決めごと2
*
帰り道。季節外れの細かな雪が風に乗って吹いてきた。俺を壁にして心が後ろを歩く。いい加減あったかくなって欲しい。あと一ヶ月もしないうちに三年生は卒業、俺達は進級する。進路についてはまだしっかり決めていない。とりあえずどちらにも転向できるよう進学希望とだけ調査用紙に記入した。
「早く春になればいーなあ」
顔を上げて白い息と共に吐き出した。住宅街の窓から洩れる光が家路に着くのを急かしてるみたいだ。早く帰って家に明かりを点そう。
「…………嫌です」
ヒュウ、と寒々しい風の音に紛れて背中に刺さった言葉が聞こえてきて。ちらっと振り向いたらマフラーに顔を埋めて俯いた心がいた。彼は足を運び、俺は立ち止まっていたので並ぶことになる。口元はマフラーで見えない。仏頂面が意地を張った子供のように見えて頬の筋肉が和らぐ。
「なんで?」
「やだから。……あ、タキさん前歩いてよ」
はいはい、と、買い物袋をひとつ心から奪い、風よけなんかにならないように走って先を行くと焦って後ろから追いかけて来た。
調子に乗ってマンションの前まで追い付けないようにダッシュする。通行人に驚いた顔をされたけど気にしない。内心にやにやしながらマンションの入口で呼吸を整えて心を待つと、しばらくしてから疲れた顔をしてやってきた。怒られるかな、と思っていたら違う。息を乱して、なんだか泣きそうな顔をしていた。
「走んないで」
「あ……ごめん」
俺がふざけてたのと対象的に、苦しそうに胸のあたりを押さえていた。戸惑うのと、何とも言えないやり切れなさに視線が泳いだ。
からかって、軽く流して。いつもみたいにそれで終りだと思っていたんだ。初めて見た――いつもみたく怒るんじゃなく「走んないで」って懇願するような。堪らなくなって背を向け温風がぬるく漂うマンションに入り部屋に向かった。
*
「タキさん」
「んー?」
今日の心は変だ。どこがとは明確に言えないけど、なんか、変。特に帰り道のあたりから。
「なんでもない」
…………。
おかしい。なんかあったか?
表面に出さないけれどじんわりとわかる、普段なら“安心”してこの部屋にいるはずだ。俺の部屋だけでなくここは心の部屋にもなっていたから。それがどうしたんだろう、さっきから言いかけては止め。を繰り返す。
照れとかではなく何か重要なことを飲み込むような。
鍋を挟んでの距離はこんなに近いのに、お前はどこにいるんだ。
会話は弾まず、ただ鍋がぐつぐつと煮える音と和風の匂いだけが充満していた。
――なんだかなあ。触れられたくない出来事でもあったなら聞いちゃいけないんだろうし。
俺に飽きたわけじゃないと思う。ご飯食べて、風呂入って。最後はいつもみたくベッド際の灯りを点けて睡魔に襲われるまで本を読む。俺は体を起こし、心は寝ながら。それで、俺の近くで丸くなって文庫本を読んでいる。
いつもだ。でも、なんか引っ掛かるんだよな。
ううーん……。
やっぱ気になる。放って置いたら広がる溝になりそうで怖い。
「あ」
「没収、なあ」
本を取り上げ近くの棚に上げた。布団の中から見上げたその人の頭を撫でながらちょっとずつ言葉の引き出しを手繰った。
「心、なんか変だよ」
薄い色素の瞳はなんにも教えてくれない。固まったように見えた。
「変じゃないです」
その後に、やっぱりな答え。
「そうか?」
「そうです」
埒が明かない。言いたくないじゃ済まない気がする、ただの勘だけど。それじゃ、強行手段を使うことにしよう。
電気を点けたままベッドに潜り込み、気まずそうな顔をしている心と同じ位置までじっと視点を合わせた。
「しーんー」
「……何ですか」
「なんでもない」
他人には恐いと言われる目。心にはいいな、と羨ましがられる目。双眼を合わせてさっきの心みたいに放りっぱなしにして口を閉ざし、背を向けた。明かりを消すと背中と心との間に暗い隙間が出来る。彼がすぐ不安になるのをわかってしている。寝る時に背中を向ければ口にしないまでも不機嫌にするのだって。
そんな時は譲歩するんだけど、今は待ってみよう。…無理かな。意地っ張りだし。
かちかちと、時計の秒針の音が時を刻む。時間の感覚がよくわからなくなるけどそう経ってはいないだろう。ベッドが少し揺れたので心が近付いてきたのがわかる。黙って寝たふりをしていたら胸あたりから腕が回ってきた。たよりなく、長くない腕が体を抱きしめようとして俺の手を探している。
たまに見せるこんないじらしさがかわいいから意地悪するんだ。
指に触れようか迷っていたその手を先に握ってやると驚いたのか反動に引っ込めようとしたので力を篭める。
「タキさん」
眠くなっている時の心は普段と違う。羞恥が消えるのか暗いせいか俺も赤面するようなことをやってのける。
ぴたんと額が背中にくっついた。
「春なんて来なきゃいい」
「寒いと心鼻垂れんじゃん。あったかいほうが…」
「ずっと冬でいい」
どうしたらいいのか。小さい子供みたいにぴったりくっつく心はしっかり声がかけられない。
背中の布がじんわり熱く濡れ始めていて、それが涙だと気付くのに大して時間はかからなかった。
「心はいっつも泣いてるね」
ごしごし俺の寝間着のTシャツに顔をこすりつけて涙を拭う。背中が熱い。
どうしたの、とはもう聞かない。
泣くとこは見ないようにする。こうしていて落ち着くならずっと黙ってる。
俺が怖いのは蚊帳の外にされていつの間にかすれ違うこと。全身でこうして示せばいい?享受するしかできないけど、わかるかな。俺は君が不安がることなんてしない。
「すき……」
か細い声が俺の鼓膜だけでなく全身を震わせ包んでいた。静かな余波に打たれて静寂を守ると黙って体が離れていった。抱き着かれていた余韻のせいで隙間がスースーして物足りなくなる。
……落ち着いたのかな、まだ泣いてないか?
ちゃんと俺も好きって返せばよかった?
過ぎてしまった時間にタイミングを逃すと最策だと考えついた言葉は意味を成さなくなった。
かわりに出来たのは言葉を紡ぐことではなくて。




