マインドシーカー
えっと。
「どう思いますか?」
どう思うと聞かれても意味がわからないんですけど。
俺がしどろもどろになっているのを見て、彼女も俺が理解していない事に気が付いた様で訝しげに眉を寄せた。
「あなたは、誰ですか?」
「あの、水上悠人です。あなたのお兄さんの、ラースロさんの友達で」
兄の名前を出した事で警戒を緩めてくれないかと期待したのだが、何故か物凄く渋い顔をされた。何故そんな顔をされるのか分からず困惑する。
彼女が突然外国の言葉を発した。益益何を言っているのか分からない。
「ちょっと悠人、知り合い?」
「え? いや、知り合いの知り合い。ほら、さっきのラースロさんは妹さんを探してて、多分それがこの人で」
「そうなんだ。で、何だか怒っているみたいだけどどうして?」
何でだろう?
良く分からないが、胸ぐらを掴まれて怒鳴られている。その言葉が日本語じゃないから怖くて仕方ない。
「全く主ときたら」
ぴょこりとれいむが俺の頭の上に乗った。
「どうして黙っているの! 答えなさい!」
マルギットの言葉が分かる様になる。
この前の時も思ったけど、れいむはそんな能力まであるの?
「コンフィグで主の言語を弄っただけだよ」
そうなんだ。怖い。
今は便利だから良いけど、コンフィグって何処まで弄る事が出来るんだ?
まさか音量ゼロにして、音消したりしないだろうな。
まあ、れいむはそんな事しないと思うけど。
「答えなさい!」
さっきから俺の胸ぐらを掴まえて揺さぶり続けている彼女に顔を向ける。美少女に揺さぶられるというのは、物語で見れば可愛らしいシチュエーションの筈なのに、今は怖くて仕方ない。ヴァンパイアの力を多分に発揮していて、抗う事が出来無い位の強さで揺さぶられ続けているので、正直死にそうだ。
「すみません!」
大声で謝るとマルギットの手が止まる。
「じゃあやっぱりお兄に言われて連れ戻しに来たの?」
「え? 何がですか?」
何を言っているのか分からず聞き返した瞬間、再びがくがくと揺さぶられる。
「すみません!」
大声で謝るとまた止まる。
「だから、お兄に言われて私と連れ戻しに来たのかって聞いているの」
「いや、連れ戻しに来た訳じゃ」
「じゃあ、何しに来たの?」
「俺はただ偶然この店に来ただけで」
「偶然? 全然信じられない」
「いや、本当に。それにラースロさんもマルギットさんの事を心配していたけれど、連れ戻そうとしてたかどうかは分からないし」
「嘘だ」
いや、まあ、確かに偶然お店に寄ったら会えちゃいましたっていうのは信じ辛いかもしれない。マルギットさんは俺の事を、ラースロさんに言われて連れ戻しに来た敵だと勘違いしているみたいだし、余計に疑心暗鬼になっているだろう。
「本当に偶然で。とりあえずラースロさんに一目でも会って。あの、本当に心配してたし」
「嘘だ。お兄は絶対に心配なんかしてない」
「え? そんな事無かったですけど」
「全然私の事理解してくれない。絶対何言っても聞いてくれなくて、私の事連れ戻すんだ」
「そんな感じじゃ無かったと思うけど」
随分とラースロさんの事を信用していない。これは会わせるだけでも苦労するかも。ここで待っていてと言っても、ラースロさんが来ると知ったら逃げてしまいそうだ。
どうしたもんかと悩んでいると、不意に横から声を掛けられた。
「あの、マルギットさんですか?」
見ると、眼鏡を掛けた女性が遠慮がちな表情で立っていた。俺よりも年上で、化粧の感じからすると社会人だろうか。女性はマルギットさん、俺、澄玲へと視線を順繰りに見渡してから、俺を見つめてきた。
「あの、マルギットさん、じゃないですよね? はは、すみません。人違いでした」
