第八章① ソフィー
トルチュ島の朝は早い。
日が昇ると同時に港は目を覚まし、整備屋の鉄槌の音、物売りの叫び、酒場の扉が開く音までが渾然一体となって空気を震わせる。
仲間たちはそれぞれの予定を抱えて、島のどこかへ散っていった。
マテオは整備屋で船の補修部品の買い出しに。
ニールはまたしても市場の香辛料屋に顔を出すと豪語していた。
ルキフェルとコリンは港のほうで、誰かと会う約束があるらしい。
ジャスパーは「一人でいたい気分だ」とだけ言って、路地の向こうへ消えた。
結果として、ソフィーだけが取り残された。行き場もなく、彼女は路地裏の陽だまりをあてもなく歩き回る。その途中で、ふと昨日の会話を思い出した。
「そういえば……女性しか入れないっていう、ちょっと変わった酒屋があるって……言ってたっけ」
半信半疑のまま向かったのは、「夜の階段」の一角にある、古い木造の小さな店だった。暖簾をくぐると、外の喧噪が嘘のように遠ざかる。
深紅の絨毯、古びたシャンデリア、控えめに香る樹脂のような匂い。椅子に身を沈めているのは数人の女たち——海女、修理工の妻、元娼婦、そしてただの旅人。
肩書きは違っても、そこにいるのは皆、戦場を生き抜いてきた者の顔をしていた。
店主の中年女性に促され、ソフィーは奥のカウンター席に腰を下ろす。昼間から酒を口にするのは奇妙な気分だったが、差し出されたのは甘く、花の香りのするリキュールだった。
ソフィーはグラスを見つめ、小さく息をつく。
「……贅沢ね。昼からお酒なんて」
その独り言に答える者はいない。だが次の瞬間、隣の席からひそやかな声が漏れ聞こえてきた。
「聞いた? エドガー一味の銀の猫……」
「ああ、フェルナンドでしょ。港で見たわ。あんな顔で騙される女が、何人いることか」
「でも噂通りなら……寝てる時もナイフ隠してるって。こわい話よ」
銀の猫。ソフィーは思わず顔を上げた。
フェルナンド。その名は、聞き覚えがある。そうだ。以前、ジャスパーがぼやいていた。
「女の話が絶えねぇし、笑ってても目が笑ってねぇ。何かあったら、即座に人を刺すタイプだ」
記憶の中の声が、今の噂話と重なっていく。ソフィーはグラスを傾け、喉を潤しながら静かに呟いた。
「……気をつけた方がいいかもね。ほんとに」
それは噂の男に向けた言葉でもあり、この島そのものに向けた忠告のようでもあった。リキュールの甘さに紛れて、ソフィーは気づく。自分がこの奇妙な世界に、少しずつ馴染み始めていることに。
やがて店を出て、石段を降りていく。そのときだった。通りの向こうから、軽やかな足取りで男が現れた。
「やあ。なんだか見覚えのある顔がいると思ったら……まさか、また会えるとはね」
声をかけてきたのは、つい今しがた噂に上っていた当の本人——フェルナンドだった。栗毛色の髪を風になびかせ、歩みには隙がない。手にぶら下げた革袋から、微かに葡萄酒の香りが漂っている。噂と現実が静かに重なった。
「……あなた、旗偽装の件で、エドガー船長と一緒にいた……」
ソフィーの声はわずかに硬かった。噂をすれば影、とはまさにこのことだ。胸の奥で警鐘が鳴る。
「覚えててくれたのか、嬉しいね。あの時はずいぶんと面白い芝居を見せてもらった」
フェルナンドは軽やかに笑った。噂通り無駄にいい声だ、とソフィーは思う。柔らかく耳に残るのに、どこか信用できない響き。
「また芝居を観に来たの?」
牽制するように問うと、フェルナンドは肩をすくめた。
「今日は休演日さ。せっかくだからね、のんびり飲んで、景色でも眺めようと思ってた」
そう言って、身軽な仕草で手すりにもたれ、視線を海へ向ける。隙があるようで、決して背中を預けない立ち方だった。
「……ふうん。私は、ただの暇つぶしよ」
距離を取るように答えたつもりだった。だが——
「その暇つぶしに、ボクが付き合っても構わないかな? ちょうどいいタイミングだし。海を眺めながら、少し話でも」
