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第七章③ ソフィー&五人組海賊&???

 陽が高く昇った或る昼下がり、キャプテンストリートの先。一角に見慣れぬ賑わいができていた。

 トルチュ島にしては珍しい、絢爛な絹布や金細工の並ぶ仮設の屋台。

 噂によれば、東洋の貿易船が一時的に停泊しており、数日間だけ露店を出すという。

「うわっ、あれ見て! 金色の象? いや、獅子? 何これ、置物? それとも武器か?」

 ニールが真っ先に駆け寄る。大きな瞳をキラキラさせながら、仏具のような彫刻を食い入るように眺めていた。

「それはシャムの守護獣だな、たぶん。武器って、牙は飾りだろ」

 ジャスパーは肩をすくめて、気の抜けた声で答える。興味がないのか、屋台の品々を一瞥しただけでもう退屈そうに辺りをうろついている。

 ソフィーはというと、少し離れた香料の屋台に足を止めた。木の実を潰したもの、干した花びら、煙のような香りを放つ黒い粉。名前も読み方も分からないが、理由のない既視感を伴う香りが混じっていた。

「それ、シャムの葬送用の香よ。死者の魂を静かにするって言われてるの」

 店の奥から、歳のいった女主人が穏やかに声をかけてきた。

「……顔に色が出てるね。香りは、記憶より先に心を揺らすものだよ?」

「……いえ、なんでもないです」

 ソフィーは首を横に振ったが、胸の奥に風が吹いた気がした。

「ソフィー! こっち、すごいよ! 水に浮かぶ花みたいな料理があるんだ。甘いのか、辛いのか……たぶん、両方だ!」

 ニールの声が遠くから響いた。いつの間にか、試食用の茶碗を両手に抱えていた。

「おれは遠慮しとく。変なスパイスに当たって腹下したら、誰が看病すんだ」

 ジャスパーが素っ気なく言い捨てる。その横で、ニールは「そんなこと言って、意外と辛いの好きなくせに」とぶつぶつ文句を言っていた。

 三人の歩調はまばらで、それぞれ別の方向に興味が向いていたが、不思議と離れすぎることはなかった。

 香料の屋台を離れ、ソフィーはゆるやかな通りを歩いていた。仮設の屋根から差し込む陽光の下、風に揺れる布と聞きなれない言葉のざわめきに包まれながら、ふとその声が背後から投げかけられた。

「ここにいましたか。まさか、こんなに早く会えるとは思わなかったです」

 ソフィーは立ち止まった。振り向くと、そこにいたのは一人の男——浅黒い肌、紺色の上着に繊細な刺繍が施され、金で縁取られた短帽を被っている。歳は四十手前だろうか。東洋風の丁寧な身なりと、どこか商人とは思えぬ落ち着いた眼差し。

