終末世界論
街の焦りを気にも留めず、彼女はぷかぷかと煙を吐いていた。僕は煙草の臭いというのがどうしても気に入らず、他人のものならつい顔をしかめてしまうわけだが、彼女のそれはどうも愛おしいものだった。彼女のこの流れる川にぽつりとある岩の様なのは、僕が彼女を知ったときからそうなのだ。世界が終わる、あと何年も世界は耐えられないようで、人は皆仕事を投げ出すばかりで、帰省ラッシュの混雑こそまさしく災害という風だった。
僕は元々彼女を連れ出すつもりだったのである。頼る身も持たぬ彼女を、どうにかして頼れる人のもとへおくってやりたかった。それでも彼女は至極冷静で、僕の誘いを断ったのだ。彼女のその言葉はこうだ
「私がそこに行って何をすると?私がしているこの観測は、君にとってそんなにも投げ出すべきつまらないものだったかね。」
はっと我に返ったのだ。彼女がそれをしている最中は、いつもの無気力からは想像もつかぬほど楽しそうだったというのに。彼女が観測をしているときは、僕と知り合ったときよりずっと幼い子供の目をしていたというのに。僕がその手を止めるなど、決してしてはならないことだ。しかし彼女は気分転換に、と観測の手を止めた。そうして今ここでぼうっとしているのである。
で、どうだったの、と彼女に聞いてみる。言葉にしたあとで主語もなく伝わりにくかったかと心配したが、彼女はどうやら汲み取ってくれたらしい。
「ファンタジー世界か何かの言葉を使えば、世界の均衡とやらが崩れている。君、知っているかね。アメリカがこの世界の終わりがいつ完了すると言ったのか。」
「ええと、確かあと何年もない、と。」
アメリカの観測者たちは、はっきりとした時間はわからないが何年もないとしか言っていなかった。
「そう、あと何年もないと言った。何年もないなら明日かもしれない、明後日かもしれない、一年後かもしれない。世界中が爆弾のように一斉に終わるかもしれないが、どこかの国を中心としてじわりと終わっていくかもしれない。確かな答えはひとつもないし、現実味が感じられないわけだが、私は終わり方については後者を支持している。そしてその国は日本だと考えている。」
彼女の言葉を飲み込めない自分がいた。なぜ日本からだと考えたのか。すると彼女は、僕の目の前に二つの物を用意した。ひとつは電波時計、もうひとつは一分間の砂時計だった。
「見ていろ。おそらく怪奇が今、起こるぞ。」
彼女は電波時計が零秒を示すと同時に砂時計を逆さにする。そうして一分間待つと、砂時計は確かに終わった。だというのに、電波時計は違っていた。まだ五十五秒だったのである。
一体何が起こっているというのだろう。砂時計も電波時計も、狂うことは考えにくいのだ。彼女は二つを回収して、わかっただろうと言って僕に向く。
「ゆっくりになる。今までの一分間が一分間でなくなっている。壊れているのではなく、おかしいのだ。だから私はこう考えてみたのだ、世界の終わりはいずれ時が止まる事だ。時計も、人も、動物も、水滴でさえ、完全に静止を迎えるのかもしれないと。まだ仮定だが、絵空事ではないかもしれない。原因はわからないのだが。」
彼女の長所はこの想像力と推察力だが、あまりにも絶望的な観測だった。
「しかしアメリカにはある程度の間違いがある。」
冷静に述べたその声に、僕はえっ?と驚いて彼女を見た。
「実際、このスピードで行けばあと七年は止まらない。これが何かの不定期なスパンで起こるものが原因ならば話は変わるが、このままならば七年以上は完全な崩壊はしない。もちろん日本だけの話であって、アメリカなんぞが止まるのはもっとずっと後だ。彼らは私たちが完全に止まってから止まり始めるのだから、十年はあるだろう。」
「でも結局十年か……。」
彼女の言葉にまたため息をついたが、どうやら彼女に絶望感は無いらしい。あと七年も生きて、おそらくずっと好きなことができるのだから、決して悪くはないと言うのだ。
「時が止まるとどうなるか私たちが知ることは不可能だろう。世界が止まって私たちも石像のように止まるのか、生命活動をしないもののみが止まり私たちが飢えるのか、日本の誰もが最期まで知ることはできないだろう。それでも前者ならば幸せだろう。後者ならば何かしら苦しまないものを……そうだな、仮想装置でもつくればいい。世界が終わることを深く考えても意味は無い、どうせ終わるならばどうしたいか考えればいいのだ。」
明るく告げて煙草を片付ける彼女は、久しぶりに見る笑顔だった。
帰省ラッシュのようなものは、まだ終わる様子はないらしい。きっと彼らもやりたいことをやろうとするだろう。