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第九章③ ソフィー

 夜の闇が深く静まり返った部屋。ソフィーはうつらうつらと夢の中へと沈んでいく。


 そこは、かつての海上実習の現場。

 若き日の彼女が、まだ不安と緊張に包まれていた頃の光景が蘇る。


 「潮の流れが、おかしい」

 ジョルジュがそう口にしたのは、出航からおよそ三時間が経った頃だった。

 春のまだ冷たい風が帆を揺らし、訓練用の小型船は沿岸をゆるやかに進んでいた。

 フランス本土、ラ・ロシェル近海。初等士官候補生たちによる短距離航海訓練。

 形式上は「実戦に備えた現場演習」だが、実際にはほとんど観光に毛が生えたようなものだと、誰もが思っていた。

「このあたりは密輸船がよく通るって聞いたことある……」

 ソフィーは、そうつぶやいた自分の声が海風にかき消されていくのを感じていた。

 地図上で見れば何の変哲もない海域だが、港の職員や商人の間では「海賊の残り香が漂う場所」として有名だった。けれど、教官は聞く耳を持たなかった。「危険があるからこそ実地訓練になる」と、たかを括っていたのだ。

 候補生たちは十名弱。教官は五人。武装は最低限。演習船は老朽化した小型帆船で、軍艦とは程遠い。

 誰の目にも、戦える準備など整ってはいなかった。そして、異変は現実のものとなる。

 水平線の向こうから、黒ずんだ帆の船が姿を現した。偵察用の小舟がまず接近し、続いて本船二隻が後を追う。明らかにこちらを狙っている。

 教官は銃を構えたが、距離も火力も足りなかった。号令をかけるより早く、敵船から鉤縄が投げられ、船べりにかかった。

「来るな!」

 教官がそう叫んだ瞬間、甲板に海賊たちがなだれ込んだ。ソフィーの手は、震えていた。剣はある。腰の護身用のサイドソード。だが、抜きたくない。ずっとそう思っていた。

「剣は抜かずに済むなら抜かない」

 それが自分の中の、かすかな信条だった。しかし現実は待ってはくれなかった。「うしろ!」という誰かの声に振り返ったとき、もう遅かった。海賊の一人が、年若い女性候補生の背後に迫っていた。ソフィーの身体が勝手に動いた。金属のきしむ音。突き出した刃が、海賊の背に食い込んだ。喉の奥から漏れる呻き声。海賊の体がのけぞり、振り返る前にその場に崩れ落ちる。返り血がソフィーの袖を濡らした。

 息が苦しい。喉が焼けるようだった。その場には、ただの「人間」が倒れていた。獣でも、怪物でもない。ただ、命を持っていた誰かが、自分の手で……。

「死んだ……? 私が……?」

 その手には、温かい何かがついていた。血の匂い。生臭くて、鉄のような。振り払っても取れない。近くで仲間が助けを呼んでいた。「助かった!」「ソフィーがやってくれたんだ!」——そう聞こえた気がする。でも、うなずくだけで精一杯だった。

 そこからは地獄のようだった。教官は斬られ、操舵手が倒れ、帆は裂け、混乱の中でジョルジュだけが冷静だった。「帆を下ろせ!この風を使え!」と叫びながら、ロープを引き、舵を操作した。彼の指示のもと、かろうじて船は敵の包囲を振り切る形になったが、それは決して「逃げ切れた」とは言えない状況だった。仲間のひとりが、肩口から大量に血を流していた。

「もういい……苦しい……殺してくれ……」

 ソフィーは彼の手を握って叫んだ。

「だめ、死なないで、お願い……!」

 けれど、その願いは叶わなかった。自分は、何もできなかった。

 剣も握れない。救う知識もない。彼女の中で、何かがはっきりと崩れていった。

 その夜、星のない空の下。彼女とジョルジュは震える仲間たちをかばいながら、かろうじて残った帆で沖を目指した。何度も追手の気配を感じた。海賊が戻ってくるかもしれないという恐怖に、誰も眠れなかった。


 そして、夜が明けた。


 遠くに、軍旗を掲げる一隻の艦が見えた。白い帆。蒼い海。

 やがて、それが「マクシミリアン・ブーケ隊」の船だと判明する。

 ソフィーは船尾で崩れるように倒れていた。

「よく耐えてくれました」

 意識が戻ったとき、目の前にいたのは、優しい声をした男だった。軍服を着てはいたが、どこか威圧感のない、穏やかな目をしていた。

 マクシミリアン・ブーケ——この時点では、まだ「伝説」ではない。だが、ソフィーの記憶にはこの日から確かに彼が刻まれていく。

「隊長……なぜ、私たちを助けてくださったんですか……?」

 震える声で問うと、彼は少しだけ驚いたように目を細めて、こう答えた。

「そんなの、決まってますよ。助けられる命を、見捨てる理由がありますか?」

 その言葉に、ソフィーは泣いた。悔しさと、安堵と、無力感と……すべてが混ざって、言葉にならなかった。そして彼女は、決めたのだ。


 もう剣は握らない。私は、救う側に立つ。誰も、私の目の前で死なせない。


 その日から、ソフィー・ド・ルノアールは「軍医」への道を歩み始める。

 もう二度と、あの血の匂いに無力なままで触れぬように。


 びくりと体が跳ね、喉の奥で小さく呻き声が漏れる。

「……ゆめ……」

 全身に冷たい汗が浮かんでいた。掛け布は湿って肌に張りつき、胸元に置かれた手が震えているのがわかる。呼吸は浅く、心臓がまだ騒がしく暴れていた。重く沈んだ夜の気配が部屋を満たしていた。窓の隙間から射し込むのは、まだ昇らぬ朝の気配。空はわずかに薄墨色に染まり始めていたが、陽の気配はまだ遠く、外の世界は静まり返っていた。

「……また、見た」

 数か月に一度の頻度になったはずだった。なのに、今朝に限ってあの日の出来事が克明によみがえる。声、匂い、血の感触までも。

「こんな日に、限って……」

 毛布をめくると、冷たい空気が肌を撫でた。ベッドから足を下ろし、足元の靴に足を入れながら、ふと鏡台の方を見やる。薄闇にぼんやりと浮かぶ、自分の影。蒼ざめた顔。張りついたままの前髪。

「まるで……あの頃の私だ」

 喉の奥がひりついた。起き上がるには充分すぎるほど目は覚めているが、体がだるい。眠気ではない。夢の残り香のせいだ。

 ソフィーは静かに立ち上がった。衣服の上から胸元を押さえ、呼吸を落ち着ける。夜明け前の空気は冷たく、肌に張りつくようだった。

「出航は……今朝だったわね」

 寝台のそばに置かれた鞄にちらと目をやる。

 昨日のうちに準備は済ませた。あとは、朝を待つだけ。ほんのわずかにカーテンを開けると、街はまだ眠っていた。遠くに灯る数少ない灯りと、星の残骸のような月明かり。夜は確かに終わりかけているが、まだ光が差し込む気配はない。ソフィーは唇を噛んだ。目を伏せる。睫毛に汗がにじんでいた。あのときと同じ過ちは繰り返さないと、自分に言い聞かせるように。ふと耳を澄ますと、遠くの部屋で軋む床の音がした。誰かが起きたのだろう。カルロータか。それとも──

「……行かなくちゃ」

 誰にともなくそう呟き、ソフィーはゆっくりと上着の袖に腕を通した。

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