「……私に、何か?」

 ソフィーが問うと、男は穏やかに笑んだ。

「あなたは、ルノアールの血を引く娘ですよね」

 ソフィーの心臓が一瞬で冷えた。

「なるほど、この島に似合わぬ凛々しい面差しです」

 男の目は、まるで旧知の人間を見るようなまなざしだった。

「……なぜ、ルノアールの名を?」

 ソフィーが顔を引き攣らせていると、男は笑んだまま応える。

「わたし、仏国の北部であなたを一度だけ見かけたことがあります」

 動揺した。自分が知らないはずの男。そしてこの男が知らないはずの、自分の過去。だが、それは確かに、自分の深いところに沈んでいるものを揺さぶった。

「ちょっと待った」

 鋭い声が割って入った。男の肩を掴んだのはジャスパーだった。通りの喧騒の中でも、その目だけははっきりと獲物を捉えている。

「今、何つった? ソフィーの名を知ってるって……あんた、どこの誰だよ」

 男は一瞬だけ視線をジャスパーに向け、それから静かに息を整えた。

「名乗るほどの者ではありませんが……商いのついでに、この御方の安否を確かめに来ただけです」

「軽口叩いてる場合?」

 今度はニールが背後から回り込み、男の反対側の腕を押さえた。逃げ道は完全に塞がれている。

「あ、ちょっと……!」

 ソフィーが止めようと声を上げた時には、すでに遅かった。

「大人しく来い。まともに話す気があるなら、そっちの宿でゆっくり聞かせてもらおうか」

 ジャスパーはそう言って腰の短剣に手をかける。男を睨みつけるその視線に一切の冗談はなかった。

「力ずくは感心しませんね」

 男は皮肉めいた笑みを浮かべたが、抵抗する様子はない。その落ち着きがかえって不気味だった。

 ジャスパーはちらりとニールを見やる。

「おれがこいつを連れていく。ニール、お前はソフィーのそばにいろ」

「……了解」

 短く頷き、ニールはソフィーの隣へと戻る。

 ジャスパーは男の腕を掴んだまま、通りを押し分けるように歩き出した。

 東洋の商人はざわつく店主たちの視線を受けながらも、どこか達観した表情で連行されていく。その背中には恐怖よりも覚悟に近いものが滲んでいた。

「……ソフィー、大丈夫?」

 ニールが少しだけ声を落として問いかける。

「うん……」

 そう答えながらも、ソフィーは胸元で指先を強く握りしめていた。

「でも……あの人、何か知ってる。きっと、私のことを」

 風の匂いがいつの間にか変わっていた。まるで、過去そのものが東から吹いてきたかのように。


 宿屋の一室。カーテンが引かれ、昼間にもかかわらず薄暗い空間に、ルキフェルの低い声が落ちた。

「……話してもらおうか」

 問い詰められた東洋の男は、もはや商人らしい穏やかさを装ってはいなかった。着流し風の上着の内側には細身の短剣。そして解読不能な文字で埋め尽くされた小さな手帳。カウンターの奥で、カルロータが黙って湯を注ぎ、熱い茶を差し出す。

