シャドウゲイト
騒がしい夜だと呟きながら、翔琉は高層ビルの屋上で月を見上げていた。
上弦の月という奴か。月が満ちるにはまだ遠い。
騒がしい夜だ。
今、この町はまるで子供の様に、満月が待ち切れない様子で騒いでいる。
マリオネットの騒動が続いていた。そしてマリオネットが潰れた今日、息吐く間も無くまた新たな騒ぎが起ころうとしている。
この上弦の月の下、強い力を持った者達が町へやって来るのを翔琉は感じていた。恐らくそれぞれ繋がりの無い全く別個の勢力なのだろう、それ等はまとまりなく町へやって来た。もしもそれぞれの背後にそれぞれの組織が居るとすればどれだけの人数がこの町に関わろうとしているのか分からない。この町に訪れる混沌を計る事は最早不可能だ。
くつくつと翔琉は笑う。
来訪者達はまだマリオネットが潰れた事を知らない筈だ。マリオネットの騒動に関わる為の来訪に違いない。
その真意は何だ。
ビルの爆破という形で表の世界に干渉したマリオネットを潰す為か。
それとも騒動に乗じて更に火勢を上げる為か。
あるいは集った幻獣使い達を打ち倒し、己の最強を示す等という馬鹿者が他にも居るのだろうか。
ああ、楽しみだ。
強い者が集まり、場が混沌とすればする程、それを倒し収めた者の強さがより強固に証明される。新たにやって来た強者達、そして自分と死闘を繰り広げ引き分けたあの二人、己の強さを証明する存在がこの町に今どれだけ居るのだろう。
ああ、楽しみだ。
早速来訪者同士が衝突しているのを感じながら、翔琉は月を見上げて笑い声を上げた。
その時、月に美しい女性の顔が映り、それを振り払う為に慌ててビルに頭をぶつけ出した。
妙齢の美女が街灯の点る通りを歩いていた。
妙齢の美女と言えば聞こえは良いが、その鋭い目付きが美しさ以上に威圧感を放ち、全てを台無しにしている。女は公安機動捜査隊の一員として、幻獣使いを狙ったテロ事件を捜査しにこの町へやって来ていた。
「誰も襲ってこないな」
「まだ十分も経っていませんよ、お嬢様」
女が口の中で呟くと姿の見えない従者が頭の中に返答してくる。その従者は女の幻獣で、顕現すると赤い笠を被った小柄な悪鬼の姿を取る。主に女の身の回りの世話や警護を行う鬼はイギリスの妖怪レッドキャップなのだが、赤錆色の笠に萌黄色の着物を着流し、漆黒の打刀を帯びた和風アレンジになっている為に、課内の誰からもレッドキャップと認識されていない。それが女の不満だった。
女は辺りを鋭く眺め回しながら夜道を歩く。テロリストに襲われる事。それが先日正式に対テロに配属された彼女に与えられた最初の任務だった。本来新人には任せられない危険な任務だったが、既にホテルの爆破で多数の死者が出ているという一刻も争う緊急事態の中、すぐに調達出来る適任者が彼女しか居なかった。課内には幻獣使いが少なく、襲われやすい容姿を備えた者は更に少ない。
勿論あくまでも囮であり、辺りには密かな監視が幾つも目を光らせている。だが初めての任務、しかもそれが生死を掛けた実戦であるという事が、彼女に極度の緊張を強いていた。その上、彼女が幻獣使いとなったのは、数年前の大規模なホテル火災とその中で行われた無差別殺傷テロのトラウマが原因であり、ホテルの爆破という当時の事件を思い起こさせる符合が彼女の肩に余計な力を加えてくる。
そんな訳で女は襲われる為の囮であるにも関わらず、私は只者ではないですよ、大変な事件が起こっているこの夜に特別な目的を持って歩いていますよ、という雰囲気を全身から漲らせつつ歩いており、監視についた先輩方をやきもきさせていた。
先輩方は女の様子を見て、今回の囮が失敗すると確信し、安堵の心持ちで監視を続けていた。任務としては失敗となるが、元より動いているのはこの班だけではなく、もっと言えば、この班に与えられているのは失敗しても問題の無い任務である。囮で釣り上げられれば良し、出来なくとも夜警の意味合いを持つ。むしろ実力があるとはいえ、まだ二十歳に満たない娘の様な年齢の女を囮にする事に皆気が引けていた。
後は本隊に任せてこちらは混乱が起こった時に市民へ危害が加わらない様に注意すれば良い、と誰かが安堵の息を吐いた時、その安堵をぶち壊す様な声が響いた。
「お前、只者ではないな!」
すわテロリストかと全員が緊張に息を飲み、そして女の進む先に居る変質者を見つけて、どう反応して良いのか分からず固まった。
