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ぬくもりの嘘

作者: あーちゃん
掲載日:2026/06/02

人は、どこから“不倫”を始めるのだろう。


手を繋いだ時だろうか。

キスをした時だろうか。

それとも、“この人といると安心する”と思った瞬間だろうか。


誰かを裏切るつもりなんてなかった。


ただ、苦しかった。

寂しかった。

見てほしかった。


それだけだったのに。


この物語は、悪人になりきれない大人たちの話です。


正しさだけでは生きられない夜を、

誰にも言えない孤独を、

静かに描けたらと思います。

雨の日だけ、澪は少しだけ呼吸が楽になった。


 洗濯物を干せない理由ができる。買い物へ行く足を止めても、誰にも責められない。窓の外が灰色だと、心の中まで曇っていることを隠せる気がした。


 結婚して七年目の春。夫の直樹は相変わらず忙しかった。


「今日も遅くなる」


 朝、玄関で靴を履きながら直樹はそう言った。澪はキッチンに立ったまま、味噌汁の火を弱めた。


「うん。夕飯は?」


「いらない。取引先と食べると思う」


「分かった」


 会話はそれだけだった。


 昔は違った。付き合っていた頃の直樹は、澪の作った卵焼きを大げさに褒めた。寒い夜には手を繋いでくれた。澪が黙っていると、「どうした?」と顔を覗き込んでくれた。


 けれど今は、同じ家に住む人になった。


 嫌われたわけではない。怒鳴られるわけでもない。生活費も入れてくれる。記念日にはコンビニのケーキを買って帰ってくることもある。


 だから澪は、自分の寂しさに名前をつけられなかった。


 贅沢なのだと思った。


 愛されていないわけじゃない。

 ただ、見られていないだけ。


 その日の午後、雨は強くなった。


 澪は駅前のスーパーへ出た帰り、袋の中の豆腐を濡らさないように胸に抱えて走った。傘は風に煽られ、意味をなくしていた。商店街の端に、小さな喫茶店があった。


 古びた木の扉。

 曇ったガラス。

 看板には「雨音」と書かれていた。


 澪は迷った末、扉を押した。


 店内にはコーヒーの匂いと、古いレコードの音が漂っていた。客は少なく、窓際の席に中年の女性が一人、奥の席に男性が一人いるだけだった。


「いらっしゃいませ」


 カウンターの老店主に促され、澪は窓際の席へ座った。濡れた髪をハンカチで押さえていると、奥の席の男性が顔を上げた。


「……小宮山?」


 澪は目を瞬いた。


 黒い髪、少し痩せた頬、昔より落ち着いた声。


「藤崎くん?」


 高校の同級生、藤崎恒一だった。


 十年以上ぶりの再会だった。


 恒一は出版社に勤めていると言った。澪は専業主婦になったことを話した。会話は驚くほど自然に続いた。


「小宮山、変わらないな」


「そんなことないよ。もう三十二だよ」


「でも、笑い方は昔のままだ」


 その言葉に、澪は一瞬返事を忘れた。


 笑い方を覚えていてくれる人がいる。

 それだけで、胸の奥が熱くなった。


 雨が止むまでの一時間、二人は昔話をした。文化祭のこと、担任の口癖、駅前にあった本屋がなくなったこと。


 別れ際、恒一が言った。


「またここで会える?」


 澪は答えなかった。


 答えない代わりに、少しだけ笑った。


 それが始まりだった。


 次の雨の日、澪はまた「雨音」へ行った。


 偶然のふりをした。けれど恒一も、同じように奥の席に座っていた。


「来る気がした」


「たまたまだよ」


「そういうことにしておく」


 二人は笑った。


 最初は、ただ話すだけだった。


 直樹の愚痴を言うつもりはなかった。けれど恒一は、澪の言葉にならない沈黙まで拾う人だった。


「寂しいんだな」


 ある日、彼はそう言った。


 澪はカップを持つ手を止めた。


「そんなこと……」


「あるだろ」


 否定しようとして、できなかった。


 誰かに言ってほしかったのかもしれない。

 自分の寂しさは、わがままではないと。


 澪はその日、初めて泣いた。


 大きな声では泣かなかった。涙がひとつ落ちただけだった。それでも恒一はハンカチを差し出した。


「俺の前では、ちゃんと弱くなっていいよ」


 その優しさが、いけなかった。


 人は、冷たさよりもぬくもりで壊れるのだと、澪はその時まだ知らなかった。


