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第五章⑤ ソフィー

 潮風がわずかに揺れた。次の瞬間、突風が帆を叩く。

 無風に閉ざされた日々に耐えてきた彼らにとって、その一陣はまさに救いだった。

「——来た!」

 コリンが声を上げる。

 ソフィーは何も言わず、小さく頷いた。

 二人で仕上げた偽の海賊旗。

 黒地に、白い髑髏と三本の剣。刺繍糸が陽を反射しながら、静かに掲げられる。

 今が、勝負のときだった。

 ルキフェルは翻る旗を見上げたまま、低く呟く。

「……この旗には、意味がある」

 誰に向けた言葉でもない。独り言だった。

 風を孕んだ黒旗を見つめた瞬間、彼の脳裏に、かつての声が重なった。


「黒は降伏を促す色だ。『ここで抵抗すれば命はない』ってな」

 フランソワの落ち着いた声が記憶の奥で響く。

「だが、真ん中の髑髏と三本の剣が、それを否定する。この旗はエドガー海賊団そのものだ」

 黒地に浮かぶ、白。

「黒地は『降伏すれば命は助ける』という古来の暗黙の合図。だが、中央の髑髏と三本の剣は『死と暴力による支配』を象徴している」

 指で空をなぞるようにフランソワは語っていた。

「三本の剣はな——『他者を斬る剣』、『自らを守る剣』、そして『支配の剣』だ」

 風に揺れる黒旗。

「死と支配の象徴さ。エドガーは冷酷でな……あいつの夢は、海上統治なんだよ」


 記憶が静かに途切れる。

 ルキフェルは無意識に背筋を伸ばしていた。

「あいつの思想、そのものだな」

 それは、今の彼自身の声だった。望遠鏡の先にはやや大きく、性能も勝る貿易船。風を掴んだ海賊船は黒い旗をはためかせながら、ゆっくりと距離を詰めていく。

 ルキフェルは低く続けた。

「……三本目の剣」

 一瞬、言葉を探すような間。

「俺は、失われた誰かのために振るいたいもんだ」

 それは宣言でも、誓いでもない。

 ただ、彼自身が選び取った在り方だった。

 黒旗が再び大きく翻る。マテオとジャスパーは、直前までニールから叩き込まれたエドガー・ロジャース海賊団の情報を頭の奥で何度も反芻していた。縄梯子を登り、相手船の甲板に足を踏み入れると、年季の入った船長と十数名の船員が待ち構えている。

