約束2
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黙々と本棚の整理をしていたら波打つような煮える心は収まるというよりかは平面的に抑えこまれたような静けさを漂わせていた。
あまり読まれていなかったのだろうか、装丁が埃っぽくて指先が乾く。レ・ミゼラブル――今時こんな厚くて重い装丁、誰が読むんだ。しかもこんな男子校で。
俺がこれを読破したのは小学校高学年くらいだったか。内容は記憶に薄いがジャンバルジャンの過去にどきどきした記憶がある。特に、銀食器を盗んだあたり。懐かしい、と、何の気無しに真ん中あたりのページを開くと調度暗い室内に光が射して、本から立ち上がる舞う埃を映した。
「タキ」
一瞬どきりと跳ねた心臓が低い音程に落ち着きを取り戻す。視線を合わせず本に目を落としたまま、何、と応えると苦笑しながら奴は明かりの射す扉を閉め、また書庫に安定した暗さを与える。
「つれねーな」
「おまえ図書委員じゃないだろ」
「いーじゃん」
間宮はいつもふざけている。それが平生なのだろうが、たまにわからなくなる時がある。
友達は……俺よりは多いだろうが一般的に見たら少ない部類に入るだろう。間宮いわく、友情より愛に生きる男らしい。その割にめったなことは聞かないが。
「なあー、どうしちゃったのよ」
肩に腕が回る。欝陶しい。
「なにが」
「心クン。お前あのこにはちょー優しいじゃん?なんで奥でうずくまってんのよ、なんかした?」
「なんもしてねえよ。ホラ、手伝え」
手にしていた厚い本を間宮に渡すと肩から腕が離れ重みが消えた。それを取り間宮が適当な場所に突っ込むので並び替える。
……なんで、心が。また目、潤ませてるんだろうか。俺はただ、仕事しないならいいって言っただけだ。なんでそんなので。
あそこに苛立ちが存在し、原因はわかっているのに俺は悪くないぞ(と思うようにした)と、黙々キャスターにある本をつっこんでいたらストックはいつの間にか少なくなっていた。
間宮の言う通り、確かに俺は心には信じられないくらい優しいかもしれない。だけど、だからってそんな言葉ひとつで肩を落とすなよ。――…そんな風に思うのも、以前にはなかった。気分が悪いのは心への直接の苛立ちだって。
だって、口にはしないけど心は、俺と同じ気持ちだって信じていたんだ。凄く子供っぽい、理屈無しの勘で。
違ったんだ。
甘えてくれる、なんだかんだで素直だ、俺のことを好きだと言ってくれた――二人してご飯作ったり、たまに遠くに出掛けた。そういう出来事ひとつひとつ、これからずっと続くものだと自惚れていた。俺たちのこの思い出は、そんなに重くて意味のあったものじゃなかったか?
――心の『無理だよ』がかなり効いたんだろう。
付き合う延長線上にあった出来事を俺が一人で肥大化させていただけなのだと萎む気持ちと共に理解させていたはずなのに、俺は彼に対してどうしようもなくやるせなさを抱えていたのだ。
好きになっていたのは俺だ。
心に告白され(あの時、心は泣きそうになっていた)順々にのめり込んでいた。
俺がからかう度に反応してくれるから充たされて。
通じ合ってたっていう思い込みを知った今は無意識にでも体が心から離れて行こうとしている。
好きな奴には見返りを求めちゃいけないって。
でも、俺のこれはなんだろう。
好きだ、好きなのに素っ気なくなる。単純に気持ちに差があるってだけで。
そんな量れないモン、みんな一緒なのに。
「タキ」
「あん?」
終わった仕事、手持ちぶたさになり、書庫の移動式の本棚に背中をもたせ腕組みをしていたら間宮に呼ばれ我に返る。
「どーすんのさあ」
「……心か」
すべてを話したら楽になるのか。そんな気は更々無いが事情を知る間宮に、強がりは止めようと思い先程と一転させ肯定と取れるように息と共に吐いた。
間宮はふん、と鼻から息を出し少し表情筋を緩め、その顔がまた憎らしいのでどういうつもりかと聞いた。
「つうか、何でお前が口出すんだ?」
……聞いたのが間違いだったろうか。
「え、おもしろいから」
その一言に幻滅。
人のためとかじゃないのか。
しょうもない、と睨むと両手を軽く上げおどけて見せる。
俺もしょうもない。こんな場所でぐだぐだと何やってんだ。仕事は終わった。愚痴っぽく、ちょっとだけ吐き出させてくれ。
「お前が思ってる以上に心は別に俺のこと好きじゃねえよ」
間宮を背中に書庫を出て、図書室に出る。悲しいとも何とも思わなかった。ただ、どんな顔をして心に会えばいいのかってのが頭にあって。そして、厭味ってぐらいの間宮の言葉に躍らされるんだから相当判断力を失っている。
「……さっきちょっかい出したらオレじゃやだっつってたけどな」
「ハ?」
振り返ると間宮はでかい声でいきなり「じゃ!」と叫び俺が肩を捕まえる前に脇を擦り抜けて消えて行った。
ちょっかいって……。
引き攣りっぱなしの筋肉はしばらく戻りそうにない。こういった事態は初めてだ、俺が一方的になっている以上収拾はしないといけない。帰りだってほぼ毎日帰路を共にしていたんだ、見て見ぬふりで先に帰るのは頂けない。
空気が悪いのを放置したら益々淀むだけだろう。
自分が好きと思うくらいに心にも自分を好きでいてほしい。
顔を見たらそう思うんだろうか。
考えたこともなかった。
揺るがないと感じていた何かを覆されたような――。
受け付けカウンターの横を通り、広い館内の一番奥目掛けて直進。どんな言葉が自分の口から飛び出すかはわからない、ただ躊躇いはなかった。
余裕の無さをさらけ出し、もしかしたら勢いで別れを口にするかもしれない情緒の欠如があったというのに。
ぼんやりしながら、前だけを見て棚まで行く。意識はどこか別の場所にあり、間違った冷静さを張り付ける。
いた、と小さく呟いたがうずくまっている彼には届いていないようだ。膝を抱えている姿がいつもより更に小さく見え、捨てられた仔犬みたいな弱々しさを放っている。
――どうしたいんだ。
泣かせた?何故。多少苛立ち声色には出たけれど、泣く程じゃないだろう。
なんでお前が泣くんだ、俺に拒まれたって、そんなの――。
心、と零れた音はやけに空気に響いた。
シン、と二文字。それが波紋のようにじんわりと。伝わるまで少し時間がかかる。
顔を膝に押し付けて、くぐもった声で小さくハイ、と返事が返ってくる。
目の前にしゃがみ「顔上げれば」「嫌です」という問答を繰り返し、埒が明かず。
原因があまりに不明確すぎてどうすることもできない。思わずため息を漏らし、目の前で反応を示さない相手に無意識に喉の奥から出ていたのはすべてを投げ出す言葉で。
俺自身、意味を掴んでいなかった。
そんなこと、言うつもりじゃなかったんだ。
自分で自分がわからなくて、こんな感情に振り回されるのが嫌だった。解放されたいと無意識に選んだのが、それ、だった。
「心、別れるか」




