Trick or Blood
ママの趣味で少し古い洋館に住み始めたのは、もう半年も前のこと。
自室として与えられた広すぎる部屋で私は一人、空を眺めていた。
今日は月が綺麗だ。
ベランダへ続く窓と言う名の扉にそっと手を掛ける。
僅かに軋む音がして扉を引くと生温い風が頬を撫でた。
少しづつ冬の空気に変わっていく時期、寝間着では少し寒いかもしれない。
それにもう深夜だ。
それでも今日は何だか風が生温く感じられる。
ベランダの手摺に手を滑らせていると、階下に人の気配を感じた。
暗くて良く見えない、と彼女は手摺を両手で掴み身を乗り出す。
暗闇の中僅かに動く影。
人?首を傾げた彼女。
その瞬間強い風が吹き彼女目を瞑る。
先程とは違う冷えた空気が彼女の体から熱を奪おうとしているようだった。
風が止み目を開けた彼女はハッとした様子で、再度影を探すが見当たらない。
見間違いだったのか。
二の腕をさすりながら部屋に戻ろうと身を翻すと、聞き逃しそうなほど小さな笑い声が聞こえた。
背中に刺すような気配を感じて、彼女はゆっくりと振り返る。
「もう、帰っちゃうのかい?」
そこには白銀の髪と血を吸ったような赤い目をした青年がいた。
青年は器用にもベランダの手摺の上に立っている。
美しく恐ろしいほどに造形の整った目鼻立ちのいい顔に、闇に映える白いワイシャツと対照的な黒いコート。
まだ、冬でもないのに、と彼女は思う。
そして先程から感じる彼の刺すような視線に居たたまれなくなる。
「あの、どちら様でしょうか」
不法侵入ですよね、と言おうとしたら彼がふわりと手摺から飛び降りた。
重力を感じさせずに着地をしてゆったりと彼女との距離を詰めていく。
「さぁ?どちら様だろうね」
にこやかな笑を称える彼だが、彼女の背筋には嫌な汗が伝っていた。
本能的に逃げろと脳が信号を出す。
身を翻す彼女だがパチン、と言う音と共に部屋へと続く逃げ道の窓が独りでに閉まる。
焦った彼女は扉に駆け寄りガタガタと揺すって叩く。
コツコツと革靴がベランダの床を蹴る音がする。
「逃げなくてもいいじゃないか」
向けられた笑顔はゾッとするほど冷たかった。
目が笑っていない。
その真っ赤な目の奥では何か分からない飢えのような光が、ギラギラと灯っていて彼女を射抜く。
グンっと自分よりも大きな手に腕を掴まれて体を強ばらせる。
人間の体温よりも異常に冷たい彼の手が恐ろしかった。
「悪戯はまぁ、好きだけど。お菓子よりこっちのが好きなんだよね」
混乱している彼女の耳に届く言葉。
だが理解はできない。
ぐるぐると脳内を巡り乱反射する彼の言葉に頭が痛くなった。
そんな彼女にお構いなしの彼は、彼女の寝間着の襟を乱し肩口に顔を埋める。
彼の吐息が肌にかかり身を捩るが次の瞬間に襲ってきたのは、ブチブチッと肌を切り裂く音と鋭い痛み。
声にならない悲鳴が彼女の口から溢れ出た。
体が悲鳴を上げている。
「あ、美味」
ペロリと舌なめずりをした彼。
口元には赤い液体。
それが彼女の血液だということを把握するのには、時間を要さなかった。
全身から血の気が引いていくのを感じた彼女。
彼は笑顔を崩さない。
どこまでも楽しそうな笑顔が彼女には酷く歪んで見えた。
「今日のはきっと夢だよ」
この痛みは現実だと叫びたくなる。
だがそんなことはさせない、と言うように彼は再度彼女の肩に顔を埋めた。
襲ってくる痛みに彼女は意識を手放す。
……そして目が覚めたのは母の明るい声でだった。
「ママ?……私、あれ」
目が覚めたのはベッドの上。
寝間着の乱れもない。
首を傾げる彼女を見て母もまた同じく首を傾げる。
本当に夢だったのか、そう息をついた瞬間ツキンとした痛みを感じた。
心の中に砂を撒き散らされたようにザラザラとした感覚がある。
手を伸ばしたのは自分の首筋。
触れた瞬間にズキンと痛む場所には噛み傷のような、牙が刺さったような小さな跡。
血は、出てない。
「そうそう、今日はハロウィンだからね。パンプキンケーキ作ったのよ」
楽しそうに話す母の声は彼女には届いていない。
血の気が引いた彼女はまたベッドに倒れ込みたい気分だった。
あれは夢じゃない、小さく呟いた言葉は空気中に触れて誰にも届くことなく霧散した。