唐突に現れたそいつは、一言で言えばヒーローだった。スーツアクターのバイト帰りですと言われてもおかしくない程、ヒーローの格好をした変質者が女の行く手を塞いで声を張る。
「その目付き、明らかに不審者だ! この大騒ぎの中、そんな目で歩いているとは、お前が犯人か?」
不審者はお前だ! と誰もが突っ込みたかったが、そこはプロ、誰もが声も漏らさず即座に臨戦態勢へと移る。最悪の場合は麻酔銃で昏倒させる準備までしてヒーローの出方を窺ったが、はっきり言って全員が困惑していた。相手は武器を持っていない。凶悪そうにも見えない、言っている事からしてテロと関わりが無い。どう見ても勘違いしちゃった阿呆だ。それを相手に銃を構えている自分達が、これまた阿呆らしく思えた。
だが一人、女だけは違った。息を細く吐き出して雑念を振り払うと道の先のヒーローを睨みつける。女の隣にはいつの間にか赤錆色の笠を被った子鬼が腰を屈めて控えている。先輩方はそれを見て目を見張った。幻獣は普通の人間には見えないし、影響を与える事も出来無い。女の様に見る事の出来る幸運を持った者か、先輩方の様に特別な訓練を受けていなければ。それなのに幻獣を出したという事は、女が相手を幻獣使いだと認識したという事。
「醜悪な化け物だな! やっぱり悪者だったか!」
ヒーローの罵倒に女の目が更に細められる。
「私達が、化け物だと言うのなら、あなたは一体何なんですか!」
怒鳴る女にヒーローが笑う。
「正義のヒーローだ!」
女が歯噛みする。あまりにも強く噛み締められ、軋んだ歯が音が立てた。拳を固く握りしめ震わせる。あまりに過剰な女の動揺に、監視していた先輩方が訝しむ。いつも冷静な彼女がどうしてそこまで熱くなる。
「お前等が」
瞳から涙を流した女は瞬きを許さぬ程の速さで懐の銃に手を伸ばすと、抜きながら一発目の空砲を放ち、そのままヒーローへ銃を構える。同時に赤笠がヒーローへとすり足で瞬く間にヒーローの懐に潜りこんだ。幻獣使いの可能性があるとは言え一般人へ向けて銃を向けた事に驚いた先輩方が女を静止しようとした時、
「お前等が正義なんか名乗るんじゃねぇ!」
怒鳴りながら発砲された弾丸がヒーローの胸を撃ち抜いた。更に赤笠の抜き放った刀によって胸から腰が切り裂かれる。
その一瞬の惨殺を見て、先輩方は目を見張った。あまりの出来事に誰もが声も出せずに居た。ただの変質者を、撃ち、切った。重大な隊令違反、それどころか只の殺人でしかない。女も撃ってから正気に戻った様子で、自分の銃を見つめ、まるで初めてそれを見たかの様に驚きで目を見開いた。
女が胡乱な目で自分が撃ってしまったヒーローを見る。血を吹き散らして倒れたであろうヒーローに目を向けた女が再び驚きの表情を浮かべた。
胸を穿たれ、切られたヒーローが前のめりに踏ん張って立っていた。
「フォームチェンジ!」
ヒーローのスーツが光輝き姿を変えた。肩の辺りが刺刺しくなり、全体的に装飾が増える。
「油断したぞ! だが例え女であろうと容赦はしない! 次は俺の番だ!」
叫んだヒーローが人間離れした跳躍をする。
女が見上げると、月に掛かったヒーローがくるくると回転していた。
「行くぞ! イナズマァ!」
回転が止まり、ポーズを決め、女へ向かって足を突き出した。
「キィック!」
宙を飛んでいたヒーローの姿が消え、瞬く間に女の腹へ足をめり込ませていた。女が胃から逆流した物を吐き出して地面に崩れ落ちる。意識を失った女の傍に着地したヒーローがポーズを決める。
「天は悪を許さない! この俺が居る限りこの町に悪がはびこる事は無い!」
呆気に取られていた先輩方がそこに至ってようやく女を助けようとしたが、ヒーローはしゃがみ込んで女の額を打つと、高笑いを上げながら月夜に飛び上がり姿を消した。
残された女へ先輩方が駆け寄っていく。
女の額には天誅と書かれたシールが貼られていた。
「大変申し訳ございませんでした」
俺は今日、土下座というものが日本人の本能に刷り込まれていると確信した。
ドアをぶつけられた女の子が地面に尻餅をつきながら見上げてきたのと目が合った瞬間、俺はあらゆる最悪の未来を走馬灯の様に思い浮かべ、ほとんど同時に膝を追って地面に平伏していた。それは無意識で、気が付くと身を投げ出していた。
「悪気は無かったんです! お体の方は大丈夫ですか?」
どうしよう、救急車とか呼んだ方が良いんだろうか。
一応、意識はあるみたいだけど、頭でもぶつけていたら。
いや、その前にそこの手摺から飛び降りて死ぬのが先か?
