婚活で高望みしてると思われないために、あえて『晒し台』で見せ物にされている地雷男を選んで、適当な理由で断って次を探すつもりだったのに。
グラスに注がれたドリンクバーのウーロン茶は、すでに氷が溶けて薄まっていた。
一ノ瀬 詩織は、目の前に座る男から視線を逸らし、手元のスマートフォンに目を落とす。
画面に表示されている"婚活カルテ"を、執念深く眺めた。
目の前にいる男の名は、蓮見 瑛介。30歳。
彼の"家庭維持適正評価指数『DSI』"は"C+"。世間一般で言うところの、絵に描いたような"地雷男"である。
詩織が見ている画面には、彼が過去に仮交際した女性たちから突きつけられた、生々しい"交際解除理由書"がずらりと並んでいた。
【外見の不頓着、衣服の管理能力欠如(アイロンもかかっていないシワシワのシャツで登場。初デートなのに舐められてるのかなと不快でした)】
【固有の趣味の欠落(これといった趣味もなく、話の引き出しが皆無。世界が狭すぎて、どんな話題を振っても話が広がりません)】
【対話における受動性(こっちが気を遣って質問しても「はい」か「いいえ」ばかり。お見合いの面接官をやってる気分で本当に疲れました)】
【非効率的な経済選択(最初のデートなのにまさかの大衆チェーン店。女性を安上がりに済ませようとするケチな姿勢が透けて見えて幻滅です)】
【社会的関係性の希薄さ(友達が一人もいないらしく、休日は基本引きこもり。まともな人間関係を築く能力に問題があると思います)】
【行動パターンの固定化(デートプランの提案も工夫も一切なし。終始淡々としすぎていて、一緒にいても退屈で時間の無駄でした)】
【感情表現の著しい不足(何を考えているのかわからなくて気持ち悪かった。私の話を聞いても興味なさそうで、苦痛しか感じませんでした)】
(よくもまあ、これだけ揃ったものね)
詩織は心の中で、大きなため息をついた。
目の前の男――瑛介は、まさに、その文字通りの姿で座っている。シャツはクシャクシャで、注文時以外は一言も発しない。
どうして、サイゼリヤでこんな男と向かい合っていなければならないのだろう。
婚活市場というのは、もうこういう売れ残りの地雷男しか生息していないのだろうか。詩織は、自分の薄暗い未来を思って頭が痛くなった。
――この国での婚活は国営化された。
民間企業によるマッチングは法律で禁止され、男女の縁は国が威信をかけて開発した専用AIの管理下にあった。
かつてのような自由な条件検索は存在せず、AIがすべてを見通して弾き出した"推薦リスト"だけが、唯一の出会いの入り口だ。
面会を承諾した状態は『仮交際』と定義されるが、これを断るには高いハードルが存在した。
交際解除申請をAIに提出し、オンライン面談の場で正当な理由を述べる法的義務が生じる。
そして、AIに受理された生々しい解除理由は、対象者のカルテに記載され、全利用者に公開される。
これを世間では“晒し台”と呼んでいた。
さらに恐ろしいのは、持続可能な家庭運営能力を冷徹に数値化した"家庭維持適正評価指数 Domestic Sustainability Index -- DSI "の存在だ。
詩織の評価は『A-』。
経済的にも精神的にも平均以上である優良者だと自負している彼女に対し、なぜ、『C+』の地雷男をAIは"推薦リスト"に載せたのだろうか。
(もしかして、噂に聞く"比較目的のマッチング"というやつかな。あえて極端に評価の違う相手を提示して、次に現れる評価の見合った相手を相対的に良く見せ、AIへの信頼度を高めるための……)
「あの……」
瑛介が、ようやく口を開いた。詩織は身構える。
「ドリア、冷めないうちにどうぞ」
「ええ、いただきます」
それだけだった。会話はそこで完全に途絶えた。
詩織は、自分の運のなさをつくづく呪いながら、ミラノ風ドリアにフォークを突き立てた。
もう、気持ちは決まっていた。早くこの不毛な時間を終わらせて、レストランを出たらすぐにでも、AIに交際解除申請を出そう。
そうは思いながら、ふと、彼がグラスを手に取ったとき、その手に目が奪われた。
ゴツゴツとしていて、お世辞にも手入れされているとは言えない、働く人の手。
だが、胸がキュッとなるような懐かしさと、いたわりたい気持ちがふいに湧き上がってきたのだ。
かつて、家族のために必死に働いていた自分の父親の手を見たときのような……。
不思議と嫌な感じはしなかった。
(私、婚活に疲れてるのかな。父性を求めてる、なんてつもりはないんだけど……)
詩織は慌てて視線を逸らした。
すると今度は、彼の使い古されたカバンの隅で揺れる、奇妙なものが目に入った。
それは、お世辞にも上手とは言えない、手作りのヒーローチャームだった。フェルトの端が少しほつれている。
(いい大人が、婚活の場に手芸品……?)
瑛介はそのチャームをとても大切に扱っているのだろうと思った。
なぜなら、使い古されたカバンには汚れが付いていようと気にした様子も無いが、ヒーローチャームには汚れが無い。
ヒーローチャームの、刺繍された目と視線が合う。まるで何かを必死に訴えかけられているかのような、おかしな錯覚さえ覚えた。
――結局、それ以上の会話らしい会話もなく、食事は終わった。
「じゃあ、これで」
詩織は、自分の分を払うと申し出たのだが、彼は柔らかく遮り、会計を手早く済ませてくれた。
意外な気がした。こんなとき、割り勘を提案する男や、金を忘れたといって払わせる男さえいるというのに。
店の前で、瑛介はペコリと不器用にお辞儀をして、人混みに消えていった。
「やれやれ、時間の無駄だったわ」
詩織は、夜の街を駅へと歩きながら、スマートフォンを取り出した。画面をタップし、迷わず"仮交際解除"の申請ボタンを押す。
すると即座に、画面が切り替わり、感情のないAIの合成音声がワイヤレスイヤホンを通じて耳に飛び込んできた。
『交際解除の面談を開始します。一ノ瀬詩織さん、対象者・蓮見瑛介氏との仮交際を終了する正当な理由を述べてください』
「理由は価値観の不一致よ。カルテに書いてあった通り、会話は弾まないし、シャツはシワシワだし、初対面でサイゼリヤを選ぶような男だもの。共同生活において意思疎通の破綻リスクが高すぎるわ」
歩調を早めながら、詩織は一気にまくしたてた。これで終わり。また次の、今度はちゃんと見合った男を探せばいい。
しかし、AIから即答が来ない。そんなこと、あるはずもないが、まるで考え込んでいるみたいな沈黙が続く。
「なに? 通信障害?」
『……あなたの発言と、デート中の生体データを照合しました。質問です』
「なに?」
『その男性の一部でも、良いと思った部分や、興味を抱いた部分はありますか? ハイかイイエで答えてください』
「……は?」
詩織は思わず足を止めた。
脳裏に、あのサイゼリヤの照明の下で見た、瑛介の大きくて無骨な手がよぎる。大切そうに揺れていた、あの下手くそなチャームがよぎる。
けれど。
「……イイエ。あるわけないでしょ」
詩織は声を尖らせて答えた。
ピピッ、と短い警告音が耳の奥で鳴った。
『軽度の偽証を検知。今回はペナルティは発生しませんが、システムへの偽証は罪に問われます。次は注意してください』
「な、何言ってるのよ!?」
『一ノ瀬詩織さん、対象者・蓮見瑛介氏との仮交際の続行を指示します。あなたの気持ちを確かめてください』
夜の街頭の下、詩織はスマートフォンを握りしめたまま、呆然と立ち尽くした。
AIは間違えない。AIが、詩織自身さえ否定した"微かな興味"を暴き出してみせた、とでも言うのだろうか。
あんな冴えない、シワだらけの服を着た男に、自分は気があるとでもいうのだろうか。
スマートフォンの冷たい画面を見つめながら、詩織はかつてない困惑に包まれていた。
───────── [ ♥ ] ─────────
詩織は一週間前と全く同じ光景を目の前にしていた。
場所は駅前のサイゼリヤ。テーブルを挟んで座っているのは、相変わらずクシャクシャのシャツを着た蓮見瑛介である。
国家の誇る超高性能AIに"偽証罪"をチラつかされ、強制的にセッティングされた二回目のデートだった。
今日の詩織は、単なる婚活女子ではない。絶対にAIが認めざるを得ない"決定的な減点要素"を暴き出すため、目を皿のようにしている、監察女子だった。
(さあ、どこからでもボロを出しなさい。スープを音を立てて飲むとか、店員さんに横柄な口を利くとか、何でもいいわよ。それを理由にして、今度こそあなたとオサラバしてみせるんだから)
詩織は獲物を狙う猫のような目で、じっと瑛介を凝視した。
瑛介は、その視線の痛さに耐えかねたように、手持ち無沙汰に視線を泳がせている。カバンの隅では、例の下手くそなヒーローチャームが、所在なげに揺れていた。
やがて、注文した料理が運ばれてきた。詩織は小ぶりのハンバーグ、瑛介はミラノ風ドリア。
前回、互いが食べたものを入れ替えたメニューの選択。狙ってそうしたのではないのだが、結果的にそうなった。
(第一関門よ)
詩織は内心で身構えた。
大抵の評価指数低め男子は、ここでボロを出す。
これまでに会った男たちの中には、料理が届いた瞬間にスマホを取り出して写真を撮りまくったり、こちらが一口も手を付けていないのにガツガツと自分の分だけを平らげたりする輩が山ほどいた。
さあ、お前は、どんな醜態をさらしてくれるんだ? という目で見ていたが、瑛介がフォークを手にしたとき、詩織は小さく息を呑んだ。
(まさかの、フォーク派?)
サイゼリヤの看板メニュー、ミラノ風ドリアの食べ方には、深い歴史的対立を孕んだ"派閥"が存在する。
大半を占めるのは、王道の『スプーン派』だ。
ソースとライスをスプーンで一口ずつすくい、口の中で混ざり合う味のグラデーションを楽しむ。あるいは、熱々の全体をがちゃがちゃとダイナミックに混ぜ合わせてから頬張る。
いずれにせよ、リゾットに近いドリアを効率よく胃袋に収めるにはスプーンが最適解とされてきた。
しかし、瑛介が選んだのは、少数派の『フォーク派』だった。
彼は決して全体を混ぜようとはしない。器の端から少しずつ、ソースとご飯の美しい層を崩さないように、丁寧にフォークへ載せていく。
少しずつ上品に味わうためのフォーク。
そして何より、器の底や縁にこびりついた、あの香ばしい焦げ目をこそげ取るには、スプーンの丸みよりもフォークの平らな刃先の方が圧倒的に使い勝手が良い――。
その確固たるこだわりが、彼の迷いのない手つきから雄弁に伝わってきた。
かく言う詩織も、フォーク派なのである。
「いただきます」
小さく呟いた瑛介の指先の動きは、驚くほど滑らかで、そして美しかったのだ。
背筋を品よく伸ばし、器具を一切カチャカチャと鳴らさずに、少しずつ、上品に味わう。
(……。まあ及第点かしら。でも、それだけじゃ……)
詩織はまだ警戒を解かない。次に彼女が注目したのは、彼の食べる速度だった。
婚活市場の地雷男たちは、とにかく自分のペースでしか生きられない。詩織が話をしている最中でもお構いなしに口を動かし、聞き流すのがオチだ。
ところが、瑛介は違った。
詩織が何かを話そうと手を止めると、彼もピタリと自然にフォークを置くのだ。そして、詩織が楽しそうに食べ進めると、それに合わせるように自分のドリアに手を付ける。
(もしかして、私がそうであるように、彼も、断る理由を探してる?)
