決めごと3
みっともなくて、泣いてしまう自分が恥ずかしくてぎゅっと目をつむっていた。女々しくて嫌になるのに、抑えようとすればするほど何かが心ん中でせき止められる。優しくされれば濁流を解放してしまうもろい堤。
自分の中で決めてるのに、苦しくて仕方なかった。あと一年先のことなのに、隣にタキさんがいなくなるって考えたら。
スーパーで買い物をした後、タキさんを走って追いかけたら胸が痛んだ。全速力は出せない、無理はするなって病院の先生に言われた。後ろを振り返らないあの人はどんどん遠くなっていく。冷え込む夜を予期させる寒い道。暗い天幕が空を包む下で一人、置いてかれるのはやっぱ嫌だ、小走りでマンションまで向かった。
心臓が痛いよ、タキさん。
さっきのことを思い出しながら背を向けてベッドん中でぐずぐずしていたら、僕が先程したのと同じように背中から筋肉質な腕が胴に回ってきた。
タキさんに抱きしめられるのは好き。僕を庇護したり守ってやろうって、そういう抱きしめ方じゃないから。クラスメイトからもたまにそんな扱いを受ける時があるけど(勿論他意は無い)、そういう意識を持たれるのは好きじゃない。見た目で判断されてるみたいだ。タキさんの腕は、男そのものなのにそんなんじゃなくて。篭める意味は言葉になんない気持ちとして伝わる。
そんで、気分沈んでたり今みたいな時。一々わかってるあたり釈だったりするんだけど。
「……タキさん」
「はいはい」
さっき好きって言ったんだ、大丈夫、伝わってるよな?我慢できなくて今までもちょくちょく言っちゃってるし、タキさんからはいつも同じ台詞が返ってこないけど慣れた。飽きたら嫌だからもう言わないかな。
一人のときはあんなにはっきり決めたのに。
この人がいなくなること考えたら胸が騒がしくて、行き場の無い焦りと共に手足が動かないのにもがけない、そんな悔しさがある。
ほんとは、離れたくない。
一年後には笑って見送れそうもない。ドラマみたいに、仕方ないねって笑って。無理。
「……タキさん」
「うん、どうした」
呼ぶだけ呼んで要領を得ないのに、優しく応えてくれる。
今のうちに、別れてから後悔しないように。しっかり記憶に残して欲しいって、辛くなるの知ってて自分本意なのはわかってるんだけど、こうするのが一番早い方法なのかなって。……怒るかな。
「っん」
薄い唇から音が漏れた。
不意打ちにキス。暗いのが幸い。頬が泣いた後じゃ熱いから赤いのバレバレだろうけど。
クリスマスの時から、以後何もなかった。それはそれで何か変わったわけじゃないので安心していた。だけど、タキさんからしたらもっとちゃんと何かしたかったのかも(あんな男っぽい姿見せたわけだし)。なんだか慣れてたし、本来ならもっとちゃんと出来てたんだ。昔あった出来事に気を遣って“そういう”接触をしてこないなら、この人のことだから今後一切なさそうだ。確かに僕にとってそれは恐怖の一部であるけど、記憶に形として残せるなら。
「し、心」
首とか頬とか、色んなとこにぎこちなくキスして、首に腕を回した。僕としては誘ったつもりだったけどタキさんはただ驚いたみたいで、起き上がって宥めるみたいに背中をなでる。一生懸命やってみたけどこんな下手くそな誘い方じゃわかってくれない。カッコ悪い。ただの情緒不安定な奴だ。
「……したい」
「へ」
悔しくて、態度で表せないから結局言葉に頼ることになる。頭を胸のあたりにくっつけてもう一度言う。
「したい」
「え、あ」
「駄目?」
「駄目、じゃないけど……」
困惑の色を声音に乗せて、まだ落ち着かせようと背中をさすっていたその人に、本気だって教えるためにもっかいキスをかました。
*
「や……」
嫌だ、と思わず口から出かけたので慌てて飲み込んだ。
優しいから断れないのか、タキさんは困ったように、気にしながら少しずつ僕に触れ始める。
手つきが慣れてる、今までの経験はどこにあるんだろう。僕はあんたが初めてだ。
「止める?」
後ろから抱き抱えられるようにしていたので耳元に息がかかった。首を振るとまた続きが始まる。寝間着がわりのスウェットの中に手を入れられたまま進展しなかった。腹や胸を撫でられて、そのまま。それだって小さな頃に受けたあれを少し思い出していたから体は固いままだったけれど。
「……あ」
指が下腹部へとなぞっていた。ぼんやり仰ぐと暗い室内の天井が見えた。びく、と反射的に身じろいで黙ってたら直接に触れる手前で肩口で低く尋ねる。
「どこまでしていいの」
「ん、最後……、タキさん好きなとこまで」
