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ゆっくりしていってね!!!

 体が妙に心地良く、温かかった。

 視界一杯に光が広がっている。

 一頭身が世界を覆い尽くしていた。世界はそれで滅ぼされたらしい。火焔を上げる町の中、数多の一頭身が押し寄せてくる。俺はへたり込んでその光景を眺めていた。逃げたいが体が動かない。いずれ死ぬだろうと分かっていた。

 ふと自分は死んだのではなかったかと疑問に思った。それなのに意識の残っている事を不思議に思うと、辺りが途端に暗く陰った。

 目を開けると、眩しい光に目を痛める。電灯の光が頭上に照っていた。思わず目を抑えると、瞼の裏がちかちかと瞬いて痛くなった。目を閉ざしながら辺りに手を這わすと固い感触が返ってくる。自分が道路の上に寝ていたのだと気が付いた。

「気分はどう?」

 突然聞き覚えのある女性の声が聞こえた。

 慌てて顔を上げると、大学の同期で同じサークルの葉内澄玲が俺の事を見下ろしていた。どうしてこんなところに、という疑問がまず湧いた。いつも明るい笑顔を浮かべている澄玲さんは、何故だか今物凄く冷たい無表情で、長い黒髪が闇に溶けて、幽霊の様な恐ろしさを感じた。

 いつもとの雰囲気の違いに戸惑いつつ、ふと澄玲さんの背後に何か居る事に気がついてぎょっとする。人の背丈を優に超える馬の様な生き物が澄玲さんの背後に立っていた。その冗談の様な光景に驚いていると、澄玲さんは後ろを振り返って、その馬の様な生き物を見る。

 さっきの光景が記憶の中から蘇った。

 土塊で出来た巨体が俺の事を殺そうとした光景。

 まさかこの馬も。

 そう考えて、慌てて身を起こして澄玲さんを助ける為に手を伸ばす。

「危ない! 離れて!」

 すると澄玲さんは振り返って俺の額に人差し指を当てた。それだけで俺の体から力が抜ける。

「やっぱり見えるんだ」

 澄玲さんは平坦な声音でそう言ってから、しゃがみ込むと、俺の下顎を掴んで顔を寄せた。

「体も元気そうみたいだし、もう大丈夫だね」

 そう言えば、自分の体がぐちゃぐちゃになっていた事を思い出す。気になって体を見ようとするが、澄玲さんに掴まれている所為で眼球しか動かせない。

 自分の体を見ようと苦心していると、澄玲さんがくすりと笑った。

「大丈夫。ちゃんと治してあげたから」

「治した?」

「そう。お礼は良いよ。どうせ朝になれば忘れるから」

 澄玲さんはそう言って、背を向け去ろうとした。それを呼び止める。

「ちょっと待って、澄玲さん。全然意味が分からないんですけど」

「どうして私の名前を?」

「え? だって同じサークルで」

 澄玲さんが驚いて振り返る。それから俺の顔をまじまじと見つめて「あ、あー」と気の抜けた声を出した。

 あ、俺。忘れられてたっぽい。

 それなりの頻度で顔を合わせていたのに、全然顔を覚えられていなかった事にショックを受けていると、澄玲さんは気まずそうな様子で辺りに視線を彷徨わせてから、再び背を向けた。

「とにかく今日は早く帰って、全部忘れちゃって」

 ぼんやりとその背を目で追い、やがて見えなくなると、俺はほとんど現実感の無いまま立ち上がって家に帰った。帰ると妙に疲れが襲ってきて、そのまま布団に倒れこみ、いつの間にか眠っていた。


「お兄ちゃん! 起きて!」

 背中に衝撃を受けて跳ね起きると、床にれいむが転がっていた。

「ちょっと、乱暴しないでよ、お兄ちゃん」

「いや、先に攻撃してきたのはそっちだろ。お兄ちゃんって何だよ」

「お疲れみたいだから、妹キャラで元気を出してもらおうと」

「いや、意味分からん」

 元気?

