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2 妙心寺の絶蔵主




          二




 寛永十三年(一六三六年)晩春、京。

 正法山妙心寺は、春の穏やかな陽気の中にも、清閑な趣を漂わせる臨済宗の禅寺である。碁盤の目を為す平安京の北西の一画、花園の地にある。およそ三百年前、花園上皇の離宮をその寄進により寺としたものだ。広大な敷地にいくつもの伽藍が立ち並ぶこの寺は、洛北の大徳寺と並んで、座禅を中心とした厳しい禅風を伝え、「山林派」と呼ばれている。在野の「山林派」に対し、幕府が定めた南禅寺を本山とする五山を「禅林派」ともいう。

 その塔頭の一つ、大通院の住職である湘南宗化は、妙心寺住職が住む大方丈へ足を運んだ。

「湘南和尚」

 すれ違う僧たちは皆、道を譲って挨拶をする。湘南は朝廷から紫衣を許され、和尚の称も賜った高僧である。土佐を治める山内家先代、山内一豊が近江長浜の国主であった頃、守り刀と共に捨てられていた赤子を拾った。実子を地震で失ったばかりだった一豊は、赤子を「拾」と名付け、実子同然に慈しみ育てた。それが湘南である。その後十歳で出家した湘南は、その縁で、今は一豊夫婦の霊屋を守る妙心寺大通院と、土佐の名刹吸江寺の住職を務めていた。

「明日、土佐へ下りますのでな。方々にご挨拶をと」

 五十一歳になった湘南は、腰の低い、面長な顔に笑みを絶やさぬ落ち着いた人柄である。たまたま同じ方へ向かう中年の僧と並んで歩きながら、気さくな態度でそう言った。

「土佐と京と、よくお勤めなされる。旅はお辛くはありませんか」

「慣れておりますゆえさほどでもありませぬが、年も年です。そろそろ身を落ち着けたいとも思うております」

「いずれに―――」

 京と土佐のどちらに、と尋ねようとした僧の言葉は、廊下の向こうから響いてきた、春の長閑な空気を切り裂く怒号に遮られた。

「学ぼうとする者を追い払うのか!」

 湘南も中年の僧も足を止める。若い声は、二人ともよく知る僧のものだった。湘南は一息ついてから、再び変わらぬ様子で歩みを進めた。中年の僧もためらいがちにそれに続く。湘南が向かう部屋は、声が聞こえる間のその先にあった。

 対面前の控えに使われる狭い間の奥に、三人の僧と、彼らに向かって拳を握り、仁王立ちしている若い僧の背が見えた。

「そんな寺なら、火を放って何もかも灰にしてやる。お前たちのお得意や、一切を無に還してやるぞ!」

 居並ぶ年長の僧たちを前に、若い僧は言い放った。今にも喉笛に食いつかんとする、虎の咆哮のごとくであった。獣が急所を狙う目で、ひたと彼らの蒼白な顔を睨み据えていたが、一言低く問うた。

「どうなさる」

 返事はない。一人の老僧の喉が、ごくりと動いた。

 この者ならやりかねない―――そんな表情だった。この若い僧は、数年前、言い争いの末に夜になって相手の坊に押し入り、本当に紙帳に火を放ったことがあった。

 気迫負けした様子の僧たちに背を向け、若い僧は踵を返した。そこで湘南に気付き、一瞬はっとしたようだった。だがそのまま横をすり抜け、足早に去って行った。

 湘南はその背を見送り、再び小さく息を漏らす。

 それが絶蔵主である。当時十九歳。四年前に十五歳で妙心寺に入り、正式に得度し僧侶となったこの青年は、誰もが手を焼く悍馬であった。




          *




 修行僧たちがその日の勤めを終えた遅い夜、湘南宗化は住職を務める大通院に絶蔵主を呼んだ。大通院は大方丈のすぐ北側にある。

「来たか」

 湘南は経を繰る手を止め、穏やかな笑みで絶蔵主を迎える。絶蔵主は無言で部屋に入り、湘南の前に座した。

 揺れる灯火が若い僧の姿を照らし、唇を固く結んだ厳しい顔に影を作る。

 特に殊勝な態度でもない。見ようによってはふてぶてしいと形容出来るほど堂々としている。背筋を伸ばし、真っ直ぐに己れに眼差しを向ける若い僧と、湘南は黙ったまましばし対峙した。

