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図書室ピアス  作者: 羽野トラ
暖かい年
56/57

陽の当たる方へ2


 肌がぴりぴり寒気と痺れで粟立つのを感じ目が覚めた。指の先が風呂でふやけた時みたいに熱くなっている。そこだけ別の感覚なんだけど、眠気に原因を確かめるのが億劫で目をつむったまま手を動かした。

 硬い皮膚の、僕と種類の違うぬくもりがあり、それがなんなのか目を開けなくてもわかったのは今まで病室に流れていた空気が変わっていたから。雰囲気だけを取り込んで、窓から流れる夜の匂いとすきな人の温度を感じればそれはもの凄く贅沢な時間のよう。きっと三分、四分に薄墨の七日分を詰め込んだ。濃紺の分針が五分目を刻み、僕はゆっくり瞳をこじ開ける。


「……タキさん」


 視線を下げると、僕の体の横で椅子に腰かけ前屈姿勢で頭をベッドの端につけて夢の世界に飛んでいる彼がいる。左手だけが痺れているのは手を握ったまま枕にされているからだ。ふ、と頬が緩み弧が描かれる。体を起こして寝顔を見下ろした。春とは言え冷え込む夜には冷風が冷たくて身震いするけど、窓を閉めに立ち上がれそうにはなかった。


「どこ行ってたんですか?」


 灰色の濃淡がついたぱさぱさの頭を撫でる。横を向いているので見える寝顔はぶすっとしている子犬みたいで心が和む。僕の影が落ちた頬に触れると睫毛が微弱に震えた。普段の恐面も、無防備な寝顔じゃどこか気が抜ける。飼い主を待つ番犬みたいだ。

 しばらく寝せておこうと乾いた髪を撫でていたら、水を弾く獣みたいにぶるっと体を震わせたので驚いて頭から手を離す。寝ぼけているのか薄目を開けて、尖った目つきでうっすら僕を見上げる。ハスキー、僕の好きなアイスブルーの光彩が一すじきらついた。


「……わ、わ」


 何を思ったか、体を起こすなり手首を掴んでタキさんの方へと引き寄せる。ベッドから落ちそうになり抵抗すると有無を言わせないといった調子で不安定に傾いた体を抱き寄せる。背中に回る手は僕より幾分か広いのに、皺を寄せて服を握る動作は頼りなくて子供じみている。

「タキさん?」

「……うん」

 たった一週間なのに、久々な気がする低い音。最近のタキさんはちょっとおかしい。この人ってもっと、大人だと思ってた。

「心、体冷たいね」

 だけどたぶん、好きなのってこういうギャップにやられてたから……なんだろうか。って、なんだか考えてることがものすごく恥ずかしいような気がする。絶対感覚、麻痺してる。


「タキさん、窓閉めていいですか」

「ん、俺が」


 冷たい鼻がひやりと首のあたりをくすぐって離れる。目をこすりながら立ち上がりぴたりと冷気を遮断して戻り、ベッドの上に腰かけるので重みに僅かに体が沈んだ。夜風の近くに当たったのがよかったのかタキさんは正常な思考を取り戻したらしい。さっきみたいに抱き寄せたりはせず、指遊びをしながら所在なさげに「ごめんな」と言った。


「あ、ご飯食べた?」

 僕が返事をする前に話がいきなり転換したので予想になくて少し遅れて答える。

「六時にはもう」

「面会何時までだっけ」

「八時までです、あと三十分くらいかな」

「……泊まってったら、だめ?」

「ダメですよ」

 苦笑すると本気だったのかはあ、とため息を吐いた。


「タキさん来るの、遅いんだよ」


 あえて理由は聞かず、揶渝をこめて口にする。ちゃんと来てくれた。ほっとしたからいいんだ。いつも当たり前に傍にいたら、予告なく存在が消えたから修学旅行のとき以上に寂しくて、もしかしたら捨てられたんじゃないかってどこかで不安だった。面会時間に限りがあるのに不満を零すだけに時間を使いたくない。文句だったら後でいくらでも言える。

 軽口を叩いたら、返ってきたのは途端に思考を停止させることばだった。



「親父に会って来た」


 今日は星が見える。藍色の雲がゆっくり流れていく空を背景に、タキさんの顔は不安を煽るくらい穏やかだった。


「だから来るの遅れてさ。ごめんな」

「タキさん……」


 近寄って腰掛けたのでその表情はすぐ間近にある。だけど、静かにその裏側をひた隠しにする言葉端じゃ不安が解消されるはずがない。それ以上を紡がず、口元に緩やかな弧を描くその人にこっちが言い出しにくくなる。

 真剣に考えてくれてる。それなのに、喜べない。タキさんが頑張ってくれてるのに、空回りさせている。大好きなのに。同じようにして反抗する道を選べない。そんな意識があることをこの人はどれだけ知っているんだろう。わかっている上でこうして傍にいてくれてるのかな。


「ん、じゃあそろそろ。時間かな」


 悲しませたくない、迷惑ばっかかけてるんだ。僕があの時――図書室であんなふうに言ったから。幸せな痛み。誤解のあるまま離れたくなくて、苦しくて選んだ結果。


そのせいでそんなふうになにかを隠した笑い方になる。


「やだ」


 ベッドから腰を上げて、時間になるから、と言ったその人の腕を咄嗟に掴んでいた。筋肉質で硬い、男の腕。僕の腕はただ硬くて細いだけ。激しい運動ができないから運動部に入ったことはない。筋肉があまりつきにくくて、だからたまに悔しくなる。


「帰んな」

「時間……」

「待って、まだ」


 ここにいて。


 って、最後まで言わずとも伝わって。夜の幕が下りていく、ちかちか輝くまるい星が絵本の空みたいだった。明日、その明日、また。そうしたら、手術の日。タキさんいてくれるよね。心臓、止まる前にって約束したから。

 振り回して、いつも僕の希望ばっか聞いてもらって。いつもそこにあった安心が不安に変わるのはこれが我が儘だって改めて気付いて揺らぐ余裕のなさなのか。


「タキさん」


 縋った腕に顔を押し付けてなんだか泣きたくなった。ただちょっと。一週間だけ離れた、それだけなのにもし置いていかれてたなら、タキさんがどこかに行ってしまったなら。

 怖くて、でもそれって未来にあることなんだって思ったら。


 今を引き留めておかなくちゃ。


「心」

「ごめん、なさい」


 軽く頭を撫でられる。温かく広い手の平に涙腺が緩んでしまい払う。それで、また後悔。ぎゅっと目をつむると瞼が重くなった。


「ちょっと外行こうか」


 僕の返事を待たず、掴まれた腕を握り直し、ベッドから下ろす。素足にシューズを履くと少し大きくて、足元をかぽかぽ言わせながら病室を出た。



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