 ふと一気に昨日の事を思い出した。

 れいむと出会って、怪物に襲われて、体がぐちゃぐちゃになって、澄玲さんに助けられて。

 あれは、

「夢じゃなかった?」

 未だに現実感が湧かない。でも夢だとも思えない。

 何より今俺の傍にはれいむが居る。機械音声の様な声で喋る一頭身が。

「れいむ」

「何? 萌えても良いのよ?」

「なあ、昨日俺変な化物に襲われたよな。土で出来たゴーレムみたいのに」

「うん。物理防御は高いけど、水魔法には弱そうな奴ね」

「で、俺ぐちゃぐちゃにされたよな?」

「うん。バグったテクスチャみたいになってたね」

「で、その後、澄玲さんに助けられたよな?」

「澄玲さん? って、主人が惚れてるけど、好感度足りてない人だっけ?」

「悲しくなるけど、そう」

「そこは知らない」

「え?」

「私は主人がやられた後の記憶は無いからね。気がついたらバッグの中で寝てたから」

「そう、なのか?」

「だからてっきり主人があいつを倒したのかと思ってたよ」

「いや、無理だから」

「チートコードでも使ったのかと思ってた」

 もう一度昨日の事を思い返してみるが、現実感は湧かないもののやはりあれが無かった事だとは思えない。何よりれいむも俺がやられるところまでは覚えていたみたいだし。

 確かめるには、澄玲さんに会うのが一番手っ取り早い。

「大学に行こう。多分今日も澄玲さんはサークルに出る筈だから」

 時間を見ると、十二時を回っていた。今から大学へ行けば、丁度みんなが昼食を食べ終えていつもの場所に集まっている頃だろう。

 急いで準備をしていると、れいむがこちらを見つめていた。

「一緒に行くか?」

「当たり前でしょ」

 れいむが嬉しそうに飛び跳ねてきて、足元で転んだ。

「大丈夫か?」

「何だか体が重いよ。昨日の所為かな?」

 れいむは跳ね起きると、小さくなって俺のバッグの中に飛び込んできた。玄関を開けて、れいむの入ったバッグに手を添える。

「そういや、昨日は助けてくれてありがとな。ぶつかってくれなかったら最初の一撃で叩き潰されてほんとに死んでたかも」

 バッグの中から得意そうな声が聞こえてくる。

「友達を助けるのに理由が要るかい?」

 友達という言葉に、何だか嬉しい気持ちが湧いてきて、俺は軽い足取りで走り出した。


 大学へ着くと、俺は部室棟の二階へ向かった。一階と二階はほとんどがフリースペースで、会議スペースやラウンジ等、自由に人が集まれる場所がそこかしこにある。上の階に部室もあるがあまり広くないのでほとんど物置状態で、ゲームをする人達が集まる程度。普段はラウンジの何処かに集まる事が多い。

 案の定、ラウンジの一角にうちのサークルが集まっていて、それぞれが自由気ままにくつろいでいる。澄玲さんの姿も見えた。他の女子と一緒に何か談笑していた。

 俺もそこへ近付こうとして、ラウンジの中に入り、ふと気が付いて、踵を返してラウンジの外に出る。そうして人気の無い廊下の一角に座り込んだ。

 バッグがもぞもぞと動いて、中かられいむが顔を覗かせ、辺りに誰も居ない事を確認すると話しかけてきた。

「どうしたの? 話しかけに行かないの?」

「いや、気づいたんだけどさ」

「うん」

「俺、澄玲さんと話せないんだけど」

「は? 何で?」

「だって周りに他の女子が居て、あんな集団の中に俺入っていけないし。それに一対一でもほとんど話した事無くて」

「話した事無いの?」

「いや、偶にあるんだよ。向こうから話しかけてきて。特に最初の頃は、大丈夫とか、一人で居ないでみんなと話そうよとか」

「それ完全に同情されてるんじゃ」

「最近もおはようとか、じゃあねとか」

「それ話したって言わないんじゃ」

「現実を突きつけないでくれ」

「まさかここまでへたれとは」

「いや、でも苗字じゃなくて、澄玲で良いよって言ってくれたり」

「それ、他の人にも言ってたでしょ?」

「はい、言ってました」

「どうして澄玲で良いよって言われたのに、さん付けで呼んでるの?」

「俺に勇気が無いからです」

「主」

 れいむが俺の事をじっと見つめてくる。

 そう言えば、昨日れいむは俺と澄玲さんの間を取り持ってくれると言っていた。もかしたら何か光明を開く様なアドバイスを。

「どうすれば良いかな」

「ストーカーにだけはならないでね」

「うん」

 要はどうしようもないらしい。がっくりと肩を落とすと、れいむがバッグの中に引っ込んだ。すると頭上から声が聞こえた。

「どうしたの、大丈夫?」

 顔をあげると、件の澄玲さんが心配そうな顔をして立っていた。

「澄玲さん。どうして」

「ラウンジに来たのが見えたのに、何だか気分悪そうにして行っちゃうから、大丈夫なのかなって」

 優しい。

 たったそれだけで態態追ってきてくれるなんて。

 澄玲さんは容姿だけじゃなくて、性格も良い。いつも周りを気に掛けて、良く気の付く人で、正義感もあって、そういう部分が鼻につく人も居るみたいだけど、基本的には周りから好かれていて、こんな俺にも話しかけてくれて。

