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第九章① 五人組海賊

 陽が傾きはじめ、トルチュ島の空に柔らかな金色が差し込んでいた。

 ソフィーは、小さな宿の一室で荷造りに没頭していた。使い慣れた革鞄に、衣類と紙束、薬瓶、そして念入りに包んだ書簡類を詰めていく。その手つきには、名残惜しさよりも、はっきりとした覚悟があった。

「そっちは終わったかい?」

 ドアの向こうから、カルロータの声が響く。頼もしくて、どこか母親のような響きを帯びている。

「あと少し。……思ったより、荷物が増えてたみたい」

「お医者さんってのは物持ちがいいからね。あたしなんか、着替えと煙草だけよ」

 苦笑まじりに返しながら、カルロータが隣の部屋で何かをまとめている物音が続いた。木の床をきしませて歩く音がしばらくして止むと、今度は階下から、ディッキーの甲高い声が飛んできた。

「おーい! 例の硝子瓶、どこにしまった!? あの黄緑のやつだよ!」

 ソフィーは苦笑しながら返事をした。

「机の上に置いてあったはずよ。リストには入れておいたけど?」

「あったあった! へへっ、これがないと始まらないからねぇ……!」

 ディッキーは声の通り、上機嫌だった。船旅の準備というより、どこか遠足のような浮かれ方で、出発を目前に控えた実感をまだ持っていないようだった。

 窓の外には、かすかに港の喧騒が聞こえていた。遠くでは、海賊たちの笑い声や酒場のざわめきが重なって、トルチュ島らしい喧騒を織りなしている。それを背にしながら、ソフィーは鞄の蓋を閉じた。

 明日には、島を離れる。けれど心の中では、まだ別れの実感が降りきらずにいた。

「……全部、持っていくわ」

 小さくつぶやいて、机の隅に置いていた革の手帳を手に取る。傷ついた表紙に、幾度となく開かれた折れ目。

 この約二ヶ月で、ソフィーが書き残してきた断片たちが、そこに詰まっていた。そっとそれを鞄にしまい込み、金具を留めると、わずかに深く息を吐いた。扉の向こうでは、カルロータが「さっさと降りてきな!」と声を上げ、ディッキーが「わーってるって!」と茶化す声が響いていた。階下に向かって足を運びながら、ソフィーはもう一度、明日の朝のことを思った。

 それが出発であると同時に、決別であることを、まだ誰も言葉にはしていなかった。


 一方、その頃。

 日が落ちきる前の港町、石造りの街並みの中でも、ひときわ賑わっている一角があった。

 酒場通り。舗道に並ぶ小さな飲み屋の数々は、海賊たちの笑い声と、開け放たれた扉から漏れるランタンの光で、昼間以上の熱気を帯びていた。

「——ったくよ、今日ばかりは金がいくらあっても足りねぇな!」

 どこかでマテオの豪快な声が響き、酒瓶を抱えた数人の男たちがその後をついて歩いていく。

「まあまあ、祝いでもあり、弔いでもある……そんな夜だろ。好きに飲めばいいさ」

 皮肉混じりの口調で続いたのは、ジャスパーだった。彼は帽子の縁を軽く指で押さえ、物珍しそうに通りの左右を眺めていた。

 ルキフェルは一行の少し後ろを、無言で歩いていた。暗褐色の髪に海風を受けながら、今夜の街のざわめきを、どこか他人事のように眺めている。

「おいルカ、お前も何か飲まねえか? 今日ぐらいさあ……」

 マテオが振り返って声をかけるが、ルキフェルは首をわずかに横に振った。

「……後で合流する。少し気になる店がある」

 そう答えると、彼はゆるやかに歩調を緩め、通りを外れていった。その様子を見送りながら、ジャスパーはふっと鼻で笑った。

「相変わらず、群れるのが嫌いなやつだな」

「ま、それでも一番強えんだから文句はねえよ」

 マテオはそう言いながら、近くの店の戸を勢いよく開け放った。

「ヨーロッパの情報が聞きてぇんだ!」

「おい、なんか持ってるやつはいるか!」

 口々に叫ぶ声が、夜の酒場通りに溶けていく。

 誰もが浮かれた様子を見せながらも、その目の奥には、どこか研ぎ澄まされた光があった。


 小さな石畳の路地を抜けた先、酒場通りからは少し外れた位置に、その店はあった。入り口には控えめな木製の看板と、揺れるランタンが一つ。外壁には東洋の意匠を取り入れた陶板の装飾が施され、奥には海風が吹き抜けるテラス席が見える。

