約束3
*
心臓が、僕に語りかけてるみたいだった。ドクン、って唸って嫌な高鳴りと同時に痛み。
『死にそう』って言われた。
「なんっ……で!」
勢い良く顔を上げるとタキさんは無表情でいた。いつもはこんな風に僕が怒ると困った顔するか驚くかの二つなのに。
「なんで、そういうこと言うん……」
「心は悪くない」
何言ってんだ、そんなのまるで本当に……本当に別れ話じゃないか。
「ごめん」
「嫌いになった…?」
「違う。俺、多分心のことこれから傷つける」
だから、と続けた先輩の言葉の意味がわからなかった。
どくどくと唸り声を上げる心臓は確実に悪くなっている証拠なんじゃないのか。だって、別れ話に出た台詞がこれなんてあまりに幸せな内容だ。今まで、話したことのない甘ったるさを抱えたちぐはくな。
「俺、依存してる。高校入ってから部屋連れて来たのとか、こうなってるのとか、全部心が初めてでさ。……我が儘なんだよ、心と俺の気持ちが同じくらいじゃなきゃ嫌だって思ってる。だから、八つ当たりするから……だから」
やっと声に不安の色味が見え、心?と名前を呼ばれると同時に僕は痛みを伴う幸せを選んでいた。
――ダメだ。ダメ、なのに。
本当のことをこれから口にしたら、タキさんは家に戻れなくなる。
「――それ、ずっと僕が思ってました」
かたん、と向かいの本棚に倒れ込み、タキさんの頭が棚にぶつかった。
痛い――痛い。
「痛いよ、心」
耳元で低い声が響き、泣きそうになりそして、ぞくりとした。
――ごめんなさい。
首元に顔を埋める。喉の筋肉が引き攣って喋れない。
人のいない図書室。高い本棚の陰で、タキさんに抱き着いたまま僕はしばらく、引き止められた安堵とタキさんの今後に影響を与えてしまった後悔に体の血管すべてをざわつかせていた。
「今日は泊まって」
いつも無茶なお願いなんかしないその人が決定事項だと言うように静かな命令を下す。
ややこしくなっていたこの事態を、きちんとは解決してない“別れる”って話も、今日は最初から話さないといけないだろう。
罪悪の重みがのしかかった心で、きちんと説明できるのだろうか。
黙って頷いた。
好き同士だってしっかりと露呈してるのに、僕らはマンションまで重い空気を抱えて帰路についた。
ぼやけた春の色が街を染めている。夏とは違う優しい夕日。儚げなきらめきに目を細め隣にいる人を感じながら歩く沈黙の道は今まで感じたことのない帰り道。僕らに限っておふざけも何もない。
真面目な顔をしてるせいで強面がいつにも増して恐くなるタキさんのせいで人が道を作っていた。
余裕の無いこの人はあまり見たことがない。前に僕が絡まれた時のタキさんも違う意味で余裕がなかったけれど、今のタキさんは違う。ぐらついている、それこそ僕みたいに寄り掛からないと倒れるようになる不安定さ。
甘えるばかりで支えになっていない不安が僕の中にずっとあったから、ソファに座った瞬間に寄りかかってきたその人が僕を少しでも頼ってくれたかと感じると、じわりと体の内側が熱くなった。
「……別れるなんて言うつもりじゃなかったんだ」
「はい」
「引っ込みつかなくなってた」
電気も点けず、薄暗く広い部屋。幅広の窓から切なくなるくらいまばゆく、かすれた日が差し込む。暗いのが怖くて一人で寝れないとぐずる子供みたいに、タキさんは僕を引き寄せる。胸に耳を当てると正常な心臓音が響いていた。
同じ気持ち――を僕は弁解に、本質の一緒にいたいってのをタキさんは求めてる。
きれいに離れるつもりなら、あそこで嘘の一つもつかなきゃいけなかった。僕は大人になれない。
間宮さんの言っていたことは的を得ている。そんな半端なことしかできないなら、ぐずぐずしないで正面から伝えなきゃいけなかったんだ。
「タキさん」
「……ん」
「あの時、ずっとって言ったじゃないですか」
核心に触れたのだと、裂いた空気のような緊張が走る。
「同じだよ」
安堵の息が漏れる前に続けて言い切った。
「だけど、一年だけです。これからずっと一緒にいるのは」
ずっとの意味が永遠とは直結しないのだとやっと知った。期間限定のずっと。頬を引き上げたけど、瞳はぼんやり窓の向こう、ベッドタウンを眺めていた。
「なんで」
低く刺す音が耳に流れ込む。面と向かってまともに理由の説明はできない。
「タキさん、“更正”しなきゃ」
長い説明も、無理。先輩が語ったお父さんの言葉、単語一つで分かってしまう。
「なに言ってんだ」
恐くない、全然恐くない。タキさんなんて。
きつく肩に食い込んだ指が指圧みたいに点になって圧迫する。
「俺は会社なんて継がない」
「家には帰らなきゃ。家族が一番だよ」
「いい。マンションも生活費もいらない」
いつもとまるで逆だ。子供みたいな言い草に苦笑して、目の前が白んでいた。
「タキさんのこと心配だからそんなの出してるんだよ。じゃなきゃあんたにバカ高い生活費、出さないでしょ」
「心」
そういうこと言うな、と苦しそうに唸るタキさんのハスキー犬の瞳にはアイスブルーが走っている。
「……一年、こうしてて下さい。ずっと」
頭をタキさんの胸に押し付け、目をつむるとまだ何か言っていて、僕はそれを聞かず、とくとくと一定に刻む先輩の心臓の音にゆっくり気持ちを落ち着かせ身を委ねていた。