恐る恐る顔を上げると、女の子は意外そうな顔をしたまま呟く様に言った。
「私は大丈夫」
良かったと、全身から力が抜けそうになる。とりあえず女の子に重大な後遺症が残らなかったのなら、後は俺がどう謝れば良いのかという問題だけだ。とりあえず死ねば良いんだろうか。
「マジですみませんでした! 何でもするんで許して下さい!」
再びコンクリートの床に頭を擦り付けていると、感情の読めない声が投げかけられる。
「何でも?」
「はい!」
あれ、もしかして許してくれそう?
警察の厄介になるのは殆ど確定だと思っていた俺は希望を抱きながら顔を上げ、そこに悪魔の如き妖艶な笑みを見た。
っていうか、良く見たら見覚えのある顔だ。殺人鬼に追われている時に電車で遭遇し、俺と千景と殺人鬼をぶっ飛ばした女の子。自分を魔女見習いと謳い、危険な殺人鬼を圧倒して見せた、あの。
魔女。
そこから受けるおどろおどろしいイメージに、まさか物凄くやばい状況ではないかと、さっき以上に嫌な汗が流れ出す。何故か頭に浮かぶのは暗い地下室。誰の目にも触れる事の無い真っ暗な部屋で、死んだ方がマシだとすら思える様な実験を受ける、そんな光景。
心臓が凄まじい勢いで鳴っていた。泣き出したい気持ちで女の子の口が開かれるのをやけにゆっくりとした時間の中で見つめ続けた。
「じゃあ、ゴミ出すの手伝って」
「え?」
何を手伝えって? ゴミ? ゴミって何だ? まさか俺という名のゴミをどうにかしろと?
「ゴミって、何ですか?」
「え? ゴミはゴミ。今日は燃えるゴミの日でしょ?」
女の子が立ち上がりながら手に持ったゴミ袋を差し出してきた。
どういう事だ? 訳が分からない。
混乱しつつも立ち上がってそれを受け取る。
「じゃあ、ゴミ捨て場に行こ」
そう言って、女の子が歩き出す。
何だ? これは何を暗示しているんだ?
「ねえ! 早く行こうよ!」
女の子が廊下の向こうで手招いている。
俺は訳が分からないながらも、とりあえずその後を追って、一緒にエレベータに乗った。
「驚いたよ」
エレベータに乗るなりそんな事を言われた。やはり扉をぶつけた事を怒っているのだろう。当然の事なので再び謝ろうとした俺に、女の子が笑みを向けてきた。
「マリオネットを潰した人が一緒のマンションに居るなんて」
謝ろうと溜めていた息が、驚きで一気に吐き出される。
ばれていたのか。
いや、正確には勘違いなんだけど。
っていうか、その勘違い、幻獣使いの人達の間に広まっちゃってるの?
「悔しいなぁ。私も頑張ったんだけどさ、やっと最上階まで辿り着いた時にはもうボスがあんたに倒されてて」
「あの場に居たの?」
「居たよ。当たり前じゃん。悪者は倒さなくちゃ」
そう言って女の子は握り拳を突き出してきた。
何というか逞しい。見た目は華奢な、何処にでもいる高校生なのに。俺がこの子と殴り合ったら幻獣とか関係無く負ける気がする。
「電車で会った時は全然強そうに見えなかったのに、どんな魔法を使ったの?」
いえ、普通にエレベータで最上階まで行ったらボスがやられていただけです、と答えようとした時、丁度扉が開いた。
「ま、良いや。とにかくお隣さん同士よろしくね」
女の子が元気に飛び跳ねて外へ飛び出していく。
「お隣さん?」
「そ、私、あんたの隣の部屋に住んでるの」
「そうなんだ」
うるさくしていなかっただろうかと不安になっていると、女の子が言った。
「結構友達とか呼ぶからさ、うるさかったらごめんね?」
「いや、別に。基本的ヘッドフォン付けっぱだし。俺の方こそ、何かうるさかったらごめん」
何故か女の子が笑い出して、玄関を抜ける。後を追うと、すぐにゴミ捨て場が見えた。
「そういや、ちゃんと自己紹介してなかったよね。私は希美」
俺も名前を告げると、希美は名前格好良いと言って笑った。そうだろうか?
