第四章② ソフィー
ある昼下がり。
ソフィーは船長室——いや、元艦長室——に通された。
机の上には海図が広げられ、その前に立つ男は背を向けたまま微動だにしない。
声をかけるべきか躊躇っていると、隣のジャスパーがすぐに気配を読み取って軽く声をかけた。
「ルキフェル。言われた通り、彼女を連れてきたよ」
ルキフェルと呼ばれた男がゆっくりと振り向く。顔には無数の傷が刻まれ、その鋭い眼差しは、室内に冷えた空気を漂わせた。
「数日前、みんなでコテンパンにしたから、今は大人しくしてるよ」
ジャスパーは耳元でそう囁いた。
あのとき艦内を揺るがせていた怒号の正体は、まさに彼だったのだ。
「あなた、ルキフェルって名前だったわね」
「不思議な響きだろ? ルキフェル。ニール先生によれば、あまり縁起の良い名前じゃないらしいけど」
ジャスパーは肩をすくめ、笑い声を漏らした。
「俺のことはいい。それより、仲間の治療……助かった」
海軍で暴れていた男とは思えないほど、ルキフェルの声には静けさがあった。
意外と穏やかな人かも。そう思う間もなく、彼の次の言葉が落ちた。
「だが、海軍の人間は生かしてはおけない。マクシミリアンの命は奪えなかったが……お前には、せめて死んでもらおう」
ぞわりと、殺気が背中を撫でた。前言撤回。さっきまでの穏やかさは嘘だったのか?
「なあ、ルカ」
壁にもたれたまま、マテオがだるそうに声を上げる。
「その女、殺し甲斐がないってお前にも分かるだろ?」
「……だが、こいつは海軍の人間だ」
「ルカ、あの海軍野郎は『あの女に価値はない』って遠回しに言ってたけどな。オレは違うと思う。殺す価値はないが、生かしておく価値はある。十分にな」
ルキフェル——あるいはルカ——は溜息を吐いた。戦場で見せた猛獣のような姿とは違い、どこか呆れを滲ませたその顔は妙に人間らしかった。そしてその瞳。あの翡翠色の双眸は、ソフィーに何かを託すような色を宿していた。
「……それも、そうだな」
その瞬間、ソフィーは別の方向からの視線を感じ、チラリとそちらに目を移した。
ルキフェルの背後に控えていた青年、ニールが無言で彼を睨みつけていたのだ。だが、ルキフェル自身はそれに気づいていないようだ。
「名前は?」
「ソフィーよ」
「ソフィー……そういえば海軍の連中は、出自をきっちり覚えているんだったな」
少しの沈黙の後、ルキフェルは問いを投げかけた。
「さて。お前はこれからどうしたい? あの様子じゃ、海軍には戻れそうにないが」
「そうね。……困ったものだわ」
マクシムの手に突き飛ばされたこと、吐き捨てられた言葉たち――それらが脳裏に蘇る。
——あなたに……ここは似合わない。僕の部隊にいたからって、正しい人間になれると思わないでくれ。
トラウマというにはあまりにも生々しい傷跡が、胸に刺さったままだ。
「——僕から提案があるんだけど」
間に割り込んできたのは、先ほど睨んでいたニールだった。彼は一枚の紙をソフィーに差し出した。
「な、それ契約書か?」
ルキフェルが眉をひそめる。
「『契約期間は一週間か、それ以上』……今は停戦中ってことで、僕たちは敵対関係じゃない。もちろん、ソフィーが嫌なら破ってくれて構わない。それに、ここには六人しかいないから規律なんてものは存在しない。サインは一種の保険さ。万一、背後から刺されるようなことがないようにね。あの男、割と情緒不安定だから」
ニールはにっこり笑うが、その目は笑っていなかった。
ソフィーは迷った末に、ペンを取った。だが、その手をルキフェルが押さえた。
一瞬の沈黙。彼女は振り切って、契約書に名前を書いた。
このまま死に場所を探して彷徨うよりも、生き延びて自分の力を活かすほうがよほど意味がある。
それに……冒険だって、悪くない。
この瞬間、彼女は軍医から海賊となった。
「契約成立。これは僕が預かっておくよ」
ニールは契約書をルキフェルの目の前でひらひらと振ってみせた。
「ニール、ルキフェルがすべてを受け入れるには、もう少し時間が必要みたいだ」
ジャスパーがそう言って彼の肩に手を置き、やんわりと制する。
「行き先は決まってるんだろ? だったら、そろそろ舵を取るよ。手伝ってくれ」
ニールはふてくされたように息を吐き、ジャスパーに促されるまま船長室を出て行った。
「そういえば、カスティーリャ語も話せるんだったよね」
唐突に話題を切り替えたのはコリンだった。
「ええ。フランス語とカスティーリャ語、それから英語も」
ソフィーは頷き、少しだけ首を傾げる。
「……あなたのお友達、カスティーリャ語が母語みたいに見せてるけど、本当はフランス語も流暢よね? あのカタコト、演技でしょ」
「そうなんだって。相手を混乱させるために、わざと下手に喋ったらしい。意味あるのか分かんないけど、変わってるよね」
コリンが肩をすくめる。
「コリン、ずいぶん調子を取り戻したみたいだな?」
ルキフェルがどこか苦々しげに呟いた。