そう言って去って行こうとする女性をマルギットさんが呼び止める。
「マルギットは私です」
その瞬間、女性が凄い勢いで振り返って嬌声を上げた。
「えー! 本当に外国人だったんだ! 可愛い!」
「あなたは誰ですか?」
「私は月見大福です!」
は? 何言ってんだ。
「月見大福さんはいつもお世話になります」
「こちらこそ~」
ああ、ハンドルネームか。
って事は、マルギットさんは本名で同人活動やってるのか。居ない事は無いけど、珍しい気がする。
月見大福さんの視線が再びこちらに向いた。
「で、この人達は? サークルの人じゃないけど。もしかしてお兄さん?」
女性が物凄く残念そうな顔になる。多分、マルギットさんはサークルの人達にもラースロさんの事を話してたのだろう。マルギットさんを連れ戻す兄だと勘違いされているなら、マルギットさんを帰したくなくてそういう顔も仕方が無いのか。随分な扱いだけれど。
「知らない人です」
にべもなく他人の振りをされた。確かにほとんど初対面だし、知らない人というのも間違いでは無いけれど、明らかに敵意がこもっている。知らない人に向ける感情じゃない。これでは、この人は連れ戻そうとする悪い人ですと言う様なものだ。
勘違いでどんどんと嫌われていくのが辛い。
弁解するにしても何と言えば良いのか分からない。
困り切って月見大福さんを見ると、何故か晴れやかな笑顔を浮かべていた。
「良かった」
どういう事?
「そうだよねぇ。明らかに似てないし」
そういう事か。
そういう事なのか、ちくしょう。
マルギットさんの容姿を見れば、その兄の容姿も知れる。それだというのに、イケメンのイの字も無い様な顔だからがっかりしたんだ。
幾らなんでもあんまりじゃないですか?
分からなくはないけど。
自分の容姿に思いを馳せて悲しくなっていると、更に別の声がやって来た。
「お、月見大福さん早いですねぇ」
見ると、またも眼鏡を掛けた、俺よりも少し年下に見える女の子がやって来た。
「あ、クラリスちゃん、どーも」
「どーもです。その人達は?」
「この子がマルギットさん」
月見大福さんがマルギットさんを紹介した瞬間、クラリスと呼ばれ女の子が恐るべき金切り声を上げた。耳が裂けるかと思った。
「まじっすか? むっちゃ可愛いじゃないっすか」
「ねぇ」
クラリスさんはしばらくマルギットさんを褒めてから俺に顔を向けた。
「で、こっちは?」
「知らない人だって」
「へえ?」
明らかに邪魔者を見る様な目でこちらを見てくる。居心地の悪さを覚えていると、更に別の声が乱入してきた。それも複数。
全部で四人の女性は入ってくるなり俺達に無遠慮な視線をよこし、マルギットさんが仲間だと分かると嬌声を上げ、俺達が部外者だと分かると迷惑そうな顔をする。
居心地の悪さが極致に達して何だか嫌な汗が出てきた。仲間意識を持った人達の中、自分だけ除け者という状況は非常にきつい。
とはいえ、こちらにも仲間は居る。澄玲さんを求めて横を見ると、姿が消えていた。驚いて辺りを見回すと、部屋の反対側で壁に掛かった絵を見ている。既に戦略的撤退を完了させて居た様だ。賢い選択だが、出来れば俺も一緒に逃げさせてもらいたかった。
考えてみれば、俺は澄玲さんと楽しむ為にこのお店に入ったのであって、マルギットさんを探す為じゃない。妹の事をラースロさんから聞いていない澄玲さんからすればマルギットさんの事はまるで関係が無い。つまり俺はお茶に誘っておきながら、店に入ったら突然全く関係無い別の女に声をかけだしたという訳だ。
まずくないか、これ。
「見えるよ、主」
「れいむ? 何か」
「今、物凄い勢いで澄玲の好感度がだだ下がりしている」
ですよねぇ!
