地味な演劇部員の片思い
白球が打ちあがった瞬間、その場にいた誰もが勝利を確信した
夏の甲子園大会埼玉県予選準々決勝。私立草薙高校と県立咲城高校の試合は、4番の一振りで咲城高校がサヨナラ勝利をおさめた
その様子を学生席とは離れた外野席の一番後ろで見ていた若林彰子は、感嘆の溜息をつきながらいつまでも拍手を送り続けた。自分とは違う世界にいる彼に届くように、いつまでも、いつまでも、手を叩き続けた――……
※※※
「そこでね、高橋君の打ったボールがスタンドに入ってサヨナラ勝ちしたの!やっぱりヒーローは違うね!かっこよかったぁ……」
準決勝から一夜明けた月曜日の放課後。彰子は保健室で昨日の試合を語りながらあの興奮が蘇り、恍惚として中空を見つめた。その様子を友人の鳴尾美樹は不満そうに見つめ、顧問の結城亜佐美は紅茶の入ったマグカップを抱えて聖母マリアのように穏やかな笑みで眺めている
現実に帰ってこない彰子に痺れを切らした美樹は、溜息を一つついて「あのさぁ」と険しい声を出した
「アキちゃんが高橋君のこと好きなのはよく分かったけど、なんで学生席で観なかったのよ。学生席だったら最後に選手挨拶とかで近くまで来てくれるんでしょ?」
「だって……一緒に見に行く人いなかったし、一人でいるところ見られたくないもん」
先ほどまでの語り口調とは一変して、彰子は恥ずかしそうに俯いた。美樹も思い当たるところがあり、続けようとしていた言葉を飲み込んだ
予選の、それも準々決勝にまで応援で駆けつけるのは、吹奏楽部か野球部のファンであることを公言して憚らない、クラスでも目立つような生徒ぐらいだ。教室の隅で大人しくしている彰子たちとは正反対に自己主張が強いので、性格的にあまり合うとは思えない。それこそ一人で行けば後でどんな噂を立てられるか分からない。彼女たちは集団の外にいる人間に対して厳しいのだ
彼の視界に入れなくていい。遠くからただ見つめているだけが一番いい――それが彰子のモットーだった
二人の会話を静かに聞いていた亜佐美は、手に抱えていたマグカップを机の上に置いた。多感な思春期の悩み。そんな時期は十年以上前に過ぎてしまった身からすれば、気にせずに一歩踏み出してみればよいと思うことでも、簡単にはいかないのがこの年頃だ
「そんなに気になるなら話しかけてみればいいじゃん。鳴尾と同じクラスなんでしょ?」
「無理無理無理無理!」
「そんなの絶対に無理!」
亜佐美の提案に二人は激しく首を振った。あまりにも必死なので思わず笑みが溢れる
「亜佐美ちゃんはわかってない!奴らは世界が違うのよ!」
「同級生でしょ。若林が話しかけられないのはわかるけど、鳴尾はここじゃこんなに話すのにねぇ。内弁慶なんだから」
「あいつらはねぇ、同級生であって同級生にあらず、よ」
「全く……そんな調子じゃここで話してたって何にも解決しないよ。だったらちゃんとやるべきことをやんなさい。グダグダ言うのはそれから」
「やるべきこと?」
美樹は本気で首を傾げた。その様子を亜佐美は心底呆れた顔で見つめ彰子に視線を送る。いいのか、部長。部員がこんなこと言ってるぞ
察した彰子はおもむろに立ち上がると美樹の腕を掴んだ
「みーちゃん、行こう。そろそろちゃんと練習しないとまずいよ。大会は近いんだから」
「ほら、部長に言われてるぞ」
美樹は渋々といった感じで「はーい」と答えるとようやく腰をあげた。彰子は亜佐美に礼をすると保健室の扉に手をかける
「最後の大会だろ?がんばれよ、演劇部」
「ありがとうございます」
「はーい」
彰子と美樹はそれぞれ阿佐美の応援に答えると保健室を後にした
咲城高校の演劇部、は全国的にも知名度の高い花形の野球部とは反対にもはや都市伝説となっている。部員は彰子と美樹の二人だけ。人数が少ないので、できることといえば朗読ぐらいしかない。朗読も演劇の一環だと考える彰子は、人数が少なくとも熱心に活動に取り組みコンクールにも参加していた。一方の美樹は劇ができないとわかると、すっかりやる気をなくして三年間の部活動をほぼおしゃべりに費やしていた
彰子が憧れる高橋の野球部が毎年甲子園出場を競っているのとは反対に、演劇すらできない都市伝説の演劇部。彰子と高橋は正しく住む世界の違う人間だった
※※※
七月某日。彰子たちはコンクールの本番をむかえていた。朗読コンクールの予選会は都内の高校で行われる。今年は、数年前に創立したばかりの高校が会場で、コンクールは音響設備の調った講堂で開催されることになっていた
亜佐美が急いで駆けつけると、すでに最初の発表が始まっていた。発表中は会場の中に入れない。外に設置されているモニターで彰子の発表がまだであることを確認すると、亜佐美はモニターの前に置かれているソファに腰を下ろした。
彰子たちは本当にやりたかった演劇を一度もやることなく卒業する。最後の年は新入部員が入らず、彰子たちの卒業を待って廃部が決定していたので、顧問も学校側も演劇部の面倒をみることはなかった。せめてこのコンクールで本選まで勝ち残ればいい思い出になるのだが、しっかりした指導者についていない彰子たちには難しいだろう
やるせなくなりモニターから外した視線の先――亜佐美は目を見開いた
会場ではいよいよ彰子の番が回ってきた。気持ちを落ち着かせるように、一歩一歩を踏みしめながら中央に出る。前を向いて客席を見渡した。この光景もこれで最後だ。しっかりとこの目に焼きつけよう。そう思っていた矢先、想定外の人物を見つけ彰子の視線は釘付けになった。観覧席の一番後ろ、出入り口に一番近いところに”彼”がいる
――高橋くん…?
