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第七章② ソフィーとルキフェル

 外に出ると、午後のトルチュ島には暑さと潮風が入り混じった空気が漂っている。

 市場通りでは異国の言葉と怒号が飛び交い、陽光を反射する刃物や装飾品の屋台が目を引いた。

 それでも、カルロータは横目もくれずに歩いていく。

 ソフィーはその背中を見つめながら、ふと思った。

 ——この人は、きっとどこへ行っても旅人でいられるのだろう。

 自由で、逞しくて。そして、ほんの少しだけ寂しそうな。

 やがて、見慣れた宿の建物が近づいてくる。

 宿に入り、食堂でカップとお湯を用意し、階段を上がってソフィーの部屋へと入ると扉が静かに閉じられた。その音とともに街の喧騒が一気に遠ざかる。

 差し込む午後の陽射しの中で、カルロータはようやく足を止め、ソフィーに向き直った。そして、冗談めかしたような、それでいて探る視線を含んだ声で言う。

「ルキフェルから聞いたのよ。……あなたのこと」

 ソフィーの背筋に微かな緊張が走る。

「……彼から、何を聞いたんですか?」

 カルロータは一瞬だけ目を瞬かせ、それから肩をすくめた。

「あなたがフランスの海軍士官だってこと。それも……軍医さんだって」

 その言葉に、ソフィーは息を詰めた。

「それからね。あなたを信じたいって言う反面、信じたくないとも言ってたわ」

「……」

 困惑したまま言葉を失うソフィーに、カルロータは少し困ったように眉を下げる。

「彼、言葉にするのが本当に下手よね。それしか言わなかった」

 小さく息を吐いてから、ぽつりと付け加える。

「もしかすると……『赦したいけど、赦せない』って言いたかったのかもしれないわ」

 その一言で、ソフィーの中に何かが静かに落ちた。

「それって……フランソワ船長が、関わってくるんでしょうか」

 問いかけながら、ソフィーの思考は否応なく深みに沈んでいく。

 ルキフェルは、自分を仲間として見てくれている。けれど同時に、自分を通してフランス海軍を見ているのではないか。フランソワの死に関する誤解は解けたかもしれない。

 それでも、彼の中に残る憎しみはまだ消えていない。……いや、これから向き合っていくしかないのだろうか。

 カルロータは、そんなソフィーの沈黙を見つめてから軽く笑った。

「まあ、本当のところは分からないわね。彼、無愛想だし」

 くすりと笑って続ける。

「本当は、あなたとの関係を聞きたかっただけなのにね」

 そして、ふと思い出したように声を上げた。

「あ、そうそう!」

 身を乗り出して、少しだけ楽しそうに言う。

「あなたのこと、『なんとなく斬り捨ててはいけない人間な気がする』とも言ってたわよ」

「……一体、どうしてですか?」

 ソフィーが思わず問い返すと、カルロータは首を傾げる。

「さあ。でもね、なんか独り言みたいに言ってた」

 それから少し真面目な表情に戻る。

「私も、最初はびっくりして聞いたのよ。でも理由は明かしてくれなかった。ただ……」

 ティーカップを並べながら少し眉を下げる。

「彼、あなたのことで相当悩んでるみたいだった」

 カップに茶葉を入れながら思い出したように続ける。

「たぶんね、フランソワ船長の教えも影響してるんじゃないかしら。……あくまで、私の推測だけど」

「教え……?」

 ソフィーが首をかしげると、カルロータは慎重に言葉を選ぶように口を開いた。

「海賊ってね、船ごとに掟がまったく違うの。フランソワ船長はその中でも、かなり穏健な人だったわ。無益な殺傷はしない、仲間同士の争いは禁止……まるで軍隊みたいな規律を重んじてた」

