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図書室ピアス  作者: 羽野トラ
暖かい年
52/57

時期1


 ――親父に会おう。


 そう決意したのは、暗い寝室のベッドから体を起こし起きる様子の無い、まだ幼さの残る寝顔を見下ろして。

 昨日の俺はホントに情けなかった。急に大人びた顔をした心の言葉がど真ん中を突いて、現実から逃げようとする俺を引き戻す。ずっと抱きしめる体勢にあったのは俺だけど、落ち着かせるように黙って受容していたのは心。どっちが年上なんだか。


 こんな感情、始めてだ。


――怖い。


 親父に家を追い出された時、俺は何も感じなかった。俺を据えた目で見る親父に意識を別にして冷めた気持ちで事実を受け入れる。それだけ。

 どこでもよかった。合格圏内の高校のレベルをいくつも落とし、仕返しに選んだのが県内でも有名なバカ校。俺のいた私立中学から輩出するなんて異例で、先生たちにも随分説得された。そうして入学の手続きをして、あとは簡単。

 一人暮らし――学校でも同じ。

 何も思わない。一人は楽だ。高校を卒業する頃にはどうにかなってるだろうって、当時はぼんやり考えていた。

 けれど、もうそんな甘い考えにしゃぶりついているわけにはいかない。

親父の振り込む金で俺は生きてる。使ったのは生活のため必要最低限の金だけじゃない。心に買ったピアス、俺が買い込む文庫本。家にあるもの全て。

全部、親父の金。


――俺は養われている。


 唇を噛み、時計に視線をずらすとあと二十分程で学校が始まる時間になっていた。カーテンの隙間からは眩しい日の光が差し込んで、締め切った暗い室内とは対照的に心の頬を明るく照らしていた。

色々考えて疲れたんだろう。深い眠りに落ちている彼は自分から起き出しそうにない。

 疲労はきっと精神的なものだけではない。

 昨日はずっと俺が引っ付きっぱなしでいた。ちょっと離れて、抱きしめて、の繰り返し。ぼんやりした思考のせいで風呂にまで着いて行った時はさすがに怒られ。相当まいったんだ。あんな子供じみた…。

ベッドの中でも同じ。もしかしたら寝ている間に押し潰してしまったかもしれない。そしたらこの睡眠の深さも頷ける。

 とりあえず、判断力を取り戻したんだから普通にしていよう。

昨日のあれは俺じゃない。断じて。情けない面して必死に心を求めた。


――今もか。余裕の無さは。


「心、起きて」


 カーテンを勢い良く引くと、幅広の白い光が一気に室内の薄暗さは遠退いた。直射する陽光に身じろぎする心。肩を揺するとぼんやり瞼が開く。小さく呻いた声が、しっかりとした響きを持つのにはまだ時間がかかる。学校、と呟くとぱちりと目が開いた。


「今何時ですか…」

「八時二十分」


 と、告げた瞬間。反射的に目覚めたのか、がばりと跳び起きる。もつれるような舌が俺を非難した。


「も!何悠長にしてんですか、あーやばいじゃん!」

「ごめん、俺もさっき起きた」

「早く着替えよう、制服どこだっけ?!」


 騒々しさが静かだった空気を壊し、安寧を与える。よかった、いつも通り。居間にある、と言い寝室を出てハンガーに掛けてあった制服を慌てて着替える。

「タキさんシャツ貸してシャツ!昨日そのまんま泊まったから替え無い」

「はいはい」

 朝飯は無し。急いた心に俺のカッターシャツを押し付ける。俺も構ってる暇無い。白い革に銀の穴が空いたベルトを通し、ネクタイを締める。サイズが違うせいで袖がだぼだぼになっている心は指先がきちんと出ないせいかボタンをかけにくそうにしている。

「手伝うか?」

「いらない」

「そっか」

「そう」

「……まだ?」

「待ってて下さい」

 一番急いでいるのは自分なのに体がついていかない。だから尚焦る。手間取っているのでソファにだらんと垂れ下げたネクタイを取り首にかけてやる。少し腰を折り、シャツの襟に通して輪をつくり結んで引き上げる。


 一瞬何があったかわからなかった。少し頭を下げていて、そこそこ上手く結べたので満足。

視界が塞がっていて、頬に温かな指の感触がある。

高い音がして、塞がっていた唇から感触が無くなった。フ、と近距離での空気が吐息に揺れた。

とろりとした顔が、固まっている俺の目の前で瞬時に変わる。


「な、なにやってんだろ僕!」


 アワアワとブレザーを羽織り心が頬を叩いている。反応に遅れた俺はただぼんやり心に目が釘づけになっていた。なぜだか顔がどんどん熱くなっていて、それを仕掛けた本人も頬を火照らせている。

二人して向かい合って、固まっていた。

 ――学校、あと五分で始まる。

 たぶん、それくらいの時間。


 あんなにベタベタしたのに、今になって何故。

 こんなに。


「学校遅れるな」


 さっと眼を逸らす。このままの空気でいるのが怖かった。


「タキさん」


 微妙に震えた声色に、「行くぞ」とも促せず、話題を転換させることも出来ず。

きっと、怖いんだ。

 俺も、心も。


 呼ばれて、視線を泳がせ。ほんの一、二秒の躊躇いが羞恥と何とも言えない温い空気を掻き交ぜる。

身動きが出来ない。体は動かず、手をだらりと下げ、捕らえるようにやっと唇を寄せた。軽くなぞるように吸うキスは、今までにないパターン。ふわふわした軽い、やらしさを織り込んでいた。


「学校……」


 心の掠れた声が、じわじわ熱を浮かす。遅れる、と咎めるのを尻窄みにさせたその意味。なんでこんなに恥ずかしくなったのか。


「……うん」


 二文字に含めた意味は、ぼやけた雰囲気に取り込まれた。

 どちらともなく――だから恥ずかしいんだ。今まで、一方的に抱く抱かれるだの意識していた。

そうじゃなくて。

 ズレ合う感覚が重なった時、ピントが合った瞬間。どうして今だとか、そんなのわからない。


 ただ刹那に欲しいと求めていた。




 着替えたばかりなのに、またベッドに舞い戻る。ブレザーを脱ぐといかにもこれから、というあからさまな緊張に体が強張る。

ベッドの上に座る心を倒すと更にそれが酷くなる。


「怖くない?」

「わかんない……変なかんじ」

「俺は怖い」


 うん、とちょっと笑い、心の腕が首に絡む。


『春なんて来なくていい』


 心が前に言った言葉が反芻する。

 鼻たらすくせに何言ってんだって俺は笑った。



 マンション前の公園の桜にはもう蕾がついている。春はもう来ていた。


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