肆
空は晴れ渡り、雲一つありません。
日差しが優しく降り注ぐ春の原っぱに、気化太郎は小なつと共にやってきました。
母親はもちろん反対しました。しかし、
「気化太郎は他の子と同じ普通の男の子なんだ。普通の子供が友達と原っぱへ行くことの何が悪い」
父親の言葉で、ようやく許しを得たのでした。
視界を埋め尽くす豊かな緑と飛び交う蝶たち、咲き乱れる色とりどりの花は、図らずも気化太郎に感動を覚えさせます。
ですが彼はただ『美しい』という言葉だけを胸にしまい込み、決して感情を表に出すことをしませんでした。
もしここで蒸発してしまったなら、そよ風に攫われてどこかへ行ってしまうでしょうから。
「気化太郎、ここへ座って。いつもみたいにお話しをしましょう」
そう言って、小なつは隣へ気化太郎を呼びました。
彼が草の上に腰を下ろすと、自然に満ち溢れた新鮮な空気が立ち昇ります。
春の匂い。
季節は、全てが彼を殺す毒のようでした。
「これはシロツメクサ、これがタンポポ。この青いのは、知らない」
小なつは近くに咲いている花を摘んでは、気化太郎に見せていきます。
「たぶんオオイヌノフグリだ」
気化太郎はいくつかの花の名前と特徴を夫婦から教えられていましたから、小なつの持っている花が何なのかも知っていました。
「……物知りね」
彼女は眉を寄せ、不満げに言いました。
「そんなことはない」
「綺麗だとは、思わない?」
「思うよ」
「それならどうして、それをちゃんと言葉にしないのよ」
「僕だって……」
気化太郎は言いかけて、飲み込みました。
彼だって本当はこの景色に心から感動したいですし、清々しい風を感じながら思いっきり駆け回りたいのです。
それが出来ればどんなに良いでしょうか。
ですが気化太郎にはそれが出来ないのです。
「蒸発してしまうんだ」
胸の苦しさに耐える事にすら限界を感じた彼は、とうとう口にしてしまいます。
唯一の友達を失うことを恐れるよりも、そうしなくてはいよいよ彼の心は破裂してしまいそうなのでした。
「感情的になると僕、蒸発して消えちゃうから」
「……変なの。でも、気化太郎と一緒にいるのは嫌いじゃないわよ」
言葉の真偽はともかくとして、とにかく小なつは思うままに伝えます。
気化太郎は初めて見る彼女の柔らかな表情から目を逸らし、瞼を閉じました。
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