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第七章① ソフィー

 昼下がりのトルチュ島。

 陽射しはまだ強いが、潮風がわずかに和らいで感じられるのは腹が満たされているせいだろうか。

「よし、それじゃ行こうか、ソフィー」

 伸びをしながら声をかけたのはコリンだった。ソフィーは軽く頷く。

 エドガー・ロジャースの黒船から無事に戻り、宿で昼食を取ったあとの束の間の自由な時間だ。

 二人は食堂を出ると、そのままキャプテンストリートへ向かった。昼の通りは夜とは違う顔を見せている。屋台から立ちのぼる香辛料の匂い。荷を下ろす商人たちの声。すれ違う住人たちの挨拶が、波音と混ざり合って響いていた。

「ここ、昼でもけっこう賑やかね。あ、あの角の革細工の店……昨日と品揃えが変わってる」

 ソフィーが足を止めて言う。

「ここは『毎日が市』みたいなもんだからね。気を抜くと、昨日見た物はもうどこかの船の中さ」

 コリンは肩をすくめて答えた。二人が足を向けたのは先ほど立ち寄った宝石店——ディッキーが店番をしている、古びた木組みの店だった。真鍮の鈴を鳴らして扉を押すと、奥から顔を出したのはやはり彼だった。

「……あれ。君たち?」

 ディッキーは少し意外そうに目を瞬かせる。

「うん。ちょっと、聞きたいことがあって」

 ソフィーはそう言ってから一歩前に出た。

「さっき、あなたが『東洋の職人の仕事かもしれない』って言ってたでしょう? それで……この首飾りのことを、ちゃんと知りたくなって」

 胸元に手を添え、銀細工のネックレスを指先でそっとなぞる。冷たいはずの感触がなぜか体温に近く感じられた。

「ああ……なるほどね」

 ディッキーは納得したように頷き、ぱっと表情を明るくする。

「いいところに目をつけたよ。それ、いわゆる東方銀工って呼ばれる技法だ」

 彼は嬉しそうに続ける。

「もともと、こういう繊細な彫りは東方――特にペルシアあたりの銀職人に起源がある。それが交易を通じて西に伝わって、スペインやオスマンを経由して……最終的に、ここトルチュ島まで流れ着くこともある」

 カウンターの内側から彼は帳簿を引き寄せながら話を続けた。

「この首飾りも、その一つかもしれないね。竜と蛇の意匠、それに石の留め方……西方の真似じゃ出せない癖がある」

「へえ……」

 ソフィーは思わず息を漏らした。

「つまりね」

 ディッキーは宝石棚に並ぶ色とりどりの石へと視線を向ける。

「何百年も前から、東と西はちゃんと繋がってたってことさ。戦争も、国境も、宝石には関係ない。価値のあるものは巡り巡って、ちゃんと人の手に届く。……それが、僕がこの店で学んだことだよ」