要は好きなようにしてってことなんだけど。それを聞くと、気を遣うのが性なのかしばらく躊躇っていた後にそこからは手を離し強く肩を掴んで後ろを向かされる。何を、と思っているうちに息が出来なくなっていた。
「…っ」
苦しい。いつものと全然違う。洋画でよく見るキス、あんなの自分と関係無いって思ってたのに。
気持ち良くないし辛い、テレビでの…あんなの嘘だ。荒いのには応えられない、無理矢理過ぎてどうしたらいいかわからないし、口ん中荒らされてるみたい。
いつもの軽いのが欲しい。だけどタキさんは僕と違って大人だから、こっちのがよかったのかも。僕が仕掛けたキスなんてきっとチープなものだ。
呼吸の仕方がわからず酸素不足にくらくらしていたらやっと唇が離れた。
「けほっ」
息の塊を吐き出すと、タキさんが見透かしたように言う。
「心、こういうの嫌でしょ」
「……」
子供だって言われてるみたいで悔しくなるけど実際その通りだ。
「心が嫌なのは俺も嫌だ」
そんなの、じゃあタキさんはずっと僕に振り回されてばっかじゃん。
「好きに……」
「しないよ」
じゃあどうしたらいいんだろう。僕はタキさんになにができる?あまりに端的だって思わないで、考えたんだ、摘み取らないでよ。
「つーかね、怖いんだよ俺」
「なに……」
「心とそうするのが最近怖くなってきた」
なんで?こんなに体はくっついてるのに?
僕はまだ、タキさんからしたら子供なんだろうか。ひとつしか違わないのに、いろんなとこが幼いせいなのかな。
タキさんは暗順応した視界でうっすら笑ってた。それが今は好きじゃない。人込みに紛れて置いてかれたみたいだ。
ぎゅっと拳を握りしめて黙っていたら何を思ったか、それとも悄然とした僕が見えないのかいきなり真正面から抱きしめてきた。いつもだったらこんなタキさん見られないからびっくりする(なんだかんだでいつも求めるのは僕だ)はずなんだけど、今は違った。温かい体温が交わるその境目で、背中に腕を回すこともせずされるがままでいただけだ。肩口に顔を押し付けてぼそぼそ吐き出す言葉に、辛くなった。
「手出すのがこわい。好きって言うのがこわい。心が離れてくのが……。全部ずっと付き合っていったらわかるかなって……重いんだよ、俺」
ぎゅ、と体を締め付ける。そうしたタキさんの上辺では頬を引き上げながらも不安な姿を見ると幸せな痛みが心臓に傷をつける。僕も同じだ。
背中に腕を回すこと、そんな小さな動作が先に繋がる手段になるのを知っているのに、僕のそれは脇で充てなくぶらりと下がったままだった。
「俺はいつでもいいから、焦らなくてもって思うんだ。だから、ずっと……って、言ったら駄目かな。」
期待、不安。予期せず途端に襲ってきた混ぜこんだ感情が波のように僕を覆う。黙ってその波に水害のように潰されればよかった。
ずっと、一緒にいたいな。
そんなの僕だって同じだ。二人で映画見たり、本の貸し借りしたり、料理作って晩御飯食べて……たまに遠くに出かけたりする。恋人と言うより家族のそれに近い心地よさ。未来もそうだといいと思ってた。
けど、無理なんだよタキさん。
家で言われたんだろ?更正しろって。
やっぱりさあ、心配なんだよ。こんなマンションと生活費をくれて、きっとそれってタキさんのお父さんなりの形なんじゃないかな。見捨てられてないんだよ。
その縁を僕でぶち切るのは、できないんだ。タキさんはちゃんと帰れるんだから。
「タキさん」
「ん?」
鼻から抜けるような音には期待した高揚があった。
「無理だよ……」
離れたくないけど、けど。だめだよ。
「……そっか」
余計なことを何ひとつ付けずにそれだけ返したその人の声色からはなんの表情も読み取れない。
熱を帯びてそっと解かれた拘束に物足りなさを感じたけどこれ以上求めることはできなくて。布団を被ったその人の隣で瞼を閉じるとどこからか睡魔がやってくる。
*
ぼんやりやり取りを反芻する。
先程僕は無理だと言った言葉に主語をつけていなかった。嫌な予感がした。
もしタキさんに僕がタキさんを重く感じているなんて思われていたら……。
やらかした、かも。ひんやり背筋が凍る。訂正したいのにタイミングはとっくに流れていて、寂しそうな雰囲気がそれを決定づけていた。飲み込んでいたのに切り口もわからないままに部屋には時計の針の音だけが響いて、いつの間にか隣からは寝息が聞こえていた。
どうすることもできず僕はただその人の長い指を掴んで、寝てる間も離れないようにと思って起きるのが怖い眠りにつく。
絡ませた手が冷えていた。




