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第二章② ???&ソフィー

「……そんな、もう……遅かったのか」

 暗褐色の髪の男が小舟の舳先で呆然と呟いた。

 波間には、微かな航跡だけが残っている。

 この場所に辿り着いた時にはすでに海面は赤く染まり、戦いの痕跡だけが波間に残されていた。

「遅かった……。——救えなかった」

 同じ男が歯を食いしばるように言葉を継ぐ。

「まさか……本当に、死んだんじゃないよな?」

 キャメル色の髪をした美男子が信じられないというように声を上げた。否定を探すように視線だけが海面を彷徨っている。

「……いや……恐らく、もう……」

 金髪碧眼の若者が言葉を選ぶようにして首を振った。

 それ以上は言えず、唇を噛みしめる。

 波の揺れと、遠くから響く海軍兵たちの声。

 その中で、赤髪の男が真顔で海軍船を見据えた。

「……なあ。あいつら……帰るみたいだ」

 その隣で、小柄な少年も同じ方向を不安げに見つめている。

 長い沈黙。金髪碧眼の若者が何か言いかけた、その瞬間。

「——船が!」

 暗褐色の髪の男が咄嗟に叫んだ。

 轟音。爆炎が上がり、海賊船が燃え始める。

 木が弾ける乾いた音とともに、破片と灰が宙を舞い、やがてそれらは波に落ち、小舟の周囲へと流れてきた。ほどなくして、船は完全に沈没した。

 残骸の中から、見慣れた帽子がひとつ、波に揺られて流れ着く。

 暗褐色の髪の男は、それを無意識のまま拾い上げた。

 ずぶ濡れの帽子。その縁が、真紅に染まっている。

 それは、どんな言葉よりも雄弁に現実を突きつけていた。

「……殺してやる」

 低く、噛み殺すような声。

「……あいつらを……」

 仲間たちが息を呑む。

「復讐してやる……絶対に、許さない」

 怒りと憎しみだけを残した声だった。

 悲しみも、無力感もすべてが内側で燃え尽き、今はただ破壊衝動だけがあった。

 仲間たちは誰一人として声をかけられない。その背中を見つめるしかなかった。

 暗褐色の髪の男。

 その翡翠色の瞳は、すでに憎悪に染まりきっていた。

 涙は流れない。標的となった海軍船をひたすらに睨み据えている。

 ——まるで、これがすべての始まりであるかのように。


 船医室。戦闘後、静けさの中で。

 重傷者はいなかった。打撲や擦り傷程度の者が数人。

 噂には聞いていたが、この部隊には屈強な兵が揃っているというのは本当らしい。

 女性隊員も多いのに、皆よくぞ生き延びたものだと内心で感心する。

 ソフィーが船医室に戻ると、グウェナエルは一人で包帯を巻こうとしていた。右腕の小さな切り傷を覆おうとするが、巻き方は少し雑だ。

「ちょっと、私がちゃんと巻きますから。私に任せてください」

 ソフィーがそう声をかけると、グウェナエルは軽く首を振った。

「いい。必要ない」

 しかしソフィーは引き下がらず、彼の腕をしっかりと包帯で覆い始める。

 グウェナエルはため息をつき、仕方なく任せることにした。

 包帯を巻きながら、ソフィーはふと小さな声で尋ねる。

「出立前の、あの……なんであんなことを言ったんですか?」

 グウェナエルは視線をそらし、薄く笑ってはぐらかす。

「特に意味はない」

 しばらくの沈黙が続く。ソフィーは包帯を巻き終え、傷口を軽く押さえて確認したあと穏やかに言った。

「これでよし。いつでも手伝いますから。頼ってくださいね」

 その後、ソフィーは護身用に持たされていた短剣をそっと返そうとする。

「あとこれ、ありがとうございました。……お返しします」

 しかしグウェナエルは首を振る。

「いや、それはお前が持ってろ。どうせ使わない」

 グウェナエルは立ち上がり、船医室の扉に向かって歩き出す。