思わせぶりな笑みとともに、フェルナンドは道端の石段を示した。まるで最初から、そこに座ることが決まっていたかのように。
……やっば。しまった。捕まった。
ソフィーは一瞬、顔をしかめる。逃げるには遅すぎて、断るには理由が足りない。仕方なく石段に腰を下ろすと、潮風が髪を揺らした。昼下がりの陽光は穏やかで、港町のざわめきが遠くに溶けていく。
フェルナンドは紙袋から小さなワイン瓶を取り出し、栓を抜いて一口含んだ。
「飲むかい? 甘いやつだ。昼から飲むには、ちょうどいい」
「遠慮しとくわ。私、酔うと顔に出るの」
「それは見てみたいな……冗談だよ」
軽く笑って肩をすくめると、彼は再び瓶を口に運んだ。
しばし、沈黙。その静けさに耐えきれず、ソフィーが口を開く。
「……あの、あなたたちの船長って、ああいう人なのね」
「ロジャース船長の第一印象、ってやつ?」
「うん。あの旗偽装のとき。言葉遣いは乱暴だけど……正直、まともな人なのか、危ない人なのか、まだよく分からない」
「それ、皆が最初に思うやつだな」
フェルナンドは頷いた。
「エドガーってのは……一見、気取った芝居がかった紳士だけど、本質は舞台役者みたいな男だよ。台詞も仕草も、全部『誰かに見せるため』のものだ」
少し間を置いて続ける。
「でも、その裏にある本心は……案外、誰にも見せてない」
「じゃあ……あなたも、本心を知らないの?」
「知ってる気になってただけかもしれないな」
フェルナンドは自嘲気味に笑った。
「ボクたちはみんな、それぞれに役を与えられている。でも時々思うんだ。本当にそれが、ボクの役だったのかって」
彼はふとワインの瓶を見つめる。
「でもまあ、誰だって何かを演じて生きてるよ。君も……ね」
「私?」
「そう。君も最初、無理して笑ってた。今は少し自然に見えるけど」
その視線が一瞬だけ鋭くなる。
「……誰の前でも本当の顔を出せるやつなんて、そういないさ」
ソフィーは一瞬、言葉に詰まった。だが、やがて小さく息を吐き、苦笑する。
「……そうね。最初はソフィーを演じてる感じだったかも」
フェルナンドが面白がるように眉を上げる。
「今は?」
——めんどくさい男だな、ほんとに。
そう思いながらもソフィーは肩をすくめた。
「うーん。今は……ソフィーって役が、ちょっとは馴染んできた、かな」
「いい答えだ」
フェルナンドは満足げに、ふっと笑った。
「君がどこに行くにしても、その“ソフィー”は捨てないほうがいい。作られた名前でも、自分で選んだ顔ならちゃんと本物になる」
——はいはい、出た出た。
ソフィーは内心で肩を竦めつつ、口では軽く返す。
「……あなたって、意外と詩人ね」
「それ、よく言われる」
からかうような口調。観察眼が鋭すぎる。警戒しているのも、適当に流しているのも、たぶん全部バレている。それでも気にしない。ひょいひょい寄ってくる女とは違う、という顔で見ているのが逆に腹立たしい。数秒の沈黙のあとフェルナンドは立ち上がり、港の方角へ視線を投げた。
「さて、そろそろ行くよ。日が沈む前に、顔を出さなきゃいけない場所がある」
二度と会いたくないんだけど。そんな本音は飲み込み、ソフィーは形式的に尋ねる。
「また、どこかで?」
「舞台の袖でな。……次は、観客か、共演者か。さて、どっちだろうな」
軽く手を振り、フェルナンドは人混みの中へ溶けていった。心に爪痕を一本、残していくつもりで。
ソフィーはその背中をしばらく見送ってから、ゆっくり立ち上がった。気づけば風が少しだけ涼しくなっている。港を背に石畳の路地を歩き出した、その時だった。すれ違いざま、三人組の男たちの一人が口笛を鳴らす。
「おっと……陽気な天使が通るぞ」
もう一人が笑い、わざと行く手を塞ぐ。
「なあ嬢ちゃん、一杯どうだい? 一人なら、俺たちと遊んでも損はさせないぜ」
声の調子も、距離の詰め方も、ただの軽薄な船乗りの挨拶じゃない。反応を楽しんでいる。
ソフィーは無言で立ち止まり、相手の顔をまっすぐ見た。次の瞬間。
——バンッ!