「みんなカスティーリャ語で話すの? フランス語の人はいないのかしら」
ソフィーが周囲を見回す。
「このだらしない男以外は、ほとんどバイリンガルだ」
ルキフェルがさきほどまでとは打って変わった滑らかなフランス語で答えた。
「おい、やめろ。オレが分かんねぇの、知ってて喋ってんだろ」
マテオがむっとした顔で抗議する。
「ってわけで、基本はカスティーリャ語でよろしく」
コリンがくすくす笑いながら言った。
ソフィーはひと呼吸置いてから、ルキフェルに視線を向ける。
「あの時の声……やっぱりあなた、だったのね? どうして私を助けたの?」
今なら分かる。気が動転していたあの日、嵐のなかで投げかけられた声は間違いなくこの男だった。
「裏切られる気持ちってのはな……」
ルキフェルは目を伏せ、低く続ける。
「俺たちにも、よく分かるからな」
その無愛想な言葉に、マテオもコリンも、何も言わずにゆっくりと頷いていた。
こうして海賊の一員となったソフィーだったが、正直に言えば不安だらけだった。
海での暮らしは初めてで、何をするにも勝手がわからない。それでも、幼い頃の貧しい生活と比べれば、遥かにましだった。個室が与えられると聞いたときは思わず飛び跳ねてしまい、マテオを困惑させてしまったほどだ。
「ほら、ここだ」
マテオがドアを開き、部屋を見せてくれた。ベッドと机、椅子があるだけの簡素な空間。それでも、かつて寝床すらなかった自分には十分すぎるほどの待遇だった。
「お前、どう見ても金持ちのお嬢様だろ。貴族のベッドに慣れてるなら、こりゃ地獄みたいな寝心地かもしれないが、我慢してくれ」
「いいえ。豪華すぎる部屋のほうが、かえって落ち着かないの。これくらいがちょうどいいわ」
「そうか。……何かあったらジャスパーに言え。あいつも変わり者だが、消去法で一番マシだ。ニールは態度悪いし、コリンは会話できるかどうかも怪しいし、仮にできても大体ロクなことがない。ルキフェルは言わずもがな、役立たず。オレは面倒くさいから頼るな」
仲間のことを散々な言いようで語るが、言葉の端々から妙に深い信頼のようなものも感じられた。マテオは左腕——義手だ——に目をやり、次にソフィーを見つめて表情を引き締めた。
「一つだけ、忠告しておく」
声を落とし、低く語りかけてくる。
「ここにいる連中は、自分の出自を知らなかったり、過去を語らなかったりする奴らばかりだ。オレもその一人だ。過去がどうだったかなんて話したくないし、誰も話さない。話す必要もない。ここは、陸に居場所がなくなった奴らの吹き溜まりだ。……忘れるな」
言い終えるとマテオは背を向け、出ていこうとした。
「ただな、オレからすれば過去なんてクソどうでもいい。海の上で生きていくって決めた時点で、陸でのことは捨てた。……オレの言いたいこと、わかるよな?」
ソフィーは押し込められるような気迫に、ただ頷くしかなかった。
「……ったく、なんでオレがこんな真面目なこと喋ってんだか。まあ、そういうことで。オレは夕食の下ごしらえしてくる」
「えっ? 夕食って、あなたが?」
「そうだよ。悪いか?」
マテオは頭をぼりぼりとかきながら、どこかバツの悪そうな顔をして去っていった。
残されたソフィーは懐から黒革の手帳を取り出し、机に向かってペンを走らせた。士官学校時代に記録の習慣を身につけてからというもの、書くことはもはや日課になっていた。戦闘の記録、この船に乗ることになった経緯、そして仲間たち。思い出せる限り詳細に記した。
ルキフェル
無愛想、という言葉がよく似合う男。戦闘中の彼は獰猛かつ狂気的で、あの顔の傷跡だけで敵を威圧していた。しかし、それ以外のときはどこか人間味がある。
マテオからは「ルカ」と呼ばれていた。顔中に走る傷痕のせいで人種は不明。
戦いの際の彼はまるで欠けた刃物のようで、壊れかけながらも必死に戦うその姿にはどこか繊細なものすら感じた。
マテオ
端整な顔立ちからおそらくスペイン系だと思われる。
カスティーリャ語しか話せないことから、教育はあまり受けていないのかもしれない。
銃の扱いは同期のジョルジュより数段上で、かなりの腕前。
荒っぽい口調とは裏腹に、料理人としての顔も持つ。義手については詳細不明。
過去について語ることを避けており、本人いわく「海で生きると決めたから、陸のことは捨てた」とのこと。ルキフェルとは特に親しげで、長い付き合いのように見える。
ペンを置いたソフィーは過去の記録を読み返しながら、自分の身に起きたことを改めて振り返る。
アニータやジョルジュはどうしているのだろう。
自分は軍にとって「死んだこと」になっているのかもしれない。
そもそも、なぜこんな奇妙な記録を、奇妙な人々について書き続けているのか。
そして——最大の疑問。
「……なぜ、マクシム隊長は……いや、考えるのやめよう!」
思考を打ち切るようにベッドに飛び込み、天井を見上げながら浅い眠りへと落ちていった。




