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第七章④ ソフィー&五人組

 その夜。

 宿屋の食堂には、香ばしい匂いが満ちていた。

 夕餉はカルロータの手料理だった。鍋ではタラとオリーブを白ワインで煮込んだソースが静かに泡立ち、焼きたてのライ麦パンには山羊のチーズが添えられている。小皿には、ひよこ豆と干しぶどうを和えた素朴なサラダ。

 旧大陸の保存食と地中海沿岸の調味料を巧みに使った、見事な献立だった。

 海賊たちは、スプーンを口いっぱいに運びながら素直に感嘆の声を上げている。

 その向かいでソフィーは静かに鶏肉の皮を切り分けながら、ふと彼らの笑顔を見つめた。

 この席に座ることが、いつからこんなにも自然になっていたのだろう。

「……うまいな」

 マテオが目を細めてフォークを口に運ぶ。その隣でニールが小さく頷いた。

「カルロータさんの料理、久しぶりだけど……やっぱりいいな。こういうの、船の食堂じゃなかなか出てこないし」

「……オレに対する文句か?」

 マテオが片眉を上げる。

「ち、違うって」

 ニールは苦笑してからスプーンを置いた。その表情がふっと真剣なものに変わる。

「で、さっきの話なんだけどさ」

 一同の視線が自然とソフィーに集まった。

「ソフィーを裏切った奴らのいる場所に戻るってのは……正気の沙汰じゃないよ」

 卓を囲む空気が一段階重くなる。誰もがその言葉をどこかで待っていた。同時に、誰かが切り出すのを恐れてもいた。

「まさか、あの手紙一通でフランスに戻るなんて言わないよな?」

 口火を切ったのはジャスパーだった。彼はソフィーの横顔を一瞥し、残ったパンをスープに浸す。

「あんたを追い出した連中のいる国に、何の未練がある? 帰ってどうなる。どうせまた、上の都合で振り回されるだけだろ」

「ジャスパーの言う通りだよ」

 ニールも声を重ねた。

「ジョルジュって人が君を思ってくれてるのは分かる。でも、それでも……君が生きて、ここにいてくれたから、僕らは救われたんだ。向こうの人たちは、それをちゃんと分かってるの?」

 ソフィーはわずかに視線を伏せた。誰もすぐには答えない。その沈黙を破ったのは、意外にもコリンだった。

「でも……だからって、全部切り捨てるのは違うよ」

「は?」

 ジャスパーが眉をひそめ、コリンはまっすぐにジャスパーを見返した。

「ジョルジュって人、ちゃんとソフィーの味方でいてくれたんでしょ? だったら……彼女がそこに戻りたいって思うなら、それを止めるのも違うと思う」

 その言葉にマテオが小さく頷いた。

「オレも同感だ」

 彼は皿の端をフォークでつつきながらソフィーを見る。

「ソフィーがどう選ぶかは、オレたちじゃ測れねぇ。それに、あの男。リーが言ってただろ。選択肢を持ってること自体が、もう強さだって」

 マテオは一旦フォークを置いて続けた。

「あんたはもう、自分の意志で道を選べるところに来てる。……味方が一人でもいりゃ、人は前に進めるもんだ」

 口を挟む者は誰一人としていない。みんな、マテオの言葉に聞き入っていた。マテオは静かにこうも言った。

「そのジョルジュってやつもさ。海軍の中で、ちゃんと彼女を信じてくれたんだろ? だったら──コリンの言う通り、あの国の全部を切り捨てる必要はねぇんじゃねぇか」

「マテオ、君まで……」

 ニールが眉をしかめる。

「別に戻れって言ってるわけじゃねぇよ」

 マテオは肩をすくめた。

「ただ、ソフィーが迷う理由くらい分かるってだけさ」

「……そうだね」

 今度はコリンが柔らかく口を開いた。

「ソフィーは……強いよ」

 その声は、はっきりしていた。

「自分の意思で動けるからこそ、みんなから信頼されてる。だから……どこに行っても、大丈夫だって、ぼくは思う」

 その言葉に、ソフィーの指がほんの少し止まった。

 ──信頼。自分がそれに値するのかどうか、何度も考えてきたはずだった。それでも、コリンのように迷いなく信じてくれる人がいる。その事実は、今の彼女には何よりも重たい現実だった。

