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第十章 ソフィー&五人組海賊

 早朝の冷え込んだ空気を切り裂くように、ソフィーは宿の扉を静かに閉めた。

 トルチュ島の街はまだ深い眠りについている。昨夜までの喧騒が嘘のように消え、石畳の道には朝霧が薄く漂っていた。潮の香りが鼻をくすぐる。港へ向かう道すがら、波の音が断続的に響いてくる。凪いだ海面には、夜の名残のような暗さが残り、まるで朝陽を待って息を潜めているかのようだった。靴音が薄明かりの中でやけに大きく響く。

 ソフィーは息をひとつ吐き、凍てつく冷気を胸いっぱいに吸い込んだ。心の奥に張り詰めたものがあるのは確かだったが、立ち止まる理由にはならなかった。港に近づくにつれ、静寂は少しずつ破られていく。朧げな灯りの下で船員たちが動き、乗客たちのざわめきが桟橋に満ち始めていた。揺れる波間に映る帆船を眺めながら、ソフィーは視線を巡らせる。風が一瞬冷たく強まり、亜麻色の髪を揺らした。桟橋にはすでに人々が集まり、サン・マロ行きの船に乗り込む準備が進んでいる。

 その中にカルロータとディッキー、そしてリー・ウェンの姿を見つけた。胸の奥にほっとした感覚が広がる。同時に、決意が改めて輪郭を帯びた。

 そのとき、背後から凛とした、よく通る声——ルキフェルの声がした。

「その格好で、本当に海軍に戻るのか?」

 振り返ると、五人の海賊がいつの間にか立っていた。夜の名残に溶け込みながらも、はっきりとした存在感を放っている。

「相変わらず、気配を消すのが上手いのね」

 ソフィーが軽く肩をすくめる。

「案外、君が鈍感なだけかもしれないよ」

 ニールが皮肉めいた声で返した。

 コリンが一歩前に出る。年相応の不安を隠しきれない目をしながら、それでもはっきりと口を開いた。

「……ソフィー。無理はしないで。でも、逃げる必要もないと思う。自分で選んだなら、それはもう間違いじゃない」

 ジャスパーは冗談を挟まず、真剣な眼差しでソフィーを見る。

「問題は海軍だ。あいつら、本当に得体の知れないことを考える。……気をつけろよ」

 ソフィーは小さく首を振った。

「平気よ。簡単にくたばるわけにはいかないから」

「ほう、ずいぶん強気だな」

 ルキフェルは外套で半ば顔を隠していたが、かすかに見える口元は、いつものように不敵だった。

「……あなたたちは、島に残るの?」

 ソフィーがそう尋ねると、少し間を置いてルキフェルが頷いた。

「ああ。ただし長居はしない。しばらく腰を据えて、マクシミリアン殺しの算段を立てる」

 思わずソフィーの表情が強張った。

「そんな話、初耳よ。あなたたちが隊長を狙ってるなんて」

「気が変わった」

 ルキフェルは淡々とした声でそう断言した。

「だが、あいつらに借りがあるのは確かだ。返すには……準備が要る」

 言葉を選ぶように、ルキフェルは続ける。

「俺たちは真実を暴くために動いている。お前もあいつの秘密を追ってるなら、無関係じゃないはずだ」

 ソフィーは海賊たちの顔を順に見回した。誰も多くを語らない。だが、軽い冗談で済む話ではない重みが、確かにそこにあった。

「……分からないことばかりよ。でも」

 静かに、はっきりとソフィーは言った。

「真実を知るのが怖くても、避け続けることはできないと思う」

「あーあ、優等生だなあ」

 場の空気を切るようにニールが肩をすくめた。

「君がもたもたしてるうちに、僕らが先に海軍の闇ごと“殺しちゃう”かもしれないよ?」

 青い目に、からかいと本気が半分ずつ宿っている

「別に、引いてほしいわけじゃない」

 ソフィーは一歩も退かず、言葉を重ねた。

「私は隊長の秘密を暴くっていう、大きな野望を持ってる。……それに、あなたたちも少なからず興味がある」

 夜明け前の冷たい空気が声を静かに震わせる。湿った石畳の感触。遠くで鳴く海鳥の声。ソフィーの視線はまっすぐに彼らを捉えていた。しばし、沈黙。その空気を、低い笑い声が破った。

