第八章② ソフィー
それからソフィーは、真剣に自分自身と向き合おうとした。フランス海軍に戻る理由を探し、同時に、海賊としてこの島に留まる理由も考え続けた。けれど、どちらも決定打にはならなかった。
戻るには、恐怖が勝ちすぎている。留まるには、覚悟がまだ足りない。
仲間たちは何も言わなかった。急かすことも説得することもなく、ただいつも通りに接してくれた。
それがかえって胸に重かった。いつまでも決断できない自分が情けなくて、申し訳なくて、
ソフィーは次第に人前に出る時間を減らし、自室に籠もるようになった。
そして——リー・ウェンがこの島を発つ日まで、あと三日。
その夕方、ソフィーは久しぶりに深く眠り込み、そして、悪夢にうなされた。
いや、それは悪夢というより……長いあいだ封じていた記憶を、もう一度なぞらされるような追体験だった。
視界に、どろりとした薄赤い光が差していた。
蝉の鳴かない島の夕暮れは、まるで時間を忘れたように静かで、ただ遠くで潮騒だけがさざめいている。
ソフィーはひどく汗ばんだシャツの襟を指で引き、荒く息をついた。枕元には、乱れた毛布とくしゃくしゃになった日記帳。夢を見ていた。いや、もはやあれはただの夢とは言い切れなかった。
「……また、あのときのことを」
瞼を閉じれば、雨。嵐。傾く甲板と、背後に響く殺意。
冷酷に笑うシャルルの口元。グウェナエルの氷のような言葉。
——君は、自分の正義とやらで、それを踏みにじった。
その一言が、心の奥に今でも棘のように残っていた。
あの時、自分は何を守ったのか? そして、誰に、何を失わせたのか?
マクシム。彼が最後に口にした「ここにはない別の人生を生きてほしいんだ」という願い。
——あれは、優しさだったのか、それとも……拒絶だったのか。
夕日の中、壁に投げ出された自分の影が、やけに遠く感じる。「あの人の元に帰る」選択肢が、リーの言葉の中で現実味を帯びた途端、胸の奥にしまっていたはずの迷いが、ずるりと顔を出していた。
「あれだけ酷い目に遭わされておいて、まだ迷うなんて……」
思わず、苦笑が漏れた。自嘲というより、呆れに近かった。
ルキフェルやマテオたちと過ごしたこの数日間、トルチュ島の空気。
あの人たちは嘘をつかなかった。何をしても、本音を隠そうとしなかった。
それに比べて、フランス海軍のあの世界は。口先ばかりの栄誉。罠。名誉の裏に潜む損得。
——でも、それでも、そこには確かに彼がいた。
「……どうしたいんだろ、私」
ソフィーは体を起こし、カーテンをそっと開けた。夕日が赤く、トルチュ島の海を染めている。
もうすぐ、あの出発の一週間は終わってしまう。けれど——まだ答えは出なかった。
彼女の心は、あの嵐の日のまま今も波の只中にある。
「お茶、ない?」
食堂に入るなり、ソフィーはテーブルに肘をついていたカルロータの正面に、ぺたんと腰を下ろした。
「どうしたの、その顔。寝起き丸出しじゃない。まだ陽は沈みきってないわよ」
「寝てたの。……ちょっとだけ、ね」
乾いた声だった。頭の奥には、まだ思考の余熱がくすぶっている。何か冷たいもの。いや、せめて温度のある飲み物でも喉を通さなければ、言葉を組み立てる気力が戻らなかった。
カルロータは一瞬だけソフィーの顔を見て、困ったように眉を寄せる。けれど、それ以上は何も言わず、静かに立ち上がった。
「……ありがと」
声には出さず、心の中でそう呟く。言葉より先に察してくれる、その距離感が、今はやけにありがたかった。
「……あ、ソフィーじゃん。おーい、こっち座れよ!」
テーブルの端から手を振っていたのはニールだった。その隣では、皿をつまみながら不機嫌そうに肩をすくめているマテオ。向かいには、いつも通り掴みどころのない顔をしたジャスパー。さらに奥で、パンの端をちぎっては黙々と口に運んでいるコリン。
どうやら今日は全員、珍しく予定が合っているらしい。
「なに、また面白い話でもしてたの?」
ソフィーが問いかけると、ニールは軽く肩をすくめた。
「いや、退屈してただけ。誰か来ないかなーって話してたら、君がちょうど現れたわけ」
「昼間どこ行ってたんだよ?」
マテオがグラスを片手に、椅子にもたれかかる。
「なんか面白いもん、見つけたか?」
「うーん……まあ、そこそこ」
ソフィーは曖昧に笑って言葉を濁した。
一日中、ほとんど寝ていた、などと正直に言える雰囲気ではない。
