3 .黒はざわざわ、赤はさわさわです
ゲテモノ注意です。
食料?
ゼウ君と私の目の前にあるのは、私たちの背丈よりも大きな、根本が太く途中でぶつりと折れた立ち枯れの木に似た岩の山です。
これ、食べ物?
調理方法によっては岩も美味しくなるのでしょうか。お腹もだいぶすいてきましたし、空腹は最高の調味料と言いますし。
それでも軟弱な顎の私には難易度が高く感じます。
「少し待て」
子どもの頭程の岩を片手でひょいと持ち上げたゼウ君は、全く助走もせずに軽々と飛び上がり、身体能力の高さをまたも披露してくれたのです。
ひゅ。
そして、巨石の上部に岩を叩きつけ。
…つけ。
ざわざわざわ。
潰れた岩の上部、その隙間から黒い染みが広がります。いえ、吹き出します。
し。
し、染みではなくて、むむむ。
虫です。虫です。虫ですったらっ。
影も無い陽光の大地を、覆い尽さんばかりに次々と黒い虫たちが這い出して来たのです。ひ。お、お家を壊されたらそりゃあ住人は怒りますよ、ゼウ君。
蟻だったらまだ許せたと思うのですが、嫌だけど。
でも。
でも。
艶々と油光る黒い奴ら、頭文字G、の集団って許せますか?
それも。
文庫本サイズの巨大Gを?
「許せにゃあぁあああ」
わさわさと揺れる長い2本の触覚に、変な声を出して逃げ出した私は普通ですよね。
ここが我が家であったら。
せ、せめて一匹だったなら、身近にある雑誌を丸めて必死で撃退してみせますが、敵は私の手よりも大きくて多数。
お手上げです。
降参です。
いやぁあ、こっちに飛んで来たぁあああ。
逃げようと騒ぐ私を尻目に、ゼウ君は何を勘違いしたのでしょうか、Gの集団に向かって突進っ。
岩陰に身を潜めようとした私はあっけにとられ、ぺたり、尻もちをついてしまいました。彼の方に伸ばした手も力なく膝へと落ちました。
だって。
少し離れた位置で、羽ばたく無数の奴らを相手に恐ろしい速さで黒い爪で引き裂く彼は。
まだ線の細さが残る顎。
薄い唇。
そして輝く赤の瞳。
悪路に次第に遅れがちになる私を振り向きつつ、何度も立ち止まって待っていてくれたのです。仕方がないなと呆れ顔をしながら。
だのに今のゼウ君は。
まるで。
まるで、異形の獣のようで。
「アン・シノ」
私の意識は半分以上飛んでいました。
はっと気が付くと、手の平を上に向けてゼウ君が腕を差し出してくれていました。あの呆れ顔、に、戻っていて、だから私の身体は震えが止まって。
「ゼ、ウ君…」
「こっちに…どうした?転んだのか?」
気遣う言葉によって私の心はちくりと痛みました。罪悪感です。異形の獣だなんて、なんて失礼な事を考えたのでしょう。
もう大急ぎで彼の元に飛んで行きました。バラバラ死体になった黒い奴らGを踏む感触は、忘れることにします。
「ごめんね、あの、一人で逃げて」
それだけしか言えませんでした。
ゼウ君は一瞬だけ不思議そうに目を眇めましたが、ふっと頬を緩め、穴の開いた岩に片腕を突っ込んだのです。そして。
「いたな」
…何が“いた”のでしょうか、嫌な予感しかしませんが。
果たして予感は的中して、私の傍に飛び下りた彼がその手に握っていたのは。
当然、G。
それもゼウ君がばらばらにした奴らよりも遥かに大きく、身を捩るようにうにゃうにゃと6本の肢を動かしていたのです。
う。
「まだ若い女王だな、産卵していない」
卵がなくて残念だと聞こえたような、え、卵があったらどうするつもりだったのでしょうか。まさか、まさかね?
食べませんよね?
「喰うに決まっているだろう」
ちーん。
どこかから鐘の音が聞こえて来ましたが、それよりも私の目の前で、6本の肢を一纏めに持つのは何故なのか聞いていいですか?