 寺が己れを逐うというなら、火を放って灰にしてやる。


 昼も夜も、腹を下して厠に籠った時でさえ書を手放さなかったと噂される青年は、抜群の記憶力と理解力と、強烈な知識欲、そして己れの能力に対する、傍目には傲慢と映るほどの自信と自負心の持ち主だった。同輩は勿論、師僧も名のある高僧も、納得出来なければ経典さえも、容赦なく嘲り罵った。だが先日、ある儒者が仏典を攻撃した際、中堅の僧たちも手を焼く中、相手の矛盾をつき、鮮やかに仏の学の優位を論じきったのもまたこの男だった。

 聞いた話では、幼い頃は通行人の足を掬って水路に落として面白がるといったとんでもない悪童ぶりを発揮、町内から苦情が殺到し、困り果てた両親が一度比叡山に預けたという。その後一旦家へ戻ったが、成人の式をあげてから―――この男は、浪人ではあるが武家の出身だ―――、妙心寺に入って正式に僧侶となった。

 だが仏道修行に入っても、この男は依然、どんな手綱も許さぬ悍馬であった。

 恐らく、わしの手綱などさらに受けまいが。

 内心で、湘南はつい苦笑する。

 絶蔵主が妙心寺に入るにあたって、湘南は縁あって多少の働きかけをした。かれの方でもそれは承知しており、互いに相手に対して多少の情がある。

 朝廷から紫衣も許され、和尚の称も賜った己れを、高僧と人は見るだろう。

 だが、湘南は凡僧とは言わぬまでも、せいぜい学識ある優秀な一僧侶に過ぎない。目の前に坐すこの激越な気性を持つ青年僧を心服させるほどの何かが、己れに備わっていると自惚れてはいなかった。

「絶蔵主よ」

 湘南は呼びかけた。

「はい」

「明日、わしはまた土佐へ下る」

 ここ妙心寺大通院と土佐の吸江寺の住職を務める湘南は、土佐と京を行き来する生活を既に四十年近く続けている。

「こたびは少し長く、土佐に身を落ち着けようと思うておる。わしはどこから流れて来たやもしれぬ捨て子ではあるが、この身を幼い頃より育んだ山内家の膝元である土佐が、結局はわしの身の置きどころと思うての」

 絶蔵主は相槌も打たず、黙って湘南の言葉を聞いている。己れに何の関わりがある―――そう思っているのかもしれない。つまりはその程度の間柄でしかない。

「お前は、わしと共に土佐へ参れ」

 その言葉を聞いた瞬間、突き刺すような眼差しが湘南を射た。膝に載せた拳をぎゅっと握り、何かを言おうとする様子で、唇をわずかに内に引く。歯ぎしりさえ聞こえたような気がした。若い僧の憤りを察して、湘南は頬を緩める。

「あの場の誰ぞに言われた訳ではないよ」

 学ぼうとする者を追い払うのか―――そう叫んだ絶蔵主にすれば、文化の中心たる都を、更に上方をも遠く離れて、流刑地の一つでさえある土佐へ行けとは、逐われたと思ったのも無理はない。

「土佐の海を、見せてやろうと思うてな」

 勢いを削がれたらしい相手の顔に、戸惑いの色が浮かぶ。

「比叡より淡海(琵琶湖)を望んだことはあろう。あれとは比較にならぬほど大きい。遮るもののない大海原の上に、果てしない蒼穹が広がる。かの弘法大師も、その空と海の下で開眼され、空海と号した。見てみたくはないか」

 若者はしばらく黙っていた。ふて腐れているように見えなくもない表情だったが、ひとつ息をついてから口を開いた。

「土佐に、書はありますか」

 その問いに、湘南はつい頬笑んだ。

「ある。田舎とはいえ、まあそう馬鹿にしたものではないよ。無論、ここや五山同様とは言えぬが、いかにお前とて、二年三年で読み尽くすとはゆくまい。不足があれば取り寄せよう」