 最初に前へ出たのは、マテオだった。

「オレたちは、エドガー・ロジャースさまの部下だ」

 堂々とした名乗りだった。過去に見てきた本物の海賊の芝居を、そのままなぞるような粗野な口調。

 頑固そうな顔つきの船長が、鷲鼻をひくつかせて応じる。

「エドガー・ロジャース? ……あのエドガー海賊団だと?」

「そうだ」

 マテオは即答した。

「オレたちは、その一団の一隻だ」

 間髪入れず、横からジャスパーが言葉を継ぐ。

「船団は八隻ある。おれたちは、そのうちの一隻だ」

 船長は眉をひそめ、二人を値踏みするように見回した。

「ほう……それにしちゃあ、ずいぶん船が小さいな。人数も少ねえ。エドガーの船団が、こんな小粒揃いとは思えんがね」

 その言葉にマテオが鼻で笑った。肘でジャスパーを小突き、わざとらしく声を荒げる。

「聞いたか? こいつ、うちの船を小粒だってよ」

「ははっ、最高だな」

 ジャスパーもすぐに乗った。

「こんなボロ船で近づいてきたら、普通は信じらんねぇよな? でもよ——」

 彼は相手船長の目をじっと見据えた。

「本物だからこそ、できるってこともあるんだぜ?」

 マテオが一歩前に出る。

「うちは船長から直々に直接勅命を受けて動いてる。人数も装備も絞った精鋭だ。でなきゃ、こんな面倒な真似する必要もねえだろ?」

 直接勅命という言葉に、相手船員たちの空気がわずかに変わった。だが、船長はまだ引かない。

「精鋭にしちゃあ、ずいぶん陽気な口ぶりだな。それに、その服……本当にエドガーの連中が、そんなもん着てたか?」

 マテオは肩をすくめる。

「オレらが何着てようが関係ねえだろ。大事なのは、この旗と、この態度だ」

 ジャスパーが畳みかける。

「で、どうする? このまま無駄話してると、うちの本隊が追いついてくるぜ? そっちの方が、話しやすいか?」

 甲板に沈黙が落ちた。やがて船員たちがざわつき始める。

 先に口を開いたのは、貿易船の船長だった。

「——その旗、本物か?」

 黒旗に刻まれた白い髑髏と三本の剣を見上げ、険しい目で続ける。

「随伴艦でも、もっと図体はでかいはずだ。あんたら、どうにも軽すぎる」

 マテオはどこか投げやりな調子で答えた。

「規模でしかモノを測れねぇとは、いかにも商売人らしいな。……オレたちは北東第三船団所属。軽装の偵察部隊だよ。小回り優先ってやつさ」

 その瞬間、若い船員が声を荒げた。

「北東第三だと? 聞いたこともねぇぞ! エドガーの船団は八つだけだ。北東は第五が担当してるはずだろ!」

 ジャスパーが鼻で笑った。

「だったはず、だな」

 わざとらしく、間を置いて続ける。

「去年の春、第五の腑抜けどもが南方で壊滅してよ。空いた縄張りを引き継いだのが、おれたち第三船団ってわけだ」

 船員たちの間にざわめきが走る。

「……あの話か」

「斧のマルクが沈んだって噂……?」

 だが船長は、まだ一歩も退かない。腕を組んだまま静かに前へ出る。

「なるほど。斧のマルクを沈めた再編の話か。事実なら、確かに編成も変わるだろうな」

 そして、淡々と言った。

「だったら、隊番号を言ってみろ。確認のためにな」

 マテオとジャスパーは一瞬だけ視線を交わした。ほんの刹那。だが、その間を、船長は見逃さなかった。疑念が確かな形を持ち始める。

「——三〇七」

 割って入ったのは、これまで一歩引いて様子を見ていたニールだった。爽やかな声色。だが、その一言には迷いも揺らぎもない。

「北東第三船団、巡察斥候部隊。隊番号は三〇七。前任地は、エドガー本隊の西岸警備。……必要でしたら、交信用の合図旗を掲げましょうか?」

 その瞬間、甲板の空気が一気に凍りついた。

「……交信旗、だと?」

「西岸警備って、あの……?」

 貿易船の船員たちがざわめき、反射的に黒旗を見上げる。黒地に白い髑髏。

 その奥に刻まれた三本の剣——制圧・斬殺・制裁を意味する、主力艦直系の紋章。

「馬鹿な……それなら、あの旗は本物のはずだ」

「いや、待て。人数が足りねぇだろ。こんな小舟一隻で、船団行動なわけが――」

「はぁ?」

 低く割って入ったのはマテオだった。一歩前に出て、鼻で笑う。

「じゃあ何だ。あんたらの目は節穴か?」

 さらに声を荒げる。

「見りゃわかるだろうが! 偵察だっつってんだよ、軽装で当然だろ! 旗が見えねぇのかよ!」

「旗、旗って……そんなもん、描いたって可能性は——」

 若い船員が食い下がる。

「おう、言ってみろよ」

 マテオの目が細くなる。

「贋作扱いか? このオレが、エドガーの許可なくあの旗掲げる度胸あると思ってんのか?」

「そっちこそ、なに胡散臭ぇ口ぶりしてやがる! 旗だけで納得しろって方が無理だろ!」

 怒号がぶつかる。互いに一歩も引かず、甲板の緊張は限界まで張り詰めていった。

「……よし、じゃあ腕章を見せろ」

 今度はジャスパーが前に出た。声は低いが、抑えきれていない苛立ちが滲む。