「じゃあ、俺は夜の航行があるから操舵に行ってくる」

 扉を開ける寸前、彼は振り返り、静かに言った。

「……これからも頼む」

 ソフィーは医務室の椅子に腰を下ろし、深く息をついた。

「やっぱあの人、変な人だな」

 しばらく呆然と天井を見上げていると扉が静かに開き、シャルルが入ってきた。

「……ソフィー、君か。よくここにいたな」

 彼は手を軽く押さえながら苦笑した。

「鳩尾がまだ少し痛むんだ。戦闘後だから無理もないけど」

 ソフィーはすぐに立ち上がり、シャルルの肩や胸の周りを軽く触れながら診察する。

「うーん……ここですね。少し腫れていますが、深刻ではなさそうです」

 シャルルは目を細め、わずかに息をついた。

「なるほど。少し冷やしながら、ゆっくり休むようにする。君がいてくれると助かるよ」

 ソフィーは軽く頷きながら、包帯や医療道具を整理しつつ、シャルルの軽い打撲の手当てを済ませた。

「しばらくは無理せずに。急ぐとまた痛めますからね」

「わかったよ。初日から君は本当に頼りになるな」

 こうして、戦闘後の静かな医務室にはほんの少しだけ安堵の空気が流れた。

「ソフィー、この部隊に来てくれてありがとう。君がいなかったら、マルセロを生かさなければならなかった」

 シャルルの言葉にゾッとしながらも、なんとか笑って礼を述べる。ベッドに腰をかけ、深く息を吐くシャルル。その口から、ぽつりと漏れる。

「……また一つ、二つ……」

 ソフィーはその呟きに反応はせず、机の上に散らばった医療器具を片付ける。

「さっきは怖かっただろう。顔面蒼白だったからね。ルノアール家は代々軍医を輩出してきた家柄だと聞いていたから、肝が据わっているかと思ったが」

「ルノアール家に、随分詳しいんですね?」

「すまないね。君のこと、少しだけ調べさせてもらった。ノルマンディー地方の出身だったね?」

「……シャルルさん。そういうあなたは、いったい何者なんですか?」

「私? 私は王宮付きの歴史官。それと、書誌管理官を務める家の次男さ。兄や父は今も王宮に勤めていてね。家柄のせいか、歴史や風土、伝承の知識だけは自慢できる。古文書の類も読める、ただの歴史好きだよ」

 早口でまくしたてるその調子に、ソフィーは少し引き気味だった。

「……それで、何か面白い話でもしてくれるんですか?」

「そうだな。君は『大海賊ゼフィランサス』を知っているかい?」

「昔、フランスを騒がせた海賊でしたよね?」

「フランスだけじゃない。ヨーロッパ全土が彼に手を焼いたさ。ところで、そんなゼフィランサスだが……君は、彼が葬られて当然の存在だったと思うかい?」

「……え?」

 突如として向けられた問いにソフィーは固まった。「一体何を言い出すんだ、この人は」と心の中で困惑しながらもシャルルの顔を覗き込む。彼の表情は冗談でも皮肉でもなく、真剣そのものだった。

「……それは、当然ではないでしょうか? 酷いことをしてきたのなら、報いを受けるべきだと思います」

「海賊行為は、断じて許されるものではない。私たち海軍にとって、彼らが『何を想ってそうしたのか』なんて知る必要はないんだ。じゃないと……情にほだされ、善と悪の境界が曖昧になって、仕事にならなくなるからね」

 誇らしげに語るその姿はどこか迷いを孕んでいるようにも見える。

「我々は法律の番人であり、審判だ。『悪いものは悪い』と、はっきり成敗せねばならない。だがね、その一方で『教えられたことをただ鵜呑みにする』のは非常に危うい」

 シャルルは血のついた剣を丁寧に拭きながら語り続ける。ソフィーはその横顔を見つめつつ、黙って耳を傾けた。

「いいかい、ソフィー。歴史ってのは、勝者が作るものだ。教科書に書かれていることが、必ずしも真実と等しいとは限らない。都合の悪い事実は消され、物語は塗り替えられる」

