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第六章③ 六匹の野良犬

 六人は黙ったまま、管理人の屋敷へと続く最後の石段を踏みしめていった。やがて門番が立つ小さな門にたどり着いた。門の木戸には手彫りのラテン語が刻まれている。


《争いを持ち込むなかれ。ここは酒と交易の地》


 ルキフェルが門番に名前を告げると、彼は無言でうなずき、手にした槍の柄で木の扉を二度、軽く叩いた。中から応じるように軋んだ音が返る。

 扉がゆっくりと開かれた先は、広間となっていた。その広間を横断するように抜けると、薄暗い廊下が静かに続いている。

 屋敷の内装は、外観以上に質素だった。壁には帆布や網、古びた舵輪や羅針盤が飾られている。照明は天井から吊るされたランプがわずかに灯るばかりで、窓という窓には厚手の帆布がかけられ、外光はほとんど遮られていた。しんとした空気の中に、木の床が踏まれる音だけが響く。

 廊下を抜けると、突き当たりの扉の向こう、長老の執務室に通された。正面の壁一面には、カリブ海全域を模した巨大な海図が貼られている。色あせてはいるが、古くから使われてきたことが窺えるその地図には、島や航路に赤い印が点々と記されていた。

 その中央には、トルチュ島と周辺の島々をかたどったジオラマが、まるで要塞のように鎮座している。手のひらに収まるほどの家々、起伏のある地形、船を模した模型、点在する港。

 これが「海の自由都市」を象徴する島の全貌かと思えば、否応なく背筋が伸びる。

「……よお、ルキフェル坊や。昨日ぶりだな」

 その声に、皆が顔を上げる。ジオラマの向こう、巨大な海図を背にして立つ人影が振り返った。

 薄暗がりに浮かび上がる顔立ちは整っているが、笑みのない目元が妙に若さを感じさせなかった。

 年齢は三十代の半ばと見えるが、背負うものの重さがその外見を早めに老いさせているのだろう。

 肩まである暗褐色の髪は無造作に後ろで束ねられ、喉元には無数の細い首飾り——羅針盤の欠片や、何かの牙——が、じゃらりと音を立てて揺れていた。

 長衣の裾にはバッカニアの紋様が刺繍され、左の袖にだけ銀糸の腕章が巻かれている。

 トルチュ島の秩序を預かる者の印だ。

「長老さん、話っていうのは何ですか」

 ルキフェルが静かに声を投げる。その言葉に応えるように長老はジオラマの脇に手を添え、何かを押し留めるように深く息を吐いた。

「今朝、とある船乗りがうちにやってきてな。自分たちは脅されてこの島に来たと喚くので話を聞いてやった。するとどうだろう? どうやら、そいつは貴様らが乗っ取った貿易船の乗組員だったらしい。そして、決定的な証言があった。『傷のある男がいた』と」

 その船乗りが口にしたという傷の男。

 この言葉にソフィーは青ざめ、コリンは息を飲みジャスパーとニールはあちゃーというリアクションを取った。マテオとルキフェルは特に表情を変えなかったが、マテオの眉間は若干皺が寄っていた。

「あの野郎共、どいつか分からんが勇気ある決断をしたようだな」

 マテオはルキフェルの耳元でそう囁いた。無論、貿易商の船乗り達の方が被害者なのだから、自分たちは文句を言える権限はない。その後、長老曰くその船乗りはこう続けて言ったとのこと。


 ——あの連中、エドガーの旗を掲げて俺たちの船を奪ったんだ! あんたら島の信用にも関わるぜ!


「おいルキフェルの坊や、確認だがこりゃ本当か?」

 長老から鋭い目を向けられても、ルキフェルは相変わらず表情を崩さなかった。一瞬沈黙したが、躊躇いなく冷静に、次のように発言した。

「……惑うことなきそいつの言ったことは事実です。俺たちはエドガーの旗を偽装して船を乗っ取りました」

 長老は深いため息を吐いたかと思うと突如、拳を振り抜いて壁を叩きつけた。鈍い衝撃音が部屋全体に響き、板壁がきしんだ。拳の皮膚は裂け、赤い滴が落ちる。ルキフェルとマテオ以外の者は思わず肩をすくめる。