掌底が顎を正確に突き上げる。続けざまに膝蹴りが脇腹へ。
「ぐっ……!?」
よろめいた腕を取り、捻り上げ、壁へ押し付けるようにしてから地面へ転がす。あまりにも手際が良すぎて、残る二人が思わず後ずさった。
ソフィーは無言のまま立ち、睨みを利かせる。靴音も、呼吸音も、静寂に吸い込まれた。
「……おいおい、なんだこの女……!」
「冗談じゃねぇ、下手すりゃ骨折れるぞ」
男たちは顔を見合わせ、捨て台詞を吐きながら逃げていった。その様子を、少し離れた木陰から見ていたマテオが半ば駆け寄る。
「お、おいソフィー! 大丈夫か!?」
ソフィーはきょとんと首を傾げた。
「え? うん、大丈夫。っていうか、士官学校時代によくやってたから」
「いまの、なんの技だよ……!?」
「護身術。士官学校では必須科目だから」
淡々と言い切るソフィーにマテオはしばし固まり、やがて吹き出した。
「そりゃ敵なしだな。海賊より怖いじゃねぇか……!」
「そういう意味じゃ、士官学校って意外と荒れてたかもね」
二人で笑いながら歩き出す。港の喧騒はまだ遠くで鳴っている。
ソフィーはふと思った。
——ああ、そうだった。私はこういうしのぎ方を、ずっと覚えていた。
制服を脱いでも、記憶は消えない。身体は、忘れてくれない。そんな自分を、今は少しだけ頼もしいと思えた。
昼下がりの陽射しが坂道に長く影を落としていた。ソフィーとマテオは肩を並べて歩いている。港の喧噪から少し離れた路地には、潮風と熱を帯びた石畳の匂いだけが漂っていた。
「……にしても、お前、ほんとに軍人だったんだな」
ぽつりとマテオが言った。何気ない口調だったが、どこか感心したような響きが混じっている。
「いまさら?」
ソフィーが横目で見返すと、マテオは苦笑した。
「いや、頭では分かってたんだけどさ。さっきの動き見たら、急に実感湧いたっていうか……。ずっと柔らかそうな女の子って感じだったのに、あれは反則だろ」
少し間を置いて、冗談めかして続ける。
「正直、ちょっと惚れ直すくらい格好よかったぜ?」
「変なこと言わないで」
ソフィーは呆れたように肩をすくめたが、口元には小さな笑みが浮かんでいた。マテオはすぐに両手を上げる。
「冗談だって。口説いてるわけじゃねぇよ」
その言い方は軽かったが、そこに下心はなく、ただ仲間としての率直な評価があるだけだとソフィーには分かっていた。
「でもなぁ……」
マテオは少し考えるように歩調を緩める。
「お前が軍服着てる姿、もうちょっと見てみたかった気もするな」
「不釣り合いだと思うよ」
ソフィーは即座に返した。
「あの制服、肩がきつくてさ。いつも着崩して怒られてたし」
「へぇ……」
マテオは想像するように目を細める。
「なんか、分かる気がするな」
一瞬、空気が和らいだ。だが、彼はすぐに視線を前に戻し、声の調子を落とした。
「なあ、ソフィー」
呼びかけ方が変わる。
「お前……迷ってるのか?」
ソフィーはすぐには答えず、数歩分だけ黙って歩いた。石畳の継ぎ目を見つめたまま、やがて小さく息を吐く。
「うん。迷ってる」
視線は前に向けたままだ。
「フランスに戻ったところで、何があるのかって考えると……全然、分からないのに」
「けどさ」
マテオは空を仰ぐように言った。
「戻る場所があるって響き自体は、悪くないよな」
その声にはどこか遠くを見るような響きがあった。自分自身の過去を、ほんの一瞬重ねているのが伝わってくる。
「オレはもう、帰る場所なんて無ぇけどさ」
肩をすくめて続ける。
「でもソフィーは違う。ちゃんと信じて、待っててくれる奴がいるなら……それは、悪い話じゃねぇと思う」
ソフィーは足を止め、マテオの横顔を見た。粗野な言葉遣いの奥に、驚くほど温かい眼差しがある。
「でも……戻らないって選択肢も、あるんだよ」
マテオはすぐには答えず、道の先を見やったまま肩をすくめた。
「まあ、な」
それから、どこか照れ隠しのように続ける。
「こっちの世界には、オレたちがいるしな」
ソフィーは小さく息を吐いた。
「……そういう言い方、ちょっとずるい」
マテオは一瞬だけ口角を上げ、歩き出す。
「ずるいのが、海賊ってもんだろ?」
二人は顔を見合わせ、ほんの少しだけ笑った。風が吹き抜け、サトウキビと海の混ざった匂いが背後から押し寄せてくる。
「ま、決めるのはソフィーだ」
歩調を落とさず、マテオは言った。
「オレは、お前がどっちを選んでもちゃんと笑って受け止める」
「……うん。ありがと」
ソフィーはほんの少しだけ肩の力を抜いた。先をいくマテオの背中を眺めていたが、ふと視線を海へと向けた。陽を受けてきらきらと輝く波が、どこまでも広がっている。
そこには地図には載らない無数の道があり、そのすべてが「海賊」としての未来へと続いているように見えた。砲声。帆を裂く風。仲間たちの怒号と、腹の底からの笑い声。
見知らぬ海を越え、知らない街に降り立つ自分。港町の人々と交渉するジャスパー。真新しい航海日誌に、航路と天候を書き記すニール。ルキフェルの隣にはコリンとマテオ。その船の甲板に立ち、海図を広げる——海賊としての自分。まるでひと続きの夢のように、その光景が頭をよぎった。
ソフィーはほんの少し歩みを緩める。
……でも、どれもまだ現実感がない。確かに、そんな未来もあるのかもしれない。けれど、自分がそこにいていい理由をまだ見つけられていない気がした。胸が高鳴る一方で、心の奥では小さなざわめきが消えない。
海賊として生きるには、正義も法も曖昧すぎる。ここでは善も悪も、風向きひとつで簡単に裏返る。
そして——自分は、その不確かさをまだ受け入れきれていない。……たぶん、今はまだ。
フランスには、帰りたくない。でも、このままでいたいとも言い切れない。
自分の居場所がどこなのか。それを決めるには、まだ少し時間が足りない。
「決めるのは……私」
ソフィーは小さくつぶやいた。坂の上から宿の明かりが見えはじめる。
たった一日過ごしただけで、ここまで揺れる。けれど。それだけ何かが、確実に変わり始めているのかもしれない。そう思うと、ほんの少しだけ足取りが軽くなった。