慌てて澄玲さんの下へ駆け寄ると、不思議そうな顔を向けてきた。
「あ、悠人、話し終わった?」
「あ、ごめん、こっちの用事で」
「良いよ。私もちょっとここの内装が気になるし」
そう言いながら、澄玲さんがまた絵に顔を戻した。俺の事なんかどうでも良いという様子だ。怒っているとか、すねているとかいう感じではない。本当に心の底からこのお店の内装が気になるから、俺の事なんかどうでも良いという様子だった。
ショックで息苦しさを覚えていると、れいむが謝ってきた。
「あ、ごめんね、主」
れいむ?
「最初から下がる好感度なんか無かったみたいだね」
それは、どんな台詞よりも恐ろしい言葉で、目の前が暗くなる。
「あ、嘘嘘。冗談だよ、主。ごめんね」
「うん」
取り繕ってくれたが、さっきのは本音だろうし、事実だろう。
勿論、これから好感度を上げていけばいいのだろうけれど、現状というものをはっきりとつきつけられて、喉の奥から悲しみがこみ上げてきた。
「あら、こんな時間なのにお客さん」
振り返ると、キッチンに繋がっていると思しき扉から女性が現れた。柔らかな笑みを浮かべ嬉しそうに店内を見回している。大学生に見えるけどバイトだろうか。発言からすると従業員なのだろうが、何故かそうは思えない。姿がお嬢様然としていてあまりにも洋館の姿をしたこの店内に合っているからだろうか。そんなもっともらしい理由を浮かべたものの、感情の方はまた別の理由を伝えてくる。何かは分からないが、女性の笑みを見ていると胸がざわついた。恐怖に近い感情だ。
女性は笑顔のまま店内を歩き出す。マルギットさんやその仲間達の傍を通り、何故か俺に向かって歩いてくる。
何だ?
背筋に冷や汗が流れだした。
酷く嫌な予感がして、頭の中に警鐘が鳴り響く。
何だ?
頭を振る。
女性はただ歩いているだけ。怪しい人にも見えない。表情は笑顔。何も怖がる事は無い。
女性が俺の目の前で立ち止まる。
背は低く、俺の胸の辺りまでしか無い。見上げてくる顔はやっぱり柔らかな笑顔で、屈託が無い。好意を持てども、恐怖なんて覚えようも無い顔立ち。
だというのに、怖い。
何だろう、理解の出来無い化け物を前にしている様な。
「あなたに魔女の託宣をあげる」
は?
その瞬間、突然辺りの景色が一変した。
場所は、何処だろう、コンクリート打ちっぱなしの真四角な部屋。扉も窓も無い。どうやってここに入ったのか分からない。俺は、いつの間にか椅子に座っている。よく見ると、目の前には机がある。その向こうには犬が立っていた。警察の様だった。警察? 不思議に思って右を見ると、そこにも犬のお巡りさんが居た。左を見ると、猫が立っていた。
これが魔女の託宣? 病気の時の夢みたいだ。
猫が言った。
「力が欲しいか?」
え? 何、急に。
「力が欲しいか?」
ARMS?
いや、そりゃあ、もらえるなら欲しいけど。
「力が欲しいなら──焼き茄子のそぼろあんかけを、ツクリマショウ!」
は?
いつの間にか、猫が消え、コック帽を被ったお爺さんが立っていた。
「まずは、フライパンにサラダ油、小さじ九千二百十五を加えて、クダサイ!」
ばぐってるよ、これ。すみません、この託宣ばぐってるんですけど。
気が付くと、目の前に女性の柔らかな笑顔があって、元の店内に戻ってきていた。
「ごめんなさい。何だか別の場所の魔力に干渉されちゃって」
何だったんだ、今のは。
「今のはこれからあなたが歩む道。そしてその時にどうすれば良いのかの助言。あなたは何だか危ないみたいだから」
今のが俺の歩む道? 焼き茄子のそぼろをあんかけを作るのが? しかもその前に犬のお巡りさんと力が欲しいか聞いてくる猫。俺は不思議の国にでも迷い込むのか?