咄嗟に、自分が何かやらかしていないかと、身構えた。たとえ、断ろうと思ってる相手に会うのでも、服装は入念にチェックしてきた。さっと小さな手鏡を出して、化粧も確認する。
大丈夫。そう確認してから、ようやく顔を上げて--。
彼の目元を見て、その考えは消えた。瑛介の眼差しは、どこまでも静かで、優しかった。
まるで、親が我が子を驚かせないように、そっと見守っているかのような、そんな妙な居心地の良さがある。
「一ノ瀬さん」
「えっ? はい」
「あの……お口に、合いましたか」
「あ、ええ。美味しいです、ここのハンバーグ」
瑛介は、ほっとしたように、クシャリと眉を下げて笑った。
「良かった。私も前回食べましたが、美味しかったです」
会話そのものは、決して弾んでいるとは言えなかった。
トークが上手い男なら、ここで気の利いた話の一つでも言って詩織を楽しませるのだろう。
瑛介は相変わらず口数が少なく、次の言葉が出てくるまでに少し時間がかかる。
けれど、詩織はその沈黙が、決して不快ではないことに気づき始めていた。
彼は、詩織の言葉を一つ一つ、頭の中で丁寧に咀嚼しているのだ。
どう返せば相手を傷つけないか、どう言えば誠実に伝わるか、それを必死に考えているからこその、短い沈黙。
口先だけで中身が空っぽだった過去の男たちとは、何かが違っていた。
会話をしていて、嫌な裏を全く感じない。
(外面は、確かに最悪だけど……)
詩織は、自分のハンバーグを小さく切り分けながら、スマートフォンを納めたバッグを見た。画面の向こうで、AIが『ほら見なさい』とでも言いたげにしているような気がした。
交際解除理由書に書かれた無数とも言える減点となるリスト。
評価指数"C+"という冷酷な評価の裏付けとして示された、シャツのシワ、会話の少なさ、店のセンス。確かにそれらは、偽りのない事実だろう。
けれど、この男をただの"地雷男"と一蹴してしまうのは、何かが違っている。
食事のマナー、押し付けがましくない無骨な気遣い、そして言葉の端々に宿る誠実さ。
(この人……ひょっとすると、素材は悪くないのかもしれない)
仕立てのいいスーツを着せて、ちゃんとした場所に連れて行けば、驚くほど化けるのではないか。そんな予感さえ漂っている。
「あの、一ノ瀬さん。もしよければ、ドリンクバー、何か持ってきましょうか」
少し耳を赤くしながら立ち上がろうとする瑛介を見上げながら、詩織の胸の中で、冷たい監察の目はいつの間にか消え失せていた。
彼女の心に灯ったのは、この不器用な男をもっと知りたいという、純粋な好奇心だった。
───────── [ ♥ ] ─────────
三回目のデートに指定されたのは、瑛介が予約してくれたという大衆居酒屋だった。
「いつもファミレスですみませんでした」
頭を下げられたときは耳を疑ったが。
案内されたのは、のれんをくぐると威勢のいい声が飛び交う、少し手狭な、しかし活気のある店だった。
あてがわれたのは、すれ違うのがやっとの狭い通路に面したカウンター席。横並びに座ると、お互いの肩が触れ合いそうなほど距離が近い。
「一ノ瀬さん、何にしますか」
「あ、じゃあ、レモンサワーで」
「私は生ビールを」
乾杯のジョッキが触れ合う。
お酒の力というのは偉大なもので、三回目にしてようやく、二人の間に世間話と呼べるものが成立し始めていた。
「水道局のお仕事って、夜勤もあるんですか?」
「ええ。突発的な漏水なんかがあると、夜中でも現場に駆けつけます。……地味な仕事ですよ」
瑛介の口調は相変わらずたどたどしかったが、これまでの単語だけの返答に比べれば、見違えるほどの進歩だった。
詩織が相槌を打つと、彼は嬉しそうに、しかし照れくさそうに視線を泳がせる。
(今まで会った男たちの自慢話とか、興味の無い趣味の話を聞かされるよりは、百倍マシね)
クワガタを飼うのが趣味だという男から、一時間ずっとクワガタの飼い方や苦労話を聞かされたこともあった。それに比べては、さすがに彼に悪いか。
そう思いながら、詩織はサワーを二杯空けた。
少し顔が熱い。ふと隣を見ると、瑛介はすでに生ビールを干し、濃いめのハイボールを平然と三杯目を空けていた。
どれだけ飲んでも、彼の顔は色を変えない。
(この人、お酒めちゃくちゃ強いんだ……)
彼のタフさに圧倒されつつ、心地よい飲みっぷりにつられて、詩織も少しペースが上がってしまったらしい。
「ちょっと、失礼しますね」
詩織は席を立ち、店の奥のトイレへと向かった。
冷たい水で手を洗い、鏡で化粧をチェックしながら、「いけない、少し飲みすぎた」と反省した。
そして、カウンターへ戻ろうとした、その時だった。
狭い通路の途中で、盛り上がったサラリーマンの客が、急に勢いよく身体をのけぞらせた。
「え!」
避ける隙間などなかった。突き飛ばされるようにして、詩織の身体が大きくバランスを崩す。
(あ、転ぶ――!)
床に激突することを覚悟して、詩織はギュッと目を瞑った。
しかし、衝撃は来なかった。
詩織の身体を受け止めたのは、床ではなく、驚くほど硬くて大きな壁だった。
「おっと。大丈夫ですか」
低い声が耳元で響く。瑛介だった。
詩織が戻ってきたのに気づき、身体の半分をこちらに向けて待ち構えてくれていたおかげで、咄嗟に身を乗り出せたようだ。
彼の太い両腕が、詩織の腰をしっかりと抱きすくめるようにして支えていた。
ぶつかった勢いで、詩織の顔は彼の胸元にすっぽりと押し付けられる形になった。
(え――)
詩織は目を見開いた。
うしろでは、詩織にぶつかってきたサラリーマンやそのお仲間が謝っているが、詩織はそれどころではなく、代わりに瑛介が「大丈夫ですから」と対応してくれた。
詩織は頭がいっぱいになっていた。鼻腔をくすぐったのは、お酒の匂いでも、男臭さでもなかった。
微かな、しかしはっきりとした柔軟剤の香りがした。
独身男性にありがちな、生乾きの嫌な匂いが全くしない。クシャクシャのシャツからは、驚くほど清潔な、洗いたてのような香りが漂ってきたのだ。
衣服越しに伝わってくる、びくともしない太い体幹の厚み。
そして、自分の腰をがっちりと支えている大きな手のひらの形。そこからじんじんと熱が帯びて伝わってくる。
(この人、意外に身体がしっかりしてる……?)
酒のせいだけではない熱さが、詩織の耳の裏まで一気に駆け上がっていく。心臓が、信じられないほどの早鐘を打っていた。
「あ、ごめんなさい! ありがとうございます……」
慌てて身体を離し、這うようにして席に戻る。
冷たいお茶を頼んで一口すすり、ようやく上気した顔が落ち着いた頃、詩織は思い切って、ずっと胸に引っかかっていた疑問をぶつけてみることにした。
「あの、蓮見さん。不躾なことをお聞きしますけど……」
詩織は冷たいお茶のグラスを両手で包み、上目遣いに彼を見た。
「はい、何でしょう」
「その、シャツ。いつも、少しシワがありますよね。何か理由があるんですか? ちょっと気になって……」
瑛介は一瞬きょとんとした後、みるみるうちに耳まで真っ赤にした。酒では全く赤くならなかったのに。大きな身体をさらに縮こまらせる。
「実は……、一緒に暮らしている同居人がおりまして」
「同居人?」
急に、何のカミングアウトが始まったのか、詩織は目を白黒させながら、彼を見た。
「はい。十年前に亡くなった、私の姉夫婦の子供なんです。高校生の男子が二人」
詩織は目を丸くした。
「えっ、お子さん……?」
(ちょっと待って! 子供がいるなんて聞いてないよ! カルテは穴が空くほど見たはず。そんなこと何処にも……)
「で、でも! 蓮見さんのカルテには『単身』って書いてありましたよね?」
国営システムのデータは絶対のはずだ。瑛介は慌てて大きな両手を振った。
「あ、いえ! 私が引き取って養子にした、というわけではないんです。十年前は、私もまだ学生でしたので。名義上の保護者は遠方に住む別の親族です」
「それなのに、どうして蓮見さんと?」
「あの子たちが強く望んだ事です。親族とあまり親交も無く、環境が大きく変わることを恐れて。姉夫婦と、私は、もともと同じマンションの隣同士に住んでいまして。姉夫婦が亡くなったあとも、それまでと同じように、お互いの部屋を行き来しながら、一緒に暮らすことになったんです。親代わり、なんて誇れることもしてません。本当に、ただの同居人と言うのが相応しいです」
(……。さすがに、すぐに受け入れられないわ)
「……、そうですか。だから『単身』の扱いに……」
「はい。法的には、単身で間違いありません。それに、もう彼らは自立していますので、結婚に際しては、同居するということもありません。……結果的に騙すような形になってしまって、すみません」
「いえ、騙されたとは思っていません。……事情はわかりました」
(事情はわかったけど……、AIはこの事情を理由にして解除申請を出したら、さすがに認めるでしょうね)
詩織は小さく首を振った。動揺してしまい、感情的になってしまっている自分を落ち着けた。
それから、カウンターの上の彼の大きな手を見つめる。
「でも、もう十年も……。ご苦労なさったのでしょうね?」
「いえ、彼らの母である姉の影響で、ある程度の生活力はあったので。ただ、揃いも揃って、洗濯物を干すというのが苦手にしてるんです」
「洗濯物を干すのが、苦手?」
詩織が聞き返すと、瑛介は「変ですよね」とさらに耳を赤くしながら、言い訳をするように言葉を続けた。
「ベランダに出るのが億劫なんです。季節によって、夏は信じられないくらい暑くて汗をかくし、冬は凍えるほど寒い。それに、外に干すとどうしても虫がつくとか、花粉がつくとか、気になってしまいますし、突然に雨が降れば洗濯のやり直しです。せっかく綺麗に洗ったのに、わざわざ汚しに行くような、なんだか本末転倒な気がしてしまって……」
「あはは。言ってることはわかりますけど……。私も花粉症だから、花粉が飛んでる時期だけは、外に干さなかったりします」
詩織が思わず笑うと、瑛介は少しホッとしたように表情を緩め、熱を込めて語りだした。
「けれど、部屋干しは、生乾きになります。何より、洗濯物の量が多すぎて、家中が洗濯物のジャングルのようになってしまいます」
「高校生の男の子ですものね。蓮見さんも大柄ですけど……、もしかして?」
「ええ、私よりも大きいんです」
「それは、洗濯物の量が、私には想像も出来ないです」
彼は恥ずかしそうに、ポリポリと頬を掻きながら、はにかんだ。
「だから、洗濯機とドラム式乾燥機がフル回転なんです。一度に回せる量には限りがあるので、回数で補うしかなく、アイロンをかける時間がどうしても間に合わなくて……本当にお見苦しいところをお見せしてすみません」
(だったら、ノンアイロンシャツ(形態安定シャツ)を買えばいいのでは? というのも、きっと違うんだろうな。この人は、不器用で要領が悪そう。きっと、日々の生活リズムのなかで合理化されていった結果なのでしょうね)
不思議なものだ。ただのだらしない男ではなかったのだと思うと、服のしわも違って見える気がした。
たった一人で、不器用ながらも、甥たちとの日常を守り続けてきた結果でしかない。今、彼は、紛れもない"父親"の顔をしていた。
(本当なら、同居人のこと、もっと問い詰めるべきでしょうけど……)
言い方は悪いが、こぶ付きなんて、問答無用でお断り要件だ。しかし、詩織には、どうしても強く詰め寄れない気持ちがあった。
詩織は、父子家庭で育った。自分を必死に育ててくれた父親を、誰よりも尊敬し、感謝している。その父に、瑛介が重なって見えたからだ。
目の前で、シワだらけのシャツを着て縮こまっている男が、急に、とてつもなく大きく、そして誇り高いものに見えていた。
詩織の胸の奥で、猛烈な尊敬の念が、静かに、しかし激しく込み上げていた。
───────── [ ♥ ] ─────────
四回目のデートは、休日の昼下がりだった。
これまでの飲食店とは違い、駅前の大きなショッピングモールでの待ち合わせ。人混みの中を二人で並んで歩くのは、なんだか新鮮だった。
相変わらず瑛介のシャツにはうっすらとシワがあり、少し大きめの歩幅を詩織に合わせようと、彼がぎこちなく歩く様子もいつも通りだ。
けれど、詩織の心の中にあった"減点を探す"冷たい視線は、もうすっかり鳴りを潜めていた。
「あ、やっぱり瑛ちゃんだ!」
吹き抜けの広場を通りかかったとき、不意に背後から元気な声が飛んできた。
振り返ると、スポーツバッグを肩にかけた、長身の高校生が二人立っていた。
目元がよく似た、活発そうな少年たちだ。驚いたことに、二人とも大柄な瑛介よりもさらに背が高い。
「お前ら……部活の帰りか」
瑛介は目を丸くして立ち止まった。
「そう。これから二人で遅めのメシ食って帰るとこ。……っていうか、瑛ちゃん、デート中?」
少年の一人が、興味津々といった様子で詩織と瑛介を交互に見る。瑛介は途端に耳まで真っ赤にして、大きな身体をさらに縮こまらせた。
「あの、一ノ瀬さん。紹介します。こいつら、例の同居人の……」
「はじめまして! タイカです。いつもウチのおじさんがお世話になってます!」
「兄のオウキです。はじめまして。デートの邪魔してすみません!」
少年たちが人懐っこい笑顔で、詩織に向かってペコリと頭を下げた。
「はじめまして。一ノ瀬詩織です。……ふふ、二人ともすごく背が高いのね。瑛介さんからお話は聞いていたわ」
詩織が微笑み返すと、少年たちは「お、名前で呼ばれてる」「やるじゃん瑛ちゃん」と小声でつつき合い、瑛介をさらに慌てさせた。
「こら、お前たち、失礼だぞ。一ノ瀬さんを困らせるな」
たしなめる瑛介の口調は、決して厳格な保護者のそれではない。しかし、そこには確かな親愛の情が滲んでいた。
照れくさそうにしながらも、瑛介とフランクに会話する少年たちの態度は、彼に絶大な信頼を寄せているのがありありと伝わってきた。