「……で、名前は?」

 椅子にもたれたまま、視線だけを男に向けてルキフェルが問う。

 男は肩をすくめ、軽く笑った。

「リー・ウェンと申します。サン・マロを経由して、この島まで。ただの伝書鳩ですよ。少なくとも、表向きはね」

「なるほど……リー・ウェン、か」

 短く復唱したのはルキフェルだった。その横でソフィーが意を決したように口を開く。

「……それで、なぜ私を知っているんですか?」

 リー・ウェンは小さく鼻で笑い、両肩をすくめる。

「知っている、は言い過ぎでしょうな。正確には、見かけただけです」

 一瞬、間を置いてから続ける。

「ブレストの港で。……あなたの上官、マクシムさんと取引をしていた折のことです」

 その名に、室内の空気がわずかに変わった。ルキフェルの眼差しが、ほんの一段鋭くなる。

「隊長と……どんな取引を?」

 問い返したのはソフィーだった。

「品は、乾燥させた《マンドレイク》です。眠りを誘う毒とも、麻酔とも言われる妙薬。西で扱える者は、そう多くありません」

「……マンドレイク」

 ソフィーの声がかすかに震えた。彼女の脳裏をよぎるのは、あの手術台の記憶。傍らで、コリンが無意識に傷の残る片腕を見下ろしている。

「マクシムさんは、何度か取引を重ねましたがね」

 リー・ウェンは淡々と続ける。

「品の価値をよく理解しておられる。誠実で、話も早い。ええ……良い取引相手です。彼と話すのは、なかなか楽しい」

「……その取引の最中に、ソフィーを見たってわけか」

 ルキフェルの言葉に、リー・ウェンはゆっくりと頷いた。

「あの日、港でお会いしました。マクシムさんが軍港から抜け出す、まさにその直前です」

 わずかに目を細め、記憶をなぞるように言う。

「忘れようにも、印象的な光景でしたからな。──まるで、逃亡者とその従者たちのようでした」

 ソフィーは言葉を失い、ただ男を見つめていた。

 この男は、ブレストにいた。マクシムと繋がり、自分たちの出立を遠くから見ていた。

 マクシムの名が出たあたりから海賊たちの空気が張りつめている。

 宿敵の名を、異国の男の口から聞くとは思っていなかったのだろう。

 沈黙が尋問の場を覆う。その静けさを破ったのはマテオだった。

「……それにしても、妙だな」

 壁にもたれ、腕を組んだままじっとリー・ウェンを見据える。

「なんであんたが今、ここにいる? 東洋の商人がふらっとトルチュに来るほど、この島は甘くない」

 リー・ウェンは小さく笑った。肩をすくめ、あっさりと言う。

「確かに偶然ではありませんな。別件でサン・マロに滞在していた折、わたしのもとに手紙が届いたのです。あなたの同志、ジョルジュ・アルダーソン殿より」

 ソフィーが思わず顔を上げた。

「……ジョルジュが!?」

「ええ。情報屋仲間を通じて、手紙だけが渡されました。中身は依頼の要件と──『二人きりで会いたい』という一文だけ。なかなか大胆な指定でしたよ」

 リーはくつりと喉を鳴らし、続ける。

「彼は我々の繋がりをどうにか突き止めたようでした。マクシミリアン・ブーケ殿とわたしが過去に接触していたこと、そして、わたしがフランス沿岸部を行き来する情報屋であることも。なかなか聡明な若者ですな。少々……無鉄砲でしたが」

「まさか……直接会ったの?」

 ソフィーの問いに、リーは静かに頷いた。

「はい。慎重に、極めて秘密裏に」

 その声がわずかに低くなる。

「表の記録には残らぬ手段を用いました。彼は表向きには軍属のまま、わたしのもとを訪れ、こう言ったのです。『マクシミリアン・ブーケには、疑わしき点がある』と」

「……!」

 ソフィーは息を呑んだ。その沈黙を破ったのはマテオだった。視線を落としたまま、ぽつりと呟く。

「そいつ、バカだな。真面目で、不器用で……バカがつくほど義理堅い」

「ですが」

 リーは即座に言葉を継いだ。

「心には一点の曇りもありませんでしたよ」

 それは評価であり、断言だった。

「彼は、あなたに伝えるべき言葉があると感じたのです。ですから、わたしはここへ来た。仮初の商いを装い、誰かが反応するのを待っていたのです。──結果、案外早く見つけられました」

 その時、腕を組んで黙っていたジャスパーが低く口を開いた。

「それじゃあ、なんでジョルジュって奴はあんたを訪ねたんだ」

 リーは懐から古びた紙片を取り出した。角の擦れた、一通の手紙。

「これが、彼からの手紙です。『ある軍医の消息を探ってほしい』、そう書かれていました」

「軍医……?」

 ソフィーの声がわずかに揺れた。

「そう。あなたのことですよ、ソフィーさん」

 リーは静かに告げる。

「あなたはただ一人の行方不明者として、軍はすべてを処理した。だが、彼はそこに違和感を覚えたのです」

「……行方不明者?」

 ニールが思わず声を上げた。

「ジョルジュ殿は、あなたが生きている可能性を信じていました。そして、マクシミリアン・ブーケ。その理想家の皮をかぶった男に疑いを持ち始めていた」

 リーの視線がソフィーに向けられる。

「だからこそ、貴族の側にいる信頼できる女性たち──」

「……スザンヌのことだ」

 ソフィーが小さく呟いた。

 その瞬間、ギィィと椅子が小さく悲鳴を上げた。ルキフェルが座り直した拍子だった。

 誰も見ていない、誰も何も言わない。けれど、その音だけが不自然なほどはっきりと耳に残った。

 リーは軽く頷く。

「ええ。彼女たちの力を借りて、ジョルジュは社交界という水脈に目を向けたのです。そこには、裏の情報が流れ込む。──東洋の出自で、密かに貴族間の取引や調停に関わる情報屋として動くリー・ウェンという男がいる、とね」