やばい。意味が分からない。分からないといえば、もうここ数日あった事のほとんどが意味分からない。何だ、俺はどうすりゃ良いんだ。やばい。ただでさえ意味の分からなすぎる現実が許容量を超えていたのに、焼き茄子のそぼろあんかけで決壊しそうだ。このままじゃ、おかしくなる。
頭を抱えた瞬間、扉が力強く開け放たれた。
「マルギット!」
ラースロさんだった。ラースロさんは目を見開いてマルギットさんを見つめている。マルギットさんもまた同じ様に目を見開いた。マルギットさんがラースロさんの事を睨みだす。ラースロさんを拒絶する様な態度だが、表情が変化する一瞬、何処か寂しげな表情と安堵した表情を浮かべていた。その見立てが正しいなら、きっとマルギットさんは心の底でラースロさんが迎えに来てくれる事を望んでいたのだろう。突然ヴァンパイアがやって来て妹が居なくなったと訴えヴァンパイアハンターに襲われてどうなる事かと思ったけれど何だかあっさり解決してしまった様だ。
そのあっさりとした解決に、違和感を覚えた。
そんなあっさりして良いものなのか。元元即売会に参加する為に日本にやって来たという話で、大した話じゃなかった。海を越えてヴァンパイアがやって来たというスケールで錯覚しているだけかもしれない。けれど、こんな簡単に解決出来る問題だとは思えなかった。
「悠人さん! ありがとうございます」
いつの間にかマルギットさんの傍に辿り着いてたラースロさんが俺にお礼を言った。様だった。というのも、ラースロさんの声に合わせて、傍に居るマルギットさんの仲間達が黄色い悲鳴を上げているから。声が掻き消されて良く聞こえない。どうやらラースロさんの姿はマルギットさんの仲間達にクリティカルヒットを与えたらしい。
「悠人さんの匂いを辿ってきたら妹と会えました! 本当に、本当にありがとうございました!」
ラースロさんがそう言った。同時に周りの女性が再び悲鳴を上げて、受けだの攻めだの話しだした。
俺の匂い?
そんなに匂ってた?
そう言えば、まるで鮫の様に、血の匂いを辿って遠く離れた人間の居場所すら感知出来るヴァンパイアを漫画で読んだ事がある。多分、ラースロさんはヴァンパイアハンターに攫われた俺を追って来てくれたのだろう。出会ったばかりの俺を助ける為に、天敵と戦う事すら厭わず、俺を追ってきてくれた。
そうしたら偶偶妹に出会った。偶然だがおかしなところは無い。
筈だが、違和感が拭えない。
何かがおかしい。
何かが。
考えても良く分からない。
まあ、れいむに出会ってから今の今まで全てがおかしいのだから、今更何がおかしいかなんて考えたって仕方が無いのかもしれないけど。おかしいと言うなら、徹底的に事件へ巻き込まれる俺がおかしい。
「ちょっと! ラースロ! 人の事を置いて行かないでよ!」
扉が乱暴に開かれて、希美が姿を現した。その表情は怒りに満ち溢れている。希美も俺を助けに来てくれたのか? 嬉しく思っていると、希美の視線が俺へと移り、すぐに俺の隣の女性へと移った。
「お姉様!」
希美は、女性を認めた瞬間、弾ける様な笑顔になる。
お姉様?
疑問に思っている間に希美が突撃を仕掛けてくる。短距離走選手の様な綺麗なフォームで走ってきて、女性の間近まで迫った所で地面を蹴って跳んだ。そうして女性へと飛び込み、女性に触れる寸前で突然弾き返されて、後ろへ吹っ飛んだ希美は、天井にぶつかり、地面を弾み、凄まじい勢いで壁に激突した。
何何? 何なの?
