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第八章③ ソフィーとルキフェル

 ソフィーは玄関の扉を押し、外へ出た。

 夕暮れの風がやさしく頬をなでる。

 庭の奥、誰にも気づかれない場所で、ルキフェルはひとり佇んでいた。両の掌を胸の前で、ゆっくりと動かしている。空気を押し返すように。流れる水を掬うように。呼吸は深く、静かで——ソフィーは思った。

 ──なんか、風みたい。

 彼の所作には一切の無駄がなかった。まるで自然そのものが、彼を通して呼吸しているようだった。目を閉じ、足を運び、掌を寄せ、そして押し出す。

 舞でも、儀式でもない。ただ、内側の何かと静かに向き合うための時間。外界を遮断し、自分自身とだけ対話する、孤独で静謐なひととき。

 やがてルキフェルは目を開け、腰の細身の剣に手をかける。音もなく抜かれた刃が夕空を裂いた。

 その瞬間、空気が変わった。静寂を切り裂くように剣が前へ走り、次の瞬間には腰をひねって背後へ回る。跳ねるように足が地を離れ、地面すれすれを滑るような動きのあと剣が弧を描いて閃いた。

 速さと静けさ。攻めと引き。ひとつひとつの動きは美しく、そして鋭い。

 舞というにはあまりに実戦的で、殺意というには、あまりに整いすぎていた。

 そこにあったのは戦うための技と、何かを押し殺すような感情。

 最後の一太刀を振り抜くと、ルキフェルは剣を収め、深く頭を下げた。

 見えない相手に礼を尽くすような所作。

 それは、誰にも言えない覚悟の形だとソフィーには思えた。

 剣を通して何かを見極め、すでに決断を下した人間の動きだった。

 ルキフェルはしばらくその姿勢のまま、風の音に耳を澄ませていた。そして、ゆっくりと視線を横に向ける。

「……随分長いこと立っていたな」

 よく通る声にソフィーはわずかに肩を跳ねさせた。声をかけるつもりはなかった。ただ、彼の背中を見ていたかっただけだ。

「……気づいてたのね」

「最初の足音で、な。呼吸も整ってた」

 こちらに向き直った瞬間、夕映えの光が彼の顔を照らす。

 ソフィーは思わず息を呑んだ。

 眉頭から頬へ斜めに走る深い傷跡。目尻、額、顎に刻まれた無数の細い痕。

 それは、彼が生き延びてきた時間そのものだった。

 ──なのに。その瞳は、驚くほど澄んでいる。

 怒りでも、悲しみでもなく、ただ静かに目の前の世界を見ている目。

 こんなにも傷だらけなのに、胸の奥に言葉にできない引っかかりが残った。

「夕飯は、もうできているのか?」

 いつも通りの声。いつも通りの問い。

「……うん。声かけに来たの。みんな待ってる」

「なら、行こう。俺も少し腹が減ってきた」

 歩き出す背中に、ソフィーは歩調を合わせた。剣を佩いていても、さっきまでの張りつめた気配はもうない。ただ、誰かと食事をしに行く人間の背中だった。

「一つ、聞いていい?」

「何だ?」

「……決めたこと、あるの?」

 ルキフェルはわずかに足を止め、視線を伏せる。

「ある」

「私もあるよ」

「だが、今言うと食欲が失せる」

 ソフィーは吹き出すように笑い、肩をすくめた。

「じゃあ、食べ終わったら教えて。私も話すから」

「腹が満たされて、機嫌がよければな」

 再び歩き出す背中をソフィーは見つめた。

 この人は──ずっと、誰かの“痛み”を背負っているのだろう。

 哀れみではない。憐憫でもない。そうでなければ、あの剣は振るえない。

 あの静けさは、痛みを知る者だけが持つ強さだった。

 風に揺れる暗褐色の髪。踏みしめる足音の軽さ。それだけが、彼の今を確かに語っていた。


 結局、ルキフェルは何も語らなかった。

 食事の席でも、部屋へ戻るときも、彼はいつも通りで、いつも以上に沈黙していた。

 それでもソフィーは彼を責めなかった。何も言わないこと自体が答えのように思えたからだ。

 自分の決断を告げたとき、ルキフェルはほんの一瞬だけ彼女を見た。そして、短く言った。

「……そうか」

 それだけだった。拒絶ではない。引き止めでもない。

 肯定とも、否定ともつかない一言。だが、それこそが彼だった。

 どんな決断をしても、背を向けて「そうか」と言う。相手の選択を黙って受け止める男。

 そのまま彼は部屋に戻り、扉を閉めた。ソフィーはその背を見送りながら静かに息を吐いた。

 ──言葉がないからこそ、信じられることもある。

 そう思えたのは、きっと彼の剣を見たからだ。


 朝霧がまだ島を包んでいるうちから、ソフィーは動き出していた。屋敷の廊下。船着き場。広場の市場。小道に面した小屋。目につく場所という場所を、息を切らしながら次々と訪ね歩く。

「見なかった? リー・ウェンという東洋人、どこにいるか知らない?」

「さあ、今朝は見かけてないなあ」

「たしか東の岬の方で見たって奴がいたけど……」

「さっき港の方で誰かと話してたんじゃねぇか?」

 断片的な答えが霧の中に散っていく。確かなものは何一つない。それでも、足は止まらなかった。

 ──今なら言える。ようやく、自分の中で理由が形になったから。

「……いた!」

 崖の上に立つ古い灯台。その裏手に広がる草地で、リー・ウェンはひとり腰を下ろしていた。海を見下ろすように背を向けている。

 ソフィーは走った。名前を呼ぶこともせず、ただその背中へ向かってまっすぐに。朝の風が頬を切り、足元の草がざわめく。彼のそばまで来て、ようやく足を止めた。

「……探したよ」

 声に気づいて、リーはゆっくりと振り返った。いつもの飄々とした笑みはなく、ただ静かな眼差しで彼女を見つめている。

「ソフィーさん。どうかしましたか?」

 一瞬、言葉が喉につかえた。けれど、もう迷いはなかった。

「わたし……フランスに戻る」

 朝陽が昇りきり、海面が金色に揺れている。その光の中で、ソフィーはまっすぐに言葉を紡いだ。

「隊長が、どうして私をあんなふうに突き放したのか……その理由を、どうしても知りたい」

 リーは何も言わない。

「どうして、あのとき……私の目を見て、あんなふうに背を向けたのか。あれが、本当に裏切りだったのか」

 胸の奥がぎゅっと締めつけられる。けれど、今だけはその痛みから目を逸らさなかった。

「それを、ちゃんと確かめないと前に進めない気がするの。だから、戻るの。私自身の意思で、今度は」

 視線を逸らさずに言い切る。逃げ場を残さない声だった。しばしの沈黙のあと——

「……そうですか」

 リーはゆっくりと頷いた。

「それでこそ、あなたです。やはり、お話に聞いた通り」

 その言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなる。

「連れて行ってくれる?」

「もちろん」

 リーは立ち上がり、ソフィーと並んで海を見た。

「一つだけ、お節介ですが忠告を。どんな真実や嘘が待っていようと、自分の目で受け止めなさい」

 ソフィーは小さく笑った。

「うん。絶対」

 朝の光が、ふたりの影を長く、静かに地面へと伸ばしていた。

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