瑛介自身は"親代わりではない"と謙遜していたが、三人の自然な空気感は、彼らが家族であることを詩織に実感させた。
「一ノ瀬さん」
弟のタイカが、少しだけ真面目な顔を作って詩織に向き直った。
「おじさんは、いい人です。見た目ちょっとださいけど」
「おい」
もう一人、兄のオウキも、にっと笑って言葉を継ぐ。
「叔父は、いい人止まりかもしれません。無愛想だし、要領も悪いですから」
「お前らな……」
二人は困り顔の瑛介を見てケラケラと笑う。
けれど、まっすぐな目で詩織を見つめて、二人は訴える。
「でも、一緒に暮らして絶対に害にはならない、それだけは保証します!」
「叔父は、家事は一通りしますよ、俺たちの洗濯物とか、弁当とか、掃除とか、してくれましたから。……あ! でも、今は違いますよ! 俺たちも自分のことは自分でするようにしてますから! 洗濯は、ちょっとたくさんありすぎてまとめて洗濯するしかなくて、してもらってますけど――」
「おじさんの作る料理は美味しいですよ! 一番のおすすめは、カレーです!」
「ちょっと雑なところもありますし、段取りが悪いところもありますが、大目に見れば……」
「おまえら、俺をかばってくれてるのか、それとも評価を下げたいのか、どっちだ?」
二人は、必死に瑛介の良いところをアピールしてくれるのだが、その様子を別の思いで眺めていた。
(瑛介さんの言ったとおり、自立した子たちね。結婚した後に、彼らの世話までさせられる、なんてことはなさそう……)
二人は「じゃあ邪魔してごめんね! 楽しんで!」「失礼しますね」と嵐のように去っていった。
取り残された瑛介は、「すみません、お見苦しいところを……」と深くため息をつきながら頭を下げた。
だが、その横顔に浮かんでいたクシャッとした満面の笑顔を、詩織は見逃さなかった。
――ショッピングモール内のカフェで、二人で一息つきながら。
詩織はずっと気になっていたことを口にした。
「男手一つであの二人を育てるの……やっぱり、大変だったんじゃないですか?」
十年前、まだ学生だった彼が、小学生だった二人を抱え込んだのだ。想像を絶する苦労があったに違いない。
瑛介の言う通り、自立性を感じられた二人であったが、けれど"洗濯も、弁当も、掃除も"と兄が言っていた。家事は瑛介の担当らしい。
詩織の問いかけに、瑛介はいつものように、少しだけ沈黙した。
彼の中で、言葉を探し、選んでいる時間。詩織はもう、その静かな時間を愛おしいとすら感じていた。
やがて、瑛介はコーヒーカップをそっと置き、静かで、どこまでも優しい声で言った。
「……『大変』という言葉では、言い表せないですね」
瑛介は、宙を少し見つめながらゆっくりと言葉を紡ぐ。
「肉体的には、疲れることもありました。衝突もします。力ではもう敵いません。それに……、親でもない私が、彼らを叱っていいものかという葛藤も常にありました。決して、容易なことではありませんでした」
そこで一度言葉を区切り、彼はまっすぐに詩織の目を見た。
「けれど……『大変だった』という言葉が持つネガティブな意味は、彼らと過ごした時間にはそぐわない気がするんです」
――なんて、綺麗な言葉を使う人だろう。
詩織は、胸の奥がきゅっと締め付けられるのを感じた。
この人は、感情のままに言葉を吐き出すような真似は絶対にしない。
まるで自分の心の一番深いところから、粘土をこねるように気持ちを丁寧に成形して、一番誠実な形でそっと差し出してくれる。
交際解除理由書に刻まれた『対話における受動性』『会話が盛り上がらない』という冷酷な評価。
(恋愛相手、あるいは結婚相手を探しているという、気持ちが急いて、焦ってる姿勢であっては、この人の話すペースは遅すぎる、そう感じてしまうでしょうね)
そして、それを苦情として聞き、取り纏めるAIには、婚活という戦場で優雅に茶を点てるかのような、場違いにしか映らないのだろう。
――彼の沈黙は、相手を傷つけず、そして自分の真意を偽らないための、誠実さの結晶だというのに。
詩織の脳裏に、先ほどの甥たちの笑顔と、"一緒に暮らして害にはならない"という言葉が蘇る。
(――これ以上の褒め言葉って、ある?)
婚活市場において、どれだけ年収が高くても、エスコートが完璧でも、いざ共同生活を始めると"生活上の害"になる男はごまんといる。
育児や家事を押し付ける、自分のペースを乱さない、思いやりのない言葉をぶつける。
SNSで"夫"とワードを入力して検索すると、ささやかな夫の愚痴を告げる投稿から、すぐにでもその夫から逃げて!と思わずにはいられない投稿まで。
世の中に"普通の夫"はいないのかと、錯覚してしまうほどだ。
それも、国が威信をかけて開発した専用のAIが、国中の電気を集めて計算しているであろう、評価指数に従って、結婚した結果だ。
だからこそ。少年たちの冗談めかしたあの言葉こそ、婚活で見極めるべき最も大切な情報なのだ。
不器用で要領が悪くて、シャツにシワがあっても。
彼は、決して人の心を傷つけず、温かく見守り、生活を共に紡いでいける人。
口先だけで中身が空っぽな男たちとは違う、"自立した生活能力"とその確かな"実績"を持つ、絶滅の危機にある希少な、男。
(この人だわ……)
詩織の中で、明確にスイッチが切り替わった。"とりあえず婚活で相手を探す"という受け身の姿勢から――。
身を乗り出すようにして"人生を共に生きる理想の夫であり、将来の子の父となる男を見出す"姿勢へと。
完全に、そして決定的に、カチリと音を立てて。切り替わった。
───────── [ ♥ ] ─────────
地上二百メートルから見下ろす東京の夜景は、まるで無機質な宝石箱のように煌めいていた。
グラスの中で揺らめくのは、ヴィンテージ・ワインの深く官能的な真紅。
そこは、これまでの大衆居酒屋やファミレスとは次元が違う、豪奢な星付きのフレンチレストランだった。
テーブル越しに向かい合う男は、完璧に仕立てられたフルオーダーのスーツを優雅に着こなし、甘く、非の打ち所のない微笑を浮かべている。
瑛介ではない。AIが薦めてきた、仮交際中の別の男だ。
彼の評価指数は、堂々の"A"。AIが、詩織以上の評価指数の男性を推薦してきたのは、初めてのことだ。
高収入、高学歴、容姿端麗――システムが弾き出した、文字通りの"超優良スペック"である。
スマートなエスコートから、ソムリエとの軽妙なやり取りに至るまで、その振る舞いのすべてが洗練の極みにあった。
だが、二時間に及ぶディナーの間、詩織の心は真綿で首を絞められるような息苦しさに支配され続けていた。
「詩織さんは、本当に手が綺麗だ。こんな美しい手で満員電車に揺られ、擦り減るような仕事をしているなんて、もったいないよ」
極上のオマール海老を取り分けながら、彼は蜂蜜のように甘い声で囁いた。
「僕と結婚したら、もう働かなくていい。優雅な専業主婦になって、いつも笑顔で僕を癒やしてくれる……それが『君の幸せ』でもあるよね? 資産形成のロードマップは僕が完璧に描いているから、何も心配しなくていい。ご実家のご両親にも、将来一切の苦労はかけないと約束するよ」
「……ええ。私の幸せまで深く考えてくださって、本当に心強いです。父も老後の準備は終えておりますので、あなたのご負担になるようなことは決してございません」
「それは素晴らしい。やはり、育ってきた環境の『水準』が合うことは大切だからね」
彼は満足げに目を細め、まるで極上のワインを味わうように言葉を紡いだ。
「子供についても同じだ。僕たちなら、きっと最高の子供に恵まれる。優秀な遺伝子を次世代に残すというのは、社会に対する最も尊いプロジェクトだと思わないかい? 幼稚園から最高の私立に入れて、完璧な環境を用意するよ。君には、そのためのサポートに専念してほしいんだ」
「おっしゃる通りですね。子供には素晴らしい環境を与えてあげたいですし、異論などありません。あなたが安心してお仕事に専念できるよう、妻としてのサポートを望まれていることはしっかりと理解いたしました」
詩織は、砂を噛むような思いで最高級のメインディッシュを喉の奥へと押し込んだ。
優しくロマンチックな言葉のコーティングの下に透けて見えるのは、詩織という個人の感情に対する完全な無関心だった。
彼にとって自分は、彼の完璧な人生を彩るためのトロフィーワイフに過ぎないのだ。
極めつけは、豪奢なデザートが運ばれてくる直前のことだった。
ふいに男から、甘い微笑みがふっと消えた。
彼はワイングラスを優雅に傾けながら、ショーケースの商品の最終確認をするような鋭い眼差しを真っ直ぐに詩織へと向け、こう放ったのだ。
「それで――一ノ瀬さんは、僕の妻として、どんな『メリット』をもたらしてくれるのかな?」
「私が、妻としてご提供できるメリット……、ですか。そうですね。あなたが常に社会の第一線で活躍できるよう、健康面でも精神面でもお支えすることでしょうか。ご一緒しても決して恥ずかしくないよう、妻としての教養や、周囲の方々への細やかなお付き合いも怠らないつもりです」
模範解答を聞いた彼は、再び完璧な微笑みを取り戻してうなずいた。だがその一方で、詩織の背中にはべっとりと冷たい汗が張り付いていた。
心がどれほど嫌悪で悲鳴を上げようとも、詩織は表面上、彼が望む"正解"のレールに沿うよう必死に取り繕うしかない。
もし、この甘く息苦しいディナーの席で、『専業主婦が女の幸せとは限らない』と自我を主張したり。
あるいは、突然態度を変えた彼に対し、感情のままに『メリットって何よ!』と食ってかかったりしたら……。
恐るべき交際解除理由書にいったいどんな酷評が書き込まれるか、わかったものではなかったからだ。
【被評価者の自己認識の歪み(提供される庇護に対する感謝が乏しく、家庭というプロジェクトにおける役割分担に不満を抱く傾向あり)】
【感情的かつ非論理的な対話姿勢(建設的な議論が成立せず、家庭内における迅速なコンセンサス形成が不可能)】
【次世代育成に対する当事者意識の欠落(自身の遺伝的・環境的リソースを投資する意義を理解せず、優秀な人的資本の育成計画に重大なリスクをもたらす)】
【提供価値の提示不能(投資対効果が極めて低く、配偶者として採用する合理的な根拠が皆無である)】
【長期的ビジョンの不一致(人生設計におけるベクトルが合わず、共同事業としての結婚生活を維持するメリットがない)】
これらの残酷な文字列が国営AIのデータベースに登録されれば――。
詩織が維持してきた"A-"という評価指数は、"B"か、最悪のケースでは"C"まで急落するだろう。
彼にとって、妻とは"完璧な人生"というショーケースを飾るためのお飾りか、優秀な後継者を生産するための母体でしかないのだ。
少しでも自我を持ったり、自分の求める水準を満たす回答を出せない女は、"不良債権"として優雅な微笑みの裏で冷酷に切り捨てる。
本当に、背筋が凍る思いだった。
もし虚飾を捨てて本音をぶちまけていたら、詩織は間違いなく"地雷女"の烙印を押され、社会的に抹殺されていたに違いない。
――ディナーを終え、男と別れた後。
駅に直結した、少し照明の落とされた落ち着いたカフェの片隅。詩織は一人、カモミールティーの注がれたカップを両手で包み込んでいた。
足元では、背伸びをして履き続けた七センチのヒールのせいで、爪先がジンジンと痺れるように痛む。
けれど、それ以上にひどく痛みを訴えていたのは、彼女の心そのものだった。
カモミールティーから立ち上る湯気の向こうで、視界がじんわりと滲んでいく。
(いったい何を探しているの? 彼らは何を探してる? 安上がりで確実な、家事育児の労働力でも探しに来てるみたい……)
これまで、自分より評価指数が低い男と会うときは、常に"自分が選ぶ側"なのだと自負していた。
相手を見下し、いかに手厳しい『交際解除理由書』を突きつけてやろうかと、それを考えることすら楽しみにしていた。
――いざ"選ばれる側"になったとき。こんなにも深く傷つくのだということを、今更になって思い知った。
痛む爪先を押し殺して履き続けた七センチのハイヒール。
ふくらはぎが最も細く美しく見える高さを選び、事前に靴擦れ防止のクリームを塗り込んでまで準備したものだった。
昨日わざわざ半休を取って青山の美容室へ足を運び、数万円もする最高級の超音波トリートメントまで施した艶やかな髪。
レストランの薄暗い間接照明の下でも、しっとりとした輝きを放つようにと念入りにケアをした。
上品で家庭的に見えるよう計算して選んだオフホワイトのシルクブラウスは、顔まわりを柔らかく明るく見せるためのレフ板代わりだ。
シワひとつない状態を保つため、行きの電車では誰とも触れ合わないよう必死に身を縮め、シートの背もたれに寄りかかることすら避けてきた。
そして、控えめで隙のないメイク。
素肌の美しさを錯覚させる"ベースメイク"を作るため、スキンケアから一時間以上を費やし、僅かなシミや毛穴をコンシーラーで徹底的に隠した。
男性受けのいいコーラルピンクのリップで"良妻賢母"の微笑みを緻密に作り上げた。
指先も、家庭的な女であることをアピールするため、派手なストーンのネイルをわざわざサロンで落とした。
手入れの行き届いた清潔感だけを主張する淡い桜色のシンプルなジェルに付け替えてある。
少しでも彼の目に"価値ある女"として映るように。
時間も、お金も、身を削るような労力も、一切惜しまずに自分を磨き上げてきたのだ。
そのすべてが、果てしなく滑稽で、救いようのない馬鹿みたいに思えた。
(私は、値札をつけられてショーケースに並んでいるだけなんだ)
彼が頭のてっぺんからつま先まで、なめるように品定めをしているとき、詩織は自分が血の通わないトルソーにでも成り果てた気分だった。
美しく着飾った装いの中身など、彼は微塵も見ていなかった。唯一、彼の視線が下卑た色を帯びて止まったのは、胸元だけだったのだから。
(メリットって何よ?)