予想だにしなかった戦いの気配に俺が恐る恐る女性の傍から離れようとすると、立ち上がった希美が嬉しそうに言った。
「ありがとうございます、お姉様!」
どういう事なの?
女性は困った様な笑顔で、危ないからやめなさいと希美の事をたしなめている。女性と希美は知り合いなのか? 希美を見つめていると、目があった。
「あれ、悠人? 何でここに?」
「え? 俺を追ってきたんじゃないの?」
「ううん、ラースロがいきなりこっちへ。私は良く分からなくて」
そう言ってラースロに視線を向けた希美を、女性がたしなめる。
「希美ちゃん、自分のしている事が分からず行動する事は良くないわよ」
「ひぃ! 申し訳ありません、お姉様!」
悲鳴を上げて謝る希美に深刻さや悲壮さは無い。あくまで友達とふざけあっている様な。
「この人、希美のお姉さんなの?」
俺が聞くと、思いっきり睨まれた。
何? 変な事言った?
「そんな訳ないでしょ! 似てないじゃん!」
いや、まあ、顔の造りは似てないけど。だってお姉様って言っているし。
「あくまで尊敬の念を込めて、お姉様って呼んでるの!」
どんな尊敬の仕方だ? 大正ロマンの女学生的な? マリみて? そういうあれ?
「そこにおわすお姉様こそ、このブロッケン山でヴァルプルギスの夜を催す、我等がブラックミラーの主催者。我が敬愛すべき当代の随一の魔女、日出明美その人!」
訳が分からないが、とりあえずやばそうな人だという事は分かった。そういや、希美は殺人鬼をぶっ飛ばした様な奴だし、魔女見習いとか言っていた。っていうか、このお店がその魔女達の店な訳? 確かウィッカってエロいんじゃなかったっけ? そういうお店なの? っていうか、のこのこ魔女の営むお店に入ってきちゃった俺は大丈夫なの?
俺が恐る恐る明美さんを見ると、明美さんは困った笑顔のまま見つめ返してきた。何だかその困った笑顔が、本当は殺したくないけど知られちゃったからには仕方ない、という顔に見える。
だが明美さんはふいと顔を逸らして希美に言った。
「こらこら。そういう大仰な事を言ってお客様を怖がらせないで。私はこのカフェのオーナー。それだけよ」
「でも」
「希美ちゃん」
明美さんが希美の名を呼んだ。口調はあくまで優しいが、妙な迫力があった。怒るのも当然か。店の中で魔女だなんだ言われたくは無いだろう。お客さんが引いてしまう。
まあ、ラースロさんとマルギットさんは何か言い合っているし、マルギットさんの仲間は二人を見てきゃーきゃー言っているし、澄玲は巻き尺まで使って店内の観察に努めているし、希美の言葉を聞いたお客さんは俺だけだろうから心配する必要は無いと思うけど。っていうか、澄玲は何してんの? ミシュランの審査員でもそこまでやらないよ?
「さあ、悠人君。行きましょうか」
いきなり明美さんに声を掛けられて驚いた。
「何がですか?」
「さっきの託宣の続き。あなたを進むべき道へ連れて行って上げる」
何だと思う間も無く、視界が暗転した。遠くから「良いなぁ、悠人」という希美の声と、「お客様に何やっているんですか!」という全く知らない声が残響し、それもまたすぐに聞こえなくなって、気が付くと俺は何処かの路地に立っていた。
辺りはすっかりと夜になっていた。
何処だここ?
明らかにさっきまでの店内とは違う風景。
俺はどうされた?