「黒虫の女王はこうして」
「ゼ、ゼ、ゼウ君?」
ばりぃ。
肢が本体から引き剥がされて、白い何本もの糸を引きながら、薄い色の中身が丸見えになりました。
「ほら。これで喰えるだろう?」
も。
もしかして、食べやすいようにと私の為にわざわざ解体してくれたのでしょうか…でも。
彼が握る肢にくっついている先には、筋肉のような肉がうねうねとまだ動いています。さぁっと血の気が引きました。
た、食べるの?
これを?
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいっ」
「何を謝っているのか分からない。只人は黒虫を喰わないのか?」
Gじゃない。
これは黒虫。黒虫って言ったら黒虫。黒虫なの。
食べられる虫なのです。
って。
無理です無理です無理です。
「食べられません、ごめんなさいっ」
これでもかと首を縦に振ると、ふぅんと言ってゼウ君はその口にGを放り込みました。見ないぞ、絶対に見ない。
味の感想を聞く余力は、到底、私にある筈も無く。
犬歯にしては長すぎる彼の白い牙がのぞきます。
「なら、卵を採るか。それなら喰えるだろう?」
あっという間に黒虫を飲み込んだゼウ君は、周囲を見回します。良く見れば、大小の差はありますが同じ様な縦長い岩が存在していて、彼はその内の一つに視線を合わせました。
き、危機です。
このままでは黒虫の卵を食べることになってしまう…。
「ゼ、ゼ、ゼウ君。私ならまだお腹すいていないので卵はいいです」
「だが直ぐに別の食料が手に入るとは限らない。お前の体力を考えなら、今、喰っておくべきだ」
「だ、大丈夫です。心配してくれてありがとう」
「心配?」
きゅっと狭まるゼウ君の眉間。
「お水を貰ったから私は大丈夫。そ、それよりも水場に向かいませんか?」
逡巡していたゼウ君に、本当に大丈夫だからと説き伏せて、黒虫塚から一刻も早く離れます。とは言っても私の足は相変わらず遅々として進まないのですが。
岩石を登ったり下りたり。
転ばないよう注意するのに精一杯。な、情けないです。
次第に強い力を放つ太陽は、燃え上がる色を残しながら傾いて行きました。
「止まれ。今日はここで休む」
「え、でも」
息の上がった私の頬を照らす陽の名残、まだ進むことが出来ると思わせる明るさです。けれどゼウ君は既に平べったい石の上に荷を下ろしました。
「蜜水、飲んでおけよ」
私も隣に腰を落とし、大きな岩に背を預けるとどっと疲労が押し寄せて来て、棒のようになってしまった足をマッサージしました。
うう、ゼウ君の言う通り休んで正解でした。
ゼウ君から貰ったお水は爽やかに私の全身に沁み込みました。
「お水、美味しいです。あ、ゼウ君もどうぞ」
「俺は要らない。お前が飲め」
「あとどのくらいで水場に到着しますか?」
「…思ったよりも進んでいない」
えーっと。
それは私のせいですね。足手纏いな私を連れての水場までの道程に、どのくらい時間がかかるか予想できないと。
「ご、ごめんね?」
はぁと大きくため息を吐いて、くしゃりと頭を抱えるゼウ君。とても疲れた様子だったので、もう一度ごめんなさいと謝罪しました。
「只人は皆、お前みたいなのか?」
私みたい?
「謝ったり感謝したり、…笑ったり」
「そうだと思いますけど?」
「そんな訳あるか、この馬鹿」
「庇護してやるなんて言葉を、牙人族の俺を、あっさり信じる馬鹿が何処にいる。只人なら警戒しろ。逃げろ。怯えろ。こうして隣に座るな、馬鹿」
突然、すごい勢いでまくしたてられました。夕焼けに益々赤が深まり、綺麗に輝く彼の瞳。私の目は点になるばかりでしたが。
ゼウ君が急に怒り出した原因は、私。
只人の私は、いわゆる、子豚なのです。
捕食者側であるゼウ君に対して恐れ逃げ惑うのが正解で、彼が言う様に謝ったり笑ったりすることは不適切なのでしょう。
少し考えたら判ること。
でも。
ゼウ君だって。
いけない、と思います。
スライムから助けてくれたり自分の分より先に水や食料を差し出してくれたり、そ、そんなに親切にしてくれたゼウ君を信じるなって言う方が無理なのです。
それに、元々私は甘ったれ。
誰もいないこの荒野で縋っちゃうのは当然なんだから。
くそう。
溺れる者は藁をも掴むって知らないの?