「どうしたの? 怪我でもしてる?」

「いや、何処も」

 ふと気がついた。

「もしかして昨日の事で心配してくれます?」

 そう尋ねた瞬間、澄玲さんの目が驚きに見開かれた。

「昨日の?」

「あ、昨日は本当にありがとうございます。助けてもらって」

「ちょっと待って」

「それに怪我も。澄玲さんが居なかったら多分俺死んでたし」

「ちょっと待って!」

 いきなり怒鳴られて俺は口をつぐんだ。澄玲さんが息を荒げながらしゃがみ込んで顔を近付けてくる。

「何で覚えてるの?」

「何でって」

「忘れろって言ったのに」

「いや」

 忘れろって言われて忘れる方が難しいと思うけど。

「何で? 抵抗があったの?」

「抵抗? あの」

「もしかしてあなたも幻獣を連れてるの?」

「幻獣?」

 訳が分からず混乱していると、澄玲さんが疑わしげな目で見つめてくるので、益々混乱してたじろいだ。

「本当に何も知らないの?」

 俺は慌てて何度も頷く。すると澄玲さんが溜息を吐いた。

「とにかく忘れて。忘れた方が絶対良い」

「でも気になるというか」

 澄玲さんがまた溜息を吐いたので、俺は何だか申し訳なくなって体を縮こまらせた。

「まあ、分からなくも無いけど。いきなりあんなのに襲われたんだし」

「あれが、幻獣?」

「そう。簡単に言うとね、人の思いだとか願いだとかそういうのに反応して生まれた生き物。世界中に幾らだってあるでしょ、怪物とかの伝説。そういうのは大体幻獣。幽霊もそう」

「そんなのが本当に居るんですか?」

「昨日実際に襲われたでしょ。そこら中にうようよ居る。そうして幻獣は例外無く強力な力を持ってる。どんなに弱いのでも、人間の二人や三人簡単に殺してしまえる位の」

 澄玲さんの手が俺の下顎を掴む。

「怖い?」

 俺は何度も頷こうとしたが、澄玲さんの手に阻まれて動けない。どちらかと言うと、今の澄玲さんの方がよっぽど怖い。

「安心して。普通は見えないし、こちらが見えなければ向こうもほとんど干渉出来ない。少し壊れやすくされる程度。でも見えると襲われる可能性がある。昨日のあんたみたいに」

「じゃあ、俺はこれからもずっと」

 澄玲さんが首を横に振る。

「大体一時的なもの。ほら、怪談とかだって、その後は幽霊を見る事がなくなる話が多いでしょ? 偶々何か偶然が重なって見える様になっただけだと思う」

 だから忘れなさい、と澄玲さんが睨みながら強い口調で命令してくる。俺はもう抵抗する気力も生まれずに何度も頷いた。

 澄玲さんがほっと息を吐いて立ち上がる。その表情はいつもの優しい澄玲さんだった。

「これ以上の詮索はしない方が良いから。私としても処理しなくちゃいけないし」

 処理って何されるの、とは聞けなかった。

 澄玲さんは立ち上がって、まるで一瞬前のやりとり等無かったかの様に笑顔になった。

「ああ、それと、さん付けとか敬語は止めてよ。同期なんだから。じゃあね」

 澄玲さんはそう言って、ほほ笑みを残して去って行く。

 澄玲さんの姿が完全に見えなくなった瞬間、俺は思いっきり溜息を吐いてうなだれる。

「殺されるかと思った」

 するとバッグの中からゆっくりが出てきた。

「あんなのが好きだなんて、主はドMなの?」

「いや、普段は優しいんだよ。まさかあんな」

 睨みつけてきた澄玲さんを思い出して、あれはあれで良いかもなぁと思っていたが、ふと澄玲さんの言っていた事が気になった。

「なあ、もしかしてれいむも幻獣なのか?」

「さあ。さっきの話を聞くとそうなんじゃない?」

「じゃあ、れいむが本気出せば、二三人楽に殺せる訳?」

「呂布使えば千人斬り余裕だけど」

「ゲームの話じゃなくて。っていうか、やっぱりれいむって幻獣なのかな。澄玲さんに幻獣ついてないって嘘言っちゃったんだけど。後で怒られるかも」

「殺されるかもの間違いじゃなくて?」

「本当に洒落にならないから止めて」

 俺は力無く立ち上がって辺りを見回し、奥まった場所のトイレへ向かった。

 何だか心が疲れていた。昨日れいむに出会ってからさっき澄玲さんに脅されるまで、ずっと驚きっぱなしで、精神がすり減っていた。もう感情が働かない。何だかやさぐれた様な気持ちだった。

