ゆっくりしていってね!!!
駅と大雑把に言われただけで、何処で待ってれば良いのか分からないので、とりあえず改札の近くで待っていると、やがて澄玲さんが来た。
「お待たせ。てっきり駅前のモニュメントの前で待ってると思ったのに」
「あ、ごめん。駅って言われたから、駅の中が良いのかなって思って。用事は終わったんですか?」
「うん、まあね。行こう」
澄玲さんが先導して歩き出したので、俺もついていく。
歩いていると、澄玲さんが前を向いたまま言った。
「さっきはごめんね」
「え?」
「ほら、色色怖がらせる様な事言っちゃって」
「いや、でも実際そうなんですよね。なら警告してもらわないと」
「うん、でもごめん」
急にしおらしくなった事を不思議に思っていると、バッグの中かられいむの声が聞こえた。
「もしかして話し合いの結果、主の事を処分しようって決まって、最後だからって優しくしてるんだったりして」
怖い事を言う。俺は少し澄玲さんから距離を取った。
「違うわよ! 行けば分かる」
何だかはぐらかす様な物言いがとても怖い。
「っていうか、れいむ町中で喋るなよ」
「でも他の人には見えないし聞こえないんでしょ?」
澄玲さんが振り返って頷いた。
「見える人じゃなければね」
「声だけなら大丈夫でしょ」
でも町中で合成音声が聞こえたら気になる気もするけど。
「大丈夫大丈夫」
れいむがあまりにも楽観的に言うので、俺もそんな気になった。まあ気になったとしてもそれが幻獣の声だとは思わないかもしれない。
澄玲さんが横に並んで俺のバッグを見つめる。
「それが悠人の幻獣?」
「そうです。ゆっくりれいむ」
「ふーん」
澄玲さんはしばらくバッグを眺めていたが、不意に怒った様に顔を上げた。
「ねえ、何で敬語なの? 言ったよね。止めてって」
「あ、ごめん」
何か凄みがあって思わずさん付けを、とは言わなかった。そもそも異性を呼び捨てするのが何となく怖くて恥ずかしい。
「私、敬語って壁作られてるみたいで嫌いなの。止めてくれる?」
「分かった」
「良し」
澄玲は頷いてそれからまたバッグを見つめだした。
「悠人の幻獣って何なの?」
「え? だからゆっくりれいむ」
「聞いた事無い。生首だよね。何処かの少数民族の伝承とか?」
「いや、ネットのキャラクター」
「キャラクター? 何の?」
「ゲームというか何というか。とにかくネットで生まれたキャラクター」
「ふーん。どういうキャラクターなの? ホラーのお化け?」
「いや、物語とかは無くて、ただゆっくりしていってねって言うだけのキャラクター」
「どういう事?」
「いや、そのまま。こいつともう一人の生首がゆっくりしていってねって言うだけ」
澄玲は理解出来なかった様で、いかにも頭に疑問符を浮かべている。
物凄く説明しづらい。実際に見てもらわない事には。
上手く説明出来ない事を恥じていると、バッグの中かられいむの声が聞こえた。
「澄玲の幻獣はユニコーンでしょ? 格好良いよね」
「そうだよ」
澄玲が得意そうに答え、次のれいむの言葉で顔を凍りつかせた。
「じゃあ、澄玲って処女なの?」
その瞬間、澄玲が何故か俺を睨んできた。れいむが原因なのに。そして何故か俺の靴に蹴りが入った。
「俺が言ったんじゃないのに」
「幻獣と相方は一心同体なの」
とりあえずれいむに謝ってもらわなくちゃと考えてバッグを抑えると、再度れいむの質問が飛んだ。
「ねえ、澄玲って処女なの?」
何? れいむの中身ってセクハラオヤジか何かなの?
