闇孔の底で
魈が王室から闇の中へと落ちてから、かれこれ一時間くらいが経過していた。その間、魈は壁を背にしてずっと三角座りをし、蹲っていた。
落ちてからすぐは、「ここは牢屋じゃなかったの?」とか「どうしてこんなに死体が?」とか幾つもの疑問が、不安が脳を埋め尽くしていたために事の深刻さに気付かなかったのだが、時間が経過し落ち着いて状況を整理しようとすると気付いてしまうのだ。考えてしまうのだ。
逃げ道もないこの場所からは、決して逃げることは出来ないんだということに。
これから死ぬまで、ずっと孤独だということに。
ハイドリヒはここが牢屋と言っていたが、そんなのは嘘だった。看守もいなければ牢獄もない。あるのは、無数に近い数の白骨死体と湧き出てくる水、地面をカサカサと蔓延る虫や鼠のみである。
そもそも、国の敵である魈を殺すのではなく、牢屋にて監視するということ自体おかしかったのだ。その時点で、違和感に気付くべきだった。
国を脅かす存在である吸血族。本来ならば、そんな吸血族の関係者と思わしき人物である魈をその場で殺すなりなんなり処分を下したはずだ。生かしておくなんて出来るはずもないから。
なのに、魈を殺すことなく、投獄するとまで嘘を吐いたのか。それは、優輝達勇者の信頼を得るためだったのだろう。
顔を合わせてまだ間もない勇者達の前で、いきなり人を殺してしまっては恐怖を抱かれ、積極的に協力なんてしてくれるわけもなく、信用を得ることも出来ない。だからと言って、仇敵の可能性がある魈を生かすことも出来ない。そんな時の手段として、魈がいる穴があるのだろう。
死体の後始末をする必要も無ければ、脱獄の心配は無い。確かに、犯罪者を一緒くたに投獄するには都合のいい場所である。
部屋を一瞥しても、これといって何もない。壁の隙間から漏れ出る鉱石の差す光は極僅かで、ギリギリ目の前のものが見えるだけ。出口なんて当然あるわけもない。
つまり、将棋で言う“詰み”であり、チェスで言う“チェックメイト”である。
人間、そうそう死なないと言うが、腐敗臭漂うこの空間に一人きりという恐怖と孤独。精神が衰弱するのも時間の問題だろう。
魈は膝と膝の間に顔を埋め。
「誰か、助けて……」
そう呟いた。勿論、誰の耳にも届くことはなく、反響しつつもやがて空気に溶け込むようにして消えていった。
そして、わかっていたこととはいえ、確定してしまった“死を受け入れるかのように、魈はゆっくりと目を閉じた。このまま目が覚めなきゃいいのにと、心のどこかで思いながら。
それから、どれくらいの時間が経過したのだろうか。
残念なことに目が覚めてしまってから、魈はその場に力なく横たわっていた。粉々に砕け散った白骨死体で作られた自然のベッドの寝心地は超が付くほど悪い。
水でずぶ濡れになってしまった身体は徐々に体温が下がっていき、見るからに衰弱してしまっていた。朦朧としているのか、脳もまったくはたらこうとはしない。目の前にはここで死んだ人達の姿が見え、怨嗟混じりの呪言が耳に届く。どうやら、幻覚が見え始め、幻聴が聞こえてきたようだ。
どれくらい経ったかは魈にはまったくわからないが、すでに一日が経過していた。その間、魈は湧き出ている水しか飲んでいない。そこら辺にうじゃうじゃいる虫や鼠は、例え生きるためでも食べようとは思えなかった。
水だけで生きれるとは思えない。いくら動いていないからと言って、体温が下がるにつれて体力は奪われていく。水だけで生きれるのは一週間が限界らしいが、一週間も保つとは思えない。
――どうしてこうなったんだろう……。
それは、魈が一日中碌に働いてくれない脳で考えていたことだ。
どうしてこうなったんだ。どうして死ななきゃいけないんだ。そんな考えが身体中に奔る激痛と永続的に襲ってくる空腹感によって薄れゆく意識の中を埋め尽くす。
しかし、それと同時に脳の片隅で絶対に思っては、考えてはならない一つの答えを出してしまっていた。それ故に、生を残酷だと思ってしまった。
今の時点で、魈の“死”は確定となった。こんな場所で、人間が生きていけるはずもない。その証拠に、ここにいたであろう人達は既に死んでしまっている。
