、空いているトイレに案内してくれるという提案はとてもありがたい。
言われたとおり、優雅に歩く赤いメガネのお婆さんについていく。行列ができている扉の前を通り過ぎて、突き当たりにある扉には金色のプレートが貼られていた。
そのプレートには赤い文字で「PRIVATE」と書かれている。
関係者以外立ち入り禁止ということだろう。
お婆さんは何の躊躇いもなくそこを通り抜けた。
「どうぞこちらへ」
「はっ……はい」
私は恐る恐るその扉を通り抜けた。
「(ねえクレマンス。「PRIVATE」って関係者以外立ち入り禁止って意味だよね?)」
「(他に何の意味が)」
「(だよねぇ……)」
――え? ここって私たちが入っていい場所なの?
立ち入り禁止と書かれた扉を抜けると、そこには真っ赤な絨毯が敷かれた螺旋階段があった。
おそらく上階へと続く階段だろう。
上階といえば、石川県知事とか天空のダンスホールのオーナーとかMalcaとか……誰よりも、赤いドレスの女の子が居たところ。私みたいに適当な人間が立ち入っていい場所ではない。間違って入れば神域侵犯罪とかで逮捕されるかもしれない。
私は神域侵犯罪が適用されないか心配になった。
お婆さんは何も言わずにどしどしと階段を上がっていく。私は本当にこの先へ進んでいいのか心配になって、なかなか一歩を踏み出せなかった。
「(大丈夫なのかな? 何の爵位も無い私たちが上階に行ったらめちゃくちゃ浮くと思うけど)」
お婆さんに聞こえないよう、クレマンスの耳元で囁く。
「(白奈。現代日本に貴族制は存在しないから安心しな)」
「(マジで⁉︎)」
「(その情報で驚くなよ)」
勇気を出して螺旋階段に上がる。扉を開けると、再びワルツの音が聴こえた。
――やばい。本当に上階に来ちゃった!
通路の向こう側には、上階の手摺りが見える。下階で踏まれたステップの足音がここまで響いてきた。
赤い眼鏡のお婆さんはにっこりと笑って、通路に並んだ扉の一つを指し示す。その扉には「WASHROOM」と書かれていた。
「お嬢様方はこちらの化粧室をお使いください」
「「ありがとうございます!」」
私たちが感謝すると、お婆さんは人差し指を立てて唇に当てた。大きな声を出さないでほしいらしい。
「くれぐれも内密にお願い致しますね。下階でお化粧室の順番待ちをしている他の参加者様に不公平感を与えるのは本意ではございませんので」
なら、どうして私たちを案内したの? って疑問が残るけど、まあいい。お貴族様ご専用のおウォッシュルーム、拝謁の栄に与るとしよう。
「……重ね重ねありがとうございます」
私が三十回くらい頭を下げると、メイド服のお婆さんは「どういたしまして」と深くお辞儀して、控室に去ってしまった。
「ラッキーだね〜♪」
私は行列をスキップできた幸運と、特別扱いしてもらった嬉しさが重なって、弾むような口調でそう言った。それに対して、クレマンスの顔は浮かない。
「ねえ、おかしいと思わない? なんで私たちだけ連れてきてくれたんだと思う?」
どうやら、私たちだけが案内されたことが解せないらしい。もう。疑り深いなぁ。
「化粧ポーチを持ってなかったから、邪な動機なくさっさと用事を済ませて出ていくって思われたんじゃない?」
別に化粧直しが邪だとは言わないけど。間違いなく時間は掛かるよね。海の家で女子トイレだけ混む理由も大体化粧直しだし。
「うーん……。化粧ポーチ持ってないのはなにも私たちだけじゃなかったんだけど……」
クレマンスは頭の回転が速い。
もし私の頭の回転がオランダの風車くらいだとすると、たぶんクレマンスの頭脳は中性子星(※一秒間に約1000回転)くらいだ。
ディベート大会でも、状況を即座に分析して的確な推論を組み上げるその才能を存分に生かしていた。
そんな彼女なりに、何か引っかかることがあるのだろう。
「せっかくなんだから、楽しめばいいじゃん♪ 賓客専用のトイレなんて一生使う機会ないかもよ? きっと、トイレットペーパーも羊皮紙とかなんだろうね!」
「羊皮紙……? 羊の皮だぞ……?」
青ざめるクレマンスを尻目に、私はさっそくお化粧室の扉を開ける。
そして、思わず叫び声を上げそうになってしまった。
そこは静謐な黒大理石の空間だった。まるで深山幽谷の中に居るように音が無い。
賑やかなワルツの旋律が木霊するダンスホールとは全く違う世界にいるようだ。
鏡や個室の装飾も、まるで王族の城から切り取ってきたのかと思うほど華麗だ。
エメラルドグリーン色に塗られた個室の板は、金で縁取られている。その眩い輝きはおそらく真鍮とかではなく、本物の金。おそらくね。
私に真鍮とか金とか黄鉄鉱の違いを見抜くほど立派な鑑識眼はないけれど、私をぞくぞくさせる罪深い輝きは本物の金だと思うのだ。罪深いのは私の心かもしれないけど。
この、世にも豪勢な空間は、本当にトイレなのだろうか。宝物庫とかじゃなかろうか。ここが本当にトイレなのだとしたら、私の家のトイレなんて縄文時代の水準だ。
「やばい! エルソークのハンドクリームがあるよ!」
「なにそれ?」
「世界最高のハンドクリーム! 一本十万円するやつ!」
「十万円⁉ 使ってけ! 二プッシュならバレないっ!」
クレマンスが下賤なアドバイスをくれる。
「ねえ。一プッシュ二〇〇〇円くらいかな?」
「計算するな! 使えなくなる!」
そのとき――
――ススッ……。ズゥッ……
あまりの豪華さに興奮してぎゃあぎゃあ騒いでいると、不意に物音が響いた。奥の個室からだ。
――不覚ぅ! どなたかいらっしゃった!