とにかくれいむの口を塞ごうと、バッグを開けようとすると、隣からがちりという硬質な音が響いた。顔をあげると、澄玲が引きつった笑みを浮かべながら、歯を食いしばっていた。怖い。
「あのね、うちのユニはちゃんとどんな人間でも乗せられるの」
そう言って首元に垂れ下がって服に隠れた馬の形のペンダントを取り出して掌に乗せた。ペンダントから女性の声が聞こえてくる。どうやら澄玲の幻獣は普段ペンダントに擬態しているらしい。
「まあ、穢れのある人間を乗せると吐き気と目眩が凄いから乗せたくないけどね」
穢れとは多分性交渉の有無だろう。という事は我慢して澄玲の事を乗せているのかなと考えていると、突然ペンダントの上に拳が振り下ろされた。顔をあげると、顔を真赤にした澄玲が満面の笑みを引くつかせていた。
「何? 悪い? 処女でそんなに悪いの? そんなにエッチの経験が無い事が悪いの? むしろみんながおかしいんだよ。そんな簡単にさ。もっと大事な物でしょ? 違うの?」
冷静な俺の理性が、この人町中で何言ってるんだ、というつっこみを入れている一方で、戸惑った俺の心は、泣き出しそうな澄玲を見て何とかフォローしないといけないと考え必死で頭を巡らせる。
「あの、穢れが無いんだから良い事なんじゃ」
その瞬間、思いっきり足を踏まれて、思わず悲鳴が漏れた。痛みを堪えていると、澄玲がそっぽを向いた。
「もう良い」
完全に怒らせた様で、こうなるともうどうすれば良いのか分からない。
「みんな私の幻獣がユニだって分かると同じ様に馬鹿にする。幹也なんて今でも馬鹿にしてくるし」
「幹也? 彼氏?」
バッグの中かられいむが反応する。
俺もそれは気になった。
「違う! ただの仲間。あんな奴、大っ嫌い」
ほっと安堵すると、れいむが小声で言った。
「いや、まだ分からないよ。いっつも喧嘩してるあいつが時偶見せる優しさや男らしさにきゅんとするみたいな」
「あー、少女漫画の王道」
「聞こえてるから!」
澄玲が地面を踏み鳴らしたので、俺は思わず仰け反った。
「すみません」
澄玲が荒く息を吐きながら俺の事を睨んでくる。
何だか俺が悪いみたいな態度だけれど、ほとんどれいむが言ってる事なんだけどなぁ、と一心同体の理不尽さを噛み締めていると、澄玲が尚も俺を睨みながら声を荒らげる。
「あのね、幹也と付き合うなんて絶対にあり得ないから。あいつ、最初に会った時いきなり、3Dじゃこんなもんかって思いっきり溜息吐いたんだよ? 聞いたら絵の女の子しか愛せないとか言って、立体はゴミにしか見えないとか言うし!」
筋金入りだなぁ。澄玲を前にして、本心からゴミにしか見えないと言ったのなら、それはもう完全に向こう側に言っている人間だ。
怒りっぱなしの澄玲を見ながら、なだめ方が分からずに困っていると、澄玲が唐突に足を止めた。あまりにも怒らせすぎて遂に一緒に歩く事すら嫌になったのかと不安になっていると、澄玲が道の脇のホテルを指さした。
「ここ! 私達のアジト!」
指差されたホテルを見上げて思わず声が漏れた。
「おお」
れいむもバッグの中から飛び出て俺の肩に乗ると、同じ様に声を漏らす。
見上げるほどの巨大なホテル。大きな噴水の向こうにはリムジンが止まっていて、入り口にはボーイが二人立っている。入り口に近づくとボーイが頭を下げてきたので、俺は驚いて少し身を引いた。ところが澄玲はお構いなしにホテルの中に入っていく。その慣れた様子に格の違いを思い知らされて立ち止まっていたが、そのまま澄玲が行ってしまうので、俺は置いていかれない様に慌ててそれを追った。