それなら、いっそのこと死ねばいいのではないかと。このまま楽になれば何もかもどうでもよくなるんじゃないかと。そう思ってしまったのだ。
翌日から、魈は水を飲むことをやめた。やめてしまったのだ。
こんな苦痛を、孤独を、虚無を感じるくらいなら、いっそ楽になってしまおうと、そう結論付けてしまったのだ。
魈の目指す死は餓死なのだから、楽に死ねるはずもないというのに。そんな当たり前のことも、今の魈には理解できなかった。そんな余裕など生憎と持ち合わせていないのだから。
何も口に含まず、死を受け入れようと考えてから三日が経過していた。
人間、そう簡単に死にはしないようで、楽になれるどころか逆に苦しみもがくことになっていた。それどころか、当たり前だが脱水症状に陥り、意識はほぼないといってもいい状態だった。
悪環境な上に、孤独という虚無感を味わいながら四日が経過したのだ。意気消沈していてもおかしくはないだろう。
これ以上苦しみたくないと、魈はあれほど飲まないようにしていた水を飲んだ。これほど、水がありがたいものだったんだと魈はこの時実感した。
死にたいんじゃなかったのか? と自分に問えば、死にたいよと返ってくる。
なら楽になればいいんじゃないのか? と自分に問えば、そうだけど苦しみたくはないと返ってくる。
確かに、死ねば楽になれるだろう。何も見ず、聞かず、感じず、味わず、におわずに済むのだから。だが、死ぬためには苦しまなければいけない。苦しまずに死ぬ方法なんて数えるほど。今この場で苦しまずに死ぬことなんて出来ないのだ。
――死にたい、早く楽になりたい……。
ここに落ちてから、魈はずっとそう思っていた。楽になれば苦しまずに済む、だから早く死にたい、と。それが、一番いい選択なんじゃないかと、そう思っていた。
――うぅ、死にたく、ない……。
けれど、時間が経つにつれて死にたくないと思うようになっていた。本来ならば、誰もが持ち合わせる当たり前の思想。だが、この場においては邪魔な考えだと思っていたが、結局はこの考えに辿り着いてしまうのだ。
死にたいという考えと、死にたくないという考え。そんな正反対の考えが魈の脳を埋め尽くす。心のどこかでは死を望みながらも、無意識故か、本能故か生に縋りつく。
矛盾しているなんて魈が一番理解している。でも、やっぱり死にたくないのだ。まだ、やり残したことが、心残りがたくさんあるというのに、こんなところで死ぬわけにはいかないと、死ぬのがわかっていてもそう考えてしまうのだ。
その時、魈の心に変化が生じた。この苦しみからの解放を願っていた心は、何時しか暗く黒く淀み切った憎悪や憤怒といった負の感情に染め始めていたのだ。今までとは違った感情が心を支配していく。
――どうしてこんな目に合ってるんだ。俺が何をしたってんだよ。
――こうなった原因は何だ? どうしてこうなった?
――どうしてこの世界に来た? この世界に来なければ、俺はこんな目にあってはいなかったんじゃないか?
――俺がこんな目に合ってるのは、あいつらの所為じゃないのか? あいつらに巻き込まれて、俺はこの世界に来たんじゃないのか?
――なら、あいつらの所為で、俺は……!
今、この時点で綾の好きだった誰にでも優しく、思いやりがあって、白く清い心を持っていた魈は死んでしまった。
ここには、憎悪や憤怒と言った負の感情に支配され、その感情をぶつけ、黒く淀み切った心を持った魈がいた。無意識の内に、他人に対して恨みを持つようになっていた。今まで、抱いたことのない悪感情が魈の心を埋め尽くす。
――あいつらは今頃何してんだろうな。みんなで仲良く勇者ごっこか? いや、そんなことはどうでもいい。
――俺は何をしてるんだ。こんな所で。
――こんな所で、野垂れ死んでたまるか。
そして、魈は現状の打開策に思考を巡らせていた。死にたいなんていう馬鹿な考えや、憎悪や憤怒なんていう邪魔でしかない感情を一切合切吐き捨てる。生きるために不要なものは、ただ邪魔でしかないという考え故に。
――今、俺が望んでいることは何だ?