本当なら、グラスのワインをあの非の打ち所のない顔に浴びせてやりたかった。席を蹴り飛ばし、あんな茶番劇は終わりにして帰りたかった。
なのに、私は笑ったのだ。
彼の機嫌を損ねないように。国営AIからの評価を下げられないように。
評価指数"A-"という価値を守るためだけに、必死で頭をフル回転させ、彼が喜ぶような"従順で賢く、メリットのある女"のセリフを並べ立てた。
自分の心を殺して、自分自身に嘘をついて。
(なんて惨めなんだろう……っ)
悔しさが込み上げ、奥歯を強く噛み締める。
条件の良い男と結婚さえすれば、無条件に幸せになれると信じて疑わなかった。
AIが導き出す評価指数という数値こそが、失敗のない人生へと導いてくれる絶対的な道標なのだと信じ込んでいた。
だからこそ、相手をスペックという刃で切り刻み、無機質な点数でジャッジしてきたのだ。
サイゼリヤで口ごもる男を心の中で嘲笑い、減点方式でアラ探しをしてきた。自分が『査定する側』であるという、傲慢な優越感に浸りながら。
だが、いざ自分が"査定される側"に回ったときの、この胸をえぐられるような屈辱はどうだ。
人間としての尊厳を一枚、また一枚と剥がされ、最後には『どんな利益をもたらす?』と冷たく突きつけられる、静かな暴力。
(こんなの、結婚じゃない。ただの取引……人身売買と同じじゃない……)
すっかり冷めきってしまったカモミールティーの水面を見つめながら。
二十九年間、疑うことなく信じ、積み上げてきた価値観が、音を立ててガラガラと崩れ去っていくのを感じた。
ただ、好きな人と温かいご飯を食べて、今日あった何気ない出来事を話して、くだらないことで笑い合いたいだけなのに。
婚活という名で綺麗にパッケージされたこのシステムは、そんなささやかな願いすら許してはくれない。
効率とメリットという冷酷な天秤にかけられ、少しでも目減りすれば"不良品"として容赦なく切り捨てられる世界。
選ばれるために、自分を少しでも高く買ってもらうために。
今日もどこかで、心をすり減らしながら無理をして笑っている自分自身。
そして何より、そんな残酷なシステムに無自覚なまま加担し、生身の人間を数値で測り続けてきた自分自身に対する、激しい怒りと、どうしようもない悲しみ。
(私は……何のために、こんなに頑張ってきたんだろう……)
ぽつり、と。
誰にぶつけることもできない無力感と悔しさだけが、行き場を失った涙に変わり、冷たいテーブルの上へと落ちた。
(ダメだ。帰ろう。帰りに甘い物でもいっぱい買って、気持ちをリセットしよう)
――そう思って、顔を上げたとき。
詩織の視界の端を、見覚えのある巨体が通り過ぎようとしていた。
ガラス窓の向こうの駅の通路。
大きな出張用のリュックを背負い、少し歩幅を広くして歩く男。
相変わらず、着ているシャツの襟元は少しクシャッとしていて、その無骨な手には、甥っ子たちへ向けたであろう地方の銘菓の紙袋が、大切そうにしっかりと握られていた。
蓮見瑛介だった。
あの狭い居酒屋の通路で、自分を庇うように受け止めてくれた、あの大きくて温かい手のひらの記憶が、鮮烈にフラッシュバックした。
(あ……)
気づいたときには、詩織はハイヒールの痛みも忘れ、弾かれたように席を立ち上がっていた。
「瑛介さん……っ!」
声はガラスに遮られて届かない。詩織は必死に窓ガラスを両手でバンバンと叩いた。
音に驚いて振り返った瑛介は、窓の向こうで必死な顔をしている詩織を見つけると、目を真ん丸に見開いた。
そして、いつものように、大きな身体を折り曲げてペコッと不器用なお辞儀をした。
詩織は、まるで迷子になった子供が、群衆の中でやっと親を見つけたかのように、泣き出しそうな顔で「こっち、入ってきて!」と激しく手招きをした。
――数分後。
瑛介は、場違いな出張用の大荷物を抱えたまま、詩織の向かいの席に縮こまるようにして座っていた。
彼が席に着くや否や、詩織の感情のダムは完全に決壊した。
彼女はこれまで胸の奥底にヘドロのように溜め込んできた"婚活市場の魔境"に対する不満と愚痴を、機関銃のようにぶちまけ始めたのだ。
「聞いてください! 最初に会った人はね、AIのおすすめ質問リストを上から順番に読み上げるだけだったんですよ!? 私の目なんて一度も見ないで、手元のスマホの画面ばっかり見て……!」
瑛介は驚きながらも、すぐに真剣な表情になり、詩織の言葉にじっと耳を傾けた。
「次の人は『男の方が生涯年収のリスクが高いから、費用を出すのは不合理だ』って、経済学の講釈を始めたかと思ったら、一円単位まで完全割り勘ですよ!」
呼吸も浅く、肩で息をしながら、詩織の言葉はさらにヒートアップしていく。
「で、今日の人は、評価指数が『A』の超エリートだったんです。でもね、会話がずーーーっとキモい! 資産形成だの、教育サポートだの! 挙句の果てに『君は僕の妻として何ができる?』って、上から目線で品定めされたの! 私は家政婦か何かなの!? 結婚って取引なんですか!?」
言い終えた瞬間、大きく肩を上下させて息を吐き出し――そこで、詩織はハッと我に返った。
(私、なにやってるの……?)
目の前にいるのは、彼氏でもなければ、ただの四回デートしただけの"仮交際中の婚活相手"だ。
しかも、大きな荷物を抱え、出張帰りで疲労困憊のはずの彼を、無理やり引き留めてヒステリックに喚き散らしてしまったのだ。
恐る恐る瑛介の顔を窺う。
だが、瑛介の顔に、嫌悪や困惑の色は微塵も浮かんでいなかった。
彼は大きな身体を少し丸め、詩織の激しい感情の波をすべて受け止める防波堤のように、ただ黙って、ニコニコと「うん、うん」と優しく頷いてくれていたのだ。
その底なしの包容力に触れ、詩織は激しい自己嫌悪に襲われた。
「……ごめんなさい。私、最低ですね……出張帰りでお疲れなのに。瑛介さん、これから家に帰って、あの子たちの夕飯とか、色々と予定があったんじゃ……」
しゅんと俯く詩織に対し、瑛介は慌てて大きな両手を振った。
「いえ! 出張の日は、彼らには駅前のファミレスで好きなものを食べていいと伝えてあるので、全然大丈夫です。むしろ、引き留めてもらえて、少し休めて助かりました」
どこまでも相手を気遣う、優しい嘘。
彼が自分のために急いで帰路を急いでいたことは、あの足早な歩き方を見ればわかっていた。
瑛介は、詩織の前に置かれた、すっかり冷めきってしまったカモミールティーを見つめた。
それから、少しだけ照れくさそうに耳を赤く染め、しかし、真っ直ぐに、誠実に詩織の瞳を見つめ返した。
「一ノ瀬さん。僕は……、もうご存じでしょうが、気の利いたことや、賢いことは言えません」
彼はそこで一度言葉を区切り、自分の中にある感情を、決して崩れないように丁寧に掬い上げるようにして、ゆっくりと続けた。
「でも……、僕は、思うんです。他人と暮らす上で本当に大切なのは、同じ方向を見ていることなんじゃないか、と。……お互いに見つめ合うことじゃなく」
「……同じ、方向?」
詩織が微かな声でオウム返しにすると、瑛介は深く、力強く頷いた。
「はい。向かい合って、互いに『好きだ』とか『嫌いだ』とか、感情をぶつけ合うのは、それが心地よくもあれば、刃のように痛みに代わることもあります。それもまた、必要な儀式でもありますが、私たちは、皆が、自分の人生を、自分の向かっていく先に、歩いているのです」
「……」
「結婚することで、その歩みを邪魔したり、負担になったり、時に大きく向かう先を変えてしまう、こともあります」
「……」
「もし。……幸いにして、同じ方向に向かっている人に出会えたら。そして、向かう先、目指す場所が一緒なら――」
瑛介の大きく温かい声が、カフェの喧騒を切り裂いて、詩織の胸の奥の一番柔らかい場所に真っ直ぐに届く。
「……」
詩織は、ただ聞いていることしかできない。
「歩く速度が違っても、躓いたとしても……手を引いて、一緒に歩いて行ける。僕は、そうやって歩いてきました。甥たちと暮らしながら、彼らの手を引いたり、時には引いてもらったり」
「……」
「だから……。一ノ瀬さん」
「……あ、はい」
急に名前を呼ばれ、詩織は、素の声で、素直に返事してしまう。
「あなたが求めているもの――、結婚に求めてるものは、決して間違っていないと思います。まだ、同じ方向に向いて歩いている人に、出会っていないだけ。でも、必ず出会えます。……ええ。一ノ瀬さんは、何も間違ってない。」
"一ノ瀬さんは、間違ってない"の一言が、詩織の中で張り詰めていた最後の糸を、ぷつりと切った。
「っ……、あ……」
スペック男の冷たい言葉によって『お前には価値があるのか』と容赦なく削り取られ、ボロボロになっていた自尊心が――。
瑛介の紡ぐ不器用で温かい言葉によって、完璧に、隅々まで満たされていくのを感じた。
ぽろり、と。
堪えていた涙が、頬を伝って冷めたカップの横に落ちた。
一度溢れ出した涙は、もう止まらなかった。詩織は両手で顔を覆い、子供のように声を殺して泣きじゃくった。
瑛介は困った表情で、ハンカチを取り出して、詩織の肩を優しく叩いて、使うように促した。
――そのハンカチは、きちんと洗濯されていて、しわのないものだった。
───────── [ ♥ ] ─────────
スマートフォンの無機質な通知音が、深夜の静寂な部屋に響き渡った。
ベッドの上に転がっていた画面が発光し、国営婚活システムからのシステムメッセージがポップアップする。
『本交際移行申請のお知らせ:対象者より、本交際への移行申請を受理しました。承認期限は四十八時間後です』
それは、過日あの豪奢なフレンチレストランで、詩織を冷徹に品定めした男からの申し出だった。
彼にとって、感情を殺して"従順で賢い女"を演じきった詩織は、見事"条件をクリアした優秀なリソース"として合格点を得たらしい。
しかし、いくら条件をクリアしたとはいえ、たった二時間のディナーでの性急すぎる決断。
おそらく彼も、重いペナルティが科せられる『未婚のタイムリミット』が目前に迫っており、滅多に現れない評価指数が"A-"の女を他者に取られまいと焦って唾をつけたのだろう。
この申請を『承認』すれば、すべてが丸く収まる。
本交際に進むためには、他の仮交際相手はすべて自動的に解除される。そうすれば、AIが頑なに認めなかった瑛介との交際解除も、自動的に解消される。