正確には高橋と野球部エースの森脇、そして亜佐美が並んでいたのだが、彰子の視界には入っていなかった
――高橋くんが何で?
高橋に視線を囚われて、彰子はしばらくの間言葉を紡げずにいた。その様子を不審に思った審査員から、始めるよう促される
「3番、若林彰子」
彰子ははっきりと高橋にも届くように名を告げた
彰子も本当に影から見ているだけでいいなどと思ってはいない。もしも――可能性は少ないけれども――万が一、高橋が彰子のことを見てくれることがあるなら、本当の自分を知ってもらいたい。少しでも好きになってもらいたい
教室の隅で大人しくしているのは本当の自分じゃない。彰子が彰子らしくいられる場所、それは舞台の上だ。地味で大人しい子だなんて思われたくない。明るい陽の下にいるあなたと近い部分もあるんだと知ってもらいたい
「ジェーン=オルセン、天使の歌」
彰子が選んだ課題は『天使の歌』。16世紀のイギリスが舞台の恋愛小説だ。身分の高い女性に恋をした、貧民街に住む青年の悲恋を描いている。彰子が選んだのは最後のシーン。青年が女性への恋心を諦め、女性を婚約者のもとへ帰す別れの場面
――アキちゃん?
発表を聞きながら美樹は首を傾げた。舞台の上では人が変わったように明るくなる彰子だが、今日は一段と輝いている
これは……――美樹が眉をひそめて見守る中、彰子は2分という短い発表を終えた
※※※
「お疲れさまー!」
三つの缶がぶつかり合う。コンクールの翌日、演劇部の二人は保健室で小さな打ち上げをしていた。その中にはもちろん亜佐美も混じっている
「結果は残念だったけど、まあ満足のいく発表はできたかな」
そう振り返る美樹も、その言葉を聞いて気まずそうしている彰子も予選通過はならなかった。しかし、本選にいけるなどという期待は端から抱いていないので、二人とも心の中はすっきりしている
「それにしても」と美樹は彰子に顔を向けた
「アキちゃんの発表はすごかったね。なんか、斬新?っていうのかな」
「斬新でもなんでもないよ。ちょっと張り切りすぎちゃっただけ」
恥ずかしそうに笑う様子を見て、亜佐美はたまらず口を挟んだ
「ごめんね。私が高橋なんかよんだから、調子が狂ったんだろ?」
「違いますよ!」
彰子は謝る亜佐美を必死に止めた
「亜佐美ちゃんが高橋君をよんでくれてよかったと思ってるんです。高橋君に教室とは違う、素の自分を見てもらういい機会になったから」
爆睡してましたけど、と付け加えて苦笑する
高橋を意識した彰子の朗読は、失恋の場面にもかかわらず活き活きと輝いていた。彰子は失恋の話に自分の思いを乗せていた。発表を終えて一人、達成感に包まれていた彰子は、その勢いのまま高橋を見た。出入り口のところに立っていた高橋は近くの席に移動しており――森脇と並んで眠り込んでいた
やはり高橋とは世界を共有することはできないのだ
「あーあ、これで明日から受験生かあ」
美樹の大きな溜息で彰子の意識は保健室に戻された。コンクールが終わってしまえば、演劇部の活動は終わりだ。昨年までは文化祭で発表もしていたが、今年は二人とも受験生だということで何もしないことに決めている
――終わっちゃったんだなあ……
彰子は窓の外に目を向けた。ガラスの向こうでは、まだ甲子園予選を勝ち抜いている野球部が練習をしている
※※※
美樹が教室に忘れ物をしたというので、先に下駄箱で靴を履き替えていると森脇が近づいてきた。森脇は名門咲城高校野球部のエースで全国的にも注目されている。彰子は同じクラスだが、ほとんど話したことがない
昨日の発表があったばかりなので、少し気恥ずかしさがある。どうしようかと迷っていると、森脇の方から声をかけてきた。
「結果、どうだったの?」
「え?ああ、ダメだったよ」
「あ、そうなんだ。その、残念だったな」
申し訳なさそうな顔をするので、彰子は急いで「別にいいの!万年予選落ちだし」と笑って付け足した。森脇は「そうなの?」と首を傾げたが、彰子が頷くと少し安心したようだった
「……よかったよ」
たっぷり間が空いたので、てっきり会話は終わったものだと思っていた彰子は驚いて振り返った
「寝てたじゃん」
彰子に痛いところを指摘され、森脇は一瞬言葉を詰まらせた。それでも何か伝えたいことがあるらしく、言葉を探すように視線をさ迷わせながら口を開いた
「まあよくわかんないんだけどさ。なんかいつもの若林と違って面白かった」
「それって誉めてるの?」
「よかったよ」
同じ感想をもう一度述べると、少し間をおいてから「高橋も言ってた」と付け加えた
「本当?」
「本当」
彰子の表情は分かりやすいほどに変わった。喜びがはっきりと顔に出ている。それを見た森脇は、おもしろくなさそうにその場を離れていった。だが、彰子にとって今は森脇がどんな顔をしていようとどうでもよかった
高橋が見ていた。高橋が認めてくれた。高橋の心に少しでも自分という存在が残った――それだけで十分だった
それだけのことがこんなにも嬉しい
誰かとこの喜びを分かち合いたい――衝動に駆られて彰子は走り出した。美樹のいるであろう教室に向かって
ありがとうございました