「……この島の根本原則は、『旗さえ出さなければ、敵味方関係なく滞在可』だ」

 長老は血の滲む拳を振り払いながら、背後の巨大な海図を指さした。

「旗は身元証明であり、戦時の名乗りでもある。偽れば潜伏の温床、交渉の詐欺、管理人への信用失墜……結果、この島ごと共倒れになる」

 何者かを偽ることは潜伏や謀略の温床につながる。他海賊への不当な交渉や策略的接近の疑い、他勢力から「管理人の管理体制が信用できない」と判断されるリスクに発展してしまう。つまり、旗偽装は旗を偽った者だけでなく、管理人の面目まで潰す罪となる。

 そして管理人は低く唸るように言葉を続ける。

「旗偽装の処罰はこうだ。管理人からの滞在権剥奪、商取引の停止。他勢力からは裏切り者と見なされる。港は閉ざされ、宿も修理所も、食い扶持すら売ってはくれん」

 ジャスパーは天を仰ぎ、乾いた笑いを洩らした。

「ああ、十分に罰を受ける覚悟はできてるさ」

 長老は一瞥をくれて、唇の端をわずかに吊り上げた。

「……だが、それは『契約で繋がっている場合』に限る話だ」

 一同が首を傾げる中、長老はわざとらしく間を置き、にやりと笑った。

「まあ聞け。この原則にはひとつ抜け道がある。貴様らの場合は、滅多にないレアケースだがな」


 これは今朝の出来事だ。

 朝露に濡れた石畳の階段を踏みしめて、船乗りは息を切らしながら扉を叩いた。

 あの門番、まだ持ち場についてなかったか。

 断りもなく開かれた扉の向こう、帳のような日陰に男が一人、煙管を片手に佇んでいた。肌の色は浅黒く、長髪を後ろで束ね、旅人のような素朴な外套を羽織っている。その男を管理人と呼ぶ者もあれば、長老と呼ぶ者もいる。いずれにせよ──この島で下手な嘘をつけば、必ずこの男の前で尻尾を掴まれるのだった。

「……あの、緊急で話がありまして、はい。俺の乗ってた船が、乗っ取られたんです。エドガーの一味です」

 口早にまくしたてる船乗りに、長老は何も言わずに煙管をくゆらせる。沈黙が数秒流れ、ようやく彼は言った。

「エドガーの一味だと。あいつは今この島でバカンス中だが、面白いな。お前は証拠を持ってるのか?」

「証拠、は……でも、奴らが自分で名乗ったんです。『俺たちはエドガー海賊団だ』って。それに、ちゃんとエドガー海賊団の旗を掲げていました! ……間違いなく、襲われたのは事実で──!」

 船乗りの言い訳じみた口調に、長老は微笑を浮かべた。だがそれは、温かさよりも冷たさを含んだものだった。

「海賊と名乗るにはな、条件がある」

「……は?」

「ただ名乗っただけの奴は海賊じゃない。この島で海賊を認めるのは、『契約を交わし、旗を掲げる覚悟のある者』だけだ。仲間と掟を持ち、分け前を決め、航海の責任を負う。──それが海賊ってもんだ」

 船乗りの顔が少しずつ青ざめていく。

 長老は煙管の灰を無造作に灰皿に落とした。

「そいつらに、その掟はあったのか? 旗は? 誰が船長で、誰が航海士で──乗っ取ったあと、誰が責任を負った?」

「……それは……知らない、ですけど……でも!」

「なら、お前の言う海賊は、ただの野良犬じゃないか」

 長老の声は静かだが、部屋の隅々にまで染み渡るようだった。

「この島は契約の上に立ってる。契約のないやつは──嘘つきか獣だ」

 その言葉を最後に、屋敷の広間には重苦しい沈黙が落ちた。厚い石壁が潮風を遮り、燻した香の残り香が鼻をつく。卓上の銀の煙管から、まだ薄い煙がゆらゆらと立ちのぼっている。

 長老は背もたれの低い椅子に腰かけ、片肘をつきながら水夫を見下ろしていた。粗末な上衣に塩と汗の匂いをまとったその男は、声を荒げぬように必死にこらえながらも、ぎこちなく頭を垂れていた。