びっくりして、口から心臓が飛び出るかと思った。
ここにどなたかいらっしゃるとしたら、ものすごく爵位の高いお方だ。「十万円のハンドクリーム」とか「ワンプッシュ二〇〇〇円」とか、庶民丸出しの下世話なお話を聞かれていたことに気付いて恥ずかしくなり、頬がカァーっと熱くなる。
そんなお方がいらっしゃるとはつゆ知らず、私たちは下々の世界の金銭感覚で騒いでいたのだから、みっともないったらありゃしない。
私とクレマンスが黙り込んだせいで、個室の中の高貴なお方は私たちに存在を感知されたと気付いてしまっただろう。
き……気まずい……。
――ズズゥッ……
再び物音がした。
様子がおかしいと気付いたのは、その音が、すすり泣きに似ていたからだ。
(中で、誰かが泣いてるの?)
私とクレマンスはしばらく黙り込んでいた。
その間にも、個室からは何度かすすり泣きのような物音が聞こえた。
私は音を立てないように、奥の個室の扉に恐る恐る近づく――もちろん、声を掛けるためだ。
もしかすると、余計なお世話かもしれない。
私みたいな庶民は冷たく撥ね付けられるかもしれない。
それでも、何か助けになるかもしれないから、話しかけたかった。
泣いている人が居ると声を掛けてしまうのは、子供の頃からの癖だ。
「……あの、大丈夫ですか?」
返答はない。
声を掛けてから途端に恥ずかしくなって、緊張で息をゴクリとを呑み込んだ。
その音が中の人にも聞こえたかもしれない。
賓客用化粧室を、ふたたび長い沈黙が包む。
――ヒック……
と、しゃくり上げる音がして、再び沈黙が包んだ。
私は静寂に堪えきれなくなってもう一声掛けようか、それとも謝ってトイレを出ようか迷っていると、個室の中から少女の声が聞こえた。
「どなたでしょうか」
「いえ、ただあなたのことが心配になって……」
「どうして……あなた方が賓客用化粧室にいらっしゃるのですか?」
返答の声は、冷たかった。
思わぬ不歓迎な響きに、一瞬怯む。
そうだ。このお手洗いは、上階に居た高貴な人たちが使う場所。
本来私たちが居るべきではない。
訝しがられて当然だ。
「す……すみません。私たちはただの一般客です……。すぐに出ていきますね!」
ここは関係者以外立ち入り禁止なのだ。
一般のゲストがここに居るとバレたら、捕まってしまうかもしれない。
そうなれば、ご好意で私たちを上階に連れてきてくれた赤いメガネのメイドさんにも迷惑が掛かるだろう。
さっさと退散することを決心しようとしたそのとき――
「お待ちください」
「はひ!」
個室の中から再び声がした。
思わず引き止められて、背筋がビクッと震える。
さっきはわからなかったけど、少女の声は鼻声だった。やっぱり泣いていたんだ。
個室の中から、鼻をかむ音が聞こえた。
続いてカチャッという鍵の音。そして、蝶番が軋む音がする。
中から誰が現れるのだろう。
もし怖い人だったらどうしよう……。
天空のダンスホールに通うような貴族たちにとって、私とクレマンスなんて風の前の塵みたいなもの。もしかしたら、お家取り潰しになるかもしれない。
お母さん、お父さん、ごめんなさい!
個室の扉がゆっくりと開く。
顔が見えるまでのあいだ、緊張で思わず唾を呑み込む。
扉が開き、目の前に現れたのは――私が一目惚れした赤いドレスの女の子だった。
「あなたは……」
思わず目を見張った。
全てが上階に見えていた彼女と同じだった。
私たちを見下ろしていた、まばゆいばかりの花の顔。薔薇の花弁を繋いだようなドレス。真珠のように滑らかな肌。
私が一目惚れした彼女が、目の前に居る。
近くから見ても、ため息が出るほど綺麗だった。
唯一の違いは、その目が涙で真っ赤に腫れていること……。
「少しのあいだだけ……話のお相手をしていただけませんか?」