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ゆっくりしていってね!!!

 至って平凡だった。この春から大学に通い、無事友達も出来、ゆるめの文化系サークルに入って、狭いマンションに一人暮らし。バイトは探し中で、基本的には親の仕送り。お金があればコンビニの弁当を買って、無ければ下手くそな料理で食いつなぐ。あまりの平凡さに、不思議な世界を夢見ていた。

 その日もまたいつもと同じありきたりな日常。夏の暑さに茹だって大学の講義を適当に聞き流し、だらけたサークルの部室に顔を出して、帰る途中でスーパーに立ち寄って惣菜を買って、家に帰ると廊下の向こうの俺の部屋から声が聞こえてきた。

「ゆっくりしていってね!!!」

 誰も居ない筈なのに。

 何処か聞き覚えのある声。ただ決して知り合いの声ではない、その抑揚の無い平坦な声。機械の発する様な声。

 部屋の中から異常な声が聞こえたというのに、何故か俺の頭に逃げるという選択肢は浮かばなかった。何処か混乱した頭は、パソコンをつけっぱなしにしていてその音が聞こえてきたのだろうか、という常識的な事を考える。常識的な思考を続ける頭とは別に、胸の鼓動はどんどんと早くなって、生唾を飲み込みながら部屋に入ると、そいつはそこに居た。

「ゆっくりしていってね!!!」

 人の腰ほどもある大きさの、デフォルメした様なへちゃむくれた人の顔。ぬいぐるみを思わせる質感のそれは、どうやらフェルトで出来ている様だった。何か生意気そうな顔で、頭には赤いリボンをつけている。そんな物が俺の部屋にあるというのも問題だったが、それ以上に問題なのは、そいつが人の様に表情を変え、跳ねまわり、その上喋っているという事だった。

 部屋の中でうごめくそいつに近づくと、そいつは俺の事を見上げて自信に満ち溢れた様子で言った。

「ゆっくりしていってね!!!」

 抑揚の無い平坦な声だった。どう聞いてもあの合成音声だ。紛う事無くゆっくりがそこに居た。生意気そうな顔をしてぴょんぴょんとその場で跳ねている。

 頭の中に数多の疑問と驚きが一瞬の内に駆け抜けて、忘我した後に残ったのは、目の前の一頭身が安全であるという予想と、自分が不思議な事に巻き込まれたんじゃないかという期待だった。

「お前は、誰?」

「人に名前を尋ねる時にはまず自分からって習わなかった?」

 微かな苛立ちを感じつつ、俺は自分の名前を告げた。

 するとゆっくりがまた嘲る様に言う。

「水上悠人? 平凡な名前ね」

 怒ったら負けだ。

 何となくそう感じて、俺は努めて冷静に振る舞いながら再度尋ねた。

「で、あんたの名前は?」

「ゆっくりれいむ。れいむって呼んで」

 分かっていた事だけれど、実際に言われると改めて驚きを感じた。ゆっくりれいむとはネットの中にしか存在しない架空のキャラクターの筈だ。それがどうして現実に這い出てきたのか。フェルトで出来た一頭身のぬいぐるみが跳ねて喋る様を前に、俺の心はただただ不思議に巻き込まれた事に高揚していた。

 れいむはどうして俺の部屋に居るのか分からないらしい。気が付いたらこの部屋に居たらしく、目的も何も無いそうだ。過去を聞いても、ゲームをしていた事しか覚えておらず、れいむが一体どんな存在なのかれいむ自身も把握していない様だった。

 何か不気味なものを感じたが、それも不思議の前では些事だ。

「主人」

 れいむは俺の事を主人と呼んだ。

「主人、お茶を飲みたいんだけど」

 ただし主従関係になったという訳では無く、命令を聞いたりする訳では無い。何かある種の共存関係を望んでいる様で、俺の事を主人と呼び、俺の家に居座るつもりの様だった。れいむは主人と呼び、こちらは居候を認める。ただそれだけの緩い関係。勿論狭い部屋の中に一頭身の人形が跳ね回るというのは邪魔だし、一緒に住むという事に抵抗はあったが、目の前の不思議を間近で見ていられるというのは、十分なメリットだとその時は思えた。

「分かったよ。ちょっと待ってて」

 俺は言われるままに冷蔵庫へお茶を取りに行く。その間ふと考えた。例えばフィクションの中で不思議な生き物と出会った場合、その生き物は特殊な能力を有している事が多い。

「れいむは何が出来るの?」

 コップに入ったお茶をテーブルの上に置く。

 そう言えば手も無いのにどうやってお茶を飲むんだろうと眺めていたら、お茶が一人でに動き出して、れいむの口に辿り着くと傾いて、れいむの口にお茶が流し込まれた。呆気に取られていると、れいむは驚いた俺には目もくれずに部屋の隅のゲーム機に目をやった。

 飛び跳ねてゲーム機に近付くと手も触れずに電源を入れる。

「ゲームが得意だよ」

 ゲーム? それだけ?