ホテルの前を一人の男が通った。
その体には血の臭いがこびりついている。
そうしてとても上機嫌だった。
廃ビルでの殺しを思い返しながら鼻歌を歌っていた男は、ホテルの中に入る二人の大学生の、その片割れが肩に奇妙な生き物を乗せているのを見て、にっと笑みを浮かべた。
「おお!」
俺とれいむが再び声を上げる。
内装は外側よりも更に豪奢で、綺羅びやかなロビーに敷かれた厚手の絨毯は、歩くのを躊躇させる程だった。俺がおっかなびっくり歩いていると、先にロビーのラウンジに座った澄玲が仏頂面でこっちを手招いているのが見えた。その表情を見て、まだ怒っているのかと一気に憂鬱な気分になる。まあ仕方が無いかと、招かれた方へ向かうと、こちらを向いている澄玲の前の席に誰かが座っていた。こちらに背を向けているので顔が見えない。
知り合いだろうかと近寄って顔を覗き込み、血の気が引く。
さっき俺を襲った蛇の男が座っていた。
「え?」
思考が一瞬止まった。混乱する頭が必死で状況を整理しようとするが、合理的な説明が導き出せない。どうしようもなく混乱しきった俺は、男が不機嫌そうにこちらを見た瞬間、背を向けて逃げ出した。
しかし何かに足をとられて盛大に転ぶ。見ると、蛇の尻尾が足に絡みついていた。
「まあ、待てよ。人の顔見て逃げるなんて失礼だな」
何でこいつが居るのか。訳が分からず澄玲を見ると、やはり仏頂面のままそっぽを向いている。まさか最初からぐるだった? 一気に背筋に寒気が走り蛇の足を振りほどこうと暴れるが全く緩まる気配がない。
男が立ち上がって近付いて来る。
殺される。
死を予感して更に暴れる。だが足を振るっても、尻尾に踵を落としても、蛇の尾は一向に緩まない。
その間にも男は俺の前まで来て、しゃがみ込んで俺と目の高さを合わせるとくだらなそうに言った。
「落ち着けよ。敵じゃねぇ」
再び思考が止まる。
澄玲を見ると、苦々しげにこちらを見ていた。
どういう事だか全く分からない。
「だから最初から敵じゃねえんだよ。あのトイレで会った時からな」
「でも俺を殺そうと」
「してねえよ! 見られたから口止めしようと追いかけたら、お前が勝手にヒートアップしてただけだろ」
あの時の事を思い返す。
そうだったろうか。
何だか殺される様な気がしてならなかった気がするけど。
「とにかく俺はあんたを殺す気は無いし、どうこうするつもりも無い。強いて言うなら、怪我させられた事を謝って欲しい位だな」
そう言って男は振り返って澄玲を見た。
「なあ!」
「だから悪かったって言ったでしょ」
「それが謝る態度かよ。まあ、とにかく、これ以上責めようって気はねえよ。幾ら冤罪で酷い目に合わされたとしてもな」
澄玲が男を睨む。男はそれを無視して、倒れこんだ俺に手を伸ばした。
「三堂千景だ。よろしく」
「あ、水上悠人です。よろしくお願いします」
手を伸ばされたので何も考えずに掴み返すと、思いっきり引っ張りあげられた。
「何だよ、お前一年だろ?」
「大学の? そうですけど」
「タメじゃん。堅苦しい言葉遣いは止めようぜ」
そう言って、笑った。何処か挑発する様な笑顔だったが、それが素の笑顔らしい。何だか口はぶっきらぼうだけれど、気さくな感じで、意外と良い人なのかなと思った。
「あの、怪我、ごめん」
「あ? ああ、頭にぶつかったやつな。良いよ良いよ、別に。すぐ治したし。それに俺等は仲間だろ?」
「仲間?」
「ん? もしかして状況が分かってない?」
「まだ、良く」