そのとき、湯気を立てたポットとカップを両手に持って、カルロータが戻ってきた。カップが目の前に置かれるや否や、ソフィーは礼もそこそこに湯気を深く吸い込む。
ジャスミン……いや、違う。花の香りに、ほんのわずかな酸味。どこか果実の皮のような匂いも混じっている。馴染みはないのに、不思議と落ち着く香りだった。
ソフィーはようやく肩の力を抜いた。
「……ねえ、ソフィー」
ふいにコリンがぽつりと口を開いた。その一言で場の空気がわずかに変わる。視線が一斉にソフィーへ集まった。
「なんで、ソフィーは海軍に入って、軍医になったの?」
静かな声だった。けれど、不意打ちのように、その問いは胸の奥へ突き刺さる。
湯気の向こうで、誰もが答えを待っている。軽口を挟むはずのマテオも、肩肘張るジャスパーも、珍しく黙ったまま。ニールも視線を逸らさず、カルロータはただ静かにカップを差し出してくれるだけだった。
──たぶん、これは。今、話すべき時なのだ。
ソフィーはカップに視線を落とし、ひとつ、ゆっくり息を整えた。
まだ誰にも語っていなかった、自分の物語の始まりを口にする覚悟を決める。
「……ルノアール家はね、代々、海軍に軍医を送り出してきた家なの」
声は穏やかだった。
「中流の貴族で、身分もほどほどで……だからこそ、その立場を守るために、そういう役目を果たすことを期待されてた。たぶん私も当然みたいに、その道を歩かされるはずだったんだと思う」
どこか他人事のような言い方に、コリンが小さく首を傾げる。
「でも、それだけじゃなさそう?」
ソフィーはこくりと頷いた。
「……実はね。軍医を目指す決定的なきっかけは、もっと後だった」
少しだけ声が硬くなる。
「士官学校で最上級生になって、実習航海に出たとき。……ある事件があって」
止めようとしても、言葉は自然と流れ出ていった。
「あのとき船に乗ってたのは私たちの代と、後輩だったジョルジュたち。それに数人の教官。立場なんて関係なく、入り混じってた。出航前から、ジョルジュがずっと言ってたの。潮と風が合わないって。……私も、妙に落ち着かなかった」
カップの中の紅茶がわずかに揺れる。
「訓練海域は、昔から密輸の通り道だったから。……数時間後、見えたの。三隻の海賊船」
誰も息をしなかった。
「偵察じゃない。本気の襲撃だった。私たちの船は、演習用の小さな帆船。応戦なんてできるはずもなくて……教官が指示を出そうとした瞬間、銃弾を受けて倒れた」
ソフィーは淡々と続ける。
「そのときの私は、軍医志望ですらなかった。戦場で人を助けたいなんて、考えたこともなかった。ただの士官候補生」
声がほんのわずかに揺れた。
「……仲間のひとりが刺されて、血を流して倒れて。苦しんで、最後には……もういい、殺してくれって。そんなことを言いながら、死んでいった」
その声は今も耳の奥に残っている。
「私は、何もできなかった。ただ手を握って、泣きながら『死なないで』って言うことしか、できなかったの」
その場に静かな重さが落ちる。
「ジョルジュが舵を取って、風を読んで……どうにか逃げた。夜のあいだ、ただ漂って。明け方になって、助けが来た」
そして。
「──マクシミリアン・ブーケ隊が、私たちを拾い上げてくれた」
その名に、カルロータの表情がほんのわずかに変わった。
ソフィーは気づいていたが、何も言わない。
「目が覚めたとき、彼が言ったの。『助けられる命を、見捨てる理由がありますか』って」
その言葉を、何度も胸の中で反芻した。
「……それが、きっかけだった。自分が生き延びた意味って、きっとあるはずだって。あのとき、初めて思えたから」
話し終えるとソフィーはカップを持ち直し、ぬるくなった紅茶に口をつけた。沈黙は降りなかった。ただ、誰もがそれぞれの場所で、その話を受け止めていた。その中でニールがぽつりと言う。
「……その時のマクシミリアンの姿を、今でも信じたいんだね。君は」
静かで、優しい声だった。けれど、その一言は胸の奥を正確に射抜いてくる。
──図星だった。だから、何も言い返せなかった。
信じたい。あの夜明けに、迷いなく手を差し伸べてくれた姿を。
「助けられる命を、見捨てる理由がありますか」と、言い切ったあの人を。
……けれど、その後。マクシミリアン・ブーケは、何の説明もなく、ソフィーを突き放した。
──なぜ?