 少し間を置いて肩をすくめる。

「まあ、実際フランス政府公認の私掠船だったものね」

「……その話、噂で聞いたことがあります」

 ソフィーはうなずいた。

 第四部隊——訓練・育成部隊にいた頃、ジョルジュと共に過ごしていた時期。

 士官候補生たちが、半ば武勇伝のように囁いていた名だ。

 フランソワの船は、かつてフランスに忠誠を尽くした船団。……そんな噂を。

「……じゃあ、どうして彼らは海賊に?」

「ルキフェルから聞いた限りだけど」

 カルロータは湯を注ぎながら、淡々と続けた。

「ある日突然、言われたそうよ。『お前たちはもう用済みだ』って。……解雇」

 苦笑が彼女の口元に浮かぶ。

「何年もフランスのために命を張って戦ってきたのに。敵の船も、時には同じ私掠船すら沈めてきた。それなのに、最後はポイ捨て同然」

 カップから立ち上る湯気の向こうで、カルロータの目が細くなる。

「……その数年後には反乱分子として討伐されて、あの海で沈んだ。理不尽よね」

 ソフィーの胸に、言葉にできない痛みが広がった。同時に拭えない疑念も浮かぶ。

 ——政府が一方的に切り捨てるほどの事情が、本当にそれだけだったのだろうか。

「……あ、お茶を入れなきゃね」

 カルロータがふっと空気を変えるように言い、茶葉を蒸らし始める。ミントの強い香りが部屋いっぱいに広がった。

「ミント茶、飲んだことある?」

「いいえ、一度も」

 差し出されたカップを口に含むと、驚くほど柔らかな清涼感が喉を抜けた。身体の奥に溜まっていた緊張が、すっとほどけていく。

「……美味しいです」

 その一言に、カルロータがにっこりと笑う。

「飲み方が綺麗。……やっぱり、こういうところはさすが貴族ね」

 軽口のようでいて、どこか複雑な響きを含んだ声音だった。

「うーん……どうなんでしょう」

 ソフィーはカップを置き、少し考えてから答える。

「私、貴族って言えるんでしょうか。違うような、違わないような……ちょっと事情が複雑で」

 そして、静かに言葉を継いだ。

「昔は、身寄りのない孤児でした。孤児院の先生から聞いた話なんですが……まだ雪が残る春の日に、赤ん坊の私が籠に入れられて捨てられていたそうです。両親は誰かも分からなくて……たぶん、母親が育てられなかったんでしょうね。でも、今では仕方なかったんだと思っています」

 紅茶の湯気がゆらりと揺れる。

「それでも、孤児院では毎日楽しくて。友達がいて、遊ぶ時間があって……」

 少しだけ視線を落とす。

「六歳になるまでは。貴族の家庭に引き取られるまでは、ですけど」

 ふとソフィーの声が途切れる。押し寄せる感情の波に表情が曇った。

「……少し、一人にさせてくれますか」

「ええ。疲れてるのね。夕食まで、ゆっくり休んで」

 カルロータは立ち上がり、そっと部屋を出ていった。

 パタンと扉が閉じる。すると、その瞬間——

「……っ!」

 窓の方から、かすかな物音がした。

 ベランダの扉を開けると、そこにいたのは——

「……ルキフェル……?」

 傷だらけの男がこちらに背を向け、半端な格好で手すりに身を乗り出していた。ベランダから飛び降りようとしたのか、手すりに片足を乗せている。やがてルキフェルはため息をつき、ゆっくり振り返り手すりに凭れてソフィーと向かい合った。

