第26話 ダビデ像の年賀状
うちの会社には、歩くダビデ像、と呼ばれる男性社員がいる。
「沖田課長、今日もイケメンやわあ。眼福、眼福」
「ダビデさんの身長どのくらいだっけ? 190?」
「185らしいけど、マッスル効果ってやつ?
あ、課長! おはようございまーす!」
女子社員たちが朝から鼻の下を伸ばして観察する中、「歩くダビデ像」こと沖田秀雄は、軽く目で挨拶を返してオフィスの自席へと向かう。一歩あるけば1メートルに届かんばかりの大きな歩幅のせいで、今朝私が掃除したばかりの絨毯の床からキラキラと埃が舞った。その埃でさえも、彼のそばでは桜吹雪のように優雅に見えるから、やはり彼は神が作りたもうた神聖なる芸術品なのかもしれない。
老舗医療機器メーカーである当社において、37歳にして管理職の沖田課長は、圧倒的存在感のある外見に加えて、段取りの良い仕事ぶりとリーダーシップから周囲の尊敬と憧れを一手に集めていた。
「課長、始業前にすみません。午後からのA病院との打ち合わせでご相談が……」
私がそばに駆け寄ると、沖田課長は缶コーヒーを机にトンと置いた。
「ええけど、さきにコレ飲ませて」
左手でマスクをずらしつつ右手で缶コーヒーのタブをプシュッと開くと、課長は大きな喉仏を上下させて、CM俳優も顔負けの爽やかさで飲み始めた。
濃い眉毛と彫りの深い顔に関西弁がミックスされたこの男ほど、コーヒー缶の「BOSS」の太文字が似合う人間もいない。彼が捨てた空き缶を、こっそり拾いに来た女性社員も昔いたと聞いたとき、まんざら嘘でもないと思えた。
「イタタタ……」と、沖田課長が唐突に腰に手をやった。
「どうしたんですか?」
「昨日ボーリング行ってん。ワクチンも済んだし、もうええやろと思って」
課長は、11月でもオフィスは暑いからと半袖まくりにしている。背中へと折り曲げられたその腕は、クリスマスのチキンのようなL字型でたくましく、楽に注射できそうな太い血管が山脈のように走っていた。
別に彼は見せつけているわけではない。ただ、こちらの目が吸い寄せられてしまうだけ。彫刻のダビデ像の眼の瞳孔はハートの形をしているが、この「歩くダビデ像」は見た相手の目を一瞬でハートに変える、不思議な魅力をオフィスで堂々と放っていた。
会社とは仕事をする場所であって、恋をする場所ではない。それは分かっているのだけど、オフィスとはときに戦場だったり、表彰台だったり、あるいは刑務所だったりと目まぐるしく変動するから、そんな気の抜けない所にこんな美しくて完璧な人が朝から晩まで歩いていたら、恋心を抱くなと言われる方が無理だった。
「で、相談ってなに?」
沖田課長が二カッと口を開けると、象牙色の綺麗な歯がピンク色の健康的な歯茎とともに現れた。神様が、彼の体の内部も懇切丁寧に作り上げていく様子が連想されて、自分のマスクの裏に笑みが広がっていた。
コーヒーの匂いが、鼻とマスクの間から割り込んで思いっきり嗅ぎたくなるのを、ドキドキしながら密かにこらえた。
*
「沖田課長、この間立て替えていただいた旅費の精算です」
ジャラジャラ音を立てる茶封筒を私が差し出すと、「サンキュ」と言って課長は受け取った。そのままデスクの一番下の引き出しを開き、その中の牛革バッグを開けて、彼が茶封筒をしまおうとしたときだった。
「あれ? なんか出てきましたよ?」
私がデスクのそばにかがむと、燻製のカツオ節みたいな革靴のそばに、一枚のハガキが落ちていた。拾った瞬間、革靴が飛び跳ねて「あ、あかん!」と低い声がした。
思わずハガキに目を走らせると、そこには、梅の木の下でくつろぐトラの親子のデザインが描かれていた。お母さんトラの近くには2匹の子トラがいて、ほのぼのとした雰囲気がお正月らしい。お母さんトラと子トラの影がつながって「2022」の形になっている所も、アイディアがあって素敵だと思った。
「来年のお年賀ですか? 可愛くて癒されますね!」
私が立ち上がりながら言うと、沖田課長は頭をポリポリと掻いた。
「ああ、まあ、そうなんだけど……」と、なんだかしどろもどろの様子だ。
「もう買ったんですか? さすが課長。選ぶのも早いですね!」
私が改めてハガキを見ていると、彼は周囲に人がいないのを確認してから、こちらへと体を傾けた。横に広がる圧力みたいなものが、空調の風に乗ってズンと伝わって来た。
「実はな……これ、俺がデザインした」
「課長が!? こんな可愛いのを!?」
沖田課長の眉間に皺が寄ったのを見て、私は慌てて「すみません。雰囲気的に意外だったので」と平謝りした。
「年賀状のコンペに出したら入賞した。コロナで副業もOKになったし、来年サプライズでみんなに出そうと思っとったんやけど、なあ」
課長の表情は、マスクの下でも苦笑いをしているのが分かった。
「大丈夫ですよ! 私、みんなには内緒にしますから」
そう言ってヘへへと笑うと、課長は「よろしく頼むわ」と片手を縦にした。その目が嬉しげに細くなるのを見て、私は、「歩くダビデ像」の中にある柔らかい優しい部分に、初めて直に触れられた気がした。
可愛いなあ、この人。
そう思うと鼻の奥が痛くなってきた。2人だけの秘密だなんて、まさにドラマみたいに嬉しいことなのに、私の目はどんどん潤んで年賀状のトラ親子がぼやけていった。
「ちょっと失礼します」とだけ言うと、年賀状をデスクに置いて私はオフィスを足早に駆けて出た。数人とすれ違いざまにわざと深くお辞儀をして、顔を伏せたままトイレに直行した。
人がいないのが分かると、個室に入る前から涙がポロポロと目からあふれ出てきた。
うーぅ、うーぅ。ひっく。
ジャーーーー。
獣の唸り声みたいに声を上げて、トイレの音姫をボリューム大で流し続けた。以前、こんな風に泣いたのはいつだったっけ?
課長が結婚していると知ったときだろうか。
課長に一人目の子どもが生まれたときだろうか。
もうすぐ二人目が生まれるのが分かったときだろうか。
あのお母さんトラはたぶん奥さんで、2匹の子トラはきっと現実の子どもたちだ。
お父さんトラはいないけど、そばで見守っているのだろう。沖田課長はよく家族とボーリングに行くそうだから、近くでレーンを見守るみたいに。
あの年賀状の筆致のように、さっき見せた眼差しのように、優しく目を細めながら。
医療機器を扱うがゆえに左手の薬指に結婚指輪がないと知ったのは、もう「好き」の魔法にかかってからだった。
嫌だなあ、こんなの。でも好きなんだよなあ。最っ低。
ひっ、ひっ、と笑うみたいに嗚咽を漏らして泣いていたら、いよいよ洟も盛大に出てきて、本当に笑いたい気分になった。なんで私、会社でこんな苦しい恋愛してるんだろう。いくらカッコよくても、他に良いヒトは探せばきっと見つかるはずなのに。
魔法みたいな恋にかかるなら、いっそ、沖田課長に家庭があることも、綺麗サッパリ忘れられたらいいのにね。
私はトイレットペーパーで鼻をかみながら、恨めしく天井を見上げた。
(了)
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