しかも"他者との本交際進展"という正当な理由での解除であれば、瑛介の交際解除理由書に、これ以上の汚点を刻む心配もない。
彼を傷つけず、自分は社会的な『正解』へと進む。
誰の目から見ても完璧な結末であり、結果だった。
――だが。
詩織は、どうしても『承認』のボタンをタップすることができずにいた。
瑛介の前で子供のように泣きじゃくった、あのカフェでの夜から数日が経っていた。
『同じ方向を向いて歩いている人』『一ノ瀬さんは、何も間違ってない』。
不器用で真っ直ぐな彼の言葉が、今も詩織の耳の奥に温かくこびりついて離れないのだ。
(どうしたらいいの……)
詩織はスマートフォンを伏せ、膝を抱えて深く息を吐き出した。
――翌日の午後。
詩織は、大学時代からの親友である美沙と、都内のホテルのラウンジで向かい合っていた。
美沙は三年前に国営システムを通じて結婚し、今はタワーマンションで優雅な生活を送る"成功者"の一人だ。
仕立ての良いワンピースに身を包み、手首にはハイブランドの時計が輝いている。
詩織が、迷っている現状――評価指数"A"の男からの本交際申請と、気になっている評価指数"C+"の男の存在――を打ち明けると、美沙は呆れたように小さく息をついた。
「詩織、あんた正気? C+の地雷男なんて、結婚生活を維持できるわけがないじゃない」
美沙の放った言葉は、氷のように冷たく、そして鋭かった。
「あのね、評価指数っていう数値は、あなたの好みとか一時的な『情』を一切排除した、極めて冷静な指標なのよ。AIは間違えないわ。相手の男が家庭を維持できる能力があるかどうか。それが結婚において最も大切なことでしょ?」
「……それは、わかってる。でも、彼はただ不器用なだけで、とても誠実で……」
「誠実さで光熱費が払える? 不器用さで子供の教育費が賄えるの?」
食い下がる詩織を、美沙はピシャリと遮った。
「結婚して合わなかったら即離婚、なんて時代はもう大昔の話よ。今は、離婚には重い『税金というペナルティ』が科せられる。一度でも失敗したら、再起するのは絶望的なくらい難しい。……他でもない、あなたこそ、一番の被害者じゃない」
「……うん」
「だからこそ! 絶対に失敗しないために、わざわざ国が高い費用をつぎ込んでAIを作り、そして評価指数なんて数値を算出してくれているんじゃない」
美沙は手元のティーカップを優雅に持ち上げ、静かに一口飲んだ。その目は、迷える友人を導こうとする、確信に満ちた光を放っていた。
「……わかるよ。私もね、最後はすごく迷ったわ。どっちの男にすべきかって。好みで一緒にいて楽だけど低評価の男と、好みじゃないけど高評価の男。たぶん、婚活を経験した女はみんな、一度はそこで立ち止まるの。でもね、結果を見れば明らかよ。統計は嘘をつかない、AIは間違えない。高評価の男と結婚した夫婦の離婚率は、圧倒的に低いのよ」
美沙は言葉を切り、少しだけ自嘲的な笑みを浮かべた。
「もちろん、私だって今の夫と喧嘩するわ。もはや喧嘩してる方が日常で、たまの仲直りは休日みたいね。息が詰まるって思うこともある。でも結局さ、今の水準の生活を、タワマンでの暮らしや将来の安心を続けたいと思ったら、我慢できることばかりなの。もしこれが、評価指数の低い男だったらどう? 喧嘩したら即、生活そのものが破綻するかもしれないのよ?」
美沙は身を乗り出し、詩織の目を真っ直ぐに射抜いた。
「明日の生活が壊れるかもしれないって怯えながら生きるくらいなら、夫をぶん殴りたいのをグッと我慢して、ブランドバッグを買いあさってストレス発散した方が、ずっとマシじゃない?」
ちらっと美沙のバッグを見る。あのハイブランドのバッグは、ストレス発散のために買った物なのか。
「決めるのはあなた自身だけど、あなたの親友のアドバイスとして聞いて。少しでも、評価指数の高い男と結婚すべきよ」
押し寄せる正論の津波の前に、詩織は何も言い返すことができなかった。
美沙の言うことは、この社会における絶対的な真理だ。国が男女の関係を管理して結びつけている以上は、それに逆らうことは、破滅を意味する。
それでも、詩織の心の中では、あのシワだらけのシャツを着た大きな背中が、どうしても消え去ってはくれなかった。
――その夜。
詩織は、都内から電車で一時間ほど離れた郊外に足を運んでいた。
古い木造アパートの二階。錆びついた鉄の階段を上り、インターホンを鳴らすと、少しして重いドアが開いた。
「……詩織か。珍しいな」
顔を出した父親は、以前に会ったときよりもさらに白髪が増え、ひと回り小さく、老け込んだように見えた。
部屋の中は薄暗く、独特の古い畳と線香の匂いが混じった空気が漂っている。
かつて、必死に詩織を育ててくれた父の背中は、今や社会の片隅にひっそりと追いやられたかのように丸まっていた。
「急にごめんね。ちょっと、報告があって」
詩織は玄関口に立ったまま、あえて感情を交えずに告げた。
「今、本交際を希望してくれている男性がいるの。素敵な人よ、評価指数は"A"。まだ決めたわけじゃないけど……、もしかしたら、そのまま結婚するかもしれない」
評価指数"A"の男のことだけを伝えた。瑛介の存在については、なぜか口に出すことができなかった。
父は、わずかに目を見開いた後、ふうっと長く、ほっとしたような安堵の息を吐いた。
「そうか。それは……よかった。本当によかった」
父は深く頷き、そして、どこか遠くを見るような目で言った。
「なあ、詩織。俺のことはもう、忘れてくれていい。お前の人生にいない存在だと思ってくれ」
「……お父さん?」
「顔合わせなんて不要だ。結婚式にも呼ばなくていい。相手の男や、向こうの家族にはな、『父親は変人で、ずっと家に寝たきりなんだ』とでも言っておくといい。お前のような立派な娘に、俺のような底辺の人間が父親だなんて、相手に知られたら迷惑がかかるからな」
自虐的だが、それが父なりの最大限の"娘への愛情"であることを、詩織は痛いほど理解していた。
自分の存在が娘の幸せの邪魔にならないように、自ら身を引こうとしているのだ。
(あのこと、私は知らないことになってる。きっと、父は墓場まで持って行くつもりなんでしょうね)
――かつて高い地位にいた父が、今、こうして安いアパートに引きこもっているのは、別れた母のせいだった。
詩織の母だった女は、高い評価の男と結婚するために、闇業者に依頼して、不正に評価指数を底上げしていた。
そして、そのあげくに、詩織の母だった女は不倫した。
本来であれば、そんな母を持つ詩織の評価は、もっと低くなるはずだった。
しかし、父は、母の評価偽装を見抜けなかった国を訴え、自身の高い地位と引き換えに"娘の評価から、両親に由来するペナルティ除外"を勝ち取り、残る資産のすべてを詩織の教育に注ぎ込んで、自らはこの底辺の生活へ堕ちていったのだ。
けれど、父はそのことを詩織には隠している。詩織がまだ物心つく前のことだ。
詩織がそのことを知ったのは、自身の評価の高さに疑問を感じて、情報開示請求を行い、知ったに過ぎない。
「……わかった。伝えるべきことは伝えたから、もう帰るね」
胸の奥をギリギリと締め付けるような痛みを堪え、詩織は背を向けた。
そのときだった。
「だが」
父の低く嗄れた声が、詩織の背中を呼び止めた。
「迷っているんだな?」
驚いて振り返ると、薄暗い玄関の土間の向こうで、父の瞳だけが、かつての若々しさを取り戻したかのように鋭く、静かに輝いていると錯覚した。
「言わなくていい。だが、お前が何かを迷っているのはわかる。そうでなければ、わざわざこんなところまで足を運んだりはしないだろう。私に、最後に背中を一押ししてほしくて来たんだろう?」
図星を突かれ、詩織は言葉に詰まった。
しかし、父の目からスッと光が消え、再び自嘲的な笑みが浮かぶ。
「だが、私にはそんな資格はない。お前を立派な環境で育ててやれなかった男が、今更、父親ぶって何か偉そうなことを言うつもりもない」
そう言って、父は口を固く閉ざしてしまった。
自分を卑下し、社会からの評価を受け入れ、ただ黙って身を引こうとする父。
その姿に、詩織はなぜか無性に腹が立った。
「……お父さんは」
詩織は、父を冷たい目で見つめ返し、どうしても聞かずにはいられない、ただ一つの問いを投げかけた。
「お母さんと別れ、重いペナルティを背負いながら、私を育てたこと、こんな暮らしをしていること……後悔している?」
ピンと張り詰めた沈黙が流れた。
やがて、父は静かに、しかし一切の迷いのない声で答えた。
「いいや。何も悔やむことなどないさ」
父は、詩織の目を真っ直ぐに見据えた。
「これはただの、結果だ。俺が選んだ道がそうであったというだけだ。それを受け入れるだけのこと」
後悔はない。
底辺を這うような暮らしであっても、娘を育て上げたその人生に、彼なりの誇りがそこにはあった。
詩織はそれ以上何も言わず、再び背を向けてドアのノブに手をかけた。
サビの浮いたドアを押し開け、外の空気に触れたその背中に、父がぽつりと声をかけた。
「おまえにふさわしい男はいくらでもいる。……焦る必要はないさ」
今度は、詩織は振り返らなかった。
「ありがとう。さようなら」
短い別れを告げ、詩織はドアを閉めた。
ガチャン、と重い金属音が響く。
錆びた鉄階段を降りながら、詩織の心の中で、二つの巨大な価値観が激しくぶつかり合い、火花を散らしていた。
美沙の語った、失敗を絶対に許さない冷酷な『正論』。
そして、父が語った、何の後悔もないという静かな『覚悟』。
スマートフォンの中には、評価指数"A"の男からの本交際申請が、時限爆弾のタイマーのようにカウントダウンを続けている。
社会の正解を選ぶか、嘘をつけない自分の心を選ぶか。
押し寄せる現実の波の中で、詩織は立ち尽くしていた。
───────── [ ♥ ] ─────────
週末の夕暮れ時。
詩織は、都内の閑静なエリアにある、落ち着いた佇まいの一軒家レストランの前に立っていた。
星付きの豪奢なフレンチレストランのように威圧感があるわけではない。
けれど、質の良い食材を丁寧に調理して出す、温かみのある隠れ家的なイタリアン。自立した大人たちが、大切な人と静かな時間を過ごすための場所だ。
今日、彼女はこの場所に、蓮見瑛介を呼び出していた。
(……どんな格好で来るんだろう)
