第五章② ジョルジュ
「あれ、誰もいないんだ」
ジョルジュはそっと食堂の扉を開いた。そこに広がっていたのは、しんと静まり返った空間。椅子は綺麗に揃えられ、食器も片付けられている。誰か一人くらい残っているかと思ったが、どうやら皆、実家に戻ってしまったらしい。
スザンヌからは、「しばらく実家で療養する」と手紙が届いている。あの出来事の後では、無理もない。
「なんだ、家無し子は僕だけか」
寂しさを隠すように肩をすくめ、踵を返した。部屋に戻り、孤児院へ帰ろうかと思い立ち、荷物をまとめ始める。
あの戦いから、もう一ヶ月が経った。
マクシミリアン・ブーケ隊は度重なる失敗を理由に、パリにある参謀本部から活動停止処分を受け、謹慎中のままだ。
ジョルジュのもとには、同期たちから次々に手紙が届いている。中には、普段あまり話したことのない者からも、励ましや心配の言葉が綴られていた。
みんな、ソフィーの安否を気にしていた。だが軍の扱いは冷たく、「行方不明・生死不明者」として処理されている。
軍医を連続して失ったこの部隊に、果たして新しい軍医が配属されるのか。いや、おそらく来ないだろう。そもそも軍医の数が足りていないうえ、マクシミリアン隊への信頼は地に堕ちている。
「ソフィー、無事でいてくれよ……」
荷物を鞄に詰めながら、ジョルジュは小さく呟いた。
ちょうど部屋を出ようとしたその時、廊下に怒号が響いた。
「……っ、なに?」
思わず荷物を落とし、声の方へと向かう。隊長の執務室から扉が少しだけ開いており、声が漏れていた。
「馬鹿な、あれが作戦だと!? ふざけるな……!」
怒鳴っているのはグウェナエルだ。普段から不機嫌そうな彼だが、こんな大声を上げるとは珍しい。何事かと思いながら、ジョルジュは気配を殺してその場に立ち止まった。
「グウェナエル、落ち着いて」
「発案したのはぼくだが、まさか本当に実行するとは思わなくてね。彼女の正義感には感謝している」
リラの穏やかな声に続いて、シャルルのいつも通り飄々とした言葉が響く。だが今回は、火に油を注ぐような響きだった。
「耳障りな正義感だ。あの女は勝手に海賊を説得しようとした。あんな独断が部隊をどれだけ危険に晒したと思っている? 理想を盾にする正義は、時にマクシムの理想すら崩す毒になる」
グウェナエルの声には、怒りと悔恨が入り混じっていた。
「それなのに、なんてことだ。寧ろ彼女は巻き込まれた側か。そうと知らなければ、俺はソフィーをあの場で切り捨ててしまうところだった……!」
ジョルジュの胸に、ぞくりとした冷たい感覚が走った。
過去にグウェナエルがマクシムを守るためなら、無関係な者を切り捨てることも辞さなかった冷徹な決断——その影が、今この怒号の中に重なったのだ。吐き捨てるようなグウェナエルの言葉に、ジョルジュは思わず心臓が跳ね、吐きそうになるほどの不安が胸に押し寄せた。
もし、あの時と同じ状況が起きていたら……ソフィーは、無事だったのだろうか。
「俺は、彼女の正義感を危険視していた。実際、あの独断は下手をすれば仲間を全員危地に追い込む行為だったからな。だからこそ、褒められたものではないと考えていた。だが……」
彼は机を拳で叩いた。
「違ったのか。シャルル、貴様……彼女の正義を利用したのか。巻き込んだのか……!」
部屋の空気が一気に張り詰める。
普段の冷徹な論理を越え、そこにあるのは「惚れた女を弄んだ」という怒りだった。
ジョルジュはその迫力に息を呑み、声も出せず立ち尽くした。