 ディッキーの言葉は、説教めいていないのにどこか芯があった。

 ソフィーは彼の背後に並ぶ宝石たちを見つめる。

 東と西、海と陸、争いと交易。それらすべてを越えて、この小さな島に集まった光。

 この首飾りもそうやって辿り着いたのだと思うと、胸の奥に言葉にできない温かさが静かに広がっていった。

「……それにしても、君がつけているそのネックレス。少し気になることがあるんだ」

 ディッキーがふと視線を落とした。銀鎖の先で揺れる、東方風の銀細工。その中央には、小ぶりながら澄んだ青の宝石が嵌め込まれている。

「これは……間違いなく東方由来の意匠だと思う。龍と蛇を対で刻むのは、あちらの古い伝承にしか見られないし……」

 彼は言葉を探すように一度口を閉じた。

「それに、この細工……正直、尋常じゃない。すごく繊細なのに、強度が落ちていない。貴族の注文品か、あるいは儀礼用……いや、それにしても」

 ソフィーが静かに見つめ返すと、ディッキーは問いを口にした。

「……どうして、こんな品がヨーロッパを経て、君の手に?」

 その言葉に、ソフィーの胸の奥がほんの一瞬ざらりとした。

「ごめんね。正直、私にもよくわからないの」

「え?」

「昔、まだ私が子供だった頃に友人から贈られたの。値打ちがあるなんて知らなかった。ただ……その人がくれたから、大事にしてる」

 嘘ではない。けれど、すべてを語る気にもなれなかった。

 ディッキーはしばらく黙っていたが、やがて小さく息をついた。

「……そっか。だったら、それでいい」

 柔らかな微笑み。だが、その視線の奥にはまだ何かを探る色が残っていた。

 ——このネックレスの出自は、ディッキーにも謎なのだろう。

 ソフィーはそっと銀細工に触れた。まるで、その青い宝石に記憶が封じ込められているかのように。

 そのときだった。

「……あー、その細工の細かさなら、錬金術で説明つくかもね」

 ひょい、と横から首を突っ込むようにコリンが口を開いた。

「え?」

 ディッキーとソフィーが同時に振り向く。

 コリンはショーケースに肘をつき、どこか得意げに続けた。

「金属の組成を微細に調整したり、分子単位で接着する技法なんて、錬金術師の間じゃ何百年も前から研究されてたんだ。精巧な細工を刻むんじゃなくて、素材そのものに命令して形を取らせる、って感じ。まあ、ぼくはまだ理論止まりだけど!」

「錬金術……」

 ディッキーが半信半疑に呟く。

「それって、伝説の類じゃ……」

「そう思うでしょ?」

 コリンは指を立てて軽く振った。

「でもね、本当にいたんだよ。東の方に。金を生む術じゃなくて、世界の仕組みを読み解く学問として錬金術を極めてた人たちが」

「世界の仕組み……?」

 ソフィーが思わず聞き返す。ディッキーもわずかに眉を上げた。

「うん。特に、新大陸とは別筋の東方。インドから中国にかけての錬金術師たちはさ」

 コリンは楽しそうに続ける。

「西洋とは全く違うアプローチをしてた。物質と霊性、その両方のバランスを探ってたらしい」

「霊性?」

 今度はディッキーが低く問い返した。

「物に意味や魂が宿るって考え方さ」

 コリンはソフィーの胸元をちらりと見てから、言葉を選ぶように続ける。

「だから装飾や細工にも、ただの美しさ以上の役割を持たせる」

 彼はネックレスの中心にある青い石を目で示した。

「たとえば、龍と蛇の組み合わせ。陰と陽、循環と再生の象徴って解釈されることが多いんだ」

 少し間をおいて、コリンは結論を落とす。

「つまりそのネックレス。見た目以上に、何かの意図を託された可能性があるってことだよ」

「……」

 ソフィーは言葉を失った。

 ——そんな意味が、この贈り物に?