店先のアンティークランプの淡い光の下で、詩織は小さく息を吐きながら待っていた。
いつもと同じ、シワだらけのシャツと着古したスラックスだろうか。
それとも、かしこまった場だからと、サイズの合っていない借り物のスーツでも着込んでくるのだろうか。
どちらであっても構わなかった。
あの無骨で大柄な彼が、このおしゃれな店の前で所在なげに身を縮めている姿を想像するだけで、愛おしさがこみ上げてくる。
秋の気配を含んだ夜風が、詩織の髪を揺らした。
ヒールの高さを、今日はあえて歩きやすいものにしている。男に媚びるための七センチではなく、自分自身の足でしっかりと立つための靴だ。
「一ノ瀬さん」
不意に、少し低くて穏やかな声が鼓膜を打った。
振り返った詩織は、息を呑んでそのまま瞬きを忘れた。
「お待たせしてすみません。少し、迷ってしまって」
そこに立っていたのは、詩織の想像を鮮やかに裏切る姿の瑛介だった。
彼が身にまとっていたのは、シワだらけのシャツでも、野暮ったいスーツでもない。
質の良さが一目でわかる、深いネイビーのセットアップ。インナーには清潔感のあるチャコールグレーのハイゲージニットを合わせている。
彼の大きくて厚い胸板と、がっしりとした肩幅が、そのシックでカジュアルな装いによって、驚くほど美しく引き立てられていた。
いつもは無造作に伸ばされていた髪も、今日はきちんと額を出すように丁寧にセットされており、整った眉と、静かで理知的な瞳の存在感が際立っている。
背筋を伸ばして立つその姿は、いつもよりもずっと若々しく見え、大人の男としての静かな色気すら漂わせていた。
(嘘……)
もし、最初からこの格好で婚活の場に現れていたなら、彼が評価指数"C+"だなんて思わなかっただろう。
むしろ、洗練された大人の余裕を持つ高スペック男性として評価され、女性たちから引く手あまただったはずだ。
あまりの変貌ぶりに言葉を失っている詩織を見て、瑛介は居心地が悪そうに、大きな体を少しだけ縮こまらせた。
いつものようにポリポリと頬を掻きながら、耳の先をほんのりと赤く染める。
「……似合わないのはわかっているんですが」
瑛介は、どこか照れくさそうに、けれど真っ直ぐに詩織の目を見て言った。
「今日は、大切な話をする。……そんな予感がしましてね。姉の夫のお下がりなんですが、甥たちにコーディネートを頼みました」
彼のその言葉に、詩織の胸がドクンと大きく跳ねた。
彼もまた、今日という日の持つ意味を、感じ取ってくれていたのだ。
詩織は、こみ上げてくる熱いものを必死に胸の奥に押し込めながら、ふわりと微笑んだ。
「いいえ。……とても、よく似合っています。素敵です」
二人は並んで店の中へと入り、予約してあった奥の個室へと案内された。
柔らかな間接照明が、木目を基調としたテーブルを温かく照らしている。
外の喧騒は完全に遮断され、ただ静かなジャズの調べだけが微かに流れていた。
メニューを開き、食事とワインを頼む。
かつては"相手の粗を探す"ための監視の場だった食事の時間が、今はただ、目の前の彼と同じ時間を共有できる喜びに満ちている。
前菜が運ばれ、軽くグラスを合わせた後。
詩織は、フォークを静かにテーブルに置いた。
膝の上で両手をきゅっと握り締め、深く息を吸い込む。
「瑛介さん」
詩織の凛とした声色に、瑛介もすぐにフォークを置き、居住まいを正して詩織を見つめ返した。
大きな草食動物のような、優しくて静かな瞳。
「あなたのことを、女性たちがどう思っているのか。そして――私がどう思っているのか。今日はそれを、全部言いますね」
瑛介は少し驚いたようにわずかに目を瞬かせたが、ただ「はい」と頷いた。
詩織は、彼の目から絶対に視線を逸らさないと決めて、静かに語り始めた。
「あなたと出会った女性たちが、交際解除理由書を通じてあなたに突きつけた『減点要素』。私、全部覚えています」
ゆっくりと、一つ一つの言葉を確かめるように。
『ファッションや外見に不頓着でダサい。一緒に歩くのが少し恥ずかしい。デートへの気合いが足りない』
瑛介の肩が、少しだけピクリと動いた。
「――これは、正直に言って、私も思いました」
詩織は、優しく微笑みかけ、続けた。
「事情はどうあっても、婚活で女性と会うのに、しわだらけの服で来るなんてことは、相手の女性を馬鹿にしています」
「仰るとおりです」
「でも、あなたの事を知って、私は好意的な解釈をしました。あなたは、自分を着飾るという見栄がないのだろう、そう思いました」
瑛介の目が、微かに見開かれた。彼が何かを言おうとするのを、詩織は穏やかに制して続けた。
『自分の趣味がない。話題の引き出しが少なくてつまらない。世界が狭くて魅力に欠ける』
かつての自分も、初めて瑛介に会ったとき、そう思っていた。だが、今は違う。
「でも、あなたは違う。家族の幸せを、自分の幸せにする人です。甥たちのために家事をして、彼らと自分の生活を支えることが、あなたにとっての世界だっただけ。その世界は、狭いかもしれない、でも、尊い。つまらないなんて思いません」
瑛介は、息を吐くのも忘れたかのように、ただ詩織の言葉に聞き入っていた。
彼の大きな手が、テーブルの上で微かに震えているのを見て、詩織の胸も熱くなる。
『会話でパッと気の利いた返しができない。トークが盛り上がらない。リードしてくれないから気まずい時間が流れる』
詩織は、あのカフェで彼が自分のヒステリックな愚痴を、ずっと優しく聞いてくれた夜を思い出していた。
「あなたは、感情に任せて相手を頭ごなしに否定したりしない。口先だけで相手を言いくるめようともしない。言葉をじっくり選ぶための、あの静かな沈黙は、あなたなりの誠実さの表れです。私の見苦しい愚痴を途中で一度も遮らずに、最後まで受け止めてくれた」
詩織の目から、ひとしずくの涙が零れ落ちそうになった。だが、今は泣いている場合ではない。伝えなければならない。彼の本当の価値を。
『デートの店選びがファミレスや大衆チェーン店ばかり。女心がわかっていない。ケチ。特別な日なのにロマンチックな演出ができない』
詩織は、彼の甥たちが"おじさんはいい人です"と笑って庇ってくれた日に、瑛介が見せてくれた"家族に向けた表情"が忘れられない。
「あなたは、身の丈に合わない浪費をしない、背伸びして自分を大きく見せようとしない人です。強い意識で自然体を保っているようにも感じます」
瑛介はすこし照れたように、息を漏らして、首筋を一撫でした。
『友達が少ない。人脈が狭い。社交性がなくて、ちょっと寂しい人に見える』
詩織は、グラスから一口だけワインを飲み、口の中を潤して、続けた。
「あなたは、飲み会やゴルフだと言って家を空けることがない人です。あの出張の帰り、お土産が詰まった紙袋を大切そうに握りしめていたあなたの姿が印象的でした」
瑛介の瞳が、薄く潤んでいるのがわかった。彼は、詩織が紡ぐ言葉を、まるで奇跡でも見るかのような目で見つめている。
『刺激がなく、毎日が退屈な男。サプライズがない。冒険心がない』
詩織は、彼が日々繰り返してきたであろう地道で堅実な生活に思いを馳せた。
退屈という言葉で片付けるのはあまりにも浅はかだ。そこには、何事もなく穏やかな明日を迎えるための、強靭な忍耐と深い愛情がある。
「あなたは生活が一定で、情緒が信じられないほど安定している。結婚は"して、おしまい"ではなく、その後に"何十年も続く日常"がある。その点において、これほど安心できる存在は他にいません。"いてほしい"という時に、そばに"いて"くれる。あの真っ直ぐに育った二人を見れば、痛いほどわかります」
そして、詩織は最後に、最も大きな誤解を解き放つ。
『女性へのスマートなエスコートができない。感情表現が薄くいつも淡々としている。何を考えているのか分からない』
そこまで言い切ると、詩織の胸の奥がひどく締め付けられた。
彼に感情がないわけではない。彼がどれほど深く傷つき、他者の激しい感情の波から身を守ろうと心を閉ざしてきたのか、今なら痛いほどわかるからだ。
「あなたは言いました、互いに『好きだ』とか『嫌いだ』とか、感情をぶつけ合うのは、それが心地よくもあれば、刃のように痛みに代わることもある、と。それは理性的な行動を心がけているようにも思いましたが、本当のところは、感情をぶつけ合うことにおびえているのだろうとも思いました。……私の父のように。自分が陰に身を潜め、じっとしていれば、誰も怒らない、誰にも迷惑をかけない、そんな風に考えているのではないかと」
「ええ、仰る通りだと思います。私は、自己犠牲を装いながら、消極的自衛のため、感情を表には出さない、そう思います」
じっと聞いていた瑛介が、初めてはっきりと、詩織の言葉に反応した。
「瑛介さん」
「はい」
「私は、瑛介さんの気持ちは、きちんと言葉にして、感情も何もかも、私にぶつけて欲しいと思います。私も、瑛介さんにぶつけたいですから」
言い終えたとき、詩織の頬には、とめどない涙が静かに伝い落ちていた。
悲しい涙ではない。溜め込んでいた想いをすべて言葉にできた、温かい涙だった。
個室の中は、深い沈黙に包まれていた。
瑛介はじっと詩織の顔を見つめたまま、微動だにしない。彼の瞳からも、いつの間にか大粒の涙が溢れ、形の良い頬を伝って流れ落ちていた。
「ひどく不器用で、取り繕うことすらできない見苦しい姿をお見せしてしまうかもしれませんが……あなたになら、私の奥底にある本当の言葉を、少しずつでも、すべて明かしていきたいと……そう、心から思っています」
彼がこれまでの婚活で、どれほど理不尽な言葉をぶつけられ、自尊心を削られてきたか。
冷酷な評価によって"ダメな男"の烙印を押されながらも、必死に耐えてきたその孤独な闘いを思うと、詩織の胸は張り裂けそうだった。
詩織は、テーブルの上のナプキンでそっと自分の涙を拭い、小さく息を吸い込んだ。
そして、一度言葉を止め、ずっと気になっていた、核心を突く問いを投げかけた。
「瑛介さん」
「はい」
瑛介は少し掠れた声で返事をした。
「他の男性は、評価指数の数値を少しでも高めるために、登録前にプロに頼んで改善をしたり、自分を偽装したりするのが普通です。衣装一つにしても、気を遣えばいくらでも遣えたはずです。今日のその素敵な格好のように」
詩織は、今日初めて見る彼の完璧な姿を真っ直ぐに見据えた。