「——都合のいい話だな」

 ルキフェルだった。フードを払う仕草は、どこか芝居がかって見える。現れた顔には、無数の古傷が刻まれていた。それでも、翡翠色の双眸だけは驚くほど澄んでいる。

「だが、俺は嫌いじゃない。そんな都合のいい話に、乗ってみるのも悪くない」

「……待ってくれるの?」

 ソフィーの問いに、彼は口元を歪めた。

「残念だが、俺はそんな優しい男じゃない。あいつがそれだけの大物だと分かったら——改めて首をもらいに行く」

「……隊長が、大物?」

「いや……なんでもない」

 切り捨てるような言い方だが、「そのほうが面白い」という含みを残したような声だった。

 ソフィーはふっと息を漏らすように笑った。視線を移すと、コリンが口を尖らせて立っている。少年のようでいて、どこか残酷な目だった。

「ぼくは正直、不満だけどね。でも、ルキフェルがそう言うなら仕方ない。運がいいよ」

 コリンはわざとらしく間を置いて、にやりと笑った。

「失敗したら……大きな声で笑うかも!」

「それは困るわね」

 ソフィーが肩をすくめると、コリンはぷいと顔を背けた。

 次に目が合ったのは、ニールだった。彼は首を傾げ、穏やかな目でソフィーを見る。

「僕は、君みたいな生き方が嫌いじゃない」

 静かな声だった。

「君が海軍の差し金かもしれないし、ただ運が悪かっただけかもしれない。それでも……自分の意思で戻るっていうなら、それは立派な選択だ」

「もちろんよ」

 即答だった。

「僕らはいずれ海に戻る。やりたいことをやる。それが僕らの流儀さ」

 わずかに、諦めと信念が交じる。

「軍でやっていくのは簡単じゃないだろうけど……頑張りなよ」

 ソフィーは手を振り、目を細めた。

 彼らは、確かに敵かもしれない。だが今は……同じ時を旅する、ただの旅人同士だった。

 その隣でマテオが胸を張り、いつもの調子で言い放った。

「オレはマクシミリアンを倒す気満々なんだがよ。どうやらコリンが義手の修理に本気出すらしくてな、しばらくは無理そうだ」

「先に言い出したの、マテオじゃなかったっけ?」

 すかさずジャスパーが横から口を挟む。

「そうだよ。なんか文句あんのか?」

「いんや。どうせキミのことだ」

 ジャスパーは肩をすくめて、楽しそうに続けた。

「もっと銃の反動に耐えられるように作れ、とか無茶言うんだろうなって思っただけさ」

「うっせえんだよ、ジャスパー!」

 次の瞬間、鈍い音が響いた。義手の拳が腹にめり込み、ジャスパーは「ぐえっ」と短く呻いてその場に蹲る。

「とにかくオレは強くなるんだよ! いいな!」

「……はいはい。やれやれ」

 ソフィーは呆れたように笑った。こういう無邪気さがあるからこそ、彼らを単なる悪だと切り捨てられない。

 やがて、立ち上がったジャスパーがちらりとソフィーを見やり、少し気恥ずかしそうに口を開いた。

「おれからは、別に言うことはないよ。軍医さん」

 軽口めいた調子だが、どこか本音が滲んでいる。

「一度も治療を受けられなかったのが、残念だったってくらいさ。そんだけ」