すると千景は振り返って、澄玲を見た。
「おい、せめて最低限の説明はしておけよ」
「え? したと思うけど。したよね?」
澄玲が確認する様に俺を見てきたが、正直された覚えはない。
「でも幻獣を狙う快楽殺人者の集団が居るっていうのは言ったでしょ?」
それは聞いた。
「で、そんなのが居るからこの辺りは危険だって警告したでしょ?」
それもされた。
「で、だから一先ず保護してくれる場所を提供するって言ったでしょ」
それも言われた気がする。
「ほら、全部説明してる」
そう言って、不思議そうに俺と千景を交互に見た。
すると千景が声を上げた。
「分かった。お前、馬鹿だ」
「は? 意味分かんない」
食って掛かろうとする澄玲を無視して、千景は顔を近付けて囁いた。
「警告しとくが、幻獣連れた女は絶対止めた方が良いぜ」
「え?」
「特にあいつは駄目だ。完全にいかれてる。絶対に止めた方が良い」
千景が目で澄玲の方へ促すので、思わず澄玲を見ると澄玲に睨まれた。何だかどんどん嫌われていっている気がする。
千景は顔を放すと髪を掻く。
「で、簡単に言うと、快楽殺人者の集団が居るんだけど、その集団をぶっ倒そうって、この辺りの幻獣使いが集まってる訳だ。その集まりの本拠地がこのホテル。つまりここには頼りになる幻獣使いが沢山居る。だからこのホテルで暮らしてれば身の安全は保証される訳だな」
「成程」
ようやく分かった。
どうやら澄玲や千景の仲間が集まるこのホテルで、俺の事を匿ってくれるらしい。
「でも本当に俺なんかを保護してくれるの?」
「その為の集まりだからな。まあ、このホテルに缶詰ってのはきついかもしれないけど」
全くそんな事無い。こんな豪華なホテルなら一生暮らしたって構わない。
「一週間位の辛抱だ。もうすぐそのいかれた組織は潰れるだろうからな」
「潰れる? 何で?」
「敵の本拠地が割れたから。今は各個撃破で戦力を削りつつ、準備が整ったら敵のアジトを総攻撃して落とすって計画になってる」
町の裏側の自分の知らないところでそんな計画が進行しているだなんてまるで知らなかった。何だか空恐ろしい。いつ自分がそういった裏の計画に巻き込まれて殺されてしまうのか分からない。実際に昨日殺されかけた訳だけど。
「まあ、お前の実力じゃ、ホテルに籠もってた方が良いだろうな。戦闘力皆無だろ?」
全く否定出来ないので黙って頷くと、何故か澄玲が擁護してきた。
「そんな事無い! 悠人は強いよ!」
驚いて澄玲を見ると、冗談を言っている様には見えなかった。だが何を根拠にそんな事を言っているのか分からない。
「つっても、こいつ、俺に追い詰められた時ほとんど何も出来なかったんだぞ。あのちっこいゆっくりを投げる位で」
するとれいむが馬鹿にした様に言った。
「それに当たって怪我したのは誰でしたっけ?」
見ると、れいむがバッグの上で、得意気な顔をしている。
いきなりの挑発にはらはらしていると、千景は鬱陶しそうにうるせえと言っただけで、特に怒ったりはしなかった。やはり良い人かもしれない。
「とにかく幻獣が全く戦闘向きじゃねえよ」
「でもあのゴーレムを撃退したんだよ?」
「あのゴーレム?」
澄玲の言葉に、俺と千景が同時に疑問の声を上げる。
「そう。私が追ってたゴーレム。逃しちゃって後を追ってたら、怪我した悠人が倒れてて、それからゴーレムが憑いてた殺人鬼が死んでて。悠人が倒したんでしょ? あのゴーレムを。他に誰も居なかったし。確かにさっきは情けないと思ったけど、よく考えたらあんな強い幻獣を倒したんだから、実力はあるんだよ。ね?」