「まるで、わざと自分の評価を下げていたみたいに思えるんです。システムに対して、そして出会う女性たちに対して、分厚い壁を作っていたように。……どうしてですか?」
瑛介は、長く、深い息を吐き出した。
それから、どこか遠い過去を呼び起こすような、静かな声で話し始めた。
「高尚な理由など、なにもありませんよ」
彼は自嘲するように、少しだけ口角を上げた。
「私には、ひと回り年の離れた姉がいました。あの甥たちの母親です。……これがまた、文字通り『竜巻』のような女でしてね」
「竜巻、ですか?」
「ええ。周囲の人間をすべて巻き込んで、エネルギーを吸い上げて、そして最後には粉々に吹き飛ばしてしまう。そんな姉でした」
瑛介の声は淡々としていたが、その裏に潜む深い疲労と悲哀が、詩織には痛いほど伝わってきた。
「私の両親は、交通事故で亡くなりました。私が高校生の頃です。身の振り方を悩んでいると、すでに結婚して家庭をもっていた姉が、自分の住まいの隣が空いているから、ここに住めと言い、転がり込みました。姉は、私を家政夫やベビーシッターの代わりに、便利使いするために、そうしたのです」
「一人になってしまう、あなたのため、ではないのですか?」
「そんな優しい感情など、あの姉にあるはずがありません。甥たちもきっとそう言います。姉も、姉の夫も、エリート銀行員で、評価指数は"Bプラス"と比較的に高かったんです。互いに高学歴で、高収入で、外から見れば完璧な理想の夫婦でした」
瑛介はそこで言葉を区切り、苦々しい表情を浮かべた。
「しかし、家庭は、ひどいものでしたよ。家庭内では常にマウントの取り合いで、毎日のように怒鳴り合いの喧嘩が絶えなかった。姉は、夫も、子供たちも、私も、すべてを"自分の所有物"として扱い、思い通りにならないと破壊してしまう。高いスペックも、莫大な資産も、家庭を維持するためには、何の役にも立たなかった」
評価指数というシステムが測ることができない、人間の業。
詩織は、親友である美沙が「夫をぶん殴りたいのを我慢して、ブランドバッグを買いあさる」と語っていた、あの虚無感を思い出した。
「そんな姉と姉の夫が、交通事故で突然亡くなりました。……うちの家は交通事故で亡くなる呪いでもかけられているのかと思いました。私は、恐ろしくて、自分で車を運転することなど出来ません。そして、後に残されたのは、姉の竜巻に巻き込まれて、心も生活もボロボロにされた男三人だけです。まだ小学生だった甥たちと、学生だった私」
瑛介の大きな手が、テーブルの上でぎゅっと固く握りしめられた。
「その経験から、私が学んだのは一つだけです。『竜巻みたいな女性』は避けなければならない災害だ、ということです」
「竜巻みたいな、女性……」
ようやく、詩織が聞きたかった本題へと話が巡ってきたようだ。詩織が静かにオウム返しにすると、瑛介は深く頷いた。
「まあ、それがなんだと言われたら、言葉にするのは難しいですが……。少なくとも、男性のステータスを値踏みして、男性が持っている『物』や『能力』が欲しくて、自分の所有物にするために結婚しようとする人ではない、ってことですかね」
相手を"メリット"として査定し、条件で切り捨てる。それこそが、婚活市場に渦巻く無数の竜巻の正体だ。
「だから……。わざと、あんな値踏みされないような格好を?」
瑛介は照れたように目を伏せ、首を横に振った。
「最初に言いましたが、決して高尚な理由など、なにもありませんよ。ただ、人間を数値で測って、効率よく利益を貪ろうとするこの冷たいシステムに……。そして、そんなシステムに乗っかって、品定めをしてくる人たちに、"何か"反抗したかっただけ。そんな、子供じみた行動ですよ。いい年のおっさんがするのは、決して褒められた物じゃない」
瑛介は恥じ入るように自嘲気味に笑った。
自分がどれほど滑稽で、無様なマネをしていたか、彼自身が一番よくわかっているというように。
だが、詩織はそれを聞いて、両手でテーブルをバンッと強く叩いた。
グラスの水が揺れ、瑛介がビクッと肩を震わせる。
「子供じみた行動だなんて、ちっとも思いません!」
詩織の声は、自分でも驚くほど大きく、そして力強く個室の中に響き渡った。
「むしろ、ダサい男のふりをしてくれたおかげで、私はあなたという人の本質に、本当の姿に出会うことができたんです」
詩織は、テーブル越しに身を乗り出し、瑛介の目を真っ直ぐに射抜いた。もう、一ミリの迷いもなかった。
「瑛介さん。私は婚活を通じて、ようやく自分が何を探しているのか、理解したんです。それは、評価指数の高さなんかじゃなかった。相手の粗を探して、自分の価値を高く見せて……心の中では血を流しているのに、笑顔を貼り付ける。そんな評価と査定に縛られた世界は、もうたくさんなんです」
詩織の呟きは、切実な思いを孕んで響いた。
「……」
瑛介もまた、深く同意するように伏し目がちにテーブルを見つめていた。彼の広い肩が、目に見えない巨大な重圧に押し潰されそうに沈んでいる。
「今からマナー違反をします。これは、私の決意を表明するために、あえて話します」
「は、はい」
「あなたの他に、評価指数"A"の男から、本交際の申し出を受けました」
「えっ……」
「ですが、断りました。AIとの面談では、AIがありもしない息を呑むくらい、断る理由を並べ立ててやりましたよ。それがあっさり受理されたときは呆れました。あなたとの仮交際解除は、あんなにも頑なに受け付けなかったのに」
「……。評価指数"A"の男性など、数パーセントしかいません。それをどうして……?」
「怖かったからです。そのお相手も、そしてAIも。結婚してる友達は「AIは間違えない」と言ってました。そう言った彼女が、私の将来の姿なのだとしたら、今を幸せに感じているようには、私には思えなかったんです」
長い沈黙の後、瑛介がぽつりと漏らした。
「……私も怖かったのかもしれません。。何かのアニメ映画で見たことがあるんです、清らかであった神が、人の捨てたゴミによって穢れ、たたり神になった。――AIという神も、パブリック・ピロリーという人々が吐き捨てたドロドロの感情で、変になっちゃったんじゃないかって思うんです」
詩織は小さく息を呑んだ。
たたり神。その不気味な例えは、背筋が粟立つほど的確だった。
純粋に男女の最適なマッチングを目的として作られたはずのAIは、いつしか交際解除理由書という名目で吐き出される、人々のエゴや見栄、嫉妬、他者を見下す悪意といった負の感情を際限なく吸い込み続けてきたのだ。
その結果、人々を幸せに導くはずのシステムは、評価という名の呪いで人間を縛り付け、恐怖で支配する巨大な怪物へと成り果ててしまったのかもしれない。
「……ええ。本当に、そうかもしれない。私たちはみんな、その見えない呪いに怯えながら、顔のない怪物に生贄を捧げるみたいに自分を偽っている」
詩織が震える声で同調すると、瑛介は力なく目を伏せ、さらに暗い深淵を覗き込むように言葉を継いだ。
「私は見てきました。姉が作り出した家庭という名の地獄を、間近で見続けることを強要されました。そして、国が男女に強要する結婚と、国が独身者に強迫するペナルティ。どちらを選んでも、結局人は評価を恐れ、息を潜めて生きていくしかない。……こんな狂った社会の中で、誰かと新しく手を取り合うなんて、ただ不幸な共犯者を増やすだけなんじゃないかと」
彼の言葉には、深い諦念が滲んでいた。
どう足掻いても、このディストピアからは逃れられない。監視と査定の目から逃れ、本当の安らぎを得ることなど不可能なのだ。
重い沈黙が降りた。
洗練されたイタリアンの個室が、まるで外界から隔絶された冷たい独房のように感じられた。
詩織の心の中に、黒い泥のような絶望が広がっていく。
(私たちがどんなに惹かれ合っても、一歩外に出れば、あの冷酷なシステムが、社会が、私たちを許さない。数値で切り刻み、底辺へと追いやる……)
ふと。詩織の視線が、瑛介の腰のベルトにつけられていた"それ"にとまった。
いつもとは違う場所に連れてこられて、所在なげに揺れているようにも見えた。
不格好なフェルトの、端がほつれた『ヒーローチャーム』。
この格式高いレストランには、あまりにも不釣り合いで、滑稽なほどに場違いな代物。
「……瑛介さん。その、チャーム」
詩織の声に、瑛介はハッとして視線を落として、チャームを見た。
そして、少し恥じ入るように目を細め、大きな手でその小さなフェルトの塊をそっと包み込んだ。
「ああ……。すみません、こんな場所まで持ち込んでしまって。外すべきだったんですが、もう、お守りみたいなもので……」
「それ、手作りですよね?」
「ええ。姉が亡くなり、私が甥たちと暮らすようになって、慣れない家事と仕事の両立で、本当に余裕がなくて。洗面所で、情けなくも一人で泣き崩れていたことがあったんです」
瑛介の指が、チャームの刺繍された不格好な目を、優しく撫でた。
「その様子をこっそりタイカとオウキが見ていたらしくて。これを、私にくれたんです。……『瑛ちゃんが苦しいときは、ヒーローがいつも見ていてくれるよ。だから泣かないで』と」
いつも見ていてくれる。
その言葉が、詩織の胸の奥で、カチリと音を立てて響いた。
「この社会は、誰もが誰かを常に監視しています。相手のミスを見つけ出し、評価を下げ、自分を守るために」
瑛介はチャームを見つめたまま、静かに語り続けた。
「でも……。ヒーローの目は、違うんです。決して私を裁こうとはしない。減点しようともしない。私が不器用で、シワだらけのシャツを着ていても、要領が悪くて失敗ばかりしていても……。ただ、見守ってくれている。私が私であることを、許してくれているんです」
(監視する目と、見守る目……)
詩織は、ハッとした。
狂ったシステムが支配するこの冷酷なディストピア社会のど真ん中で。
目の前のこの男は、すでに"正解"を出していたのだ。
社会の監視網を掻い潜り、自らを評価指数"C+"の地雷男に偽装してまで、彼は十年もの間、二人の少年を立派に育て上げた。
社会がいかに冷たくとも、どれほど狂っていようとも、瑛介と甥二人の生活は、決して数値では測れない"本物の愛と温もり"で満たされていた。
絶望で冷え切っていた詩織の心に、小さな、けれど決して消えない確かな炎が灯った。
(なんだ。……私、何を怖がっていたの?)