 ジャスパーが鼻を鳴らした。

「……あんた、そんな立場でもあったのかよ」

「ええ。裏と表を行き来するのが商人というもの」

 リーは淡々と言った。

「わたしの仕事は、秘密の交通整理。敵にも味方にもならず、ただ道を見極め、伝えるべきことを伝える」

「じゃあ……」

 ソフィーがゆっくりと問いを重ねる。

「ジョルジュが、私を探してほしいって……?」

 リーは、はっきりと頷いた。

「彼は言いました。『あの人は、まだ生きていると信じてる。誰にも告げず、でも諦めずに、ずっと探してきたんだ』と」

 一呼吸置いて、リー・ウェンは続けた。

「──彼の目は、欺瞞のない眼でした。だからこそ、わたしは請け負ったのです」

 ソフィーは答えられなかった。唇が震えるのを抑えながら、ただ拳を固く握る。

 その横顔をルキフェルが無言で見つめていた。

 しばしの沈黙のあと、リー・ウェンが椅子に姿勢を正す。

 まるで、これまでのやり取りがすべて前置きだったかのように。そこから先の声には静かな重みがあった。

「さて、ソフィーさん」

 落ち着いた口調でリーは言った。

「あなたには選択肢が二つ、あります」

「……選択肢?」

 ソフィーが息を呑む。その反応を待たず、マテオが眉をひそめて口を挟んだ。

「しかも二つかよ。そっちで勝手に線引きすんなっての」

 リーは気分を害した様子もなく、指を二本立てて続ける。

「一つ目。あなたは、この場で海賊としての暮らしをやめ、わたしと共にフランス本土へ戻る」

 一同の空気がわずかに張りつめた。

「ブレストでも、サン・マロでも、あなたを迎える者はいます。──とくに、ジョルジュ・アルダーソン殿は」

「……!」

 その名が落ちた瞬間、誰もが息を詰めた。

「彼は、あなたが見つかった時のために明確な意志をわたしに伝えていました。『彼女自身が選ぶなら、その選択を尊重したい』と」

 ソフィーの胸に微かな痛みのようなものが走る。

「……ジョルジュが?」

 リーはゆっくりと頷いた。

「はい。あなたを待つのではなく、決めさせてほしいと。あの男は、誰よりもあなたの意思を信じていました」

 マテオは視線を逸らした。だがソフィーは、まっすぐにリーの目を見つめたまま、硬くなった呼吸で問い返す。

「……もう一つは?」

「二つ目」

 リーは静かに続ける。

「今のまま、フランスへは戻らず、このまま海賊として生きることです」

「……」

「その場合、ジョルジュ殿の望みは叶いません。ですが、彼の願い。あなたの選択を尊重するという一点においては叶います」

 言い切ったあと、リーは視線を落とした。ほんのわずかに思慮の余白が生まれる。

「あなたがフランスへ戻る理由がいま、どこにあるのか。それは、わたしには分かりません」

 それから、リー・ウェンはソフィーを見て静かに続けた。

「……ですが。戻らない理由があることもまた、理解しています」

 ソフィーは言葉を失った。頭の中に、ジョルジュの姿が浮かんでは消える。

 海軍で過ごした日々。穏やかな声。真面目すぎる眼差し。──最後まで、自分を信じてくれた人。

 けれど。ルキフェル。マテオ。ニール。ジャスパー。コリン。

 いま、この場にいる者たちの顔がその記憶を静かに押しのけてきた。

「──答えは、今すぐでなくて構いません」

 リーは立ち上がる。長い上着の裾がふわりと揺れた。

「わたしは一週間後、サン・マロへ向けて出発します。その日までに、返事をいただければ」

「……わかった」

 ソフィーはようやくそれだけを口にした。

 リーは一礼し、扉へ向かう。その背中に、ルキフェルがぽつりと声を投げる。

「随分と、穏やかな提案じゃないか。……ずいぶん、らしくねぇ」

 リーは足を止めず、微笑だけを返した。

「ふふ。そう言われることにも、もう慣れました」

 扉が開き、夕陽の名残が室内に差し込む。

「では、また。──風の流れが、あなたを導きますように」

 そう言い残し、リー・ウェンは静かに宿屋を去っていった。

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