 何ら特殊でも何でもない、単なる特技に、失望を感じながられいむを眺めていると、れいむは気にした風も無く、起動したゲームをプレイし始めた。

 結論から言うと物凄く上手かった。俺がクリア出来なかったステージをあっさりとクリアしてみせたれいむはあれよあれよという間に先へ進んでいく。見ている内に居ても立っても居られなくなった俺は、協力プレイを申し出て、一頭身のぬいぐるみに手ほどきを受けつつ、最終ステージまで進み、元から上手いれいむとそれなりに上手くなった俺は協力して、最後の敵を倒して地球を救ってみせた。

 気が付くと、もう日を跨いでいて、エンディングを見ている内に極度の疲労がやって来た。その場に倒れこんで、そう言えば夕飯を食べていなかったなとスーパーの袋を眺めていると、何だか笑いがこみ上げてきた。

 あり得るだろうか。

 家に帰ったら変な生き物が居た。それなのにフィクションの様に劇的な出会いも衝突もない。緩く自己紹介を交わして、その後二人でゲームして、気が付くと日を跨いでいて、今は二人でだらけている。こんな不思議との出会いがあるだろうか。

 何だかおかしくて仕方がなくて、こみ上げてくる笑いを我慢出来ずに笑っていると、れいむが傍に寄ってきた。

「何でいきなり笑ってるの? 気持ち悪いんですけど」

「いや、何でも無い。さて、夕飯食うか」

 身を起こしてふと気が付く。れいむは何を食べるのだろう。見た目人形の様だけれどさっきお茶を飲んでいたという事は何か食べるのだろうか。何処まで一般的な生き物と同じなのだろうと疑問に思いつつ、何か食べるか聞くとチョコレートという答えが返ってきた。

「別に食べなくてもしなないけどね」

 どうやら食事はあくまで嗜好品でしかないらしい。とはいえ、折角なのだからチョコレートをあげる事にした。家の中にチョコは無かったので、近くのコンビニへ買いに出る事にする。

 立ち上がってその事を告げると、れいむはぴょこぴょこ跳ねて足元へ寄ってきた。

「私も行くよ、主人」

「いや、それは」

 れいむは俺の腰位の大きさだ。明らかに目立つ。流石に外へ連れて行けないと言うと、れいむはしばらくぼんやりと俺を見上げ続けたが、突然音を立てて消えた。

 驚いて辺りを見回すが巨大な一頭身は何処にも居ない。まさか外に出れないショックで消えたのかと慌てていると、足元から声が聞こえた。

「何できょろきょろ辺りを見回してるの?」

 足元を見ると、れいむが居た。ただ俺の足首位の高さまで小さくなっていた。

「小さくなったから大丈夫でしょ? さ、早く連れてってよ」

 取り上げてみると、ずしりと重かった。それに手触りが硬質だ。さっき触った時にはもっと柔らかくぬいぐるみの様だったのに。どうやら体積が小さくなった分、密度が増えたらしい。これが跳ねてきて頭に当たったら死ぬだろうなと、少し怖い考えが浮かんだ。

 れいむをバッグの中に入れて外に出る準備を整えた時、突然れいむが尋ねてきた。

「彼女居るの?」

「彼女? 居ないけど?」

 そう答えて惨めになった。

 どうして急にそんな事を聞くんだろうと不思議に思う。

「だって主人と女の人が二人で一緒に映った写真があったから。その割に彼女が居る様には見えないでしょ、この部屋。別れたの?」

 思わず振り返ってテレビの上に飾ってある写真を見つめた。そこには俺と、もう一人長い黒髪の美しい女性が写っている。葉内澄玲という名前で、同じサークルの同期だった。俺と澄玲さんの二人はただ写っている。寄り添っているでも、仲睦まじくしているでも無く、二人がただ並んで写っているだけの写真。

「ああ、いや、あれは偶偶飲み会で一緒に写れたから飾ってあるだけで、彼女っていう訳じゃ。憧れてはいるけど」

 そう単なる憧れ。彼女どころか友達ですらない。一緒のサークルに入って数ヶ月経ったが、未だにまともに話せず知人というカテゴリーからは抜け出せていない。

「とにかく彼女じゃないし、居た事も無いよ」

「童貞なの?」

「ぐ。そうだよ!」

 何でこんな一頭身に馬鹿にされなくてはいけないんだと悲しくなったが、はぐらかして嘘を吐けばもっと惨めになりそうな気がした。

 するとれいむがバッグの中から這い出てきて言った。

「分かったよ! 居候させてくれたお礼に、主人とあの女の人の仲を取り持って上げる!」

「え? そんな事出来るのか?」

 でも確かに、唐突にやって来た不思議な生き物が憧れの人との恋を応援してくれるという物語は多々ある。もしかしたらこのれいむも、と期待の眼差しを向けると、れいむは得意そうな顔になった。