父親が言った『何も悔やむことなどないさ』という言葉が蘇る。
どんなに社会から底辺だと見下されようと、彼らには自分たちの人生に対する確かな誇りがあった。
「……瑛介さん」
詩織は、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳からは、先ほどまでの絶望と怯えは完全に消え去っていた。代わりに宿っていたのは、一人の女性としての、凛とした強い覚悟だった。
「システムは、確かに狂っているかもしれません。私たちを監視して、少しでも道を外れれば、容赦なくペナルティを与えてくるでしょう」
「一ノ瀬さん……?」
「でも、瑛介さんのヒーローは、そんなシステムよりずっと強かったじゃないですか」
詩織は、テーブル越しに身を乗り出し、瑛介の大きな両手を、自分の両手でしっかりと包み込んだ。
ビクッと瑛介の肩が揺れたが、詩織は決して離さなかった。
「あなたは十年かけて証明してくれました。どんなに冷たい社会の中でも、見守り、不器用でも手を引いて歩き続ける『本物の家族』は作れるんだって」
「……っ」
「私はもう、他人に自分の価値を決めてもらう人生なんて、お断りです。傷つくことを恐れて息を潜めるのも、今日で終わりにします」
瑛介の目が、信じられないものを見るように大きく見開かれた。
彼の手のひらから、じんじんと熱い鼓動が伝わってくる。
「瑛介さん」
詩織は、真っ直ぐに、彼という人間の本質だけを見つめて、言った。
「あなたと一緒なら、私は、この狂った世界を生き抜いていける。あなたの温かい世界に、私も入りたい。……いいえ、一緒に作りたい」
「一ノ瀬、さん……」
瑛介の大きな身体が震え、声が微かに上ずった。
詩織は、これまでで一番美しく、そして嘘偽りのない、心からの笑顔を浮かべた。
「私と、本交際に進んでください」
それは、システムへの形式的な承認でもなければ、冷酷な取引の開始でもない。
一ノ瀬詩織という一人の人間が、自らの意志で選んだ、人生を共にするための切実な宣言だった。
個室の柔らかな光の中、瑛介は言葉を失ったように目を丸くした。
「……え? C+の、私と?」
泣き笑いのような、信じられないという表情で微かに上ずる彼の声。そんな瑛介を、詩織は真っ直ぐに見据えた。
「そうです。でも、勘違いしないでくださいね。ただスマートフォンで『承認』のボタンを押し合うだけじゃありません。瑛介さん、私と本交際に進むことの“意味”、本当に理解できていますか?」
詩織は、テーブルの上に置いていた手を、あえて一度引き戻した。
そして、腕を組んで、少しだけ悪戯っぽく、けれど毅然とした監察女子の視線を取り戻して彼を見つめた。
「本交際に進むということは、他の可能性をすべて捨てて、私と一対一で向き合うということです。つまり――あなたのその『子供じみた反発』は、今日で終わりです」
「……、はい」
詩織は身を乗り出した。
「システムが狂っているからって、品定めしてくる女たちが嫌だからって、わざわざ自分をダサく見せて、サイゼリヤや大衆居酒屋にしか連れて行かないようなデートは、もう絶対に許しません。私は、好きな人からは、ちゃんとお洒落でロマンチックなデートプランを計画してもらいたいし、スマートにエスコートだってされたい……。婚活の現実を知って諦めたことを、あなたとだったら、できるかもしれない。そう思っちゃったんです」
そこまで一気にまくしたてると、詩織は少し耳を赤くしながらも、さらに言葉を続けた。
「格好だってそうです。今日のそのお洋服、すごく素敵だけど、お下がりなんでしょう? 次のデートからは、借り物でもなければ、クシャクシャのシワだらけでもない、瑛介さん自身が選んだ、きちんとした清潔な服装を揃えてください。相談してくれれば、私が一緒に選びに行きますから」
瑛介は、詩織の容赦のない提案に、向けられている感情が紛れもない本音であることを、痛いほど理解した。
「そして、何より一番大切なことです」
詩織のトーンが、少しだけ真剣なものに変わる。
「いつまでも甥たちとの共同生活に甘えて、亡くなったお姉さん夫婦の隣に住み続けるのはやめてください。彼らためではなく、あなたのため。あなたが自立すべきです。結婚に向けて、あのマンションから引っ越して、私と二人だけの、新しい生活の基盤を、一から作ると約束してください」
詩織は、胸の奥にある本当の願望を、すべて彼にぶつけた。
スペック男たちに値札をつけられ、人身売買のような取引を強要されて傷ついてきた。
けれど、だからといってロマンチックな恋愛や、素敵な結婚そのものを諦めたわけではない。
「私は、あなたと『素敵な婚活』をやり直したいの。AIに仕組まれたものじゃない、私たちが主役の、本当のパートナーシップを築きたい。……これが、私が本交際を望む、本当の意味です。理解できましたか?」
個室の中に、静かな、けれど熱い沈黙が降りた。
瑛介はじっと詩織の顔を見つめていた。
彼は、自分が"消極的自衛"という名の殻に閉じこもり、傷つくのを恐れていたことが、婚活で素敵な出会いを望んでいた女性たちを傷つけ、その時間を奪っていたのだと、悟ってくれただろうか。
――何より、目の前の女性をどれほど不安にさせ、寂しい思いをさせていたかを、ちゃんと解ってくれただろうか。
瑛介は、背筋をピンと伸ばし、大人の男としての、覚悟に満ちた静かな瞳で詩織を見返した。
「……わかりました。一ノ瀬さん、あなたの言う通りです」
瑛介の声は、もう震えていなかった。
「私はシステムへの反発を言い訳に、あなたをエスコートすることからも、一人の女性として大切に扱うことからも、逃げていただけでした。不器用だからと、最初から諦めていたんです。……本当に、すみませんでした」
彼は深く頭を下げ、それから再び顔を上げて、優しく、しかし力強く微笑んだ。
「次のデートは、私が全力で、あなたを喜ばせるロマンチックなプランを考えます。服も、あなたと歩くのに恥ずかしくないものを自分で買い揃えます。……そして、引っ越しましょう。彼らにもちゃんと話をして、あなたとの新しい人生のスタートラインに立ちます」
「……本当?」
「はい。約束します」
瑛介はテーブル越しに、自分の大きくて無骨な手を、そっと差し出した。
「私と、本当の、私たちの交際を始めてください。詩織さん」
詩織の顔に、これまでで一番美しく、そして嘘偽りのない、心からの笑顔が咲いた。
「ええ、是非。瑛介さん」
詩織はその大きな手を、自分の両手でしっかりと、力強く握り返した。
彼の手のひらから、じわりと温かい熱が、そしてこれからの未来を共に紡いでいくという確かな鼓動が伝わってくる。
小さなヒーローチャームが、役目を終えたかのように、二人の新しい門出を優しく見守っていた。
───────── [ ♥ ] ─────────
二人は答え合わせをしました。
「はっきり言うわね?」
「あ、はい。何でしょう?」
「居酒屋で、甥たちの話を始めて聞かされたとき、ドン引きだった!」
「す、すみません。その、騙すつもりは……」
「大丈夫。今は、わかってるつもり。でもね、婚活してて何が嫌って、隠し事があることよ!」
「……はい」
「よくあるのはさ、実は親と同居してほしいとか、実は重い病気を抱えてるとか、実は借金がとか……」
「親と同居はともかく、病気や借金については、民間企業がやっていた頃と違い、国営ですから、評価指数に反映されるでしょう」
「そうだけど……。でも、あなたの事情みたいに特殊のは、ちゃんと備考とかで書いておいてほしかった!」
「もし、そのことをプロフィールに書いてあったら――」
「あなたとのマッチングはなかったわね。即断ってる!」
「そこまで……」
「瑛介さん、なんか甥たちとの同居ってこと、軽く見てるよね。説明すればわかって貰える程度に思ってるでしょ?」
「ええ」
「そうじゃないわ。服がシワシワとかサイゼリヤデートとか、そんなマイナス要素が全部どうでもよくなるくらいの、超特大の地雷案件よ?」
「そうなのですね。……今まで、お会いした仮交際した女性には、誰にも言ったことが無いんです。その前にお断りされるので」
「でしょうね。もし誰かに一言でも言ってたら、間違いなく交際解除理由書に書かれてたわ」
「本当に申し訳ありません。もう隠し事はありませんから……」
「あなたに本交際へと進みたいって気持ちにウソはなかったけど、最後まで引っかかってたのは、甥たちのことだったわ」
「今の話を聞いていて思いましたけど……」
「なに?」
「そもそも、です。どうして私のような"C+"の男とのマッチングに応じてくれたんですか?」
「ああ。それは……」
「あなたは評価指数が"A-"ですから、釣り合わないのはわかっていたはずです。私はAIからの推薦を見て、申し込んだのですが、当然、断られると思っていましたよ」
「まあ、ね。そりゃ、その……」
「もし、 カルテを見た時点で断っていれば、その後にAIから仮交際解除申請を却下されて、苦労することはなかったと思うのですが」
「もしかして、男性側は、こういうことしないのかしら……」
「どういうことです?」
「美沙から教えてもらったテクニックの1つなの。自分と同じかそれ以上の高評価の相手ばかりに申し込みをしていると『高望みをしていてマッチング率を下げる要因になっている』とみなされて、高評価の男性が表示されなくなっていくって言われてるの」
「ほう!初めて聞きました」
「だから、システムがお勧めしてくる低評価の相手ともマッチングを成立させて、一度だけ会ってすぐに『価値観の不一致』で切るの。そうやってAIのご機嫌を取ることも必要って、私は教わったわ」
「なるほど……。もしかして、今までお会いしたことのある女性が応じてくれたのは――」
「瑛介さんが思ってる通りだと思う。あなたの交際解除理由書みれば「ああ、点数稼ぎにちょうど良い」って思っちゃうもの」
「……ちょっと泣いてきていいですか?」
「ぶっちゃけて言えば、初回のデートをサイゼリヤに指定されたときも『好都合ね。ドリア食べて、さっさと帰ろう』くらいにしか思ってなかったわ」
「……」
「でも、さ。あのときは、焦ったわ。なんで、AIが仮交際解除申請を拒否したのか、未だに理解できないもの」
「私も不思議に思っていました。何度も会ってくださるので、申請すれば通るはずの解除申請をされていないのは、もしかして……、と」
「モテない男の勘違いね。まあ、あなたの事をよく知るきっかけになったから、いいんだけど」
「……」
「でも、どうしてなのか、瑛介さんわかる?」
「……あくまで、私の想像で話をしますけど」
「うん」
「大前提として、AIは成婚率を最大化することが使命です。AIから見て、マッチングは成婚する可能性が高い男女に対しては、仮交際解除を保留させて、機会を増やそうとします」
「AIの使命は理解できるけど、あなたの評価指数や交際解除理由書を思えば、成婚する可能性が高いとは思えないわ」
「それには、表向きの評価指数とは別の指標が関わっているのかと」
「どういうこと?」
「公表される情報は非常に限られています、カルテにしても、簡素なテンプレートしか公開されません。収入にしても、国営なんですから、納税額を載せたっていいくらいですが」
「確かに、そうよね。民間なら絶対に持ってないデータを持ってるんだもの」
「マッチングに関して、AIは非公開の指標をいくつも計算しているはずです。評価指数という指標はあまりに単純すぎる。悪い口コミを書かれたから評価が下がってしまうような、飲食店の評価サイトと同じでは困りますから」
「あー、それは確かに、私も思ってた。交際解除理由書に1つでも悪い評価を書き込まれたら、即評価が下がるなんて、理不尽だ!って」
「私の評価指数が"C-"だとしても、内部的に別の指標が高く、詩織さんとの適合性が高かった、という事はあり得ます」
「……、全部公開してくれたら良いのにね」
「さて、過去のことは、このくらいでいいわ。次は未来。結婚を見据えた具体的な話を詰めましょう」
「はい。何でも聞いてください」
「貯金額と手取り年収は、あとで確認するとして。結婚後の家計の管理はどうしたい?」
「ええと……。家計の管理は、詩織さんが得意ならお任せしたいです。私は、正直、要領が悪く、上手くやりくりする自信はありません」
「……見栄を張らないっていうのは、あなたの美徳ね。でも、一方的にどっちかがするっていうのは、私は考えたくないの」
「そうですか、では、別の財布で、ということに?」
「そうね……。生活費の口座を共通で作って、お互いの収入から一定額を入れてやりくりするようにしましょうか?」
「はい、異論ありません」
「次。子供について。甥たちをあそこまで育て上げて、もう子育てはお腹いっぱい、なんて思ってない?」
「……それは」
「私は、年齢的にも早いうちに一人は欲しいと思ってる。でも、瑛介さんが『もう子育ては卒業したい』って言うなら、前提が大きく崩れるから」
「それは、誤解です。彼らの親代わりを務めたつもりはありません。……私と、詩織さんの子供なら、ぜひ欲しいです。ただ、私の不器用さが遺伝しないか、少し心配ですが」
「ふふっ。そこは私はあんまり心配してないかな。それに、もし手がかかる子でも、瑛介さんなら絶対にイライラせずに見守ってくれそうだし」
「次。親族関係の確認ね。瑛介さんのご両親とお姉さん夫婦は亡くなってる、あの甥たちと、甥たちの親族が遠方にいらっしゃるんだっけ?」
「ええ。親族と行っても、姉の夫側の遠縁ですので、私自身は関わりがありません」
「他に関わりを避けられない親戚はいる?」
「いえ。付き合いのある者はいません」
「そう。私の父も、訳あって一人暮らしで……。自分のことは自分でするって頑ななの。将来的な介護のリスクはゼロじゃないけど、基本的には私たち二人だけの世帯として独立できるって考えていいわね?」
「はい。詩織さんのお父様になにかあれば、私が全力でサポートします。……あの、近いうちに挨拶には行かせていただけますか?」
「……お父さんが許せば、ね。ちょっと面倒くさい人だから、覚悟しておいて」
「次。新居での家事分担について。甥たちの世話をしてたから一通りできるのは知ってるけど、私に全部押し付ける気はないわよね?」
「もちろんです。ただ、洗濯の件は……」
「あー、外に干すのが苦手って言ってたっけ。花粉の時期とか関係なく」
「はい。できれば、ボタン1つで終わるのが望ましいです」
「んー、私はお日様に干したい方なのよ。ただ、瑛介さんの服を嗅いだとき、嫌な感じはしなかったから、今の家庭用洗濯乾燥機も馬鹿に出来ないんだなぁと」
「ええ。そうなんですよ。今の洗濯機はもう『叩く・擦る』じゃないんです。水に特殊な共鳴波を伝え、繊維にしがみつく汚れや菌を“自発的に手放させる”んですよ。進化した洗剤がそれを即座に包み込むので、生地を全く傷めず完璧な無菌洗濯乾燥が可能です!」
「――よくわかんないけど。いいわ、試してみましょう。合理的なのは好きだし。でもしわだらけは嫌よ」
「任せてください!アイロンしますから!」
「料理は? カレーが得意って言ってたけど」
「カレー以外も作れます! ……ただ、男三人の暮らしでしたので、見た目は少し茶色いものに偏りがちです」
「ふふっ。美味しければ許すわ。家事は『できる方がやる』じゃなくて、ちゃんと分担を決めましょうね」
「最後に、結婚式と指輪について。最近は、AI婚活だと省略する人も多いけど……どう考えてる?」
「私は、詩織さんの希望にすべて合わせます。派手なことは苦手ですが……詩織さんがドレスを着たいなら、どんな場所でも」
「そうね……。人をたくさん呼んで見世物みたいになるのは疲れちゃうから、写真だけのフォトウェディングかなぁ」
「はい」
「その代わり! 婚約指輪と結婚指輪は、妥協しないからね? 今度、休日に一緒に銀座のお店を回るわよ。ダサい服で来たら、その場で解散だからね!」
「……はいっ! プロにコーディネートを頼んでみるつもりです!」
「ふふ、期待してる」
二人は着々と計画を進めているようです。