――死にたい? そんなわけがない。
楽な道と思っていたその選択は、実は茨の道だった。生きることよりも、ずっと辛い道のりだった。故に違う。
――復讐がしたい? そんなわけがない。
人を恨んでも、憎んでも、現状は何も変わりやしない。何の解決にもならない。そもそも、既にどうでもいいこと。故に違う。
――俺はどうしたい?
そんなもの、最初から決まっている。生きたい、と。
――そうだ、俺は生きたいんだ。だったら……。
魈がこの闇孔に落とされてから丁度一週間。魈は、生きること以外のすべてはどうでもいいと考えるようになっていた。
魔人族の侵攻によって脅かされるこの世界も。吸血族を仇敵と見なし、自分をこんな所に落としてくれやがったどっかの国も。一緒に召喚されてきたあいつらも。最後まで助けようとしてくれていたどっかの誰かも。
すべて、魈にとってはどうでもいいこと。
魈が渇望する“生きる”ためには、無駄な考えや邪魔な感情など不要でしかない。そして、自分の“生”を阻むもの全ても不要だ。
故に。
――生きるためなら……なんだってしてやる……!
脅迫、強奪、殺戮。生きるためならば、文字通りなんだってしてやる。
どれだけ無様でも、這い蹲ってでも跪いてでも、生きる。そのためなら……!
魈はゆっくりと立ち上がる。その辺にいる鼠にかぶりつき、喰い散らす。一瞬、嘔吐感が魈を襲うが水で無理矢理流し込む。生き残るためには、贅沢なことは言っていられない。
この一週間でボロボロになってしまった制服は脱ぎ捨て、そこら辺に落ちていた服に着替える。ボロボロなのに変わりはないが、制服よりは動きやすいだろう。
そして、そこら辺に落ちていた剣をボロボロなコートの背中についていた鞘に納める。生きるために、武器は必需品だ。
冷え切って衰弱しきった身体に鞭を打つ。フラフラと足取りは覚束ないが、それでも無理やり動かす。
そうして、魈は一週間ここで過ごして気付いたことを纏めるために思考を巡らす。
そして、辿り着いた一つの憶測に、魈はニヤリと笑みを浮かべた。そして、今まで何してたんだと自分の不甲斐なさに嫌気が差す。
「そうだよな、よく考えればわかったことじゃねぇか」
魈はそう呟くと、床に敷き詰められていた骨をどかし始めた。そして、壁が全部見えるようにする。
すると、そこに魈があると確信した探し物があった。
骨に隠されて、見ることの出来なかった、人一人が通るには十分すぎる穴を。この、深く暗い穴から脱出出来る抜け道を。
簡単な話だったのだ。元々、ここはハイドリヒの部下か誰かが作ったであろう場所だ。だったら、間違えて誰かが落ちてしまったらどうするのか、その対策があってもおかしくはないだろう。
つまり、こう考えればいい。誤って落ちてもどうにか出来る何かが存在していると。それが、まさかここまで大きい抜け道だとは思わなかったが、ここから脱出できることに変わりない。
「さてと、行くか」
魈は外へ出るべく、歩き出す。その顔に浮かべた笑顔は、綾が最後に見た酷く優し気で、それでいて哀し気な笑顔なんかではなく、獰猛な獣のように剣士をむき出しにした狂気差を感じる笑みだった。瞳も何処か狂気じみている。
この瞬間、生きるという目的のためならば手段を択ばず、ただただ〝生〟を渇望する少年が誕生した。
ども、詩和です。お読みいただきありがとうございます。
さて、ショウが変心しましたね。やっと、あの優しい口調を書かなくて済むw
あと、描写が他作品と似ているかもしれませんが、すみません、参考にさせてもらった部分が多々あります。こういう描写は苦手なんです。でも苦手とか言って逃げ出したらダメなんですけどね。どこかの戦闘兵器に乗る彼のように逃げちゃだめだ、逃げちゃだめだ、逃げちゃだめだと言い続けなければ……。
次回、ショウは外へと出ます。早かったなぁ、外出るの。
そこに待ち受ける者とは一体……!
最初の方は批判は積極的に受けます。パクリ、言われてもその通りですと言わざるを得ないかもしれません。だが、あくまで死姫は俺の作品ですので。
さて、今回はこの辺で。
それでは次回お会いしましょう。ではまた。
※大幅改稿に伴い、2019/05/12に改稿しました。