 家に帰ると、直樹の靴はなかった。


 澪は濡れた傘を玄関に立て、夕飯を作った。焼き魚、味噌汁、ほうれん草のおひたし。二人分作った食卓の片側だけが、ずっと空いたままだった。


 夜十一時を過ぎて、直樹が帰ってきた。


「先に寝てていいのに」


「うん」


「何かあった?」


 澪は顔を上げた。


 久しぶりに聞かれた言葉だった。


 けれど、もう遅かった。


「何もないよ」


 澪は笑った。


 嘘は、こんなに静かに生まれるのだと思った。


 恒一と会う日が増えていった。


 晴れの日にも、澪は雨音へ行った。買い物のついで、図書館の帰り、少し遠回りしただけ。自分にそう言い聞かせた。


 恒一は離婚していた。


「俺もさ、結婚してたんだ」


「知らなかった」


「三年で終わった。仕事ばっかりして、気づいた時には向こうの心が空になってた」


 澪は黙って聞いていた。


「だから小宮山の顔見てると、昔の妻を思い出すことがある」


「私は、藤崎くんの奥さんじゃないよ」


「分かってる」


 恒一は苦笑した。


「でも、今度は見逃したくないと思ってしまう」


 その言葉は、澪の胸に深く刺さった。


 見逃したくない。

 見てくれている。

 その響きだけで、澪は自分の中の危うさに気づいた。


 帰らなければと思った。


 けれど、席を立てなかった。


 ある夕方、雨音を出た時にはもう空が暗かった。澪は傘を忘れ、恒一が自分の傘に入れてくれた。


 二人の肩が触れた。


 ただそれだけだった。


 けれど澪は、息が止まりそうになった。


「小宮山」


 信号待ちで、恒一が呼んだ。


「名前で呼んでいい?」


 澪は答えなかった。


「澪」


 その声を聞いた瞬間、胸の奥に閉じ込めていたものが崩れた。


 澪は顔を伏せた。


「だめだよ」


「分かってる」


「分かってるなら、呼ばないで」


「ごめん」


 信号が青になった。


 けれど二人は動けなかった。


 その日、澪は初めて恒一の手を握った。


 温かかった。


 罪悪感より先に、安心が来た。


 それが一番怖かった。


 夜、直樹はリビングで眠っていた。つけっぱなしのテレビから、笑い声だけが流れていた。


 澪はそっと毛布をかけた。


 直樹の寝顔は疲れていた。少し痩せた気もした。澪が知らない場所で、直樹もまた何かと戦っているのかもしれなかった。


「ごめんね」


 小さく呟いた。


 直樹は目を覚まさなかった。


 その謝罪が誰に向けたものなのか、澪自身にも分からなかった。


 数日後、親友の美咲と会った。


 美咲は昔から勘が鋭い。


「澪、最近きれいになったね」


「そう?」


「うん。でも、ちょっと危ない顔してる」


 澪は笑ってごまかした。


 けれど美咲は真剣な目をしていた。


「誰かいるの?」


「いないよ」


「嘘」


 短い言葉だった。


 澪はカフェの窓の外を見た。


「ただ、話を聞いてくれる人がいるだけ」


「それが一番危ないんだよ」


 美咲の声は優しかった。


「体より先に、心が行ったら戻れないよ」


 澪は返事をしなかった。


「寂しいからって、誰かを傷つけていい理由にはならない」


「分かってる」


「本当に?」


 澪は唇を噛んだ。


 分かっている。

 分かっているから苦しい。


 美咲はため息をついた。


「澪が傷つくのも嫌だけど、澪が誰かを傷つける人になるのも嫌」


 その言葉は痛かった。


 家に帰ってからも、耳の奥に残り続けた。


 その夜、直樹は珍しく早く帰ってきた。


「今日、話せる?」


 澪は驚いた。


「何?」


 直樹はスーツの上着を脱ぎ、テーブルの向かいに座った。


「最近、俺たち変だよな」


 澪の心臓が跳ねた。


「変って?」


「会話がない。澪が何考えてるか分からない」


 澪は思わず笑いそうになった。


 何を今さら、と思った。

 ずっと分かろうとしなかったのは、あなたじゃないか。


 けれど直樹の顔は真剣だった。


「俺、ちゃんとできてなかったと思う」


 澪は黙った。


「仕事が忙しいを言い訳にしてた。家に金を入れてればいいと思ってた。でも、それだけじゃだめだったんだよな」


 胸が苦しくなった。


 なぜ今なのだろう。


 もっと早く言ってほしかった。

 恒一に出会う前に。