「ま、ここから先はぼくの妄想タイムだけどね」

 コリンはにやりと笑う。

「細工の技術だけじゃなく、思想そのものが東方の名残を示してるなら……これ、西で作られたものとは考えにくいよ」

 ディッキーが深く頷いた。

「……なるほど。宝石の価値だけじゃ、測れないわけだ」

 そして、どこか羨ましそうにもう一度ネックレスを見つめる。

「素敵な贈り物だね」

「……うん」

 ソフィーは小さく頷いたが、視線は遠くを見ていた。

 この銀細工に込められた意図も、言葉も、意味も。今となっては、贈り主に確かめる術はもうない。

 ……本当に、ないのだろうか。

 確かにあれ以来、連絡は取っていない。けれど、もし祖国に帰れる機会があるのなら。

 彼に会わなければいけない。

「……なんだか、物思いに耽ってたみたいだね」

 ディッキーの声に、ソフィーははっとして顔を上げた。覗き込むその表情が少し気遣わしげなのを見て、慌てて首を振る。

「ううん、ごめんなさい。ただ……懐かしい気持ちになっただけ。いろいろ思い出して」

「そうか。……それなら、無理に聞かないでおくよ」

 そう言って、ディッキーは小さく肩をすくめた。そして、思い出したように話題を切り替える。

「そういえばさ。ブエソル……高台にある水色の宿、知ってるだろ?」

「うん。ぼくたちが泊まってる宿屋だね」

 コリンがすぐに頷く。

「それが、どうしたの?」

「そこの女将のカルロータさんがさ……最近、よくこの辺に来るんだ」

 少し言いよどみながらディッキーは続けた。

「この店に寄るっていうより、近くでスケッチしてたり、屋台でお茶してたり……ほら、この窓から、よく見えるんだよ」

 彼は何気ないふうを装いながら窓の外に視線を向ける。

「昼下がりの陽の下にいると、あの人、すごく映えるんだ。……こういう光のある時間が、似合う人だと思う」

「ディッキーってば」

 ソフィーが肘で軽くつつく。

「見てるだけじゃなくて、ちゃんと声はかけたの?」

「……声はかけたさ」

 ディッキーは視線を逸らし、少しだけ口元を歪めた。

「でも返ってきたのは、『ありがとう、坊や』の一言だけだった」

「坊やって……!」

 ソフィーが思わず声を上げる。

「惜しいなあ。うっかり『運命かしら』なんて言われたら、一気に進展しそうなのに」

「それはそれで、正直ちょっと怖い」

 二人の間に小さな笑いが落ちた。けれどその中で、ディッキーの頬にうっすら浮かんだ赤みをソフィーは見逃さなかった。

「……なるほど。そういうことか」

 コリンがやっと大人同士の空気を理解したように頷く。

「でも、カルロータさんって、誰にでもああだよね。礼儀正しいし、距離の取り方が上手い。いつも気遣ってくれるけど……どこか、人を寄せつけない感じ」

「そうかもな……」

 ディッキーは苦笑しつつ再び窓の外を見た。

「それでもさ。また話しかけてみるつもりだよ。……何回でも」

「……応援してる」

 ソフィーが穏やかにそう言うと、ディッキーは少し照れたように笑った。

「ありがと」

 一間おいて、ディッキーは軽く手を叩く。

「まあ、ここで立ち話しててもしょうがないし。お茶でも出そうか?」

 その時、控えめなベルの音とともにドアが静かに開いた。差し込む陽光に、銀のピアスがゆらりと揺れる。

「お邪魔するわね」

 カルロータだった。

「あら、あなた達もいたの」

 涼やかな声。けれどその語り口には、いつもの包容力よりもわずかに芯の通った決意が滲んでいた。

「いらっしゃいませ、カルロータさん。今日はどうされたんですか?」

 ディッキーがすぐに姿勢を正し、接客用の柔らかな声で応じる。

 カルロータは小さな布包みを掲げて見せた。

「少し整理したい物があってね。……昔、知り合いからもらったアクセサリーなの。今はもう使わないから、換金できたらお願いしたいの」

 布を広げると、金のブレスレットが二つと紅玉を嵌め込んだ指輪が一つ。どれも一目で上質とわかる品だった。

「……ずいぶん良いお品ですね」

 ディッキーは手袋をはめ、慎重に宝石を確かめる。その様子を見つめながら、ソフィーがぽつりと尋ねた。

「……なにか、旅の準備ですか?」

 カルロータは一瞬だけ目を瞬かせ、それから小さく笑って頷いた。

「そう。……近いうちに、島を離れようかと思っているの」

「えっ」

 コリン、ディッキー、ソフィーの声が重なる。

「まだ決めきったわけじゃないのよ。でも……最近、噂を聞いたの。フランスにあるサン・マロっていう街。昔、海賊の拠点だった場所」

 カルロータの言葉にディッキーが頷く。

「存じています。フランス北岸の港町ですよね。ですが、今はもう長く普通の商業港だったはずでは……」

 ディッキーが丁寧に言うと、カルロータは囁くように語る。

「それが最近、また海賊の街として息を吹き返し始めているのよ。公には認められていないけれど、昔の血筋や商人、腕のいい修理師たちが、少しずつ集まっている。小さいけれど……本物の自由港になりつつあるわ」