「……じゃあ、敗者はいつでも悪者なんですね」

「そういうことだ。とはいえ、ゼフィランサスが討たれたのはまだ十九年前。歴史書の分厚さを思えば、そう昔でもない。実際、彼を討った当時の参謀官は……今の我がフランス海軍の大元帥殿さ。彼は、まさに『歴史を作った男』」

 シャルルはふっと笑い、ソフィーの方に視線を戻した。

「申し訳ないね。難しい顔をしている君を見たら、少し気の毒になってしまった。私はこれからも過去に疑念を持ち、偏見を疑い続ける。でも君は若い。君なりの『真実』を探しなさい」

「私は……」

 釈然としないまま、ソフィーはぽつりと口を開いた。

「私は、それでもこの国の正義を信じています。軍人になった以上、それは当然の心持ちだと思っています」

「……なるほど」

 その時、船医室の扉が勢いよく開いた。

「いたー! やっと見つけました! 隊長がシャルルさんを探してましたよ!ここにいたんですか!」

 メリッサが駆け込んできた。額には汗が光り、息を切らしている。

 ソフィーは戸惑いながらも、部屋の隅で深呼吸するメリッサを見守りつつ医療道具の片付けを再開する。メリッサは何度も周囲を見回し、イライラが募る。

「全然見つからないじゃないですか! どこに行ったんですか、本当に!」

 その苛立ちを抑えきれず、つい母国語が口を突いた。


"Sei sempre nascosto, per l’amor del cielo!"

 ——いつも隠れるんだから、まったく!


 ソフィーは耳を疑った。どこか懐かしい響きがする。

「……この音の感じ、最近、聞いたような」

 胸の奥がほんの少しチクリと疼いた。理由はわからない。ただ声の響きとリズム、そしてどこか甘く軽やかな語尾の感触が、無意識のうちに心の奥を揺さぶったのだ。戦場前の緊張や恐怖とは違う、淡く不意打ちのような感覚。

 ソフィーは思わず息を呑み、手元の医療道具に指先を絡めた。鼓動が少し早まるのを感じる。

 シャルルは額の汗を拭きながら、苦笑した。

「おや、メリッサ。ずいぶん怒っているね」

「だって、全然見つからないんですもの! 隊長も探すの手伝わせておいて人が悪いけど、船内中を探したんですからー」

 メリッサは苛立ちのままソフィーの近くで深呼吸する。

 ソフィーはそっと手を止め、胸の奥で何かを引っかかるように感じ、胸の奥にざわつく感覚を抱えながら思い切って口を開いた。

「えっと、メリッサさん……今の言葉って、どこの言語ですか?」

 メリッサは一瞬ハッと目を見開き、そして小さく笑った。

「ああ、それね……イタリア語です! へへ、ちょっと怒っちゃったけど、さっきはこんな感じで言いました。『Sei sempre nascosto, per l’amor del cielo!』」