 この男の奇怪な行動にソフィーは目を見開き、思わず室内へ後ずさる。

「っ、な、なに勝手に人の部屋に!」

 こんな形で現れるなんて、反則だ。息が苦しい。頭が真っ白になる。

「悪い。お前とカルロータの間に何かあったら、と思ってな」

「え、私が何かやらかすと思った? それともカルロータ?」

「……いや、俺の考えすぎだ。謝る」

「私がカルロータに何かすると思ったの?」

 ルキフェルは窓際に手を置いたまま、低く言った。

「……正直に言うと、ちょっと耳を澄ませてしまったんだ。悪かった。だが、もう必要以上に覗き込むつもりはない」

 その声はいつになく静かで、やけに穏やかだった。

「落ち着け。……もう、逃げたりしないから」

 ソフィーの肩がびくりと震える。けれど、そのまま追ってくるでもなく、ルキフェルは部屋に入ろうとはしなかった。むしろ、静かに様子を見ているだけだ。

「……な、なんで……」

「お前の顔が、そう言ってる。誰かに話したいって」

 その言葉にソフィーは思わずルキフェルの瞳を見つめ返した。翡翠色の双眸。鋭く、冷たいはずのその色が、今は不思議なほど静かで逃げ道を塞がない距離を保っている。

 どうしてこの人は、ここに居続けているんだろう。勝手に現れて、勝手に去ることもできただろうに。問い詰めることも、踏み込むこともせず、ただ待つという選択をしている。

 ふと、カルロータの言葉が脳裏をよぎった。

 ——信じたいって言う反面、信じたくないって。

 ああ、そうか、と腑に落ちる。彼はきっと、私を信じたいのだ。

 フランス海軍の象徴でも、過去の因縁でもなく、ソフィーという一人の人間として。

 胸の奥がかすかに熱を帯びる。それは期待でも、甘さでもない。ただ、確かな重みを伴った感情だった。

 ——私も、彼を信じたい。いや……もう、信じているのかもしれない。すべてを打ち明けたいわけじゃない。過去の全部を、言葉にして差し出す覚悟はまだない。

 けれど、ここで自分の過去を晒すという行為そのものが信頼の形になるのだとしたら。

 その先で拒絶されても。誤解されても、憎まれても。

 それはもう、相手の選択だ。——私は、逃げない。

 ソフィーは唇を噛みしめ、ほんの少しだけ視線を落とした。そして、静かに息を整えてから顔を上げる。

「……そうね。分かった」

 その声にはもう揺らぎはなかった。

「続きを話す」

 その声は、さっきまでとは違う。どこか、少しだけ自分を許せたような……そんな響きだった。ミントの香りはまだ部屋の中に残っていたが、ソフィーの口調からは、あの優しい紅茶時間の余韻はもう感じられなかった。彼女は椅子に座り直すと膝の上で手を重ね、深く息を吸って言った。

「私は、ずっと孤児だと思ってたの。でも本当は違った。もしかしたら、私には血筋があるかもしれない」

 ルキフェルは微動だにせず、ただ黙って聞いている。

「私の出自は……ルノアール家。代々、海軍に仕える軍医の一族。その長女が、秘密の恋人と駆け落ちして…すぐに消息を絶った」

 言葉の端々が震えていた。ルキフェルは何も言わず、ただ目を細めるだけだ。

「でも、後から分かったの。彼女は妊娠してて、私を産んだあと孤児院に預けて、自分は消えたのかもしれない」

「……じゃあ、お前はその長女の娘?」

 ソフィーはうなずいた。

「信じたくなかった。でも、私を引き取ったという人たちは、ルノアール家の弟夫婦……つまり私の叔父と叔父の奥さんだったの。彼らは私を庶子として扱い、正式な娘としてではなく、男として育てた」

「……なぜ男として?」

「簡単よ。軍に入れて出世させたかったの。女よりも男の方が海軍では有利だから。……実際、十四までは少年として、誰にも疑われず育ってきた。でも、私は……それが、嫌だった」

 ソフィーはふっと目を伏せた。

「私の意思で、女として海軍士官学校に入った。叔父の意向を無視して。これが何を意味するか、分かってた。庇護も後ろ盾も捨てて、ひとりで生きるということ。それでも……私は、自分の足で立ちたかった」