 ルキフェルは扉を押して中に入った。中は喧騒からは遠く、客の姿もまばらで、空気は静かだった。すぐに、奥のテラスに視線をやる。ランタンの光に照らされながら、そこに座る人物の姿があった。

「来ましたか」

 ルキフェルはまっすぐに歩み寄り、柵沿いのテーブルの向かいに腰を下ろした。風に揺れる灯りの下、黒檀色の髪を結った男、リー・ウェンは微笑を浮かべながら顔を上げる。

「やあ、ルキフェルさん。あなたがここを訪ねてくるとは、ちょっと意外でした」

「いろいろ、知りたいことがあってな」

 ルキフェルは腕を組みながら椅子に身を預け、周囲を一瞥する。壁には絵巻風の布がかけられ、店の隅には東洋風の香がうっすらと漂っていた。店の者がやってきて、ルキフェルは手短に「紅茶を」と頼む。それを見届けてから、リーは静かに問いかけた。

「で、今回はどの国の話を聞きに?」

 その言葉に、ルキフェルは目を細める。

「フランス海軍の動向を。それと、旧ブルボン派と新政府との関係についてだ」

「なるほど」

 リーはわずかに口元を緩めると、手元の茶杯を持ち上げた。

「やっぱり戦の匂いを感じてるんですね。最近、そういう目つきをする奴が増えてきました。あなたもその一人、ってことですか」

「この島での動きとは、どう見ても無関係じゃない」

 ルキフェルは静かに続ける。

「エドガーの連中は、近いうちに動く。奴らが向かう先にフランス海軍がいるなら、俺は知っておくべきだと思った」

「合理的です」

 リーはうなずくと、懐から革張りの手帳のようなものを取り出した。数枚の紙を抜き取り、テーブルに並べていく。

「これは先日、マルセイユ港で目撃された艦隊の配置。次に、王党派の集会が極秘に行われたっていう噂。そして……」

 ルキフェルの目がわずかに動いた。資料を追いながら、彼は短くつぶやく。

「……旧ブルボン派の復権。あるいはそれを利用する貴族連中。なんにせよ、均衡は崩れつつある」

「その通り」

 リーは、紅茶を一口啜ると、器を戻した。

「ただし、どちらにも味方するふりをしながら、それぞれを天秤にかける奴もいます。混沌の中では、真実を語る人が一番早く殺されるので」

 ルキフェルは少しだけ、目を伏せる。

「……それでも、誰か一人でも救えるなら、真実を掴む価値はある」

「誰か?」

 リーは穏やかに目を細めた。

「あなたがそんな言葉を口にするとは、意外ですね」

 ルキフェルは肩をすくめる。

「……ただの昔話だ」

 その微笑には、戦場の男らしからぬ影が差していた。

「あなたの誰かが、戦の向こう側にいることを祈りますよ」

 リー・ウェンが穏やかに含みを持たせて呟くと、ちょうど店主が紅茶を運んできた。素朴な陶器のカップから立ち上る湯気。ルキフェルはそれを手に取り、じっと見つめた。

「……この香りは」

「桂花茶。中原の花を乾かして混ざってます。あなたの好みかは知りませんが」

 ルキフェルは、一口だけ口に含み、喉を鳴らした。その味は、どこか懐かしい感覚を呼び起こす。静かで、澄んでいて、しかし深い余韻を残す味。

「……悪くない」

「それなら、良かったです」

 テラス席の外では、海風が静かにテーブルクロスを揺らしていた。今夜、トルチュ島の片隅で交わされた会話は、明日の“嵐”を前にした、ほんの束の間の静寂だった。

「紅茶とは意外です。てっきり、もっと強い酒でも引っ掛けに来たのかと思いました」

 リー・ウェンがくすりと笑った。ルキフェルは湯気の立つカップを傾け、何事もないように涼しい顔で言い返す。