澄玲が確信を持って見つめてくる。
「本当か?」
千景が驚いた顔で俺を見る。
俺は慌てて首を横に振った。
「まさか。だって俺はすぐにやられちゃって。れいむも何も出来なかったって。なあ、れいむ?」
「うん、無理無理。レベル一のノービスじゃボスは倒せないよ」
「じゃあ、誰が?」
「それこそ澄玲じゃないの? だって俺、意識が飛ぶ寸前、澄玲さんがゴーレムに立ち向かってるのを見たよ」
「私? 違うよ。追いついたらもう全部終わってて」
「え? でもじゃあ、あれは」
思い返す。見たのは確か黒いロングストレートの女性だった。澄玲がその容姿には合致して、その上目を覚ました直後に見たのが澄玲だったから、てっきり澄玲が助けてくれた様に錯覚していたけれど。黒のロングなんて考えてみれば、他にも沢山居る。
「そうか、助けてくれたのは別の人だったのか」
「うん、ごめんね。巻き込んで、怪我までさせちゃって。それなのに助けられなくて」
「あ、いや、でも俺の体ぐちゃぐちゃになったのに、回復してくれたし」
改めて言うと凄い事だなと思う。ほとんど蘇生に近いんじゃないだろうか。
何だか尊敬する様な思いで澄玲を見ると、澄玲は不思議そうな顔をしていた。
「え? ぐちゃぐちゃ?」
「そう。あんまり詳しく思い出せないけど、俺の体ぐちゃぐちゃになってたでしょ?」
なってたよミンチより酷かった、とれいむも追従する。
すると澄玲が首を横に振って、否定した。
「そんな酷くはなかったよ。確かに重体だったけど。そんな、ぐちゃぐちゃになってたら幾ら何でも治せないよ」
またも記憶を否定されて、足元がぐらついた様な目眩を感じた。
「でも、じゃあ、誰が」
千景が口を挟む。
「そのれいむじゃねえの? 幻獣って大なり小なり回復能力を持ってるし。そいつ明らかに戦闘向けじゃないから、回復専門のヒーラーなんじゃね?」
「そうなのか?」
れいむを見ると、れいむは体を横に振った。
「だから私、主がやられた後すぐに気絶しちゃったんだって」
「あ、そうか。でもそれじゃあ、誰が?」
何だか不気味だった。自分の知らない中で、勝手に舞台が進行していた。顔も分からない何者かによって、俺を殺そうとした殺人者は殺され、俺の瀕死の重症も治癒された。こちらに都合の良い事が起こったとは言え、気味が悪い。
澄玲も気味悪そうにしている。
嫌な気分が蔓延したところで、千景がそれを払拭する様に声を上げた。
「ま! そこら辺に居た奴が助けてくれたんだろ! 色んな奴等がマリオネット狩りしてっから!」
「マリオネット狩り?」
「あ、言ってなかったか。その幻獣狩りをしている快楽殺人集団の名前がマリオネットってんだよ。ボスの幻獣がマリオネットらしい」
「へえ」
「で、今度の本拠地襲撃に向けて少しでも敵の数を減らそうと、マリオネットの奴等を逆にみんなで狩ってるから、その内の一人が助けたんじゃねえの?」
そう言われるとそれが正しい気がした。何もおかしい事は無い。納得して安心して息を吐くと、千景がおかしそうに笑った。
「そうびびんなよ! ここにいりゃ安全だから! じゃあ、案内するぜ。俺の仲間が集まってる階がまだ空いてるんだ。俺の隣の部屋に来いよ」
そう誘われて、何だか高校の修学旅行を思い出す。何だかわくわくとして、誘われるままについていこうとしたところで、大事な事を思い出して足が止まる。
着替えとか持ってない。
立ち止まった俺を千影が不思議そうに振り返る。
「どうした? やっぱりそっちの猪系女子の近くが良いのか?」