 思わずソフィーは目を瞬いた。

「……でも、それって」

 ソフィーは柔らかくもはっきりと言う。

「医者としては、一番嬉しいことよ」

「ん?」

「患者が無傷でいてくれることほど、誇らしいことはないもの」

 ソフィーは微笑み、言葉を重ねた。

「腕をふるう機会がなかったってことは、あなたが命を落とすほどの怪我をしなかったってこと。こんなに喜ばしいこと、ないわ」

 ジャスパーは一瞬言葉を失い、視線を逸らした。照れ隠しか、それとも不器用な感謝か。数秒の沈黙のあと、ぽつりと呟く。

「……ったく、いい女風吹かせてくれるじゃないの」

 口元を歪めて苦笑した。

「そんなこと言われたら、もう怪我なんてできないね」

「なるべく、みんなに私の出番がないのが理想よ」

 ソフィーはそう言ってから、少しだけ声の調子を変えた。

「でも、一度でも医者として、あなたたちと関わった身だから。……いえ、契約なんてなくてもいい」

 ソフィーは一人一人に視線を向けながら続けた。

「もし誰かが傷ついたら、必ず助けに行く。軍医としてじゃなくて、一人の医者として。それが私の恩よ」

 ジャスパーは鼻を鳴らし、照れくさそうに笑った。

「へっ……そう言われたら、ますます怪我できねぇな。死んでも来んなよ?」

「生きてる限り、行くわよ」

 ソフィーは肩をすくめて微笑む。

「私が行かなくちゃ、意味がないでしょう?」

 ルキフェルは周囲を一度だけ見回し、仲間たちの位置を確かめると小さく息を吐いた。

「──それじゃ、俺たちはもう行く」

 その声は低く、けれど決して軽くはなかった。

「……お別れね」

 ソフィーの言葉に誰も茶化さなかった。

「オレたちはオレたちで、いずれ復讐を果たしに来るつもりだ」

 マテオが肩越しに振り返りながら言う。

「覚悟しとけよ。次は見逃さねぇ」

「ふふ……覚えておくわ」

 それだけ答えてソフィーは微笑んだ。

 マテオが歩き出し、コリンがその背を追う。

 ニールは一度だけ軽く手を振り、ジャスパーは視線を逸らしたまま後に続いた。

 ──最後まで、その場に残ったのはルキフェルだけだった。彼はふとソフィーの胸元に視線を落とす。

「その首飾り……本物か?」

 ソフィーは言葉を返さず、そっと指先で銀の鎖に触れた。

 龍と蛇が絡み合う意匠。中心で淡く光るアクアマリン。

「……本物よ」

 それは、ひとりの少年が託した小さな命の証だった。

 翡翠の瞳の海賊は、ほんのわずかに目を細める。

「……お宝だな。次に会うときは、それを貰いに来る。お前が真実を掴めなかったら、な」

「これは、何があろうと渡せないわ」

 ソフィーは首飾りを握りしめた。

「私にとって、大切なものだから」

「……そういうものこそ、俺たちは欲しがる」

 ルキフェルは低く笑いながら、淡々と言う。

「分かるだろ?」

「さあ……どうかしらね」

 ソフィーは視線を逸らさず、微笑んでかわした。一瞬、彼女は軽く敬礼する。それを見届けたルキフェルは、ふっと視線を外した。そして、これまで聞いた中でいちばん穏やかで、いちばん個人的な声で問いを落とす。