訳が分からない。
路地は作り掛けのビルに囲まれている。すぐに駅近くの再開発地だと分かった。デパートやらアミューズメント施設やら、客を呼びこむ為に大規模な工事が行われている。今居るのはその端で、一度サークルの飲み会に参加する為に通り抜けた事がある。遠くに大学の時計塔が見えた。それで完全に位置を把握する。
自分の居る場所は分かったが、どうしてここに居るのか分からない。方法も理由も。明美さんは進むべき道へ連れて行くと言っていたけど、それがここなのか? アスファルトを踏みしめると硬い感触が返ってくる。腕を抓ると痛い。どう考えても夢でも錯覚でも無く、現実の世界だ。明美さんが何かやったのか? 空間転移? あるいは昏睡状態に陥らせてここまで連れてきた? 後者の方が現実的なのに、より恐ろしく思うのはどうしてだろう。
とにかくここに居ても始まらない。
歩き出すと、突然スマホが鳴った。電話だった。
驚いて出ると、大井さんの声が聞こえてくる。
「ああ、悠人君。ようやく出てくれた」
「大井さん。どうしたんですか?」
「いや、うーん、君は今大丈夫かい?」
大丈夫と言えば大丈夫だ。状況が理解出来ていない事は大問題だけど。
「澄玲から君が消えてしまったと泣きつかれてね」
そこで大井さんが呻き声を上げた。
どうしたんだ?
「大丈夫ですか?」
「ああ、大丈夫。こっちの話。それで連絡を取ろうとずっと電話を掛けてたんだ。君は今何処に?」
「えーっと、駅前の再開発地の辺りです」
大井さんが黙る。
どうしてそこで黙る? 俺は何か変な事を言ってしまったか。
「まさかとは思うけれど、西側の、君達の大学がある方面じゃないね?」
まさにそこなんですが。何でそんな口調が重苦しいんですかね?
「あの、ここ、駄目なんですか?」
「いや、むしろ好都合だ」
何が?
「まだちゃんと説明出来ていなかったが」
何が?
「仕事と行こう」
いや、あの。
「バイトでは、幻獣に関する仕事も扱うと伝えたね?」
拒否権あるって言ってましたよね?
「勿論、強制はしないが、町の安寧を脅かす存在を放置するのは君だって嫌だろう?」
嫌だけど、それをどうにかするのは警察の仕事でしょう?
「昨日、この町に新たな幻獣使いが大量に流入した所為で、一種混沌とした場になっている。中には危険な奴等も居てね」
ああ、聞きたくない。
「そして今我我が問題にしているのは火車」
確か火車は葬式場から死体を盗み出す妖怪だ。絵で見ると恐ろしいが、やる事はそこまで怖くない。不吉なんだろうけれど、それなりに唯一物論に傾倒した今の時代では、それなりにましな妖怪だと言える。確かに死体を盗まれるのは嫌だし遺族からすれば悲しいけれど、全身に黴を生やしたり、攫われて首だけにされるよりは、ずっと危険度の少ない妖怪だろう。
「そいつは、既に昨日の今日で一人殺していてね」
ちょっ!
「それがそこいらに潜伏しているらしいんだね。今から私達もそこに向かうよ」
「ちょっと待って。なんすか、それ! 一人殺した?」
「そう。だからこれ以上の犠牲者が出る前に捕まえないといけない。出来れば君にも協力してもらいたい」
いや、無理だろ、そんなん。
無理だろ!
「まあ強制はしないよ。ただ逃げるにしてもその辺りにはそいつが居る。怪しい人には注意して」
いや、怪しい人って。
「十分もあればそこへ着けるから」
そう言って、切れた。
マジで?
それマジで言ってんの?
一人殺したって。
「訳分かんねぇよ、マジで」
いきなり飛ばされて、そうしたらまた殺人鬼?
何でこんなに次から次へと。
「主」
「れいむ。どうしよう」
「主、道の向こうを見て」
「え?」
顔を上げると、サラリーマン風の男が自動販売機で何かを買っていた。
「あれがどうしたの?」
普通に飲み物買ってるだけだけど。
怪しい人だって言いたいの?