 だからこそ、恐れている。もし海軍に戻れば、再び彼らと向き合うことになる。

 その現実が、彼女にとって何よりも怖かった。

「ところで!」

 パンッと手を叩き、話題を切り替えたのはカルロータだった。

「私はこの機会に、いよいよサン・マロに移転するつもりよ。思ったより仕事も回せそうだし、あっちの港でも女手は必要でしょ?」

「はやっ!」

 マテオが思わず声を上げ、口をあんぐりと開けた。

「それって、あんた本気だったのかよ。冗談かと思ってた」

 今度はジャスパーが眉をひそめて言った。

「本気に決まってるじゃない」

 カルロータは肩をすくめ、あっけらかんと続ける。

「ほら、あそこならちょっと洒落た宿も開けるし、情報屋連中との距離も取りやすいし……それに、フランス側の動きも掴みやすいでしょ?」

「え、つまりまだ諜報活動もやるってこと?」

 ニールが半ば呆れたように尋ねると、カルロータは楽しそうに笑った。

「ふふ、ほどほどにね。それに、海沿いの店って、いつかやってみたかったし。フランス語も喋れるしねえ。まあ、リスクはあるけど……面白そうじゃない?」

「だからって、さらっと重大発表すんなよ……」

 マテオが苦笑する。その隣でコリンは、やれやれといった様子で肩をすくめた。

 ——まったく、大人ってやつは。思いついたら即行動。こういうところは、ほんと敵わない。

 小さな笑いが卓を巡る。だが、それも長くは続かなかった。

 ルキフェルがゆっくりと椅子の背にもたれ、酒のグラスを指先で静かに回していた。そして、そのまま口を開く。

「……みんな、言いたいことは分かった」

 淡々とした声だった。

「だが──」

 翡翠の瞳だけが、ほんのわずかに鋭くなる。

「ソフィーが決めることだ。俺たちが口を出すことじゃない」

 その場に沈黙が落ちた。マテオも、ニールも、何か言いかけて口を閉じる。

「誰がどんな理由を持ってようが、結局、決めるのは本人だ。……だったら、俺たちはそれを受け止めるだけだろ」

 ソフィーはルキフェルの横顔を見つめた。言葉は少ない。だが、その声音には、はっきりと彼なりの信頼が込められていた。

 ──お前なら、自分で選べる。

 そう言われた気がして、ソフィーはようやく静かに息をついた。スープは少しぬるくなっていたが、胸の奥には熱が残っていた。


 夜は深く、港のざわめきもだいぶ遠のいていた。

 カルロータの宿屋の二階。木の床に軋むような足音が響くと、ソフィーは自室の扉を静かに閉めた。外からの光はランプ一つ。机の上には革張りの古い日記帳と、つけっぱなしのインク壺。椅子に腰掛けると、ため息まじりに羽根ペンを握った。その手はいつもよりも荒く、日記帳をめくる音もどこか苛立っている。ページを開くと、前の書きかけが滲んでいた。……まだ書き終えていなかった。羽根ペンにインクを浸し、深呼吸をして自分の内情と向き合い、静かに言葉を紡いでいく。


 私の旅はいつからこんなに早くなったんだろう。

 思い出を記すより、次の出来事が先にやってくる。


 そう書き添えると、彼女はインクを一度拭って、次の行に書き殴った。


 ニール

 潮風のように爽やかな青年。風のように人の言葉を受け流す彼が、今日ばかりは真剣だった。

 あんな声を聞いたのは初めて。きっと彼にとって私は誰かを守る理由になっていたのだろう。それが嬉しかった。けれど同時に、私が間違った方を選べば、彼の優しさが傷になる気がして怖い。


 ジャスパー

 朗らかで、茶化して、ふざけてばかり。でも、どこまでも誠実で、義理堅い。私は彼に、信じる価値のある仲間だと思ってもらえたのだろうか。今の私は、その信頼に報いられる人間だろうか。


 コリン

 あの年でよくもまあ、あれだけ芯のある言葉を言えるものだと思う。たぶん私よりずっと冷静で、大人だ。彼の目に映る私は、どんなふうに見えているんだろう。情けない姉のような、あるいは……?


 ペンが止まりかけたが、勢いで書き足す。


 マテオ。

 粗野で、口が悪くて、殴るのが先に出る人。でも今日の彼は……本当のことを言った。

「あんたはもう、選べるところにいる」。

 そう言われて、初めて気づいた。誰かの選択肢になることは怖い。でも、自分で選べることのほうが、もっと怖い。


 そして、トルチュ島のこと。


 港の名前はラ・カレータ。船と煙と銃声と……そして海の匂いが混ざった場所。

 まっすぐな道なんてないけど、それでも皆が生きている。

 ここでは、誰も私に役割を求めない。生きてるだけで認められる場所なんて、私は知らなかった。

 ……ここは、自由だ。めちゃくちゃで、汚くて、でも、確かに自由だ。


 そして最後の一行。ペン先が震える。


 ○ルキフェル

 あの人が何を思ってるか、私はたぶん全部は知らない。でも、あの一言で救われたのは確か。

「ソフィーが決めることだ」

 誰よりも私の意思を信じてくれた。


 インクが乾かぬうちに、ソフィーはペンを放り、机に突っ伏した。

 涙はこぼれなかった。ただ胸の奥が、軋むように苦しかった。

 返事はまだ出せない。だけど少なくとも——今の私は、迷っていい場所にいる。

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