「猪系? 誰が?」
澄玲が抗議の声を上げると、千景が鼻で笑う。
「あんだけ猪突猛進に突っ走っておいて、どの口が言う訳?」
「ぐう」
言い合っている二人から少しずつ離れていると、千景が俺に気がついた。
「おい、どうしたんだよ」
「いや、ちょっと家に」
すると澄玲が大きな声を出した。
「は? 何で! 何度も言ってるじゃん! 今は外危ないんだよ?」
「いや、でも」
何となく着替えを取りにという理由が恥ずかしい気がして、まごついていると、千景がそれに気がついて、澄玲をなだめる。
「まあ、良いだろ。向こうも用事があるんだし」
「でも」
「分かってるよ。悪い様にはしねぇって」
千景が笑いながら俺の傍に寄って来て、俺の肩を抱いて、澄玲に背を向けた。
「着替え持ってないんだろ? 丁度裏にショップがあるからそこ行こうぜ」
「ねえ、ちょっと」
背後から澄玲が声を掛けてくる。
千景が手で追い払う仕草をした。
「男同士の話し合いなんだから女はどっか行ってろ!」
「はあ?」
「全く察しが悪い上に、デリカシーが足りねえ奴だな」
澄玲は何だか騒いでいたけど、千景が鬱陶しそうに手を振ると、憤慨した様子のまま去っていこうとする。俺は慌ててその背に向けてお礼を言った。
「ありがとう! 助けてくれて。それにここも紹介してくれて」
すると澄玲は振り返り、妙に感情の抜け落ちた表情で静かに言った。
「別に良いよ。お礼を言われる事じゃない。この集まりだってそんな良いものじゃない」
「え? でも匿ってくれて、それに危ない奴等を倒そうとしてるんでしょ?」
「出る杭は打たれる。その杭が今回は偶々悪者だっただけ」
澄玲は嫌そうに顔をしかめてから頭を振ると、そのまま背を向けて足早に行ってしまった。
いまいち解せない態度だった。やっぱり嫌われたのかなぁと思っていると、千景が呆れた様に言った。
「な? 止めた方が良いだろ? あんな感じで変な奴なんだよ」
「二人は知り合いなの? 初対面だと思ってたけど」
「初対面だけど、噂で聞いた事がある。まあ、それだけだよ。それより早く服買いに行こうぜ」
そう言われて、服を買うお金なんてあるかなと、財布を取り出して中を見る。まるで足りなかった。
千景が覗きこんできて、それから気の毒そうに言った。
「貸してやろうか」
首を横に振る。
「家に着替えを取りに行くよ」
「そうか? つってもやっぱり外は危ないと思うけどなぁ。俺がついていってやろうか?」
「いや、良いよ。悪いし」
本心からの言葉だったが、千景はそう受け取らなかった様で、寂しげに笑う。
「そうか。そうだよな」
何がそうなんだろうと思っていると、千景はやはり寂しげな表情のまま後ろを向いた。
「やっぱまだ怖いよな。まだお前の中で疑いが晴れてないんだろ? 敵かどうかの」
「え、いや、そういう訳じゃ」
「悪かったな。無理言って。じゃ!」
言い訳をする暇も無く、千景は行ってしまった。
何だか勘違いをさせてしまって悪かったと思いつつ、後で弁解する時間はあるだろうと考えて、一先ず家に戻って着替えを取りに行く事にした。
悠人が自分のマンションに戻って支度をしている時、そのマンションの一階に血の匂いを撒き散らす男が侵入した。
男はエントランスを通りぬけ、歌を歌いながら、階段を上っていく。
目指す部屋の場所は分かっている。先程郵便ボックスを覗き込んでいる様子を眺めていた為だ。
男は歌を歌いながら上機嫌で階段を登り切る。
ホテルの前で見かけた生首を乗せた青年を思い浮かべて、男は口の端を持ち上げる。
