弐
夫婦は赤ん坊に、気化太郎と名付けました。
「ほら気化太郎、べろべろばあ」
父親は気化太郎を笑わせようとしますが、彼の表情は微動だにしません。
生まれてからもう半年が経過したというのに、気化太郎はまだ一度として笑顔を見せたことがなく、この日もやはり彼が笑うことはありませんでした。
夫婦はとうぜん不安に思います。
「どうしてかしら。べろべろばあ如きじゃ笑わないのかしら、今の子供って」
「焦ることないさ。あれだけ元気に生まれて来たのだから、何か楽しいことがあればそれはもう大きな声で笑うだろうよ」
父親は母親を励ましますが、やはり二人とも心配でたまりません。
その時です。
「あ、ちょっと失礼……へっくしょい!!!!!!!!」
鼻にかゆみを感じた父親が、特大のくしゃみを放ったのです。
それは日頃の育児疲れが彼に許した油断でありました。
間近で聞いていた気化太郎は驚き、顔をひきつらせます。
「しまった……!」
固まって動けなくなってしまった父親の代わりに、母親が漬物壺を取りに台所へ走ります。
ですが気化太郎は――。
「きゃはっ、きゃはっ」
気化太郎は、笑ったのです。
そう、このとき彼は初めて笑顔を見せたのでした。
「おお……おお……!」
「気化太郎が笑った! 笑ったわ!」
夫婦は手を取り合い、飛び跳ねました。
それほどまでに、我が子の笑顔とは無垢で愛らしいものだったのです。
「きゃはっ、きゃ」
――しかし気化太郎は、蒸発してしまいました。
母親は慌てて壺を被せ、すぐに蓋をします。
静まり返った室内で夫婦は二人、壺を挟んで呆然としました。
やがて肩を震わせ、声も震わせて、父親がささやくように言います。
「これは憶測に過ぎないのだが、いや……」
壺へそっと手を触れ、彼は続けました。
「気化太郎は『感情的になってはいけない』。ああ、神はなんということを」
「どうすればいいというの」
「この子はそれを知っていたんだ。だからずっと笑わなかった。俺達に心配を掛けないためであったのかもしれない。優しい子だ。それなら、たとえ感情を表に出さずとも、我々がこの子の心を分かってあげようじゃないか。なに、親として当たり前のことをするだけだ」
「……そうね」
母親は答えました。
あまりにも多難な我が子の人生に、そう言う他なかったのです。
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