「ゆっくりしていってね!!!」
ついでにれいむも飛び出してきて俺の肩に乗ると自己紹介をした。
途端に希美が目を輝かせた。
「電車の時から気になってたんだよね」
「可愛すぎちゃってごめんね」
「わあ、ネットのと一緒だぁ」
どうやら希美はゆっくりれいむの事を知っているらしかった。話題に困ったら実況動画とかの話題を振ってみようと心に決める。
希美はれいむの事をしきりに可愛いと褒めて、それに気を良くしたれいむが誇らしげに頬を膨らませ、重重しく呟いた。
「良い子じゃないか」
何だ、そのキャラは。
それはそうと、何となくだけど希美は何でも適当に褒めちぎるタイプの子だと思う。でも、気を良くしているれいむの心をへし折るのも悪いのでそれは言わないでおいた。
ゴミ捨て場にゴミを置こうとしたらネットが張ってあったので、まくり上げてゴミを放り込んでいると、背中から希美が言った。
「そういや一人暮らしって事は料理とかする?」
「いや、今、練習中」
カレーは作れる様になった。
「そうなんだ。じゃあ、今度ご飯が余ったら上げるよ」
「え?」
「一人暮らしだと作りすぎちゃうから。その代わり食材が余ってたら頂戴」
「良いけど」
「決まりね」
え? 一人暮らし?
俺が疑いの視線を向けていると、希美が不審そうな顔をした。
「何?」
「高校生だよね? なのに一人暮らし?」
いや、ちゃんとしたマンションだし、高校生の女の子が住んでてもおかしくは無いけど、それでも自分の隣の部屋に女性の一人暮らしというシチュエーションが存在した事に驚いた。少し大袈裟かもしれないが、多分クリスチャンの隣の部屋に聖人が住んでいた位の違和感があった。それに自分が古い人間なんだろうか、高校生の女の子が一人暮らしというのはやっぱり危ない気がして。希美は、例えば澄玲の様に誰もが振り返る絶世の美人では無いけれど、ちょっと幼い分、可愛らしい顔立ちをしているし、世の中の大きなお友達の中には、変な奴も居るし。
俺が危険という言葉について考えていると、希美が更に衝撃的な事を言った。
「いや、中学生だけど?」
中学生?
中学生!
中学生の女の子が一人暮らし?
いやいやいや、あり得ないでしょ。自分が中学生だった時を考えれば、自分一人じゃ殆ど何も出来無い人間で、マンションで一人暮らしなんて不可能だった。多分放り出されたら一人で右往左往して野垂れ死んでいた。それをこの目の前に居る存在は実行していると言うのか? 俺が中学生の時はそんな奴周りに一人も居なかったのに。いや分からない。もしかしたら最近はそういうのが普通なのかもしれない。俺が中学生だったのは既に四年前で、俺がアニメや漫画やネットに現を抜かしている間に、世界はそれだけ変化していたのかもしれない。でも、だからと言って、ああ、自分が古い人間である事は承知でこの世界の正気を疑う。中学生が、しかも女の子が一人暮らし? ストーカーとか変質者とか怖くないのか? っていうか、隣に正に男が住んでいるんだぞ? 一人暮らしって両親の許可とか必要なんじゃないの? 親御さんは了承してるの? 家族関係が上手くいっていないとか? もしや家出を?