それがどんな人間だかは関係無い。それがどんな幻獣かは関係無い。ただ幻獣とそれを従える人間を殺したい。男はたったそれだけの欲望しか持っていなかった。
男は歌を歌いながら目的の部屋を目指す。
夕闇が辺りをぼやかしている。
部屋に戻った俺はバッグの中に数日分の着替えと携帯ゲームと漫画と小説を詰めて、準備を終えた。れいむは俺が用意している間、本棚から漫画を取り出して読んでいたが、俺が準備を終えた途端、足元に寄って来て俺を見上げて言った。
「今、漫画読んでて気づいたんだけど」
「ん?」
「敵の本拠地見つけて総力戦掛けるって完全に敗北フラグだよね」
言われてみれば確かにそうだ。
「まあ、フィクションの中だとな」
「後、仲間の誘いを断って一人になるって完全にフラグだよね」
「え?」
「そのまま一人になったところを襲われて殺されるフラグ」
「背筋がぞくってしたんだけど」
本当に寒気がした。何だか部屋の中に居るのが物凄く怖くなった。窓から外を見ると夜が迫っている。遠くから音程を掛け違った歌が聞こえてくる。どんどんと恐ろしさが増していく。早くホテルに行こうと、急いで玄関へ向かう。その途中れいむが言った。
「大丈夫。誰かに襲われたら守って上げるから」
「いや、無理でしょ」
「私を誰だと思ってるんだ? 天下のれいむ様だぜ」
「それ、小物が言う台詞じゃん。実際弱いし」
軽口で少しは和らいだもののまだ恐怖は残っている。本当に、もしも誰かに襲われれば、俺とれいむじゃ対抗出来ない。だからこそ匿ってもらおうとしているんだから。今更ながらに自分が凄く無防備な事に気がついた。ゾンビの徘徊する洋館を武器も持たずに彷徨っている様な気分だ。玄関に辿り着いた俺は、取っ手に手を伸ばして、硬直する。外からずっと歌が聞こえている。音程の掛け違った下手くそな歌。それが段段と近付いていた。
酔っぱらいか、頭のおかしい奴か、どうやらそれがこのフロアの廊下を歩いているらしい。今は外に出ない方が良いだろうと思って息を潜めていると、その歌がどんどんと近付いてきて、やがて俺の家の前で止まった。
扉一枚を隔てた外の廊下に誰かが立っている。
唐突に訪れた静寂に、俺の心臓の音が凄まじい勢いで鳴り始める。息が止まる。
恐ろしくなって後ろに退がると、突然扉が思いっきり引っ張られて壊れそうな程の音が鳴った。誰かが扉を開けようとしている。どうしてだか分からないけど、入ってこようとしている。俺の部屋に。
怖くなって更に後ろに退がると、何度も何度も執拗に扉が引っ張られて、延延と音が響いた。
やっぱり頭のおかしい奴だ。扉を開けたら殺されるかもしれない。
何度も何度も壊れそうな程音を立てる扉を前に、あまりの恐ろしさで耳を塞いでいると、突然音が止んだ。
扉を見つめながら、恐る恐る耳から手を離す。
諦めた?
そう思って、じっとしていると、もう扉が引かれる事は無く、音はやって来ない。
助かった?
安堵して息を吐き出し、一応確認しようと覗き穴に近寄ると、扉の鍵が突然音を立てた。驚いて鍵を見ると、つまみが九十度回っていた。
鍵が開いた。
思考が真っ白になって、反応出来ない。その癖、生理現象だけは異常を示して、背筋に冷や汗が流れ、貧血の様な目眩に襲われる。恐怖で心臓がはちきれそうな程がなり立てている。
ゆっくりと音も立てずに扉が開く。扉の開いた先には狂人の様な満面の笑みを浮かべた男が立っていた。
男は満面の笑みのまま、一言も発さずに、俺を突き飛ばして、一歩踏み出し、玄関の境を越えて来た。