「夜間とはいえ酔っ払うほど暇じゃない。こっちは情報を聞きに来てる」

「はいはい。わたしが集めてる範囲では、北海方面は特に動きなし。けど、王都からの命令が不自然に多いとは感じてます」

「ふうん……そいつは不気味だな」

 ルキフェルが眉をひそめかけた、そのときだった。

「ルキフェルッ!!」

 店の通りに面した扉が勢いよく開き、ニールが乱入してきた。そのすぐ後ろには、マテオ、ジャスパー、コリンの姿。どいつもこいつも顔を強張らせ、ただならぬ様子だ。

「なんだ騒々しい、飲み屋じゃなかったのか」

「それどころじゃないんだ!」

 ニールは手にした一枚の紙を、ルキフェルの目の前に突き出す。古びた掲示板から引き剥がしてきたらしいその紙は、黒インクで印刷され、中央に大きな見出しが躍っていた。


《一ヶ月前 トゥーロン徒刑場にて/旧フランソワ海賊団 残党の一斉斬首》


 ルキフェルの視線が紙に釘付けになる。目を走らせるうち、彼の瞳の奥が静かに色を変えた。

「残党って……」

「仲間達だ」

 ニールが呟く。

「逃げのびたと思っていたけど、一ヶ月前に捕まって処刑されたんだ」

「しかもわざわざ見世物みたいな場所で処刑するなんて……新王党、やることが派手だよ」

 コリンの声には緊張が混じっていた。

 ルキフェルは黙って紅茶のカップを置いた。そしてしばらく張り紙の一部に目を留める。

 民衆の名において、正義の剣を振るう。——国王陛下のお言葉。

「……やっぱり、あの王様は本気らしいな」

 ルキフェルはぽつりと呟き、風に揺れる紙の端をそっと指で押さえた。しばしの沈黙が落ちた。

 張り紙の内容にそれぞれが思うところを抱えながら立ち尽くす中、リー・ウェンが紅茶のカップを静かに置き、ルキフェルの方を見やった。

「なぜ、彼らが捕まったのか。興味、ありますか?」

 その一言に海賊たちの空気が変わった。マテオが片眉を上げ、ジャスパーが口の端を引き締める。ルキフェルの瞳も、鋭く細められる。

「話してみろ」

 静かな命令に、リーは手帳を広げながら少しだけ声音を低くした。

「場所は南フランス、トゥーロン。海軍の地方司令部を、旧フランソワ派の生き残りが奇襲したそうです。理由は明白。フランソワを殺された復讐だとか」

「……は?」

 マテオがわずかに声を漏らす。

「わたし、少し前に牢で彼らと会ってきました。といっても、もう数時間も話せる状況ではなかった。尋問が続いて、衰弱していた。でも……どうして復讐なんて考えたのか、それだけはどうしても聞いておきたくて」

 ルキフェルたちが黙って耳を傾ける。

「返ってきた答えはこうでした。『わかっていた。無謀だと。でも、あの人がいなくなって、俺たちにはもう海も居場所もなかった。ならせめて、剣を持って死にたかった、と」

 風が吹き抜け、テラス席の紙ナプキンがかすかに揺れる。

「『処刑を待つより、戦って死にたかった』。彼らは、最初からどこへも戻る気なんてなかったんです。捕まったことを……恥じていました」

 コリンがうつむき、声を絞る。

「……馬鹿だよ。そんなの、ただの自己満足だ」

「そうですね」

 リーは微笑むでもなく肯定した。

「でも、それでも彼らは、最後まで海賊であろうとしたんですよ。フランソワの残党として」

 ルキフェルは何も言わなかった。紅茶のカップを唇に運び、一口啜る。その瞳の奥には、冷たい海の底のような光が潜んでいる。

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