「っていうか、俺まだ幻獣が見えてる訳じゃん。っていう事は、これからも遭遇する可能性があるの?」

 そう冗談半分に呟きながらトイレに入り、思わず悲鳴を上げた。

 トイレの中には蛇が居た。人を丸呑みに出来そうな蛇がその巨体に何かを絡めている。その何かは人間と鬼だった。絡み取られた人間と鬼は苦しげに呻いている。俺の悲鳴に反応したかの様に蛇の体が一瞬膨れ上がったかと思うと、潰れた様な音が鳴って、締めあげられていた人間が口から大量の血と何かを吐き出した。途端に鬼の姿が消える。再び俺の口から悲鳴が漏れる。

 蛇の向こうには眼鏡を掛けた、俺と同い年位の男が居た。そいつは俺を認めると、にっと挑発的な笑みを浮かべた。

「おいおい、人払いをしてた筈なんだがなぁ」

 俺は慌ててトイレから出た。すると背後から蛇が体を引きずりながら移動する音が聞こえてきた。俺を追ってきている。掴まったら殺されるという確信があった。逃げる為に廊下を駈ける。

「何で? 何でいきなりあんな場面に遭遇しなくちゃいけないの?」

 するとバッグかられいむが飛び出してきた。

「さっき警告されたばかりなのにもう出会っちゃったね」

「俺、運悪すぎるだろ!」

「ラックに振り分けが足りないんじゃない?」

「次から極振りしてやるよ! もう!」

 人の居る場所へ向かって走っている内に妙な事に気がついた。通路の形が変わっていた。本当なら曲がれば直ぐに人々の行き交うT字路が見える筈なのに、曲がってもその先には右への曲がり角だけで、人の姿が見当たらない。更に走って、曲がり角を曲がると、そこは行き止まりだった。

「何で?」

 れいむが呟く。

「逃がさない様に地形を変えられてたりして。ホラーのお約束だし」

「いやいやいやいや」

 慌てて来た道を戻ると、向こうから蛇と男がゆっくりと這い寄ってくる。男はまた挑発的な笑みを浮かべて嘲る様に言った。

「安心しろよ。悪い様にはしないからさ」

 そう言ってゆっくりと歩んでくる。

 どう考えても良い様にしてくれるとは思えない。掴まったら殺されるだろう。ただ後ろに逃げ場は無いし、前は蛇と男に阻まれている。完全にどうしようもない。それでもどうにかしなくちゃいけないと考え、辺りを見回すと、傍に消火器があった。戦って勝てるとは思えないが、やらなければやられてしまう。藁にも縋る思いで消火器を引っ張りあげて近付いて来る蛇に向けて構える。

 蛇は止まらず、男はにやにやと歩んでくる。明らかに相手にならないと考えている様だ。俺自身勝てるとは思えなかった。構えてはみたもののどうして良いのか分からない。

 そう言えば。

「なあ、れいむ。幻獣ってそこそこ強いって事はれいむだってもしかしたら。ほら触らなくても物が動かせるサイコキネシス使えるんだし」

「そんなに範囲が広くないし、昨日ゴーレムに襲われた時は全く役に立たなかったよ」

「あ、そう」

 落胆する。やはり消火器で戦うしかない。再び消火器を構え直して蛇を見据える。歯の根ががちがちと鳴った。気がつくと足が震えていた。昨日殺されかけた時の事がフラッシュバックする。

「主」

 泣き出しそうな心境の中で、れいむの声が聞こえた。見るとれいむが肩に載っている。

「一か八か、私を投げてみて」

「え?」

「小さくなった今は重いし硬いから、当たればそれなりにダメージを与えらると思うよ」

「でもそんな当てられる程ボール投げるの上手くないし」

「空中で多少は方向転換出来るから。どうせ殺されるのなら一か八か」

 れいむが真剣な目で俺の事を見つめてくる。その目を見つめ返して俺は頷いた。途端に勇気が湧いてきた。俺が殺されれば次はこいつだ。俺一人なら諦めても良いが、別の命もかかっているのなら、簡単に諦める訳にはいかない。