「ぼくも、彼女の正義感を恐れているんですよ。確かに……その正義感を利用するのはリスクだった。だが、彼女自身は何も計算していなかった。純粋に、相手のことを理解しようとし、ただ誠実に行動しただけ。だからこそ、あの復讐に燃える海賊相手に言葉が届いた。スザンヌもマクシムも無事だったのは、彼女の純粋さと勇気が生んだ結果に過ぎない。あの瞬間、彼女は計算のない賢さで、事態を動かした。ふむ、計算じゃ到底敵わないな」
シャルルの軽い言い草は、あたかも手品を披露するかのような余裕すら帯びていた。その一言だけで、ジョルジュの胸の奥に微かなざわめきが走る。計算と策略は確かに有効だ。しかし、その先にあるのは戻らぬ者を救うことはできない、という現実だった。
グウェナエルの視線は硬く閉ざされ、胸の奥の怒りと焦燥が静かに滲む。冷ややかな声が廊下に響いた瞬間、部屋の空気は一層引き締まった。
「狂気の沙汰だ。あの戦いは、我々の不運に過ぎない。海賊をもっと早く制圧していれば、こんな事態にはならなかっただろう。マクシムだって、大怪我をせずに済んだはずだし、ソフィーも失わずに済んだ。その上、彼女を傷つけ、そして失ったなら、そんな作戦に意味はない。シャルル、覚えておけ。結果論などでは片付けられない、彼女の命を背負った罪を、貴様も共に背負え」
ジョルジュは息を呑んだ。声に出さずとも、グウェナエルの胸中には矛盾する感情の奔流が渦巻いているのが分かる。
怒り。自らの理想のために彼女を巻き込んだことへの憤り。
焦燥。もし取り返しのつかない事態になっていたら、部隊全員を守れなかった後悔。
悲しみ。もう二度と戻らない者への痛切な喪失感。
その目は硬く、冷静さを保とうとしているが、胸の奥で熱を帯びている。
ジョルジュには、まるで鋼の背骨に炎が巻き付いているかのように見えた。
怒りと悲しみ、責任感が混ざり合い、冷ややかな言葉の奥に隠れた激情がひしひしと伝わってくる。
「でも、一つ不可解なことがある。どうしてソフィーが行方不明に……」
沈黙を破ったのは、冷静さを装ったリラの声だった。
その問いは、ジョルジュ自身が胸の奥で何度も反芻してきた疑問でもある。だが、誰一人として答えを口にしない。重たい静寂だけが、部屋に沈殿していった。
やがて、リラは小さく息をつき、話題を切り替える。
「……まあいいでしょう。それより問題なのは、アニータよ。彼女は隊長の秘密を知っている。マルセロが口を滑らせたせいでね」
「だが」
低く割って入ったのはグウェナエルだった。
「彼女はそれを告発する気はなかったはずだ。なのに、マクシムはまだ彼女を警戒している。なぜ始末する必要がある?」
始末という言葉がやけに乾いた音を立てる。
ジョルジュは無意識に拳を握りしめた。
「秘密を握る者は少ないに越したことはない、ってさ」
肩をすくめるようにシャルルが応じた。
「正直、誰かを犠牲にするのは、ぼくもごめんだね。それに、アニータは我々を裏切るつもりもなさそうだし」
「ほう。証拠は?」
グウェナエルの視線が鋭くなる。
「証拠?」
シャルルは軽く首を傾げ、さも当然のように言った。
「彼女の普段の様子を見れば、わかることだよ」
一瞬の沈黙。やがて、グウェナエルが鼻で笑った。
「ふん、くだらんな」
吐き捨てるように言い、だが次の瞬間には続ける。
「……くだらんが、俺も同感だ」
椅子にもたれかかり、天井を仰ぐ。
「さて。我らが無慈悲隊長を、どう説得したものか」
その言葉を最後に再び会議は停滞した。
誰も決定的なことは言わない。ただ、危険な言葉だけが空中を漂っている。
ジョルジュはもう限界だった。
——聞きたくない。知りたくなかった。
胸の奥から、嫌悪感と不安が同時にせり上がってくる。この会話の延長線上に、どんな結論が待っているのか——考えるだけで、喉が締めつけられた。
もし、またあの冷徹な判断が下されるなら。もし、不要と判断された者が切り捨てられるなら。
——ソフィーは、どうなる?