「ここは工事中の建物ばっかりで、近くに事務所や会社も無い。偶偶この道を通っただけにしても、ここは駅前だよ? 少し歩いたら、自動販売機よりも安い飲み物なんかいくらでも売っているのに、どうして態態こんな辺鄙な場所で飲み物を買っているの? 明らかにおかしいよ。ここに潜伏しているからだとしたら辻褄が合うと思わない?」
いや、それは。
そこの自販機にしか売っていない飲み物があるとか?
理由なんて、考えれば幾らでも。
「でも怪しいでしょ?」
うん。
俺は自分でも気がつかない内に、後退っていた。
気付かれない内にここから逃げよう。
だがサラリーマン風の男はすぐに自動販売機から飲み物を取り出して、俺の方を見た。遠目だが、明らかに目が合った。
「あ」っと俺が声を漏らした時には、サラリーマン風の男性の横に毛むくじゃらの化け物が現れ、俺が踵を返そうとした時には男が化け物の上に乗り、俺が駈け出した瞬間、背後から凄まじい地響きが追ってきた。
嘘だろ嘘だろ嘘だろ嘘だろ。
死ぬ。マジで殺される。
「主! 道は駄目だよ。何処か建物の中に!」
れいむの叫びを聞いて振り返る。物凄いスピードで化け物が迫ってくる。考える間も無く、俺はフェンスをよじ登って建築現場に入った。確かに、直線の道路を走ったって追いつかれるに決まっている。建物の中で隠れて、十分間耐え凌げば大井さん達が。
だが、建築現場に入り込んだものの、何の建物も見えない、宵闇の広場が果てしなく広がっている。どうやらまだ全く建設に着手していなかったらしい。隠れる場所が無い。
「くそ! マジかよ!」
文句を言っても仕方が無い。とにかく逃げようと、走り出した時、後ろからフェンスを破壊する音が聞こえた。
振り返る事すら怖くて後ろも見ずに走るが、背後からは恐ろしい速度で音が迫ってくる。
「主! 追いつかれるよ! もっと速く!」
これ以上速く走れるか! これが限界だ!
「主! 前!」
前?
俺は前に目を凝らし──急停止した。
目前に巨大な穴が広がっていた。よくよく目を凝らせば、広大な広場だと思っていた闇の殆どが穴だった。恐らく施設の土台か地下部分を作っているのだろう。巨大な穴の中にはまるで針山の様に鉄骨や鉄棒が張り巡らされている。もしも落ちたら最悪串刺しになっていた。
恐怖に背筋を震わせていると、再びれいむの声が聞こえた。
「主! 後ろ!」
やべ!
慌てて背後を振り返ると、化け物が迫っていた。
俺は何も考えずに横へ跳んだ。
だが化け物は冷静に方向転換して、「主!」れいむの叫びに俺が体をこわばらせた瞬間、凄まじい衝撃が全身を貫いた。自分が宙に浮いたのが分かる。跳ね飛ばされた。そう気が付いた瞬間、再び衝撃。腹の辺りに凄まじい熱と、喉の奥から吐き気がこみ上げてきて、何か液状の物が口からどばどばと出てきた。
やばい、死ぬかも。
更に凄まじい衝撃が体を揺らし、すぐ近くから暴力的な破壊音が聞こえた。
間違い無く化け物の立てた音だ。
殺されるのか。
もう何が何だか分からず体を強張らせたまま固まって動けなかった。しばらくそうして震えていたが、それ以上の事は起きなかった。辺りからぴちゃぴちゃと水の滴る音が反響してくるだけで、化け物の叫びも地響きも聞こえない。
何がどうなった。