 湘南は言って、それからふと思いついて付け加えた。

「土佐には、南学の名で呼ばれる儒学の伝統もある。吸江寺にも多くの書が伝わる。読んでみるとよい」

「―――南学」

 かれの目の底を、鋭い光が閃いた。未知のものに好奇心が刺激された際の、かれの常であった。

「在家の熱心な方々が、朝鮮や明国からも書を取り寄せて学んでいる。紹介するゆえ行ってみなさい。お前の漢籍を読む力は、朝鮮との通好を担う五山の碩学にも、明経道を伝える文章博士にも、決して引けを取るものではない。きっと頼りにされよう。あとは―――そうじゃな、少し足を伸ばして、弘法大師の跡を辿るのもよい」

 青年は押し黙ったままだ。不満があろうと、この寺にある以上、修行中のこの男に拒む道はない。湘南は話を切り上げることにした。明日は夕刻に伏見から淀川を下って大坂へ出て、そこからは土佐の船に乗る。京の土佐屋敷には挨拶を済ませてあるが、明日は伏見の邸と旧知の寺に挨拶に立ち寄らねばならず、朝は早くに発つことになっている。

「土佐はよいところじゃ。きっと気に入る。朝の食事が済んだら、身支度をしてここへ来なさい。皆に挨拶をしてから発つ」

「湘南さま」

 珍しくも、わずかに焦りの滲む声音で絶蔵主が言った。

「何かな」

 絶蔵主はためらう様子で唇を噛む。湘南は先を促した。

「言うてみなさい。急な話で、お前にも思うところはあろう」

 絶蔵主は膝の上の拳を握り、視線を落とした。

「………出家の身で、執着あるまじき事と承知しておりますが」

 終始強気な態度だった若い僧が、初めて床に手をついた。

「どうか両親に、わたしが京を離れること、それだけはお伝え頂けませんでしょうか」

 湘南は若い僧の剃り上げた青い頭を、つくづくと見つめた。

 出家にあるまじき執着―――か。

 確かに、出家をすれば現世との縁は切れ、親も子も等しく仏弟子となる―――という建前ではある。だが湘南は二人の養い親を確かに愛していたし、その事を出家にあるまじき事と、さほど苦にしてはいなかった。夫一豊の死後、髪を下ろして京伏見に住まうようになった見性院を、湘南は度々見舞いもしたし、死後は心を込めてその菩提を弔い、十七回忌に当たる三年前には盛大な法要を執り行った。それは間違いなく、俗世の縁による愛ゆえであった。

 得度して四年。遠く土佐へ下るにあたって、書と両親のことだけを躊躇いながら口にするこの青年僧の、学問と修行に対する生真面目さと、抑えがたい情愛と孝心を、湘南は好もしく思う。

 そして、湘南はふと考える。

 教団をなし、檀家を定められ、幕府の命を受けてその治世の一端を担う。山林派と呼ばれる妙心寺や大徳寺は、幕府が定めた五山とは一線を画す、あくまでも在野の禅寺ではある。それでも法度に縛られ、世俗の体制に組み込まれているという点では変わるところはない。そうした今の仏教の世界は、この抜き身の刀身のような、鋭く純粋な青年を受けとめるだけの生命力を、未だ持っているのだろうか。多くの修行僧と共に厳格な日課をこなす大寺院での生活は、このような男にはさぞ窮屈で、ひょっとすると退屈なものでさえあるのではないか。

 この男は確かに悍馬だ。だが手綱をつけて御すことよりも、一度野に放ってみる方が、このような男のためには良いのではないだろうか。そうすれば必ず望む場所を見つけ、自力でそこへ辿り着ける。この男はきっと、それだけの力を秘めた駿馬であろう。

 湘南は頷いた。

「ご両親には勿論ようお伝えしておくゆえ安心しなさい。今宵はよく休むように」

 絶蔵主は礼を言い、深く頭を下げた。

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