「ゼウ君のばか」
と大きな声で言いたいけれど、それは何だか悔しいので、唇を噛み締めて小さく呟きました。ばかばか、ゼウ君のばか。
言葉を飲み込む私の足下で、石の表面が微かに動きました。
うん?
細い糸にしか見えませんけれど、さわさわさわと動いていて、生き物でしょうか?
驚いた事に5㎝程の赤い糸は、剥き出しになっている私の足首に向かってぴょんと飛び上がったのです。ひゃ。な、何、これ?
「動くな、アン・シノ」
旋風が足元を過ります。
「これは赤ヒキだ」
赤ヒキ?
ゼウ君の爪によって赤い糸ならぬ赤ヒキは、細切れと化しました。私の足はかすり傷すら付いておりません。すごい。
「ありがと、う、ひっ?」
いつの間にか、背中をくっつけていた岩の表面が赤ヒキだらけではありませんか。さわさわさわ。揺れる無数の赤ヒキに、き、気分が悪くなってきました…。
「赤ヒキは動く物には取り付かないが、休息中の生物を狙って皮膚の下に入り込む。只人のお前なら朝までに喰い尽されるだろう」
んにゃあっ。
そ、そんな凶悪な奴が周囲に満ちているなんて。
こわい。
「こっちに来い」
ぴょんぴょんと飛び跳ねて逃げ惑う私とは違って、涼しい顔をしたゼウ君。何故だか彼の周囲には、赤ヒキが一匹もいません。
「傍に来い、アン・シノ」
そんな風に呼ばれたら、絶対に逆らえません。
「牙人族の皮膚は硬く、赤ヒキは近づかない」
ゼウ君は胡坐をかいていて、その膝の上に私を導き、乗せてくれました。赤ヒキの脅威にぶるぶると震えていた私でしたが、次第に落ち着いて息が出来るようになりました。
ゼウ君の肌って、ひんやりとしていて気持ち良いのです。
冷静さが戻ってくると、余計な事にも気が付いてしまいます。あの、これって子どもみたいな体勢ではありませんか?
というか。
密着度がすごく高いのですが。
それに。
と、吐息が近くて。
どうしよう。
今更だけど、すごく恥ずかしい。
勝手に鼓動が早くなって、このままではいけないと体勢を変えるべくもぞもぞと動き出しました。
が。
「足を出すな」
「だって、あの、重いでしょ?」
「別に。赤ヒキに喰われたいのか?」
それは嫌です。
ゼウ君の言葉に、更にくっつく結果となりました。
密着していた私の体温がゼウ君の肌へと移り、足先までぽかぽかしてきました。そうなると疲労困憊した身体に眠気が押し寄せるのも当然で。
「お前は温かい、アン・シノ」
ゼウ君のひそやかな声も心地良くて。
うう。
「眠たい…」
「眠れ。俺も少し休む」
このままの体勢で?
くっつきそうになる瞼を無理矢理こじ開けて膝から降りようとし、た、途端。彼の肩を覆っていた外套が広がって、ぐるりと私に巻き付いたのでした。
「ゼ、ゼウ君?」
再び彼の膝上に戻ってしまったのは言うまでもありません。でも野外で野宿するなら外敵に襲われないようにどちらかが起きているべきなのではないでしょうか。
「黒虫や赤ヒキにさえ逃げ出すお前が役に立つものか。大人しく寝ろ」
「私だって見張りくらいは」
「牙人族の俺に近づく命知らずはいない」
牙人族ってどれだけ強いの?
「お前くらいだ、アン・シノ」
もう、優しく聞こえるのはどうして?
逃げろと言ったくせして、こうして守ってくれるなんて、矛盾しているってゼウ君自身が分かっていないでしょう。
ゼウ君のばか。
ばか。
「馬鹿だな、アン・シノ。俺を信じるな」
お読みいただき、ありがとうございました。