と、そんな万感の思いを込めてただ一言。
「大丈夫なの?」
すると希美が袖をまくって二の腕を晒し肘を曲げた。多分力瘤を作ろうとしているんだろうけれど残念ながら出来ていない。
「大丈夫。私強いから」
まあ確かに俺も千景もそれから殺人鬼も、電車の中でのされた訳だけど。
でもそれにしたってなぁ、と呆れる様な思いだった。とにかく隣の部屋から悲鳴が聞こえたら何を措いても助けに行こうと決意する。
そもそも世の中暴力以外でも色色あって、例えば盗聴とかされたらどうするんだろう。郵便物を覗かれるとか、ゴミを漁られるとかも聞く。そう言えば、希美のゴミあんな無造作に捨てちゃ不味かっただろうか。
俺の困惑を他所に、希美が何だか妖艶な笑みを見せた。
「マンションのセキュリティもしっかりしてるし、マンションの中に居るお兄ちゃんが何もしなければ大丈夫だよ」
その言葉の意味を考えるに、兄妹という意味でのお兄ちゃんではなく、一般的な男性という意味でのお兄ちゃんだろう。まあ、マンションに住んでいるのだから、何かしたらすぐに身元が割れる。それを覚悟で行動に移す人はそうそう居ないだろうけれど、だからって信頼しすぎるのも。マンションは大きくて結構人が居るから、もしかしたら中には変な人が居るかもしれないし。
と、そこで気が付いた。
違う。多分お兄ちゃんて俺の事を言ってるんだ。
隣に住んでいる今日会ったばかりの如何にも怪しい男である俺の事だ。
慌てて怪しい事はしないと否定しようとして、でもついさっきドアをぶつけた事を考えると、何だか否定しづらくて、いやでも決して変な事はしないと首をぶんぶん横に振っていると、希美が声を押し殺して笑っているのに気が付いた。
どうやらからかわれたらしい。けれど冗談だけど冗談じゃないというか。とにかく変な気は起こさない様にしよう。YESロリコン、NOタッチ。別にロリコンじゃないけど。希美が安心して住める様に、聖人君子の様な心で居なければ。それがさっき扉を当てた事への贖罪だ。
ゴミも出し終わったのでマンションへ戻ろうとすると突然スマホが鳴った。誰だろうと思って画面を見ると葉内澄玲からの電話だった。取り落としそうになりながら慌てて出ると、澄玲が開口一番こう言った。
「連絡、遅くなってごめん」
何のだろう。
もしかして今日サークルで何かあったのか? 何も聞かされてなかったけど。
「ちょっとネージュのシフトについてなんだけど」
ああ、バイトの話か。
ネージュというのは大井さんのやっている喫茶店││カフェと言うと頑なに喫茶店と訂正された││で、昨日バイトに誘われたお店だ。働く事は承諾はしたものの、確かに具体的にいつ働くのかを話しては居なかった。だからそれを決めたいという事だろう。授業の入っている時間以外であればいつでも良いし、授業が入っている時間も友達に出席を頼めば良いだけなので、極一部の授業以外はいつでも良い。わざわざバイトを雇ったという事は出来るだけお昼時の方が良いんだろうなぁ。と、つらつら考えていると澄玲が言った。
「それを決めたいから今から悠人の家に行って良い?」
澄玲が家に?
嘘でしょ。
マジで!
あまりの展開に俺の心が一気に有頂天へと達する。
「勿論!」
と言ってしまってから、自分の部屋が昨日の襲撃で荒れ放題なのに気が付く。これは急いで片付けないといけない。
スマホの通話口を手で抑えつつ、こっそりと希美に話しかける。
「ごめん、これから知り合い来るから、急いで部屋を片付けないと」
「やけに嬉しそうだけど、彼女?」
「え、いや」
「あ、じゃあ片思い」
「いや」
自分でも顔が火照るのが分かった。多分傍から見たら一目瞭然だったのだろう。希美はやっぱりねぇと笑い、そしてその笑みの質が一転して、悪魔染みた、いや魔女染みた顔になった。
何だその顔は。もしかして俺が片思いしている事が滑稽なんだろうか、と不満に思う。否定は出来ないけど。
通話口から澄玲の声が響く。
「ねえ、悠人? そんな訳だから、今から行くね? 住所は昨日聞いたから大丈夫だよ。もう多分すぐ近く」
げ。
そんな。
このままじゃあの汚い部屋に招かざるを得なくなる。
急いで戻ろうとした時、電話口と同じ声が遠くから聞こえた。
「あ、悠人!」
恐る恐る道の先を見ると、澄玲が手を振りながら駆け寄ってきた。それは物凄く可憐で、映画のワンシーンの様だったのだけれど、今は苦しさしか感じない。
まずいまずいまずいまずい。
どうしよう。外で待たすのも悪いし。
「あれ、その子は?」
近寄ってきた澄玲の疑問を聞いて、希美が居る事を思い出した。
そうだ、一旦希美の部屋で待っていてもらって。
「悠人の彼女でーす!」
?