 ソフィーは耳をすませて、記憶の奥で微かに残っていた音と照らし合わせる。

「あ……やっぱり、前に聞いたことがあるような」

 その瞬間、ソフィーの中であの時グウェナエルが言っていた言葉の響きと、メリッサの言った音が頭の中で重なり、胸の奥がまた少しチクリと疼いた。

 メリッサの言葉で確信が揺らぎ、シャルルの存在も気にならないほど胸の中に小さなざわめきが広がる。——あの時、グウェナエルが言った言葉の響きと重なる。

 シャルルは首をかしげながら、ソフィーに尋ねた。

「……どうかしたのかい?」

 ソフィーは少し躊躇いながらも答える。

「出立前、グウェナエルさんに、たぶんイタリア語でなんか言われたんです。でも私、イタリア語を勉強してこなかったので、何を言っているのかまったくわからなくて……」

 メリッサは目を輝かせ、興味津々でソフィーに問いかけた。

「どんなこと言われたんですか?覚えてます?」

 ソフィーは口元を押さえ、思い出しながらぽつりとつぶやいた。

「ええと……たしか……」

 彼女は記憶の奥から、グウェナエルの口元や声のリズムを頼りに、かすかに音を再現して口に出す。

 メリッサは即座に耳を澄ませ、一語一語確認する。

「……『Ciao』ね、それは『こんにちは』だわ。次は『dolce』……『甘い』……ふーん?」

 シャルルも続けて解析する。

「『gattina』、『小さな猫』。なるほど、このあたりまでは何となく意味が通じるな」

 ソフィーは顔を顰めてツッコミを入れる。

「なんで猫なんだろう。私たち、戦場に向かってたのに」

 こうして一語ずつ拾いながら、メリッサとシャルルの協力で少しずつ文全体の意味が浮かび上がる。

 メリッサが特定した言葉を改めて全文で声に出してみる。


"Ciao, dolce gattina, la tua bellezza è come l’alba dopo una lunga notte."


「あ、それです! たぶん、そう言ってました!」

 メリッサの流暢な発音により、鮮やかに蘇った言葉を聞いてソフィーは思わず歓喜して声を上げた。

 すると、シャルルは腕を組んで天井を仰いだ。

「……つまり、グウェンは君にこう言ったんですね?」

 シャルルは片眼鏡を掛け直し、ソフィーに向かって口を開いた。

「『やあ、可愛い子猫ちゃん、君の美しさはまるで長い夜の後に訪れる夜明けのようだね』……翻訳するとこんな感じです」

 ソフィーは目を丸くし、少し呆れたように息を吐いた。

「……意味を知っても意味わかんないです。やっぱりあの人、怖い。初対面の人を猫ちゃんと同列にするなんて……やっぱり私、からかわれたんですね」

 メリッサとシャルルは顔を見合わせ、思わず長いため息を吐いた。

「これは……少し、ていうか、かなり意外ですね。事件です」

 メリッサは眉を寄せ、目を輝かせながら呟く。

「あとで本人に問い詰めるとしますか」

 シャルルの言葉は冷静だが、どこか面白がっている様子だ。

「後では遅いです」

 メリッサはその目をさらに輝かせた。

「今、問い詰めます!」

 そう言い放つと、彼女は小走りで医務室を飛び出していった。

 シャルルはため息をつき、再び天井を仰いだ。

「……若いな、本当に」

 そう呟いたあと、ふいにシャルルが目を伏せて笑った。

「じゃあ、最後にもう一つだけどうでもいい話をしようか」

「え……?」

「さっきジョルジュに聞かれたんだ。『どうしてその髪、オレンジなんですか?』ってね」

 ソフィーは思わず吹き出した。

「それ、私も気になってました」

「やっぱり? あれはね、士官学校時代のちょっとしたやらかしなんだ」

 シャルルは懐かしそうに、でも少し照れたように話し始めた。

「東方の商人から、髪に塗ると色が変わるっていう珍しいきのみをもらってさ。試しに煮て、塗ってみたら……まあ、こんな色になった」

「上手く染まったんですね?」

「びっくりするくらい綺麗にね。赤金色に近くて、光に当たるとちょっと輝いて見えるもんだから、『これは革命だ!』って一人で盛り上がってた」

「でも……?」

「案の定、教官たちにすっごく怒られた。規律違反、風紀の乱れ、染料遊びに走る士官候補生って名指しされてね」

「うわぁ……」

「そのあと、反省文を五十枚書かされて、校長にこう言われた。『元に戻すのは逃げだ。ならば責任を持って、その色で軍を卒業しろ』ってさ」

「なんか、それも理不尽な話ですね」

「だよね? でもまあ……結果的に定着しちゃったわけで。おかげでどこにいても目立つよ。『あのオレンジ頭の変人』って呼ばれてるの、今も変わらない」

「……シャルルさんらしいです」

「光栄だね。まあ、目立つのは悪くないよ。戦場で倒れても、あのオレンジの奴がやられたって分かってもらえるし」

「……縁起でもないこと言わないでくださいよ」

 眉をひそめたソフィーに、シャルルは苦笑しながら手を振った。

「心配しなさんな。私はまだしぶとく生きるつもりさ。じゃあ、またね、船医殿」

 軽く敬礼すると、彼は医療室をあとにした。

 ソフィーは静かになった部屋の中でしばらく彼の背を思い浮かべていた。

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