その名を心の中で呼んだ瞬間、体が小さく震えた。
この場にこれ以上いれば、自分も黙認者になってしまう。
あの場から逃げるように廊下を突き進んでいたジョルジュだったが、ふと荷物を抱えたまま廊下で立ち止まった。耳に届いたグウェナエルの怒声が、胸の奥で重く響く。
普段の彼なら、ただの口論として流せるはずだった。しかし、今は違った。
「……あの正義感で、巻き込まれたのか……ソフィー……」
ジョルジュは小さく呟き、思わず手を握りしめた。喉の奥に重く沈む感覚。恐怖と安堵、そしてわずかな怒り。グウェナエルの怒号、シャルルの冷静で飄々とした言葉、リラの穏やかな諦観。三者三様の声が混ざり合い、廊下の空気を震わせる。ジョルジュの心臓は早鐘を打ち、背中に冷たい汗が伝った。特に、胸の奥で渦巻く感情が、グウェナエルの冷徹さの背後にある深い人間味を、ありありと示していた。
彼は理解した。ソフィーはただの巻き込まれた被害者であり、意図せずに作戦の駒として利用されていたのだ。
「それでも……無事でいてくれ……」
指先が鞄の紐を握りしめる。恐怖と安堵、そして微かな怒りが混ざり合い、胸の奥で渦巻いていた。廊下の向こうで冷徹な判断と激情の叫びが、静かにソフィーの存在の重みを示している。
ジョルジュは再び荷物を肩にかけ、ゆっくりと歩き出した。足取りは震えていたが、心の中で小さく誓った。
——どんな計算や作戦があろうと、ボクは真っ当な方法で彼女を守る。
逃げるように建物を後にした。ブレストの港から吹き上げる冷たい風に煽られ、外套の裾がばさりと鳴る。肩を落として石畳を歩きながら、彼の胸には、ひとつの確信が芽生えていた。
先輩たちは、何かとてつもない秘密を抱えている。それも、仲間同士でさえ疑心暗鬼になるほどの重たい何かだ。あの張り詰めた空気。言葉を選びすぎる沈黙。思い返すほど、胸の奥がざわつく。
「……そもそも、ソフィーは生きているのか」
無意識に声が漏れた。行方すら掴めていないというのに、先輩たちはまるで「答えを知っている」かのような態度を取る。
もし——もし本当に、ソフィーが海賊の手に落ちているのだとしたら。
考えただけで喉が詰まり、息が浅くなった。どうにかして、確かめる方法はないのか。
その瞬間、脳裏にひとつの光景がよみがえった。
——ブレスト港で、偶然目にしたあの場面だ。
散歩の途中、埠頭の陰で見かけた、東洋の商人とマクシムの取引。
あのときのマクシムは全身を包帯で覆い、脱臼した肩をかばいながら、痛みを堪えるように苦笑していた。
「今の人は、誰ですか?」
そう訊ねた自分にマクシムは一瞬だけ視線を逸らし、それから落ち着いた声で答えた。
「上流階級にも出入りする、有名な商人ですよ」
その言葉が、今になって意味を持ち始める。
「……そうだ」
小さく呟いた瞬間、ジョルジュは踵を返していた。
孤児院へ戻る道ではない。港とも違う。彼は迷いなく馬車を拾い、御者に短く指示を出す。
「アンジュー地方へ。アンジェまで頼む」
御者が驚いたように眉を上げたが、詮索はしなかった。馬車が走り出し、ブレストの街並みが後方へと流れていく。
数日の旅だった。街道を抜け、村を越え、ロワール川沿いの道を進む。
昼は揺れる馬車の中で地図を睨み、夜は安宿で眠れぬまま天井を見つめた。
焦燥と不安が胸を締めつける一方で、決意だけは日に日に輪郭を帯びていく。
——確かめなければならない。ソフィーの安否。そして、先輩たちが隠している真実。
やがて馬車は、アンジェ郊外の静かな邸宅街へと入った。高い石壁と整えられた並木。
王党派の貴族らしい、落ち着いた威圧感が漂う一角だ。馬車が止まったのは、ひときわ大きな鉄門の前だった。石造りの門柱、手入れの行き届いた庭木。
その佇まいを見た瞬間、ここがスザンヌの実家だと直感する。
ジョルジュは深く息を吸い、鞄を握る手に力を込めた。
「……ここからだ」
まだソフィーの姿はない。だが、確かめる手段はもう目の前にある。馬車の扉を開けると、邸内の空気はひどく静かだった。噴水の水音が遠くで響き、庭の花々が穏やかに揺れている。
——この屋敷には、東洋の商人が出入りしている。
そう聞いた。ならば、その先に、港で見かけたあの男——あるいは、その仲間がいるかもしれない。
そしてその向こうに、ソフィーの安否を知る手がかりがあるかもしれない。
胸の奥にかすかな光を灯しながら。ジョルジュは屋敷の扉へと歩みを進めた。
外界の喧騒も、ブレストで交わされた重苦しい議論も、すべてが今は遠い。
これから見つける真実のために——そのすべてが、彼の背中を押しているようだった。