 心が誰かの声を待つ前に。


「澪」


 直樹は震える声で言った。


「俺たち、やり直せないかな」


 澪は何も言えなかった。


 その沈黙の中で、スマートフォンが震えた。


 画面には、恒一からのメッセージ。


――会いたい。


 澪はスマートフォンを伏せた。


 直樹はその仕草を見ていた。


「誰?」


「……友達」


「男?」


 澪は答えられなかった。


 直樹の顔から血の気が引いていくのが分かった。


「澪」


 その声には、怒りよりも怯えがあった。


「俺、何か間に合わなかった?」


 澪はその瞬間、初めて自分がしていることの重さを知った。


 裏切りは、相手が気づいた瞬間に形を持つ。

 それまでは自分の中だけで揺れていた罪が、突然、誰かの胸を刺す刃になる。


「ごめんなさい」


 澪は頭を下げた。


 直樹は何も言わなかった。


 雨が降り始めた。


 窓を打つ音だけが、二人の間に落ちた。


 翌日、澪は恒一に会いに行った。


 雨音の奥の席。恒一はいつものようにそこにいた。澪の顔を見るなり、立ち上がった。


「大丈夫か?」


 その一言で、泣きそうになった。


 けれど泣かなかった。


「もう、会えない」


 恒一は動かなかった。


「旦那さんに?」


「うん」


「話した?」


「全部じゃない。でも、気づかれた」


 恒一は目を伏せた。


「俺のせいだな」


「違う」


 澪は首を振った。


「私が選んだの。寂しさを言い訳にして、あなたの優しさに逃げた」


「逃げでもいいと思ってた」


 恒一の声は低かった。


「俺は、澪が笑えるなら、それでいいと思ってた」


「その笑顔で、誰かを泣かせるなら、幸せじゃないよ」


 言いながら、自分の胸が裂けそうだった。


 恒一はしばらく黙っていた。


「好きだった」


 澪は目を閉じた。


「私も」


 初めて口にした本当だった。


 言ってはいけない本当だった。


「でも、好きだけじゃ、だめなんだね」


「うん」


「遅かったな、俺たち」


 恒一は笑った。泣きそうな笑顔だった。


「高校の時に言えばよかった」


「そしたら、違ったかな」


「違ったかもしれないし、同じだったかもしれない」


 二人は小さく笑った。


 最後に恒一は、澪の前に一冊の文庫本を置いた。


「これ、昔お前が好きだって言ってた本」


「覚えてたの?」


「覚えてるよ。澪のことは、たぶん、忘れる方が難しい」


 澪は本を受け取れなかった。


「持っていたら、戻れなくなる」


「そっか」


 恒一は本を引っ込めた。


「じゃあ、これは俺が持ってる。いつか、ちゃんと忘れられたら捨てる」


「捨てないで」


 思わず言ってしまった。


 恒一は少しだけ笑った。


「じゃあ、しまっておく」


 それが別れだった。


 握手も、抱擁も、キスもなかった。


 ただ、二人は喫茶店の扉の前で立ち止まり、雨の匂いを吸い込んだ。


「澪」


「名前で呼ばないで」


「最後だから」


 澪は振り返らなかった。


「幸せになれよ」


 その言葉は、優しすぎる嘘だった。


 幸せになってほしい。

 けれど本当は、忘れないでほしい。


 澪にも分かっていた。


 だから振り返らずに歩いた。


 家に帰ると、直樹はリビングにいた。


 テーブルの上には、二人分の夕飯が並んでいた。形の崩れた卵焼きと、焦げた鮭。味噌汁は少し薄そうだった。


「作ってみた」


 直樹は気まずそうに言った。


「下手だけど」


 澪は泣きそうになった。


 直樹は不器用だった。

 ずっとそうだった。


 愛していないのではなく、愛し方を知らなかっただけなのかもしれない。


 でも、それで澪が傷つかなかったわけではない。

 そして澪が傷ついたからといって、直樹を傷つけていいわけでもなかった。


「直樹」


「うん」


「私、ひどいことした」


「うん」


「ごめんなさい」


 直樹は頷いた。


 許すとは言わなかった。


 責めるとも言わなかった。


「すぐには無理だと思う」


「うん」


「でも、ちゃんと話したい。怒りたいし、聞きたいし、俺も謝りたい」


 澪は涙を落とした。


「離婚したい?」


 直樹は長い沈黙のあと、首を振った。


「今は分からない」


 それは正直な答えだった。


 澪はその正直さに救われた。