 店の空気がぴんと張り詰める。

「……なるほど。で、カルロータさんは?」

 コリンが慎重に続きを促す。

「行くかもしれない、ってところね。この島に来てから随分経ったし……そろそろ次があってもいい頃でしょう?」

 カルロータは穏やかに笑った。その瞳には旅慣れた者だけが持つ、終わりと始まりを同時に見据える深さがあった。

「もちろん、行くとしてもしばらく先になると思うわ。でも、こういうのって……準備が早すぎることはないでしょ?」

「……本当に行くなら、寂しくなりますね」

 ディッキーがぽつりと呟いた。冗談めいた声音だったが、そこには確かな本音があった。

 カルロータは一瞬だけ目を見開き、そして口角を上げる。

「じゃあ、あなたも来る?」

「……え?」

「雇ってあげるわ。サン・マロで。宝石の目利きができる若者なんて、どこの港でも重宝されるもの」

 ディッキーは天秤に手をかけたまま固まった。耳の先がわずかに赤く染まる。

「……考えておきます」

 それだけ答えて、彼は黙々と作業に戻った。けれどその背筋は、ほんの少しだけ浮き足立って見えた。

 カルロータは何も言わず、しばらく店内を眺めていた。その瞳の奥には、もう旅支度を終えた者だけが持つ、静かな決意が宿っている。

 その沈黙が落ち着くのを待って、ソフィーは一歩踏み出し、真っ直ぐ彼女を見た。

「……それってつまり、海軍が街から手を引いた、ってことですか?」

 その瞬間、空気がわずかに張り詰めた。

 コリンが驚いたようにソフィーを見やり、ディッキーは手を止めたまま固まっている。

 カルロータは一瞬だけ微笑みを止めた。けれどすぐにふっと息を吐き、視線を窓の外へと向ける。

「やっぱり気づくのね。あの街をちゃんと知ってる子は違うわ」

 サン・マロ。大西洋に面した古い港町。

 ソフィーの記憶では、そこは「正規の貿易商」「海賊の末裔」「密輸に目をつぶる地方官」たちが、微妙な均衡の上で共存していた場所だった。フランス海軍も形式上は常駐していたはずだ。それが、黙認を支える抑止力にもなっていた。

「ここ数ヶ月で、軍港としての機能がすっかり縮小されたらしいのよ」

 カルロータの声は淡々としていたが、その内容は重かった。

「上層部の言い分は、戦略的価値の再考、ってところかしら。でも現場の将校たちはもっと単純に……金にならない場所を切り捨てただけ。まあ、ありがちな話よね」

「じゃあ……今のサン・マロは」

 ソフィーは言葉を選びながら続ける。

「……正規の港では、なくなったんですね?」

「そう。誰がどう見ても、もう“自由港”よ。言葉通りの、ね」

 カルロータは静かに頷いた。

「トルチュ島ほど整ってはいないけれど……雰囲気はかなり似てきてるわ。あそこにも、新しい秩序が生まれつつある」

「じゃあ、トルチュ島と競合するかも、ってこと?」

 コリンがぽつりと漏らす。

 カルロータは少しだけ口元を歪めた。

「競合というより……“鏡”になるかもしれないわ」

 彼女は指先で空をなぞるようにしながら続ける。

「片方は西、片方は東。どちらも国家の手の届かない港。でも、流れる文化も、人の質も、まったく違う。だからこそ……興味があるの」

「……なるほど」

 ソフィーは小さく頷いた。言いようのない予感が胸の奥に沈んでいく。カルロータの言葉は嵐の前触れのようだった。しかも彼女は、ただの観察者ではない。その潮流の一部になろうとしている。

 東と西。トルチュ島とサン・マロ。二つの果てが、静かに動き出している。

 ふと、ソフィーは自分の首元に触れた。銀細工のネックレスが、まるでそれに呼応するかのように冷たく光っていた。

 カルロータは換金を終えた宝石袋を懐に収めて店内を一通り見渡すと、ふいにソフィーの方を向いた。

「……少し、お茶でもしない?」

「え?」

「さっきから、何か聞きたいことがありそうな顔してたし」

 カルロータは言葉を置いてから静かに続ける。

「それに……私も、ちょっと話したいことがあるの」

 ソフィーは一瞬戸惑ったが、すぐに小さく頷いた。

「……わかりました。宿屋の部屋で、いいですか?」

「もちろん」

 カルロータは肩に掛けた革鞄を軽く叩き、そのまま入口へ向かって歩き出す。

 ソフィーはコリンに一声かけてから、その背を追った。

 ディッキーは名残惜しそうにカルロータの後ろ姿を見送っていたが、何も言わず、ただ小さく息を吐いただけだった。

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