その問いは、何度も夢の中で波となって繰り返される。
答えは、いつも返ってこない。あの夜明けの刻に差し伸べられた手。あの救いの声。
あの人が化け物になるはずがないと、信じたい。信じている──いや、信じていたいのだ。
「……フッ、青いな」
ふいに、テーブルの向かいからジャスパーが鼻で笑った。身を乗り出すこともなく、椅子にだらしなく腰を預けたまま、肩をすくめる。
「英雄も、悪魔も、同じ顔してるって教わらなかったかい? おれは、海軍も海賊も、信用しないって決めてるよ」
軽い口調だった。けれど、その奥にある諦観は冗談ではなかった。
「おい、ジャスパー」
低く、マテオが唸るように制した。声には、はっきりとした苛立ちが滲んでいる。
「ソフィーが何を信じようが、てめぇの物差しで茶化すんじゃねぇよ」
「茶化してないさ」
ジャスパーは即座に返したが、続く言葉は少しだけトーンを落とした。
「……ただ、甘さが命取りになるって、言いたいだけだ」
そう言って見せた笑みはどこかひどく哀しげだった。
沈黙が落ちる。窓辺を撫でる夕暮れの風が、食堂の影をゆっくりと伸ばしていく。その静けさの中で、ソフィーは胸の奥に熱が灯るのを感じていた。小さく、けれど確かな炎。誰にも見せたことのない場所で静かに燃えはじめる。
「……ありがとう、ニール」
絞り出すような声だった。
「やっと気づけた。私……まだ、あの時のマクシミリアン・ブーケ隊長を追いかけてたんだ」
壁に掛けられた古い海図へ視線を向ける。
「でも、それじゃあ答えは得られない。見なきゃいけないのは、現実の彼だ。——あの人が、なぜ私を突き放したのか。その理由を、私は知りたい」
声にもう迷いはなかった。
「だから……私、フランスに戻る。自分の足で、真実を確かめに行く」
誰もすぐには言葉を発しなかった。だがその沈黙は、拒絶ではない。理解が、ゆっくりと行き渡っていくための間だった。マテオが鼻を鳴らし、そっぽを向く。その肩はわずかに震えている。笑っているのか、それとも——堪えているのか。コリンは目を輝かせ、ジャスパーは腕を組んだまま目を細めていた。意外そうで、それでいてどこか嬉しそうな顔。そしてニールは、小さく微笑んでからただ一言だけ告げた。
「よかった」
それで充分だった。
「あっ! そろそろ夕飯できるから、あんた達も手伝って~!」
カルロータの号令に、張り詰めていた空気が一気にほどける。
「げっ、またかよ……」
真っ先に顔をしかめたのはマテオだった。渋々と立ち上がり、ぶつぶつ文句を言いながらキッチンへ向かう。
「何をそんなに嫌がることがあるの。ほら、器ぐらい持ってきて」
いつの間にかコリンが木製の器を手際よく運びながら、当然のように指示を出している。
「手が空いてるって言ったら、君たち二人のことだと思ってたよ」
ジャスパーはいつの間にか食器を拭きながら、涼しい顔で言った。
「え、僕も……? あ、はい。じゃあナイフとフォーク並べます」
ニールも控えめに立ち上がり、戦力に加わる。不満と諦めの混じった声が飛び交う中、ソフィーはふと周囲を見回した。
「ルキフェルは?」
「さっき庭にいたわよ。いつもの剣の稽古じゃない?」
カルロータが振り返らずに答えた。