「私を誰だと思ってるの?」

「何かそういう能力が?」

「恋愛ゲームをクリアした事、百や二百じゃきかないよ」

 落胆した俺はれいむをバッグの中に詰めて外へ出た。

 外は蒸し暑かったが晴れていて、月も星も良く見えた。家を出る前に外では声を出さない様に注意していたので、れいむは静かにバッグの中に収まっている。空を見上げながら、この不思議な存在について考えを巡らせた。

 奇妙な生き物で念動力が使えてゲームが得意。不思議と言えば不思議だけど、世の中を揺るがせる程では無い小さな怪異。きっと生活が劇的に変化する事は無いだろう。この小さな怪異を匿うという小さな秘密を抱えた暮らし。

 それで良いと思った。きっと自分が少年漫画の様な戦いに巻き込まれたらすぐに死んでしまう。おどろおどろしい世界に連れ込まれるなんて考えたくもない。美少女が自分の元にやってきたってまともに話せないに違いない。

 そう考えると、バッグの中に収まる程度の小さな不思議が来てくれた事は、不思議な世界に憧れていた自分にとってこの上無い僥倖な事に思えた。

 もうすぐ夏休みが始まる。そうしたら沢山ゲームを買って、一緒に遊びたい。

 瞬く星星を見上げながらそんな事を思う。

 その視界が唐突に暗く陰った。

「避けて、主人!」

 バッグの中から声が聞こえて、思わずバッグを見ると、中かられいむが飛び出してきて、俺の顔面にぶち当たった。同時に辺りから凄まじい音と振動がやって来た。

 為す術もなく吹っ飛んだ俺は地面を転がり、身を起こす。

 そうして目の前の存在を見て、恐怖で固まった。

 俺の前には、俺の身長の二倍はありそうな、巨大な土塊の人形が拳を地面にめり込ませた姿で立っていた。数秒目の前の存在を見つめ続けて、どうやら俺は目の前の化物に襲われてるらしいと気付いたが、その時には既に土塊が地面にめり込んだ拳を引き抜いて、俺へと狙いを定める様に拳を引いていた。

 目の前の存在が何だか分からない。ただとにかく俺を殺そうとしている事だけは良く分かった。逃げなくちゃいけないと心が逸る。けれど恐怖で体が硬直して動けなかった。

「主人! 早く逃げて!」

 れいむの跳ねる音が聞こえる。

 きっと俺の事を助けてくれようとしているんだろう。けれどきっと間に合わない。

 もう拳は俺の目の前に迫り、辛うじて身をひねった瞬間、俺は世界が崩れ落ちたと錯覚する様な衝撃を覚えた。

 気が付くと目の前が陰っていて、巨大な土塊が俺に向かって歩いてくるのが見えた。どうやら俺は拳によって殴り飛ばされたらしい。思う様に動かない視界を何とか動かして自分の体を見下ろすと、生々しくぐちゃぐちゃとした何かがあった。どうやらそれが俺の体らしい事は何となく分かるのだけれど、どうしてそうなったのか、今自分の体がどうなっているのか、思う様に頭を巡らせる事が出来ない。

 ただ殺されると思った。

 辺りは赤く染まっている。そこら中が赤にまみれている。それは俺の血で、俺は死ぬんだろうと思った。

 どうあがいても助からない。

 例え次の瞬間ヒーローか何かがやって来て、目の前で再び拳を振り上げている土塊をやっつけてくれたとしても、これだけ赤が飛び散った俺の体は助からないだろう。

 それに対する感慨は無く、思い浮かんだのは何かの漫画で脇役が死ぬ場面。その場面で、その脇役はあっさりと殺されてしまったが、時間稼ぎのお陰で主要キャラの一人が生き残れた。そんな場面が浮かんだ。

 れいむの姿が思い浮かぶ。自分が殺されれば、きっと次はあいつが標的になるだろう。そうしてきっとあいつじゃ対抗出来ずに俺と同じ様に殺されてしまう。

「逃げろ」

 気が付くと口から声が漏れていた。自分では叫んでいるつもりだったが、まるで虫の息の様に小さな声だった。

「逃げろ、れいむ」

 折角この世に顕現した不思議が簡単に消されて欲しくない。ずっとずっと憧れていた不思議をもしも自分の命一つを代償に生き永らえさせる事が出来るのなら、俺は満足して死ねる。

 そんなヒロイックな感情も、それ以外の全ての思考も、視界が暗くなる毎にどんどんと失われていく。陰る視界の中では土塊が今にも腕を振り下ろそうとしていて、もうどうしようも無い事を悟って、あらゆる力を抜いた時、視界にそれが映った。

 髪の長い女性だった。

 詳細は全く分からなかった。詳しく知ろうとしたが、視界が黒く染まって完全に失われていた。

 ただ何故か分かった。

 迫る拳に、長い黒髪を垂らした女性が立ち向かっている事が。

 それが何を意味しているのか考える事が出来なかった。

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