とりあえず現状の把握をしようと、自分の体の状態を確認する。鉄骨に上半身を乗せていた。多分吹っ飛ばされてこの鉄骨に激突したのだろう。ぶつかったのに生きている事とバランスを崩して転落しなかった事は奇跡と言って良い。近くには土壁があって、しばらく考え、どうやら自分が穴の反対側まで吹っ飛ばされたらしい事に気が付いた。結構な広さの穴だった筈だが、良くここまで吹っ飛ばされて生きていたものだ。もしかしたら、自分はれいむのおかげで頑丈になっているのかもしれない。れいむは治癒能力も持っているみたいだし。
辺りからは相変わらずぴちゃぴちゃと水滴音が聞こえてくる。
近くに梯子が見えた。穴の上へ登れそうだ。とりあえず穴から出ようと考え、力を込めて立ち上がろうとすると、全身に激痛が走って呻き声が漏れた。当然と言えば当然だが、体が死にかけている。
「主、大丈夫?」
「いや、死にそう。治せる?」
「勿論。骨とか折れているけど」
良かった。凄い怖い事を言われたけど、治るなら良いや。
「一週間あれば治せるよ」
駄目じゃん。
完治という意味なんだろうけど、それにしたって動ける様になるまで数日掛かりそうだ。その間この穴の中でじっとしていたら餓死してしまう。
どうしたものかと辺りを見回して、ぎょっと体が強張った。
すぐ傍に化け物が見えた。
思わず悲鳴を上げたが、化け物が動かない事に気が付いて、目を凝らす。暗闇で良く見えないが明らかに動きそうにない。さっきからずっとぴちゃぴちゃと水滴の垂れる音が続いている。その意味に気が付いたのと同時に、化け物の姿が消えた。化け物の消えた視界に、今度は胸と腹に鉄棒の突き刺さったサラリーマン風の男が見えて、慌てて目を逸らす。男からは呻き声すら聞こえてこない。それは恐らくそういう事だろう。
とにかく助かった訳だ。
後はこの穴から出るだけ。
俺は痛みと苦しさに耐えながら、れいむにスマホで大井さんと連絡する様、頼んだ。登録はしていないが、さっき掛かってきたばかりだから、掛け直すのは簡単だ。
「他の人から電話来ないからすぐに見つけられるね」
そういう事は言わないで欲しい。
何にせよ、これで助かった。
安堵していると、突然頭上から悲鳴が聞こえてきた。
見上げると、警官が穴の中を覗きこんで物凄い顔をしていた。
警官という格好、そして傷だらけの俺や死んでしまった男を見て叫ぶ正常な反応に、俺は益益助かった事を実感する。
「あ、やばいね、主」
え? 何で?
警官は慌てた様子で顔を引っ込め、叫び始めた。どうやら無線で本部と連絡を取っているみたいだ。きっと助けを呼んでくれるだろう。何がやばいんだ?
「主、この状況、どうやって説明するの?」
どうって。
化け物に追っかけられて、穴に落ちて大怪我して。
「化け物はもう消えたし、幻獣って言ってもきっと通じないよ。普通の人には見えないんでしょ?」
確かに説明が面倒かも。化け物を連れた男は死んじゃったみたいだし。
「主、良く考えて。人気の無い建設現場で、人が一人死んでいるんだよ。どう考えても一緒に居た奴が怪しいよ」
そうは言ったって、俺は追っかけられただけだし。っていうか、俺の傷を見れば俺が被害者だって分かるだろ。
「普通に考えたら、あの男と喧嘩してもみ合っている内に落ちたとか考えるよ」
確かに、化け物の存在が説明出来ない以上、俺と男の間で何かあったと考えるのが普通だ。他の誰かにやられたと言ったって、その当事者である化け物が居ない。架空の犯人をでっち上げるしかないけど、ばれたら益益俺が怪しくなるし。
「ああ、主がこの年で前科者に」
思わず冷や汗が流れてきた。今までの化け物に襲われたり、殺されかけたりしたのとは違う、もっと現実的な恐怖だ。
何でこう、次から次へと。
警官が本部へ報告をしている。
容疑者の青年、と頻りに叫んでいる。