 静寂が落ちる。カップの中のミントティーは、もうすっかり冷めていた。

 ルキフェルが、ようやく口を開く。

「……そりゃあ、波風も立つわけだ」

「笑えばいいじゃない。身の程知らずな女の話を」

「笑ってない」

 ルキフェルは窓際に立ったまま、真剣な目で彼女を見ていた。その瞳は、どこかで自分自身を映しているようでもあった。

「ただ……納得しただけだ。お前の覚悟は、口先じゃなかったってことに」

 ソフィーは一瞬だけ、唇を噛んだ。言ってよかったのか、まだわからない。けれど言わずにいれば、ずっとこの胸の苦しさは消えなかったはずだ。

「……あなたは? あなたも、昔のことを話してくれるの?」

 その問いにルキフェルの目が細められる。そして、ほんのわずかに笑った。

「俺の話は、もう少し酒が入ってからの方がいい」

「じゃあ、ミントティーで我慢して」

 少しだけ和らいだ空気の中で、ふたりの間に沈黙が落ちた。けれどそれは、不安からくる沈黙ではなかった。やっと、少しだけ同じ地面の上に立てたような、そんな沈黙だった。

 ルキフェルは静かにソフィーの方を見たまま、わざとらしく息を吐く。

「そうだな。じゃあ、俺の昔話もしてやろうか」

「え、本当に?」

 ソフィーが目を見開くと、ルキフェルはソファの背にもたれ、どこか遠くを眺めるような顔つきになった。

「昔のことなんて、大抵どうでもよくなるもんだ。今さら何を語ったって、風に流れて消えるだけさ」

「ふーん……」

「ああ、それに……思い出せねえんだよな。肝心なところが」

「……」

 ソフィーの眉がぴくりと跳ねた。

「……ちょっと待って。それってつまり、話すって言っといて、“何も覚えてない”ってこと?」

「ま、そうなるな」

「なんでそんなドヤ顔なのよ……!」

「俺に期待する方が間違いだ」

 涼しい顔で断言するルキフェルに、ソフィーは呆れて肩を落とした。

「じゃあ、なんで私にはあんなに喋らせたの?」

「お前は誰かに聞いてほしかった。それだけだ」

「……」

 ソフィーは、ルキフェルの無責任なようでどこか誠実な答えに、なんとも言えない顔をするしかなかった。しばらく沈黙が続く。

 やがて、ルキフェルはソファの背にもたれたまま、ぽつりと付け加えた。

「……まあ、捨てたってことにしといてくれ。昔のことなんて、碌なもんじゃなかった気がするしな」

 それが本音なのか、ただの照れ隠しなのか、ソフィーには判断がつかなかった。だが、それ以上は聞けないと感じた。

「……ずるいわね、あなた」

「よく言われる」

 肩をすくめて笑うルキフェルの横顔に、どこか影が射しているように思えた。そしてソフィーは、これ以上は彼の過去について触れず、しばらく黙ってルキフェルを見つめていた。

 彼の表情はどこまでも平静で──まるで何も背負っていない人間のようにすら見えた。

 けれど、違う。彼は思い出せないのではなく、自分で蓋をしているのだ。

 ——それに、気づいていないはずがない。

 ソフィーはゆっくりと立ち上がった。椅子の脚が床を擦る、静かな音が部屋に響く。歩み寄ることも、見下ろすこともせず、彼女はただ、同じ高さで立ったまま言葉を紡いだ。

「あなたは、恐怖から閉ざしているだけ」

 ルキフェルのまぶたがわずかに揺れた。けれど、彼は何も言わない。ただじっと彼女を見ている。

「あなたが本当に恐れているのは、過去じゃない。──自分自身よ。思い出すことを拒むほどに、あなたは……自分の中の何かを、怖がってるの」

 静かな口調だった。けれど、その言葉には剣のような鋭さがあった。

 痛みを知る者にしか持ちえない、優しさと覚悟のこもった刃。

「でも……それと向き合わなければ、本当の意味で“強い”とは言えない」

 ソフィーの声がわずかに震えた。彼女自身、戦ってきた。

 医者としての無力、仲間を救えなかった悔しさ、上官に裏切られた過去──それでも彼女は、目を背けずにここに立っている。

「感情を殺すことだけが強さじゃない。自分の弱さと向き合うこと……それが、いちばん難しくて、いちばん……強いことなのよ」

 沈黙が落ちた。潮風がカーテンを揺らす。その音だけが、二人の間に静かに流れている。

 ルキフェルはやがて顔を少し背けた。いつものような皮肉も、気の利いた冗談も浮かばない。

「……ああ、そうか。俺は……俺自身が怖かったのか」

 そう呟いたその声は、いつになくかすれていた。

 彼が初めて、誰かの言葉に押し返された瞬間だった。

 そしてソフィーもまた、自分の胸の内に湧き上がるざらりとした感情を抱きしめながら、そっと目を伏せた。──今、この瞬間。正義と強さがぶつかった。そして、互いを否定するのではなく、初めて交差した。

「あなたは充分強い。でも、それと向き合わなきゃ……あなたは、本当の意味で強くはなれない」

 その言葉は静かにルキフェルの胸の奥へ沈んでいった。やがて彼は長いため息をついて、いつもの調子を取り戻そうとするようにわざとらしく肩をすくめた。

「……まいったな、ソフィー。お前に言われるとはな……女ってのは、やっぱ怖いな」

「女とか関係ないでしょ、馬鹿」

 そう返すソフィーの声はどこかあたたかくて。気づけば、二人の間にあった見えない壁が少しだけ溶けていた。

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