「見せたところで、本物だって保証は——」

「うるせぇっつってんだろうが!」

 マテオが怒鳴りつける。

「お前らただの貿易商だろ?! 大人しく従っとけよ!」

「は? あんたらこそ偽名で旗立ててんじゃねぇのか!?」

 船員も負けじと叫ぶ。

「急にキレ出して、別の意味で怖ぇんだけど?!」

 ついに一人の若い船員がマテオの胸倉を掴んだ。次の瞬間、怒号と掴み合いが同時に爆発する。

「やめろ! やめろっ!」

 船長が手を振って制止しようとするが、もう遅い。

「離せ! このクソガキ!」

「誰が離すか!」

 ジャスパーが必死にマテオを引き剥がそうとする。

「マテオ! 今ここで暴れんな!」

 混沌。怒鳴り声、足音、軋む甲板。

 その中心から少し離れた場所で、ニールは静かにその光景を眺めていた。やがて、ぽつりと隣に立つコリンに声をかける。

「……ねえ、コリン」

「ん?」

「銃声を一発、聞かせるのと」

 にこやかな笑顔のまま続ける。

「マテオを一発ぶん殴るのと……どっちをやれば、みんな僕の話を聞いてくれると思う?」

 一瞬の沈黙。

「えっ、ちょ、待って待って!?」

 コリンが目を見開く。

「その二択、どっちもダメなやつじゃない?! しかも選択肢に『平和的に止める』が一切ないんだけど!?」

 ニールは小さく首を傾げた。

「時間がないからね」

 その穏やかな声音が逆に場の空気を冷やした。

 甲板の空気はすでに限界だった。怒号、罵声、掴み合い。誰かが一歩踏み出せば、銃声か流血が避けられない。そんな張り詰めた緊張が、潮の匂いと混ざって漂っている。

「……どうしよう」

 ソフィーはその場に立ち尽くしていた。視線だけが忙しなく行き場を探し、身体は動かない。

「このままじゃ、だめ……何か、何か言わなきゃ」

 頭では分かっている。ここで血が流れれば、取り返しがつかない。旗を偽ったことも、交渉も、すべてが破綻する。

「でも……どうやって?」

 マテオの荒い声。貿易船の若い船員の怯えと反発。

 その間に割って入るには、あまりにも男たちの気迫が強すぎた。

 剣と銃と怒りで固められた空気の中で、ソフィーの声はあまりにも軽く、脆い。喉が張りつき、息が浅くなる。針を握る手なら動かせた。だが、言葉で戦場を止めることは今の彼女にはできなかった。

「……ごめん」

 自分に向けたのか、誰に向けたのかも分からない謝罪が胸の奥で沈んだ。そのとき、甲板に重い足音が響いた。

「……おい」

 低く、掠れた声。それは怒鳴り声でも、命令でもない。だが不思議なほど、すべての音を押し退けた。

「なにを揉めてやがる」

 ざわめきが波が引くように止まる。視線が一斉に船首の陰へと向けられたそこに立っていた男を見た瞬間、貿易船の乗組員たちは言葉を失った。

 傷だらけの顔。斜めに走る巨大な裂傷が額の左から頬へと達し、まるで顔そのものが裂き割られたかのようだった。それだけじゃない。無数の刃傷。浅いものも、深いものも。

 その顔は、人の顔をした戦場だった。痛々しさと獰猛さ。

 どちらが強いのか判断できないほどの存在感が、ただそこにあった。

「……」

 誰も言葉を発せない。男——ルキフェルは甲板を一瞥し、淡々と告げた。

「降伏しろ」

 低く、冷たい声。

「黒い旗は、命乞いの証だ」

 その一言で空気が反転した。怒りは霧散し、疑念は恐怖に塗り替えられ、次の瞬間には——

「た、戦う気はありません!」

 貿易船の船長が声を裏返らせる。

「貨物も! 命も! すべて差し出します! 私たちは今この瞬間より、あなた方に従います!」

 降伏はあまりにも即座だった。剣も銃も振るわれない。だが、誰も抗おうとしなかった。

 ジャスパーが小さく呟く。

「……やっぱ、あのツラは武器だな」

 ソフィーはそれを確かに聞いた気がした。

 気づけば、すべてが終わっていた。

 血は流れず、六人海賊は必要な貨物と食料、補修資材、そして人手を得た。

 ソフィーは甲板の上で静かに息を整えながら、帆に翻る借り物の旗を見上げる。

 風は、まだ吹いている。嘘を孕んだ風。だが今は、確かに彼らを前へ運んでいた。

 それがいつ裏切るのか——それを知る者はいない。


 それからの航海は驚くほどあっけなかった。

 長く続いた無風と焦燥が嘘のように、海は穏やかに船を押し、風は帆を満たした。奪った小型貿易船は「勿体ない」という理由で連れていくことになり、操舵には数名の元船員がそのまま雇われた。

 言葉は少ないが、互いの立場を察し、干渉も抵抗もなかった。

 そして、ある日の夕方。ついに——トルチュ島の影が、水平線に浮かび上がる。

 夕陽に染まったその姿は、静かに彼らを迎え入れようとしていた。

 ソフィーは横領した船室に戻り、日記を開く。震えはもうない。

 けれど胸の奥には、自分が動けなかった瞬間の重みだけが静かに残っていた。

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