「分かった」

 俺はれいむを掴みあげて、近付いて来る男を睨みつけた。

 男は怯んだ様に立ち止まる。

「それ、幻獣か? まさかお前も」

 その言葉を無視して、俺は思いっきり振りかぶり、男へ向かってれいむを投げた。コントロールFの俺が投げた球は男を外れる様な軌道だったが、れいむは空中で姿勢を制御し、的確に男の頭にぶち当たった。

「やった!」

 思わず喜びの声を上げる。れいむも得意そうな顔で地面に着地すると、素早く俺の下まで戻ってきた。

 男が顔を抑えて呻いている。これはもしかしたら勝てる? そんな淡い期待は、男が凄まじい形相で睨んできた事で消え去った。

「てめえ、なめた事してくれるじゃねえか」

 まずい。下手に刺激をしてしまった。ただもう後には引けない。

 震える体を叱咤しながら、俺は戻ってきたれいむを急いで拾い上げて、もう一度振りかぶり投げた。今度は上手く男の下へと飛んだが、その途中で蛇の尻尾がれいむを払い飛ばした。

「そんな間抜けな攻撃が二度も効く訳無いだろ」

 男が怒気を発しながら近寄ってくる。れいむが効かなかった事で、俺は目の前が真っ暗になった。

 弾かれたれいむは壁にぶつかった後、綺麗に俺の肩に着地した。

「大丈夫か?」

「大丈夫」

 一先ずれいむが無事な事に安堵したが、状況は最悪だ。目の前の絶望はどんどんと近付いて来る。どうにかしなくちゃと消火器を握りしめて構えると、男が呆れた様に言った。

「とりあえず大人しくしといてくんねえかなぁ?」

 男の言葉を無視して、俺は消火器のピンを抜いた。

 肩に乗ったれいむの呟きが聞こえる。

「下手に攻撃した所為で刺激しちゃっただけみたいだね」

「いや、みたいだねって、そんな他人事な」

「でも、時間稼ぎは出来たね」

 その言葉にはっとして、男の更に後ろ、廊下の奥を見る。

「ほら、救いのヒーローが来たみたい」

 澄玲さんが角の生えた馬に乗ってこちらへ駆けていた。

 俺がそれを驚きの表情で見つめていると、男も俺の表情で後ろに誰かが居る事に気がついたのだろう。振り返って驚きの声を上げた。

「てめえは」

 その声が途中で途切れ、男は苦しげな息を吐いた。見ると、男の体が釣り上げられ、ねじれて硬直している。蛇も釣り上げられて必死に暴れていた。動けなくなった二人に駆け寄ってきた馬が激突して、凄まじい音が立った。気を失ったのか、男も蛇も動きを止める。

 馬は速度を緩めたまま俺の目の前まで歩んできた。そうして馬の上から澄玲さんが降りる。その姿があまりにも絵になっていて見惚れていると、澄玲さんが俺の前まで来て、俺の頭に拳を振り下ろした。衝撃に頭を下げると、頭上から罵声が響く。

「何で首を突っ込んだの! あれだけ警告したのに!」

 痛みの走る頭をさすりながら顔をあげると、澄玲さんが痛そうに拳を払っていた。

「いや、首を突っ込もうとした訳じゃ。ただトイレに入ったらあの人が人を殺してて」

「馬鹿じゃないの!」

「でも……え? 俺が悪いんですか?」

 完全に不可抗力だったと思う。

 すると澄玲さんはそれについては何も言わず、俺の肩に乗るれいむを見た。

「で、それは? 幻獣じゃないの?」

「えっと多分、幻獣、です」

「さっき居ないって言わなかった?」

「いえ、あの、その時はまだれいむが幻獣だなんて分からなくて」

 澄玲さんが思いっきり溜息を吐く。

 俺は何だか怖くて体を縮こまらせる。

「あんな二人に抵抗も出来ない様じゃ本当に殺されるわよ」

 澄玲さんはのびている男と蛇を振り返り、呆れた様にそう言った。

 それを聞いて恐ろしくなった。こんな思いをこれからずっと味わわなくちゃいけないのか。ただ幻獣が見えるというだけで。

 恐ろしい思いで澄玲さんを見つめると、澄玲さんは首を横に振った。

「本当なら怖がる必要なんてないの。幻獣が積極的に人を襲う訳じゃないから。けれど今この辺りには残虐な組織が活動している。そいつ等の所為で」

 澄玲さんが顔をしかめて拳を握った。

「そいつ等の所為で、幻獣も幻獣と一緒に居る人も何人も殺されてる。いかれた快楽殺人者達の所為で」

 快楽殺人? 何人も人が殺されてる?