「私も分からない」


「じゃあ、分からないところから始めよう」


 二人は冷めた夕飯を食べた。


 焦げた鮭は苦かった。

 卵焼きは甘すぎた。

 味噌汁はやっぱり薄かった。


 けれど、久しぶりに向かい合って食べた。


 その夜、澪は寝室で一人、スマートフォンの連絡先を開いた。


 藤崎恒一。


 名前を見つめるだけで、胸が痛んだ。


 削除ボタンに指を置いた。


 けれど押せなかった。


 好きだった。


 それは嘘ではなかった。


 でも、その本当を抱いたまま生きることが、誰かへの罰になるのなら、いつか手放さなければいけない。


 澪は画面を閉じた。


 削除はできなかった。

 でも、メッセージも送らなかった。


 それが今日の精一杯だった。


 季節はゆっくり変わっていった。


 澪と直樹は、少しずつ話すようになった。傷が消えたわけではない。ふとした沈黙に、直樹の疑いが滲むこともあった。澪も、雨の日になると胸がざわついた。


 それでも二人は、逃げずにテーブルに座った。


 ある日、直樹が言った。


「俺、澪のこと見てなかったな」


 澪は首を振った。


「私も、見てほしいって言わなかった」


「言わせない空気にしてたんだと思う」


 直樹は苦笑した。


「夫婦って、勝手に分かり合えるものだと思ってた」


「私も」


 本当は違う。

 分かり合うには、何度も言葉にしなければいけない。

 寂しい。

 苦しい。

 そばにいて。

 そんな簡単な言葉ほど、大人になるほど言えなくなる。


 半年後、澪はひとりで雨音の前を通った。


 店は閉まっていた。


 扉には小さな貼り紙があった。


「店主体調不良のため、しばらく休業いたします」


 中は暗かった。


 奥の席には誰もいない。


 澪は立ち止まり、窓ガラスに映る自分を見た。


 あの頃より少し疲れていて、でも少しだけ強くなった顔があった。


 バッグの中でスマートフォンが震えた。


 直樹からだった。


――雨、強くなるらしい。迎えに行こうか?


 澪は画面を見つめた。


 たったそれだけの言葉に、胸が温かくなった。


――大丈夫。傘あるよ。でも、ありがとう。


 送信してから、澪は空を見上げた。


 雨は静かに降っていた。


 ぬくもりには、嘘が混じることがある。


 優しさのふりをした逃げ道。

 愛のふりをした寂しさ。

 幸せのふりをした裏切り。


 けれど、嘘の中にしか見つけられなかった本当もあった。


 澪は恒一を忘れていない。

 たぶん、完全には忘れられない。


 でも、もう会わない。


 それは直樹のためだけではなかった。

 恒一のためでもあった。

 そして、自分がこれ以上、自分を嫌いにならないためだった。


 駅へ向かって歩き出した時、背後で喫茶店の扉がきしむ音がした気がした。


 澪は振り返らなかった。


 雨の向こうに、誰かの声がしたような気がした。


 幸せになれよ。


 澪は小さく息を吸った。


「なるよ」


 誰にも聞こえない声で答えた。


 それが本当になるかは、まだ分からない。


 夫婦が元に戻れるのかも、澪の罪がいつか許されるのかも、恒一がどこかで笑っているのかも、何ひとつ分からない。


 けれど澪は、傘をまっすぐ差した。


 雨粒が透明な線になって落ちていく。


 その向こうで、街の灯りが滲んでいた。


 温かくて、苦くて、少しだけ優しい光だった。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。


“不倫”というテーマには、どうしても強い否定や嫌悪感が伴います。

もちろん、人を傷つける行為であることは間違いありません。


けれど、その始まりには「刺激」だけではなく、

誰にも言えない孤独や、壊れそうな心が隠れていることもあります。


この物語では、

「許されない関係」を美化するのではなく、


“なぜ人は間違えてしまうのか”

“本当に欲しかったものは何だったのか”


を描きたいと思いました。


誰かを愛することは、

時に人を救い、

時に傷つけます。


それでも、人はぬくもりを求めずにはいられない。


この物語が、

あなたの心のどこかに静かに残ってくれたなら幸いです。

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