「……なんで、海軍なんだ」

 不意打ちのような問いだった。だが、ソフィーは少しも慌てず静かに問い返す。

「そっちこそ……なんで、海賊なの?」

 短い沈黙。潮騒と遠くで軋む船の音だけが二人の間を満たす。やがて──どちらともなく、息を漏らすように笑った。

「……もう、二度と会いたくないわね」

 ソフィーが言う。

「どうだろうな」

 ルキフェルは首を傾ける。

「お前が海軍で、俺たちが海賊である限り……遅かれ早かれ、また巡り会う」

 そして、一呼吸置いてからまっすぐに彼女を見た。

「そのときは──互いに、『嘘のない顔』で会えるといい」

 ソフィーは一瞬だけ目を見開き、すぐに小さく息を吐いた。

「ええ……だから、急がなきゃ」

「何を?」

「真実を」

 ルキフェルは小さく笑い、フードを深く被り直す。

「そうだな」

 歩き出す足取りは軽い。だがその背には、はっきりとした覚悟の重さが滲んでいた。

 彼が向かうのは、まだ陽の射さない暗く沈んだ街の奥。鋭い足音が一つ、また一つと闇に溶けていく。

 ソフィーはその背が完全に見えなくなるまで、目を離さなかった。


 やがて──夜が終わる。そして、朝が来る。


 ソフィーは荷物を抱え、もう一度だけ桟橋の方を振り返った。夜の名残を引きずる港は、すでに朝の気配に押し流されつつある。それから踵を返し、桟橋の先へと足を向けた。甲板に足を踏み入れた瞬間、潮の匂いとともに、聞き慣れた声が飛んでくる。

「おっそい! 待ちくたびれたじゃないのよ~!」

 腰に手を当てていたカルロータがいつもの調子で声を張り上げた。

「でも、間に合ってよかった」

 その隣で、ディッキーがほっとしたように微笑む。

 少し離れたところでは、リー・ウェンが手すりに寄りかかり、黙って海を眺めていた。朝の光を受けた横顔はいつになく静かだ。

「トルチュ島の港も綺麗でしたが……サン・マロも、楽しみですね」

 ふいに、彼が口を開く。

「ええ。フランス沿岸の中でも、あそこは軍港として重要だった場所よ」

 ソフィーは頷きながら、帆先に広がる淡い光を見上げた。

「……でも、今は違う。気は抜けないけど、どんな街なのか、少しだけわくわくもしてる」

 リーは小さく息を吐き、こちらを見た。

「……いよいよですね。本格的に“戻る”わけですが。覚悟は、できていますか?」

「うん」

 ソフィーは迷いなく答えた。

「どんなに怖くても、やるべきことはやらなきゃ」

 そう言って、ふと空を仰ぐ。朝焼けが水平線を照らし、帆に淡い金色の光が広がっていく。

「今度こそ……あの人の真実を見つける。……絶対に」

 その言葉に、カルロータもディッキーも声は出さずに小さく頷いた。リー・ウェンだけが誰よりも長く空を見つめていた。甲板の端に腰を下ろし、ソフィーは一冊の手帳を開く。風にページをさらわれそうになりながらペンを走らせた。


 夜の終わりとともに、ひとつの戦いが静かに幕を閉じた。

 けれど、戦ったのは銃でも剣でもない。

 心だった。彼らと交わした言葉が、今も胸に残っている。

 本音をぶつけ合った夜だった。嘘はなかった。誰もごまかさなかった。

 それが、なによりも痛くて、温かかった。


 ペン先が一度、止まる。


 この瞬間、海賊としての契約は終わり。

 私は軍人として、この船に乗っている。でも、医者として生きると決めた。

 正義の名のもとに命を奪うのではなく、誰かの命を守る者として進みたい。


 ふと、指が胸元の首飾りに触れた。


 あの人は言った。

「欲しいのは、そういうものだ」と。

 このネックレスに込められた想いを私が信じている限り、あの人はきっと奪いには来ない。

 けれど、それでも。

 また出会う時が来るのなら——今度は敵でも味方でもなく、人として向き合いたい。


 風が帆を揺らし、船体がゆっくりと軋んだ。


 過去を断ち切るには、過去から逃げてはいけない。

 私が向かうのは深淵。きっとそこに、答えがある。

 朝陽が静かに、でも確かに昇っていく。

 夜に溶けて消えていった人たちのことを、私は忘れない。


 この旅路の果てに、救いがあることを祈って。


 ペンを置くと、ソフィーはゆっくりと目を閉じた。


 船は、静かに港を離れていく。


      


      —— 中巻前篇「霧深き前奏曲」へ続く


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