 あまりの事に言葉を失った。現実とは思えなかった。

「でもそんな事件聞いた事が無いんですけど」

「幻獣が関わってるからね。秘密裏の事で、表には出てない」

 信じられない気持ちで、更に質問を重ねようとしたが、澄玲さんが踵を返した。

「あなた危機感はあるでしょ? このままじゃ殺されるって」

「え? はい」

「じゃあとりあえず安全な場所を紹介してあげる」

「え?」

「色色聞きたい事があると思うけど、それは場所を移してからにしよう。今はこの場を処理しないと」

 澄玲さんが指を打ち鳴らすと、景色が一変してトイレの前に居た。どうやら俺はほとんどその場から動いていなかったらしい。澄玲さんは白い袋を取り出すと、馬と一緒に男と蛇を詰め込んで、馬の背に乗せた。

「三十分後に駅前で会おう」

 そう言って、馬は上体を伸び上げ、次の瞬間凄まじい風が起こって澄玲さんと馬は姿を消した。

 後に残された俺はしばらくその場で立ち尽くしていたが、やがて段々と現実味が戻ってきて、瞬く間に混乱する。何が起こっているのか、これからどうすれば良いのか、全く分からなかった。

「全然事態についていけない」

「とりあえず駅に行けば良いんじゃないの?」

 その時、背後から人の声が聞こえてきた。れいむが慌ててバッグの中に隠れる。振り返ると何人かの男女が歩いてきて、俺の横を通り過ぎていった。それを合図とした様に、沢山の人々が往来を始め、雑然としたいつもの光景に戻る。

 やっぱり夢を見ているんじゃないかと不安を覚えつつ、腕の皮を抓ってみると痛みが走った。

 とにかく駅に行ってみるしかないだろう。このままじっとしていれば、また誰かに襲われて今度は本当に殺されてしまうかもしれない。

 ふと気になってトイレの中を覗いてみたが、そこには死体も何も無く、何人かが用を足しているいつもの光景だった。


 駅の近くの廃ビルの四階、コンクリートがむき出しになった壁に、男が叩きつけられて血を吐いた。倒れた男の傍に玩具の様な小さなロボットが駆け寄る。心配そうに倒れた男を揺さぶるが、呻くばかりで起き上がる様子は無い。

 そこへ男をそんな目に合わせた小太りの中年男が笑みを浮かべながら歩んでくる。

 ロボットが倒れた男を守る様に立ちはだかると、中年男は尚も笑みを深くして、倒れた男を指さした。

「そいつをお前の手で殺せ。そうすれば助けてやる」

 そんなありふれた悪役の言葉をロボットは拒絶する。

「彼が死ねば僕も消える。交渉になってない」

 ロボットが抑揚の無い機械音声で拒絶を示すと、中年男は笑いながら「そうか」と呟いた。その瞬間、包帯をぐるぐる巻にした四足歩行の何かが突如として現れ、その手に持った刃物でロボットを貫き機能を停止させた。機能の停止したロボットは跡形も無く消える。

 中年男は更に歩を進め、倒れた男の傍に屈みこむと、髪を掴んで顔を持ち上げ頬を叩いた。

「よう。酷い奴だったな。お前の相棒は」

 すると男は目を覚まして、辺りを見回し、ロボットが居ない事に気がつくと、目を見開いて中年男を見る。見つめられた中年男は口の端を思いっきり釣り上げた。

「お前の相棒なら壊したよ。あいつの手でお前を殺すなら助けてやるって言ったんだが、拒絶したんでね」

「お前は」

 髪を掴み上げられた男が唇を震わせながら涙を流す。

 それを見て、中年男が笑い声をあげた。

「分かるぜ。その悲しみ。酷い奴だよな、お前の相棒は」

「ふざけるな。何を言ってるんだ。あいつは」

 その頬にナイフが突き入れられて、男は絶叫を上げる。

「酷い奴だよな。あいつに殺してもらえれば、お前も俺に苦しめられずに済んだだろうに」

 中年男はナイフを払って、頬肉を切り飛ばすと、絶叫を上げる男に顔を近付けて、実に楽しそうに笑った。

「まあ、夜まで長い。じっくり死のうぜ」

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