「……で、その船を乗っ取った連中が海賊だったと?」

「は、はい! エドガーの一味だと名乗って……俺たちを脅して……」

 長老は煙管の端を口に運び、火種に火を灯した。数拍の沈黙。

「ふむ。だが、それだけか?」

「い、いえ、それに……そいつらの中に、傷だらけの男がいたんです!」

 密告者は勢い込んで顔を上げた。視線は熱を帯びていたが、それ以上にどこか幼稚な正義感がにじむ。

「あいつ……顔に、こう、何本も……! 目の横とか、口の端とか……見ただけでわかる、ろくでもない奴ですよ。絶対に、アレが首謀者です。間違いない!」

 長老は表情を変えぬまま、煙を一つ、鼻から吐いた。淡く香る紫煙が、広間の空気を曇らせる。

「顔に傷がある者は怪しい……お前、島の掟を何だと思って来た?」

「い、いや……でも、あいつは違うんです、本当に!」

「証拠はあるか? 海賊であるという、確たる証が」

 ぴたり、と密告者の動きが止まる。返す言葉を探して口を開くが、結局、言葉にならない。

 長老は言葉を続けることなく、再び煙管をくゆらせた。その沈黙こそが裁定だった。

「ならば、お前が見たのは——ただの、海に生きる傷のある男だ」

「…………」

「嘘はついていないんだろうな?」

「……本当です。でも……あの男、本当に怪しいんです」

「怪しいという感覚だけで人を裁けるなら、ここはもうとうに地獄になっている」

「だとしても、やっぱりおかしいです! あの連中、エドガーの旗を掲げて俺たちの船を奪ったんだ! あんたら島の信用にも関わるぜ!」

 煙の奥で、琥珀の双眸がわずかに細められた。長老は低く笑った。だが目は笑っていなかった。

「……まあ、警告だけはしておくさ。ただな、『正体も分からん奴を始末してくれ』なんて、そんな話を飲んだら──それはただの私刑の片棒担ぎだ。俺たち管理人の仕事じゃない」

 船乗りは、何かを言いたげに口を開きかけたが、声にならなかった。

 長老は無言で手をひらひらと振り、そのまま屋敷の奥へと戻っていった。

 扉が閉まる。そして残されたのは島風と、なす術なく引き返す男の靴音だけだった。


 長老は煙管を指先で弄びながら淡々と口を開いた。

「貴様らの境遇も、理解はできる。船長を失い、後ろ盾もなく、この島に流れ着いた。少人数での航海には限界がある……だから、船を乗っ取った。気の毒だとは思うよ」

 その声音には、同情も非難もなかった。ただ事実を並べているだけだ。

「だがな、この島では旗がすべてだ。どんな事情があろうと、他人の旗を掲げた以上、それは嘘になる。それだけは忘れるな」

 沈黙が落ちる。野良犬たちは誰一人、言い訳をしなかった。軽い気持ちでやったわけじゃない。だが、やったという事実だけは変わらない。

 長老は煙を吐き、続けた。

「エドガーの連中は、今ラ・カレータに停泊している。……火薬に火がつく前に、詫びを入れてこい。それができないなら——全員、島から叩き出す」

 一同は、はっと顔を上げた。これ以上の裁定には踏み込まない。そう悟ったからだ。

「え、ほんとう?」

 思わず漏れたのは、コリンの間の抜けた声だった。静まり返った部屋に、妙に響く。

「じゃあ、すぐにでもエドガーのところへ行った方がいいね」

 ニールがそう言うと、全員が深く頷いた。

「いやー、ありがたいね。おれ、処罰受ける気満々だったんだけどさあ」

 肩をすくめて笑ったのはジャスパーだ。

「おいジャスパー、今日はやけに嘘が下手だな」

 マテオがからかうと、ジャスパーも素直に笑い返した。

「うるさいなあ」

 張り詰めていた空気がほんの少しだけ緩む。その中で、ルキフェルが一歩前に出た。

「……長老さん。迷惑をかけたな。あんたの判断、恩に着る」

 長老はむすっと顔をしかめ、煙管を咥え直す。

「……旗偽装に、船の乗っ取り」

 一服してから低く言った。

「どうせ、お前の発案だろうと、すぐに察しはついた。さすがはフランソワのクォーターマスターを務めていた男だ」

 仲間たちが息を呑む。

「目的のためなら大胆に動く。それが、お前のやり口だ。——そして」

 長老の視線が鋭く突き刺さる。

「自分たちの立場が即座に裁けないことも、分かった上でやったんだろう?」

「えっ?」

 思わず仲間たちから一斉に声が上がる。視線がルキフェルへと集中した。

 当の本人は肩をすくめ、獣のようにニヤリと笑った。

「さて。何のことやら」

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