?
!
!!
???
「え? 彼女? 悠人の?」
「はい、そうでーす」
「あーあ、修羅場だね、主」
「でも、悠人、本当に? っていうか、あなた高校生? よね?」
「中学生でーす」
「中が……中学生!」
「はーい、悠人とは小学生の頃からお付き合いさせていただいてまーす」
「嘘でしょ、悠人! 本気? 犯罪だよ! ねえ、ねえ」
「ほら、悠人、この泥棒猫に何か言ってあげてよ、ねえ」
「ほら、主、早く選択肢を選んでこの修羅場から逃げ出さないと。でも間違えたらバッドエンド直行だよ。ねえ、主? 主? ある……じ……し、死んでる」
顔に衝撃が走って、俺の思考が再起動した。更にもう一発れいむの体当たりが横っ面に入る。
「主、生き返った?」
「ああ、大丈夫」
とりあえず澄玲の誤解を解かないと。
そう考えて澄玲と目を合わせ言い訳をしようとして、心が挫けそうになった。澄玲が物凄く冷たい目をしていた。
慌てて首を横に振る。
「いや、違うよ」
「何が?」
「何がって、全部」
「全部? 全部って何? 意味分かんない」
「いや、だから彼女とかそういうの。だって、この子とは昨日会ったばっかりで」
「昨日会ってすぐに付き合い出したの?」
「だから違うって」
思わず澄玲の肩越しに希美を見ると、腹を抱えて笑っていた。
成程、確かに魔女だ。見習いじゃない。魔女だ。
「ほら! あの子の冗談なんだよ。笑ってるだろ」
澄玲が振り返ると、希美は笑いを収め、真面目な顔をして何か言おうとした。が、すぐに吹き出してまた笑い出した。多分、笑いに邪魔されなければ、また物凄い事を口にしたのだろう。人の皮を被った魔女め! もしもゴキブリとか出て助けを求めに来ても二つ返事ではOKしてやらない!
澄玲も納得してくれたのか胸に手を当てて息を吐いた。
「良かった。悠人が危ない人じゃなくて」
「良かった。主がロリコンの変態じゃなくて」
誤解が解けて何よりだが、もしも俺が俺じゃなくてもっと爽やかな人間だったら、疑われる事すらしないんじゃないかと悲しくなった。後、れいむ黙れ。
「大丈夫だよ、主。タキシード仮面だって中学生と付き合ってたし」
彼は正しく変態だった気がする。後、俺が中学生と付き合っている前提で話を進めるな。
一頻り笑い終えた希美が未だに頬を引き攣らせながら寄ってきた。
「あーあ、でも本当に私悠人の事好きなんだけどなぁ。彼氏だったらなぁ」
そう言ってしなだれかかってきた。どうやら嘘だとばれた今、もう一悶着起こす為に起死回生の手を打ってきた様だ。だが今更その言葉を信じる者は居ない。
「わー、主羨ましいなぁ」
と、れいむが抑揚の無い声で言った。
「わー、悠人羨ましいなぁ」
と、澄玲がれいむ以上に抑揚の無い声で言った。
あの、澄玲さん、もしかして信じていませんよね?
どっと疲れが来て何だか立ちくらみがした。よろめいて数歩下がり、頭がぼーっとして上を向くと、男と目が合った。
は?
空から男がどんどん迫ってきた。避ける事が出来ずぶつかって、あまりの衝撃に為す術も無く地面に倒れる。男の体が俺の顔の上にのしかかっていて酷く重かった。思わず呻き声を上げると、男の呻き声も重なる。重い。早くどいて欲しい。
「親方、空から男が」
れいむの声が聞こえてきた。
「駄目だ、ママ。真っ暗で何も分からないよ」と答えるが、男の腹に顔を押し潰されている所為で、声がれいむに届いたかどうかは分からない。空から降ってきたのが男で、それが男に当たったって何のロマンスも感じやしない。
必死の思いで男の体をどかし、何とか男の下から抜け出して、息苦しさから開放された拍子に思いっきり深呼吸すると、全身がずきずきと痛かった。倒れた男を見ると、金髪に真っ白な肌、さっき見えた眼は碧眼で、男なのに見惚れそうな整った容姿。それがうなされる様に何か言った。良く聞こえなかったので、男の口元に耳を寄せる。何か重大な事だろうかと耳を澄ませると、再び呟きが漏れてきた。
「……トマトジュース」
そうか、トマトジュースか。